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三 共に明日を生きるために⑧
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『朔耶君は、どうすればいいと思う?』
今日最後の授業中、まだ迷いを抱いている様子の千影がそう問いかけてきたため、朔耶は両手を視界の中に入れた。
これは昨日千影と決めた合図だ。イエスは右手、ノーは左手。分からない、あるいはイエスでもノーでもない場合は両手を見る。こういう疑問詞疑問文の場合も一応両手を見ることにしていた。
他人には見えない相手の問いに言葉で返すと、周囲から不審者扱いを受けるのは想像に容易い。
これはそれを避けるために考えた方法だった。しかし――。
『やっぱり、不便、だよね』
少しだけ逡巡してから右手を見る。
昨日は公欠にして貰い、授業に出席しなかったため、周りに人がいる状況がここまで不自由だとは思わなかった。だからと言って、これ以上合図を増やしても周囲から不審がられるだろうし、元の木阿弥だ。
『すぐ近くにいるのに、自由に話せないのは、何だか変に辛いよ』
彼女の悲しげな口調に、せめて席が一番前でなければ筆談という選択肢もあるのに、と一瞬考え、しかし、朔耶はすぐにその方法を否定した。
それはそれで普段の会話のテンポを感じられない。
それは慣れていない者にとっては大きな違和感となるに違いない。
『……でも、授業中にこんなこと考えるのは、おかしいんだよね。本当は』
自嘲するように呟く千影。だが、休み時間でも自由に話せないのは同じことだ。
学校では周囲にほぼ必ず人がいる以上、どうしても会話はぎこちなくなる。
昼休みや放課後なら学院会室に行けばいいかもしれないが、それでは根本的な解決にはならない。
それに今日のように何となく行くのが躊躇われることもあるかもしれない。
『あ……』
授業の終わりを告げる鐘が鳴り、途方に暮れたような千影の気配が伝わってくる。
やはり作戦の危険性が彼女に迷いを与えているのだろう。
現状をよしとして妥協できれば、安全に、この日常も惰性的なものに変えることができる。
なのに、それを捨ててまで、朔耶や己刃達に危険な橋を渡らせてまで望んでいいことなのか、と。
だが、その迷いはほとんど彼女の答えを示している。
本来、誰かの身の安全と天秤にかけられるような選択肢は少ない。
迷っている時点で彼女の本当の望みがどれだけ強いのか分かる。
パウロに言われた通り妥協なく考えれば、それは決まり切っているのだから。
そうやって千影の胸にある葛藤に思いを巡らしている間に教師が入れ替わり、担任が帰りのショートホームルームを終わらせる。
朔耶はほとんど無意識的に礼をして机を下げ、即座に廊下に出た。
が、千影の浮かない気持ちが感じられ、窓の前で立ち止まる。
「朔耶」
心配の色の濃い呼びかけに振り返ると、真剣な表情の和也が歩み寄ってきた。
「本当に大丈夫なのか? 最近調子悪そうだし、昨日もあれきり戻って来なかったし」
「いや、昨日のは、その、学院会の仕事が入ったんだ。言っただろ? それで時々出かけなきゃいけないこともあるって」
「だからな。まずお前がそんなのに入ったのが信じられないんだよ。お前、部活は入らないって言ってたじゃないか。あれか? あの己刃って先輩に弱みでも握られたのか?」
和也の妙な想像に唖然とするが、それも心配してのことなので一応心の中では感謝しておく。
が、さすがに己刃に悪いので、そこはしっかりと否定すべきだろう。
「確かにちょっとなし崩し的だったけど、そういうことはないよ。俺は納得してるし」
「でもな――」
「朔兄!」
和也がまだ納得できない様子で口を開いた瞬間、陽菜が彼を脇に突き飛ばして抱き着いてきた。
そんな彼女に千影は慌てたように隣で半実体化し、不機嫌そうに口をへの字に曲げて顔を赤くしながら陽菜を睨みつけた。
しかし、彼女はすぐに悲しげに目を伏せてしまった。
陽菜にはやはり千影の姿が見えていない。
視線が千影を捉えることはなく、一切気にした風もなく腕を絡めてくる。
見せつけようとするでもなく、ただただ自然に。
「陽菜ちゃん。どうしたの?」
「朔兄と一緒に帰ろうと思って。今日は邪魔者なしで帰れるよね?」
「それは……」
真っ直ぐ過ぎる好意に当惑してしまい、言葉に詰まる。
陽菜の好意が本物だとしても、千影に想いを伝えた以上は応える訳にはいかない。
