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不便さ
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当人のくせに、私は学校生活にそこまで執着していないつもりだった。
いてもいなくても、同じような存在の自分。
こんな自分は、どこに行ってもきっと大丈夫。
そう、信じて疑っていなかった。
1年生の時は、生活もごまかして学校も時々休んで、我ながらバランス良く過ごしていたと思う。
しかし2年生になったら、進路の関係で出席日数を少し頑張らなくちゃいけなくなった。
「春川さん、少し待ってね」
「はい」
職員室の奥にある相談室に通されるのか、鍵を開ける音がする。
先生の手が背中から外れ、深呼吸をする自分。
無意識に、呼吸が浅くなっていたのだろう。
「はい、どうぞ。ゆっくり座ってね」
先生が手を引いてくれ、膝裏に革製の椅子を感じる。
座っても大丈夫と思い、足の力をそっと抜く。
言葉通り、ゆっくりと腰掛ける。
「ありがとうございます」
大谷先生は、今年から担任になってくれた優しい女性の先生だ。
去年、図書委員会の担当をしていたことで、たくさんお世話になった先生。
いつでも1人でいる私のことを気にかけ、話しかけてくれるようになったのが最初だったと思う。
「疲れていないかしら?」
「…はい」
話しかけられる度に緊張してしまったけれど、いつでも優しい先生に変わりはなかった。
好きな物語の話や、お勧めのエッセイ。
先生は、委員会活動中でも、活動外でも常に優しい。
少しずつ話すことで、私も信頼できる先生になっていった。
そんな中、私の目のことに気付き、何度も確認されることが増えた。
先生は、私が見えていない時に察するのが早く、「私のことを見えている?」と何回も聞かれるようになってしまった。
その度に沈黙することで、肯定していたようなものだろう。
先生に“責められている”と感じなかったことも、後ろめたさを加速させた。
ごまかしきれなくなってしまい、とうとう打ち明けてしまった。
嫌われないか、嘘吐きだと馬鹿にされないか、とても心配していたけれど…。
そんなことは全然なくて、目の健康法や視力回復に良いと思われる情報をたくさん調べてくれた。
家族以外で、目のことを受け入れてくれたことを信じられない反面、すごく嬉しかったのを覚えている。
今年、先生が担任になってくれるなら、頑張れそうな気がして、なるべく学校に来るようになった。
その頃から、乃田さんと布之さんも私のことを気にかけるようになってくれ、少しずつホッとする時間が増えて行った。
そうだ、高杉君は先生を介して知り合い、話すようになったんだ。
だから、今年は先生と乃田さんと布之さんと高杉君、4人も話せる人がいることで頑張ろうと思うようになったんだ。
少しで良いから、積極的になろうと決意した私。
「ごめんなさい、春川さん。玄関まで迎えに行こうと思ったのに、間に合わなくて…」
先生の申し訳なさそうな声がした。
慌てて首を振る。
「とんでもないです。大谷先生もお忙しいのに、ご迷惑をおかけしてすみません」
「今日の通院は?」
「はい、いつも通りです。診断書を、いただいて来ました」
自分で入れた物なので、手の感触でゆっくりと探す。
右手が覚えている場所にあった、細めの固い封筒に触れた。
手触りで、同じものか確認する。
封筒の表に、『診断書在中』とボールペンで書かれた文字。
封筒の左後ろには、病院名と住所などが記名された印鑑が押印されている。
渇いたインクと、少しだけへこんだ紙の感触を確かめ、同じものだと判断する。
「これです」
小さく自分の目の前に差し出す。
それは、丁寧に抜き取ってもらえた。
「どうですか?」
「…確かに」
大谷先生の声に反応し、男性の声がした。
大谷先生しかいないと思っていたことで焦ってしまい、ポカンと口を開けてしまった。
そんな私の緊張には構わず、溜め息とも取れる呼吸音がした。
「まあ、大谷先生の言う通りなんでしょうね。ですが、それで春川さんをクラスに置いておくことに、私は疑問を持ちましたけど。強いて言うのなら、このままの方がよっぽど危険だと思いますが?」
話す声と、喋り方で誰だか分かった。
学年主任の志賀先生だ。
去年のクラス担任だった、男性の先生。
1年間クラスにいたけれど、多分私の目のことには気付かなかった…と、思う。
親が言う“病弱”や“熱が出やすい”という言葉を、疑うことなく信じ、欠席が続いても特に気にしていなかった先生。
「春川さんが、見えていない時に登校するのは危険だと思いませんか?」
「なので、昨年のように欠席を認めろと?」
