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非日常

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私が小学3年生から通っている、眼科の先生は色んなことを試してくれる。
小学生の頃は、“見えない”ということはなく、見えにくい症状が何日かごとにやってくるような生活だった。
なので、先生も疑問を持ったまま接しているようだった。

だが、完全に光を失ったあの日、母に連れられ絶望していた私に、何度も心強く「大丈夫」そう言ってくれた人。
諦めずに、毎回新しい試みや有効性のある調剤などを私に提案してくれる。
今でも「大丈夫」そう言い続けてくれる人が先生だ。

心療内科や催眠療法の応用、見えなくなる瞬間の維持なども気にかけてくれる。
勿論、眼球自体の異常がないか、神経や細胞の検査なども細かくしてくれた。
先生には感謝をしても、しきれないほどお世話になっている。
それは、小3のあの頃から何も変わっていない。

でも、改善はない。

音のする方向は見ているけれど、機能はしていない。
そんなことを思いながらも、下げていた顔をゆっくりと上げた時だった。

「春川!」
「え?」

ゴッ!
ガンッ!

「春川!?」

呼ばれたことを疑問に思うのと同時に、顔に硬い物が当たった。
顔を触ろうとした右手にも、続けてそれは当たった。
その拍子に後ろの壁に頭をぶつけ、体育座りのバランスが崩れ床に転がる。

気が付いた時には、背中に体育館の床を感じていた。
仰向けに倒れたようになっているのだろう。
慌てて起き上がろうとし、両手を床に着いたところで右手の指に痛みを感じる。

恐らく、飛んできたバスケットボールに当たったんだろう。
一瞬だったけれど、振れた感触と硬さ、匂いで分かった。
床に着いたままの手が、震えていることに気付く。

強く投げられた物ではないと思うが、びっくりが強かった。
しばらく何が起きたのか、分からなかったくらいに。
思い出そうとし、おでこと指がジンジンしてきたことを感じる。

「大丈夫か!春川?」

乃田さんの声にハッとする。
呆けている場合じゃなくて、起き上がらなくてはいけない。
落ち着こうと考え、自分が中途半端に体を起こしていたことを思い出した。

乃田さんの近い声に頷こうとし、他にも何人かの足音が近付いていることに気付いた。
怖い。
見えない中で、誰がどこにるのかが分からない。
どうしよう…。

「春川?体を起こせる?」
布之さんの静かな声に、「うん」と言い1度座ってから立ち上がる。
「ゆっくりな!」
乃田さんが右にいて、布之さんが左にいる。
声の位置から、それを感じ取る。

それは、分かった。
それだけでも、少し落ち着く。
「座っていた方が、良いんじゃない?」
肩と背中に手を添えられ、布之さんに座るよう促される。

逆らう気持ちも湧かず、立ったのにすぐに座る自分。
座ってみて、回りを囲まれるように人がいることに気付いた。
でも、立っているよりは、視線が下になるから相手を見なくても助かることをホッとする。

「大丈夫か?」
乃田さんの声に、しっかりと頷く。
「うん」
声は震えてしまったけれど。

「少し見せて」
布之さんの言葉に、「見せる?」って疑問に感じるのと同時におでこに手が触れた。
思わずびくりとする。

「ごめんなさい?痛かった?」
「ううん」
痛くはない。
ただ、びっくりしただけ。

「春川、後ろも触るぞ」
乃田さんの言葉に、頷く前に今度は後頭部に手が添えられた。
「少し、たんこぶみたいになってる」
乃田さんの言葉に、布之さんが「おでこは打撲みたいな?」という静かな返答と離れていく指先。

自分では分からないから、ただされるがままだ。
「あの、乃田さん?布之さん?…ありがとう」
震えてはいないけれど、小さな声になってしまった。

「何で、端でパス練習しているボールがこんな所まで飛んでくるの?」
布之さんの静かな問いは、私には向かっていなかった。
布之さんは立ち上がったのか、声が遠くなっていた。
それに言う方向が、私とは違う向きに向かっていた。

「ごめーん。でも見えてるかと思って」
「そうそう、声をかければ間に合うかと思ったんだけど?当たっちゃった?ごめんごめん」
「ごめんじゃないだろうが!こんな硬いボールが顔面に当たったら、どうなるかくらい分かるだろ!」
乃田さんの大きな声も、私の横から私ではない方に向かっていた。