しかし、自意識過剰かもしれないが、諦めさせることも難しい。
陽菜は千影のことを覚えていないのだ。他に好きな子がいる、と言ったところで、それは誰、と問われれば意味がない。
それに、だからと言ってこういう形のつき合いを完全に絶たなければいけない訳でもないし、その辺りの微妙な対応をどうすればいいのか朔耶には分からなかった。
「ごめんね。今日は行かないといけないところがあるから」
だから、今は用事を作って誤魔化すことしかできなかった。
「えーっ、そんなあ」
そして、残念そうに唇を尖らせる陽菜にもう一度、ごめんね、と謝り、複雑な表情のままでいる和也に別れを告げて管理棟へと歩き出す。
陽菜についた嘘を真にするため、何か用事を、と考え、やはり晶の様子を見に行こうと決めたためだ。
放課後の管理棟は生徒の影はまばらだが、教師はいるので千影と大っぴらに話をすることはできない。
『朔耶君……』
しかし、少しの間口を閉ざしていた千影の、余りに切なそうな、今にも泣き出してしまいそうな声に、朔耶はハッとして彼女を見た。
『わたし、本当に忘れられてるんだね』
どこか自嘲するように目を潤ませて言う千影に言葉を失う。
朔耶や他の使徒と会話できるようになった今だからこそ逆に、陽菜の言動を受けてその事実を強く実感したのだろう。
『お父さんとお母さんも、ああなのかな』
あの日から朔耶と常に一緒にいた千影は両親の様子を知らない。
知らないからこそ、今朝のアノミアであのようなことを口にできたのかもしれない。
『……一人忘れられたぐらいで、世界は変わらないんだね』
「千影……」
人一人消えたぐらいで世界の歯車は乱れない。
よく言われることだが、実際にその事実に直面した衝撃は容易く想像できるものではない。
自分の人生、歩んできた道程の価値を否定されるばかりか、生そのものの無意味さを突きつけられているようなものだ。
生の無意味さ。存在の無価値さ。あるいは、それがグノーシスの使徒達の行動原理なのかもしれない。
確かにそんな考えが頭を過ぎることがないとは言えない。
思春期にあれば特に。
それでも朔耶は今を生きている者として生を否定したくはなかった。
それは理屈に先立つ強い感情だった。
「やっぱり、全てを取り戻そう」
一階の奥を曲がった先の人気のない廊下を歩きながら、はっきり言葉にして伝える。
『で、でも、朔耶君達が危ない目に――』
「確かにそうかもしれない。俺だって千影のためじゃなければ、自分から危険に飛び込むような真似はしたくない。でも、今の半端な満足で妥協したら、絶対に将来後悔することになると思う。それに――」
朔耶は学院会室から少し離れた場所で立ち止まり、彼女と向かい合った。
「俺は千影と本当の意味で一緒に生きていきたいから」
『朔耶君……』
真っ直ぐに千影の目を見据える。
彼女はまだ迷いが残っているらしく瞳を揺らしていたが、やがておずおずと頷いた。
「おい、お前達。いつまでそこで見詰め合っている。さっさと中に入れ」
呆れたような声に振り返ると、学院会室の扉が僅かに開き、晶がそこから顔だけを出していた。
「は、はい。すみません」
慌てて部屋に入ると、既に己刃の姿もあった。
相変わらず姿勢正しく座っている。
そんな彼女の隣に戻った晶も普段通りに不遜な感じであぐらをかき、しかし、今回ばかりは決まりが悪そうに視線を微妙に逸らしていた。
朔耶も少々話し辛い空気を思い出しながら、二人とちゃぶ台を挟んで反対側に千影と並んで正座した。
「まあ、その、何だ」
気まずい雰囲気を嫌ってか、すぐさま晶が口を開く。
「アノミアでは、怒鳴って悪かったな」
『い、いえ、そんなことない、です』
「しかし、悪いが、私の考えは変わらん」
『……はい』
「答え、聞かせて貰えるかな? 神父様が言ったこと、ちゃんと考えてくれたと思うから」
己刃の問いに居住まいをさらに正して、彼女の目をしっかりと見据える。
そして、朔耶は二人で決めた答えを告げた。
「俺は千影を元に戻してやりたい。だから、その、先輩達がよければ、協力して下さい」
同意するように千影も小さく頷く。
晶はそれを見て満足そうに相好を崩した。
「言っただろう。私達は最初からそのつもりだ」
朔耶はその言葉に感謝を口にしようとして、いつもそれで晶に怒られていることを思い出し、はい、と言うだけに留めた。
そんな朔耶の心の内を知ってか知らずか、彼女は機嫌よさそうに何度か頷いた。