「そこまでは言っていませんが、学校にいても常に私が側にいられるわけではないですし…」
「それは、流石に教師の仕事ではないですよ?1人の生徒に付き添うことは、もはや指導や支援ではなくただのお守です。いくら義務教育とはいえ、出席日数が足りなければ内心には響く。まあ、春川さんが進学しないと言うのなら、話は別ですが?」
「進路の話は、まだ2年ありますし…」
「診断書も、確かに医師の物だし疑いはないです。ただ、本人にしか判断ができない状況を、手放しに受け入れると言うのがね…」
「一方的に、受理してほしいと言っているわけではなく…」
「私には、そう聞こえますよ?大谷先生」
「春川さんは、気を遣ってしまい言い出せないだけなんです。見えなくても、そのまま学校生活をしようとする意思があります。きちんと、授業を受けたいと思う気持ちがあるんです」
「“思う”だけなら、どの生徒でも言えることです。遅刻を繰り返しながら、『学校にはちゃんと通いたいと思っているんです』と言う生徒も、生活指導で毎回注意されていても『ちゃんとしようと思っているんです』と言う生徒にでも…ね?ま、この件はもう少し様子を見ましょう。失礼」
志賀先生は、席を立つと部屋を出て行ったのだろう。木の扉が閉まる音がした。
大谷先生の溜め息が聞こえた、気がした。
「すみませんでした…」
吐息と共に、小さく謝る。
「違うのよ」
私が不安そうな顔をしていたんだろう。
そっと頭を撫でられた。
「春川さんが謝ることじゃないの。ごめんなさいね、去年担任をしていて、何も気にならなかったのかと思うと…」
大谷先生の言葉に、志賀先生は親の言葉を信じ私がただ虚弱で熱を出しやすい生徒だと思っていたことを確信する。
志賀先生の声と雰囲気に、そう感じた。
今日、今初めて私の目のことを知ったこと。
しかし、担任ではないこともあり、そこまで気にかけてはいないこと。
受け入れられないことを、悲しく思うけれど仕方がないと諦めてしまう。
それが、大谷先生には納得いかないのだろう。
気付いてくれた大谷先生だから、憤っているように感じた。
こんな私のことに真剣になってくれる先生。
それが、幸せだと思う。
「ありがとうございます、大谷先生」
「そんなこと、すぐに改善できなくてごめんなさいね」
「とんでもないです。いつも、本当にありがとうございます。先生のおかげで、学校に来たいと思えるようになれたので、私は…嬉しいです」
私の言葉に、先生の手が頭から離れた。
膝の上に置いていた手に、そっと手を重ねられた。
「私こそ、みっともなくムキになってごめんなさい。少し頭を冷やさないとね…」
苦笑するような声に、ふるふると首を振る。
「春川さんのこと、何も疑問を感じなかったのか不思議で仕方がないの」
大谷先生は、去年も良く私の頭を撫でてくれた。
励ましてくれるような動きを思い出し、小さくなっていた背中を静かに伸ばす。
「この後は、体育ね?」
大谷先生の声にはならない、『どうしたいのかしら?』という確認。
「あの、見学をしても…良いですか?今は、その、見えていないんですけど。でも、体育に参加…したいです」
考えながら、自分の意思を伝える。
先生は「そうね…」と言った。
本当は見えない時点で、保健室に行きお迎えを待つようになるのだけど。
それが、お母さんとしている約束だから。
去年から変わらなかった流れを、どうにか変えられないか自分なりに考えた結果。
先生を味方にすることを覚えた。
志賀先生には言えなかったことを、大谷先生には言うことができる。
それが、嬉しい。
先生は、お母さんが困った顔をしていても、私がしたいと言ったこと、したいと希望したことを聞こうとしてくれる。
だから、甘えてしまう。
「じゃあ、体育が終わったら来てもらうよう、お迎えを頼みましょう?あとそうね、体育の見学は布之さんにお願いしましょうね」
大谷先生の言葉に、熱くなった頬を抑えながら先生が味方になってくれたことを喜ぶ自分。
「ありがとうございます。先生」
嬉しくなって、つい頬が緩む。
「良いのよ、じゃ戻らないとね?着替えをしないといけないから、一緒に更衣室に行きましょう」
先生が立ち上がったのだろう。
少し声が遠くなった。
「さっきも、乃田さんと布之さんが玄関にいて…」
ふと高杉君のことを思い出した。
「あの!高杉君にも迷惑をかけてしまったので、わざわざ玄関までお迎えに来てくれて…」
「あぁ、高杉君は自分から呼びに行ってくれたのよ?」
「…はい?」
「私がお迎えに行くつもりでいたんだけれど、志賀先生との話が長引いてしまったのよ。偶然高杉君が職員室に来て、代わりにお迎えに行ってくれるって言うから、お願いをしたのよ?」
「そうですか…」
高杉君が自分から言い出した?