「そんなムキになって怒んないでよ、乃田。春川さんにちゃんと謝ったじゃん。ね?春川さん」
「血が出てるわけじゃないし、大丈夫だよね?春川さん?」
当てたと思われる2人は、ちゃんと謝ってくれた。
上から聞こえてくる声にも小さく頷く。

「…はい、大丈夫です」
「春川!」
乃田さんの怒ったような声に、びくりと肩が震える。
乃田さんは座っている私に合わせて、しゃがんだままのようだった。
右にいると思う乃田さん。
後頭部に触れている手は乃田さんのだ。

痛くない左手をゆっくりと伸ばし、後頭部に触れたままだった手に、自分の手をそっと重ねる。
私が触れたことで、乃田さんの掌が返り繋ぐように下ろされた。
右手の指先は、ジンジンからピリピリに変わっていた。
でも気付かないフリをして、繋がれた左手に力を入れる。

「乃田さん?大丈夫だよ。心配…してくれて、ありがとう」
右側に向かい、言いたいことをどうにか伝える。
笑えて、いるのかな?

上手に、伝わっているのかな?
私は、多分…ううん、きっと大丈夫。
だって、心配してくれる人がいて、こうやって気にかけてくれる人がいるから。

回りに人がいることが怖くて、乃田さんより上には顔を上げられなかった。
「あの、すみません。授業を中断させてしまって…大丈夫なので。あの…」
私の言葉に、なにも返答がない。
どうしよう。

「…すみませんでした。少し、ぼんやりしていました」
とりあえず、謝るしかない。
「保健室に行きましょう?」
布之さんのやっぱり静かな声に、慌てて首を振る。
左上にいるであろう布之さんに向け、必死にお願いをする。

だって今保健室に行ったら、それこそすぐに早退になってしまう。
「授業が、終わったら…」
自分でも諦めが悪いと思うけれど、まだここにいたいと思ってしまう。

ピリピリしている指先を隠すように握る。
「春川?本当に大丈夫か?」
先生の声がした。
「はい!大丈夫です」
さっきよりも、頑張って大きい声を出す。

「じゃあさ、春川さん審判やってよ?」
「そうだよ!大丈夫なら、ちゃんと見学でも参加してくれないと」
クラスメイトの声は笑っている。

期待されているのに、これじゃどうにもできない。
やりたいけど、今の私は見えていない。
何も、できない私。
謝ることしか、できない私。

「…あの、ごめんなさい。バスケットのルールが良く分からないし、その…目が悪いから」
「えー、審判くらいできるよ。簡単じゃん!ルール知らないの?」
「多少目が見えなくたって、大丈夫。だってそのくらいの係やってくれないと、ウチら授業もして審判もしてとか、大変じゃん?」
私が謝っても、2人は気にしないような雰囲気だった。

できると思われているのも、困ってしまう。
どうしよう…?
オロオロする私に、乃田さんが私の手をぎゅっと握った。

「お前ら、本当にイジメみたいだかんな?」
「乃田、それ笑えない。イジメじゃなくて、クラスメイトとして、授業に誘ってるだけじゃん?」
「そうそう、アンタさっきから無駄に怒ってばっかじゃん?」
「何だと?」

怒っているのか、乃田さんが上に向かって言う言葉が少し怖い。
私も無意識に、繋がれた手に力を入れてしまう。
左上から、「はー」と小さな溜め息が聞こえた。

「無防備な見学者にわざわざボールをぶつけて、ルールを知らないクラスメイトに審判を押し付けることって、イジメ以外の何になるのかしら?」
「うわ、委員長までそっちかよ?だりーな…」
「良いじゃん。布之だって、委員長として、クラスに馴染んでもらった方が良いと思わない?」

「思わない。だって、当の春川がそれを望んでいないんだから。ただの強制は、イジメと見なされるけど?権利擁護委員会に掛け合いましょうか?」
「出た、面倒な奴」
「はいはい、引っ込めば良いんでしょ?」

どうしよう。
本当に、分からない。
何もできない。
今の私には。

上でやり取りされている会話に、私が入る隙はなかった。
乃田さんと布之さんが私を庇っているような構図なのだろうか?
すごく、申し訳ない。
でも、この空間に何て言って割り込めばいいのかも分からない。

ただ、申し訳ないと思う気持ち。
体育に出たいなんて言わなければ良かった?
泣きそうになるけれど、こんなことで泣いているなんて今時の小学生だってないだろう。

たとえ、見えていたって何もできないだろう自分を想像してしまう。
とりあえず、謝ろう。
「ごめんなさい。私じゃ、お役に立てないと思うので…」
小さな声で、どうにか絞り出す。