親切でしてくれたと思うけれど、余計な手間をかけてしまって申し訳ない気持ちになる。
結局、先生に付き添われながら更衣室に向かった。
誰もいないことで、静かに息を吐き出す。
先生は今も外で待っていてくれている。
先生だって、忙しいのに。
でも、焦ってはいけない。
ゆっくりと、ジャージに着替える。
荷物は、先生が保健室に運んでくれると預かってくれた。
申し訳ないと思いながら、甘える自分。
遅れて体育に参加した私。
見えなくなってから参加する体育なんて初めてだ。
自分でも随分積極的になったと、我に返ってドキドキしてしまう。
見えていないけれど、体育館に着いたことで鼓動が音を立てる。
でも、ここには乃田さんと布之さんがいる。
そう思うことで、震えそうになる足をゆっくりと動かす。
参加したいと言ったのは私だ。
だから、しっかり歩かないと。
先生が背中に添えている手を、そっと外す。
「先生に、話をしてくるわ。座って待っていて?」
「はい、ありがとうございます」
大谷先生は、静かに離れて行った。
着いて行っても、私に出来ることはない。
なので、大人しく座って待つ。
先生は、日当たりの良い場所を選んでくれたのだろう。
背中にすぐ集まる、温かい春の日差し。
じりじりとはしない、じわーっとする温かさ。
色で表現するなら、柔らかいオレンジ色だ。
見えていないけど。
体育館の端にあり、クラスメイトからは少し距離のある場所。
声の遠さから、ある程度の距離が離れていることを想像する。
開いているであろう扉から、色々な匂いが流れてくる。
ホッとしたからか、色んなことに気付くことができる。
温かい風が運んでくる、初夏の気配。
新緑、今は田植えの時期だからか、田んぼの泥の匂いのように感じる。
あとは、鉄の匂いが混ざって感じられる。
新緑はともかく、鉄の匂いは間違いなく真後ろの扉だろう。
外側が錆びていることで擦れて剥がれた部分や、削れていることで鉄の匂いが強くなるのだろう。
嫌いではない。
学校独特の匂いは、そこかしこに存在する。
その場所特有とでも言うのか、移動先で場所の特定ができる位に特徴がある。
「温かい」
じっと座っていると、体がポカポカと温かくなる。
背中から伝わるお日様の感触。
体育館の、大きな鉄の扉が開いていることで、匂いだけではない物も届いてくる。
外からは、鳥の声や風の音が聞こえてくる。
開いているドアに斜めに背を向け、壁にもたれるように座っている私。
「じゃ、終わる頃にまた来るわね」
「…はい!ありがとうございます」
座ったままだったことに気付いて立とうとするが、先生に制止される。
今日は、バスケットボールのようだ。
床にボールを弾ませている音が、たくさん響いている。
会話もされているのだろう。
そこは本当に活気がある空間だ。
見えない黒い世界でも、熱気のような物をひしひしと感じる。
そこで、動いているであろう乃田さんと布之さんを想像して1人で笑う。
声は出さないで、体育座りしている膝に顎を乗せて表情も分からないようにしないと。
もうすぐ、夏が来る体育館で、バスケットをしている音を聞きながら、“自分はいつまでこのままなんだろう”と、ふっと暗い考えがよぎった。
楽しかったはずなのに、自分の未来のことを想像しただけですぐに落ち込む自分。
いてもいなくても、同じような存在の自分。
こんな自分は、どこに行ってもきっと大丈夫。
そう、信じて疑っていなかった。
1年生の時は、生活もごまかして学校も時々休んで、我ながらバランス良く過ごしていたと思う。
しかし2年生になったら、進路の関係で出席日数を少し頑張らなくちゃいけなくなった。
「春川さん、少し待ってね」
「はい」
職員室の奥にある相談室に通されるのか、鍵を開ける音がする。
先生の手が背中から外れ、深呼吸をする自分。
無意識に、呼吸が浅くなっていたのだろう。
「はい、どうぞ。ゆっくり座ってね」
先生が手を引いてくれ、膝裏に革製の椅子を感じる。
座っても大丈夫と思い、足の力をそっと抜く。
言葉通り、ゆっくりと腰掛ける。
「ありがとうございます」
大谷先生は、今年から担任になってくれた優しい女性の先生だ。
去年、図書委員会の担当をしていたことで、たくさんお世話になった先生。
いつでも1人でいる私のことを気にかけ、話しかけてくれるようになったのが最初だったと思う。
「疲れていないかしら?」
「…はい」
話しかけられる度に緊張してしまったけれど、いつでも優しい先生に変わりはなかった。
好きな物語の話や、お勧めのエッセイ。
先生は、委員会活動中でも、活動外でも常に優しい。
少しずつ話すことで、私も信頼できる先生になっていった。
そんな中、私の目のことに気付き、何度も確認されることが増えた。
先生は、私が見えていない時に察するのが早く、「私のことを見えている?」と何回も聞かれるようになってしまった。
その度に沈黙することで、肯定していたようなものだろう。
先生に“責められている”と感じなかったことも、後ろめたさを加速させた。
ごまかしきれなくなってしまい、とうとう打ち明けてしまった。
嫌われないか、嘘吐きだと馬鹿にされないか、とても心配していたけれど…。
そんなことは全然なくて、目の健康法や視力回復に良いと思われる情報をたくさん調べてくれた。
家族以外で、目のことを受け入れてくれたことを信じられない反面、すごく嬉しかったのを覚えている。
今年、先生が担任になってくれるなら、頑張れそうな気がして、なるべく学校に来るようになった。
その頃から、乃田さんと布之さんも私のことを気にかけるようになってくれ、少しずつホッとする時間が増えて行った。
そうだ、高杉君は先生を介して知り合い、話すようになったんだ。
だから、今年は先生と乃田さんと布之さんと高杉君、4人も話せる人がいることで頑張ろうと思うようになったんだ。
少しで良いから、積極的になろうと決意した私。
「ごめんなさい、春川さん。玄関まで迎えに行こうと思ったのに、間に合わなくて…」
先生の申し訳なさそうな声がした。
慌てて首を振る。
「とんでもないです。大谷先生もお忙しいのに、ご迷惑をおかけしてすみません」
「今日の通院は?」
「はい、いつも通りです。診断書を、いただいて来ました」
自分で入れた物なので、手の感触でゆっくりと探す。
右手が覚えている場所にあった、細めの固い封筒に触れた。
手触りで、同じものか確認する。
封筒の表に、『診断書在中』とボールペンで書かれた文字。
封筒の左後ろには、病院名と住所などが記名された印鑑が押印されている。
渇いたインクと、少しだけへこんだ紙の感触を確かめ、同じものだと判断する。
「これです」
小さく自分の目の前に差し出す。
それは、丁寧に抜き取ってもらえた。
「どうですか?」
「…確かに」
大谷先生の声に反応し、男性の声がした。
大谷先生しかいないと思っていたことで焦ってしまい、ポカンと口を開けてしまった。
そんな私の緊張には構わず、溜め息とも取れる呼吸音がした。
「まあ、大谷先生の言う通りなんでしょうね。ですが、それで春川さんをクラスに置いておくことに、私は疑問を持ちましたけど。強いて言うのなら、このままの方がよっぽど危険だと思いますが?」
話す声と、喋り方で誰だか分かった。
学年主任の志賀先生だ。
去年のクラス担任だった、男性の先生。
1年間クラスにいたけれど、多分私の目のことには気付かなかった…と、思う。
親が言う“病弱”や“熱が出やすい”という言葉を、疑うことなく信じ、欠席が続いても特に気にしていなかった先生。
「春川さんが、見えていない時に登校するのは危険だと思いませんか?」
「なので、昨年のように欠席を認めろと?」
「そこまでは言っていませんが、学校にいても常に私が側にいられるわけではないですし…」
「それは、流石に教師の仕事ではないですよ?1人の生徒に付き添うことは、もはや指導や支援ではなくただのお守です。いくら義務教育とはいえ、出席日数が足りなければ内心には響く。まあ、春川さんが進学しないと言うのなら、話は別ですが?」
「進路の話は、まだ2年ありますし…」
「診断書も、確かに医師の物だし疑いはないです。ただ、本人にしか判断ができない状況を、手放しに受け入れると言うのがね…」
「一方的に、受理してほしいと言っているわけではなく…」