また訪れる沈黙。
「えー?お役に立ってよ、クラスメイトでしょ?」
「まだ言うか?お前ら?」

「こーわ!ちょっとした冗談じゃん。ほんと、乃田って冗談通じない」
「そうだよ。こんなんで怖い顔ばっかしてるの、乃田だけ」
「何だ?ケンカなら買うぞ!春川と違ってな、表出ろよ?」
「ほらまた、すぐムキになる」
「『表出ろ』だって、それこそイジメじゃね?怖い怖い」

横にいる乃田さんは、私に話しかけるのと全然違う声と雰囲気だ。
繋がれた手が熱い。
でも、握ってくれている手がすごく安心するのは事実だ。

「得点やれば良いだろ?そうすれば、春川も参加できる」
不意に、声が響いた。
後ろ側から聞こえた声に、ふと振り向いてしまった。
見えないのに。

「それ名案!高杉ナイス!」
クラスメイトの声に、高杉くんの声だったのか疑問に思う自分。
見えていないけれど、首を傾げる。
乃田さんと同じで、いつも私に声をかけてくれる高杉くんの声と、少し違う風に聞こえていたから。

「俺も一緒にやるから、春川もやろう」
「高杉!」
「乃田は、さっきからムキになりすぎ」
「何だと!お前もやんのか?」

「ケンカ?しないよ。そんな無駄なこと」
「じゃ、どういうつもりだよ?」
もう、空間を想像できない。

とりあえず、一緒に座って右側にいるのが乃田さんで。
左側に立っているのが、布之さん。
後ろ側に立っているのが、高杉君で。

前に立っているのがクラスメイト…?
先生はクラスメイトの後ろにいる?
すでに、キャパオーバーになりそうな自分。

「審判は難しいけど、得点なら点数表をめくるだけだし、春川にもできるだろうと思って」
高杉君の声は、やっぱりいつもと少し違っていたけれど、言っていることはいつもと同じで私のことを考えてくれることだった。
それに気付いたら、どうしよう。

「やりたい…」
「え?」
座ったままだったけれど、不意に乃田さんの手をもっと強くぎゅっと握る。

「春川?」
乃田さんの、確かめるような声。
表情は、多分、いや絶対に心配している。
「乃田さん?私も、係やりたい」

私の言葉に、乃田さんの唸り声が聞こえた。
「じゃあ!私が一緒にやる。それなら良いだろ?」
「乃田は選手だろ?先に女子の試合なんだから」
乃田さんの言葉に、高杉君が答えた。

「そうよ、あかり。正々堂々、ちゃんとスポーツマンシップに乗っ取って、やられたら倍以上でお返ししないとね?」
布之さんの言葉に、乃田さんから「そうか」という声が聞こえた。
どういうことだろう?

「分かった、じゃすぐに試合しようぜ?出ろよお前ら」
乃田さんの声は、笑っていた。
誰に向かって言っていたのか分からないけれど…。
顔は上げないようにして、成り行きを見届ける。

「は?出るわけないじゃん馬鹿なの?」
「乃田みたいなのとボールの取り合いとか、マジでしんどいだけじゃん」
返って来た言葉に、クラスメイトに言ったものと判断する。

「春川?できるのか?」
前から聞こえて来た先生の言葉に、頷こうとして迷う。
このまま頷いたら、もう後戻りはできない。
急な展開に、着いて行けない自分。

「大丈夫です、俺も一緒にやるので」
私の背中を押したのは、高杉君のいつも通りの声だった。
私に向かう言葉のように聞こえた。

「やらないと、何もできないままだし。何でもやってみないと、慣れることもないから」
『何でもやってみないと』
高杉君の言葉に、コクンと頷く。

あんなに迷っていたのに、怖くて躊躇っていたのに…。
「は、はい…。やります。やらせて、ください」
座ったままだけど、頭を下げる。

「良かったねー、春川さん。高杉が助けてくれるってー」
「やったらできるよ。頑張って」
クラスメイトの言葉にもコクンと頷く。
「はい、頑張ります」

「はいはい、ガンバって?」
「そうそう」
クスクス笑う声は、少し怖かった。
でも、繋がれた手が、ちゃんと味方をしてくれる。

だから、私もやらなきゃ。
毎日では起こらないことが、今私に起こっている。
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