「私には、そう聞こえますよ?大谷先生」
「春川さんは、気を遣ってしまい言い出せないだけなんです。見えなくても、そのまま学校生活をしようとする意思があります。きちんと、授業を受けたいと思う気持ちがあるんです」
「“思う”だけなら、どの生徒でも言えることです。遅刻を繰り返しながら、『学校にはちゃんと通いたいと思っているんです』と言う生徒も、生活指導で毎回注意されていても『ちゃんとしようと思っているんです』と言う生徒にでも…ね?ま、この件はもう少し様子を見ましょう。失礼」
志賀先生は、席を立つと部屋を出て行ったのだろう。木の扉が閉まる音がした。
大谷先生の溜め息が聞こえた、気がした。
「すみませんでした…」
吐息と共に、小さく謝る。
「違うのよ」
私が不安そうな顔をしていたんだろう。
そっと頭を撫でられた。
「春川さんが謝ることじゃないの。ごめんなさいね、去年担任をしていて、何も気にならなかったのかと思うと…」
大谷先生の言葉に、志賀先生は親の言葉を信じ私がただ虚弱で熱を出しやすい生徒だと思っていたことを確信する。
志賀先生の声と雰囲気に、そう感じた。
今日、今初めて私の目のことを知ったこと。
しかし、担任ではないこともあり、そこまで気にかけてはいないこと。
受け入れられないことを、悲しく思うけれど仕方がないと諦めてしまう。
それが、大谷先生には納得いかないのだろう。
気付いてくれた大谷先生だから、憤っているように感じた。
こんな私のことに真剣になってくれる先生。
それが、幸せだと思う。
「ありがとうございます、大谷先生」
「そんなこと、すぐに改善できなくてごめんなさいね」
「とんでもないです。いつも、本当にありがとうございます。先生のおかげで、学校に来たいと思えるようになれたので、私は…嬉しいです」
私の言葉に、先生の手が頭から離れた。
膝の上に置いていた手に、そっと手を重ねられた。
「私こそ、みっともなくムキになってごめんなさい。少し頭を冷やさないとね…」
苦笑するような声に、ふるふると首を振る。
「春川さんのこと、何も疑問を感じなかったのか不思議で仕方がないの」
大谷先生は、去年も良く私の頭を撫でてくれた。
励ましてくれるような動きを思い出し、小さくなっていた背中を静かに伸ばす。
「この後は、体育ね?」
大谷先生の声にはならない、『どうしたいのかしら?』という確認。
「あの、見学をしても…良いですか?今は、その、見えていないんですけど。でも、体育に参加…したいです」
考えながら、自分の意思を伝える。
先生は「そうね…」と言った。
本当は見えない時点で、保健室に行きお迎えを待つようになるのだけど。
それが、お母さんとしている約束だから。
去年から変わらなかった流れを、どうにか変えられないか自分なりに考えた結果。
先生を味方にすることを覚えた。
志賀先生には言えなかったことを、大谷先生には言うことができる。
それが、嬉しい。
先生は、お母さんが困った顔をしていても、私がしたいと言ったこと、したいと希望したことを聞こうとしてくれる。
だから、甘えてしまう。
「じゃあ、体育が終わったら来てもらうよう、お迎えを頼みましょう?あとそうね、体育の見学は布之さんにお願いしましょうね」
大谷先生の言葉に、熱くなった頬を抑えながら先生が味方になってくれたことを喜ぶ自分。
「ありがとうございます。先生」
嬉しくなって、つい頬が緩む。
「良いのよ、じゃ戻らないとね?着替えをしないといけないから、一緒に更衣室に行きましょう」
先生が立ち上がったのだろう。
少し声が遠くなった。
「さっきも、乃田さんと布之さんが玄関にいて…」
ふと高杉君のことを思い出した。
「あの!高杉君にも迷惑をかけてしまったので、わざわざ玄関までお迎えに来てくれて…」
「あぁ、高杉君は自分から呼びに行ってくれたのよ?」
「…はい?」
「私がお迎えに行くつもりでいたんだけれど、志賀先生との話が長引いてしまったのよ。偶然高杉君が職員室に来て、代わりにお迎えに行ってくれるって言うから、お願いをしたのよ?」
「そうですか…」
高杉君が自分から言い出した?
親切でしてくれたと思うけれど、余計な手間をかけてしまって申し訳ない気持ちになる。
結局、先生に付き添われながら更衣室に向かった。
誰もいないことで、静かに息を吐き出す。
先生は今も外で待っていてくれている。
先生だって、忙しいのに。
でも、焦ってはいけない。
ゆっくりと、ジャージに着替える。
荷物は、先生が保健室に運んでくれると預かってくれた。
申し訳ないと思いながら、甘える自分。
遅れて体育に参加した私。
見えなくなってから参加する体育なんて初めてだ。
自分でも随分積極的になったと、我に返ってドキドキしてしまう。
見えていないけれど、体育館に着いたことで鼓動が音を立てる。
でも、ここには乃田さんと布之さんがいる。
そう思うことで、震えそうになる足をゆっくりと動かす。
参加したいと言ったのは私だ。
だから、しっかり歩かないと。
先生が背中に添えている手を、そっと外す。
「先生に、話をしてくるわ。座って待っていて?」
「はい、ありがとうございます」
大谷先生は、静かに離れて行った。
着いて行っても、私に出来ることはない。
なので、大人しく座って待つ。
先生は、日当たりの良い場所を選んでくれたのだろう。
背中にすぐ集まる、温かい春の日差し。
じりじりとはしない、じわーっとする温かさ。
色で表現するなら、柔らかいオレンジ色だ。
見えていないけど。
体育館の端にあり、クラスメイトからは少し距離のある場所。
声の遠さから、ある程度の距離が離れていることを想像する。
開いているであろう扉から、色々な匂いが流れてくる。
ホッとしたからか、色んなことに気付くことができる。
温かい風が運んでくる、初夏の気配。
新緑、今は田植えの時期だからか、田んぼの泥の匂いのように感じる。
あとは、鉄の匂いが混ざって感じられる。
新緑はともかく、鉄の匂いは間違いなく真後ろの扉だろう。
外側が錆びていることで擦れて剥がれた部分や、削れていることで鉄の匂いが強くなるのだろう。
嫌いではない。
学校独特の匂いは、そこかしこに存在する。
その場所特有とでも言うのか、移動先で場所の特定ができる位に特徴がある。
「温かい」
じっと座っていると、体がポカポカと温かくなる。
背中から伝わるお日様の感触。
体育館の、大きな鉄の扉が開いていることで、匂いだけではない物も届いてくる。
外からは、鳥の声や風の音が聞こえてくる。
開いているドアに斜めに背を向け、壁にもたれるように座っている私。
「じゃ、終わる頃にまた来るわね」
「…はい!ありがとうございます」
座ったままだったことに気付いて立とうとするが、先生に制止される。
今日は、バスケットボールのようだ。
床にボールを弾ませている音が、たくさん響いている。
会話もされているのだろう。
そこは本当に活気がある空間だ。
見えない黒い世界でも、熱気のような物をひしひしと感じる。
そこで、動いているであろう乃田さんと布之さんを想像して1人で笑う。
声は出さないで、体育座りしている膝に顎を乗せて表情も分からないようにしないと。
もうすぐ、夏が来る体育館で、バスケットをしている音を聞きながら、“自分はいつまでこのままなんだろう”と、ふっと暗い考えがよぎった。
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