「照屋さんもいいの?」
『わたしは……朔耶君が決めたことだから』
「何だ、千影。はっきりしないな」
晶は、ふむ、と困ったように思案顔になったかと思えば、次の瞬間にはにやっと意地の悪い笑みを浮かべ、曰くありげに千影を見た。
「例えば、その体では朔耶の子を産めないぞ? それでいいのか?」
突然の思わぬ物言いに、千影は理解が追いつかなかったのか一瞬ぽかんとしたが、頬が緩々と紅潮していき、あうぅ、と妙な声を上げて朔耶の背に隠れてしまった。
「あ、晶先輩。それは色々と飛び越し過ぎです!」
「む、そうか?」
全く反省していない嫌らしい笑顔のまま晶は続ける。
「なら、そうだな。……例えば、はい、あーん、とかもできないのだぞ。その体では。どうだ? そういうことをしたいとは思わないのか?」
『それは、その……』
朔耶の背から顔だけを出し、視線を地面に逸らしながら千影は続ける。
『したい、です』
「そうだろう。そうだろう」
うんうん、と満足そうに腕を組んで頷く晶。
自身の恋愛テンプレート通りのことを、千影も望んだことが嬉しかったようだ。
更に晶は、どうだ、と言わんばかりに得意げな顔を朔耶に向けてくる。
恋愛経験がない、と言われたことを根に持っていたらしい。
だが、随分と俗っぽいことでやる気を出させようとしているものだ、と朔耶は内心で呆れたが、結局人間そんなものなのだろうな、とも思った。
行動に伴う高尚な理由は、大概が後づけなのかもしれない。
実際、朔耶も二人の会話を聞いて、千影を元に戻そうという決意がさらに強固になったのを自覚していたので文句を言うことはできなかった。
どちらにせよ、今は二連続で受けた羞恥で発言する気にはなれなかったが。
「千影、元に戻りたいな?」
千影の意思を確かめるように、先程までとは打って変わって真剣に尋ねる晶。
『……はい。戻りたいです』
今度こそ確かな決意を瞳に宿し、そんな晶から目を逸らさずに千影が言う。
『朔耶君と一緒に生きていきたいから』
それから千影は朔耶を振り返って、もじもじとしながら手を握ってきた。
朔耶がその手を強く握り返すと彼女は頬を赤らめながらも、どこまでも嬉しそうに微笑んだ。
「おーおー、お熱いことで」
「本当。ちょっと妬けちゃうね」
二人が楽しげにそんなことを言うので、朔耶は千影と共に小さくなってしまった。
しかし、そんな中でも千影は体を寄せてきていた。
「まあ、だからこそ、尚のことやる気も出るというものだがな」
目聡くそれを横目で見るようにしながら、晶が決意を改めるように呟く。
「そうだね。取り戻せるものは全て取り戻さないと」
学院会室の窓から見える厚い雲の、更にその先にある青空を見据えるように空を見上げながら。
晶の言葉に己刃もまた力強く同意する。
『……頼もしいね。本当にお姉さんが二人できたみたい』
そんな二人に千影が耳元で内緒話をするように囁く。
その声がどことなく嬉しそうなのは、千影もまた一人っ子だったからに違いない。
朔耶もそうだが、一人っ子は総じて兄弟姉妹に幻想を抱く傾向が強い。
要するにないものねだりで、手に入らないものを美化しているのだが。
それはもしかしたら晶にも当てはまるのかもしれない。
「さて、では、私達で策の一つや二つ、考えて――」
改めて真面目に話し始めた晶だったが、すぐに呆れたように溜息をついた。
「おい、お前達。そんなに引っついていないで、私の話を聞け」
『え、あ、すす、すみません』
慌てたように千影は離れた、つもりだったようだが、その移動距離は本当にささやかなもので、さすがの晶も、やれやれ、という感じで肩を竦めた。
それから彼女は気を取り直したように、コホン、とわざとらしく咳をして話を本筋に戻した。
今日最後の授業中、まだ迷いを抱いている様子の千影がそう問いかけてきたため、朔耶は両手を視界の中に入れた。
これは昨日千影と決めた合図だ。イエスは右手、ノーは左手。分からない、あるいはイエスでもノーでもない場合は両手を見る。こういう疑問詞疑問文の場合も一応両手を見ることにしていた。
他人には見えない相手の問いに言葉で返すと、周囲から不審者扱いを受けるのは想像に容易い。
これはそれを避けるために考えた方法だった。しかし――。
『やっぱり、不便、だよね』
少しだけ逡巡してから右手を見る。
昨日は公欠にして貰い、授業に出席しなかったため、周りに人がいる状況がここまで不自由だとは思わなかった。だからと言って、これ以上合図を増やしても周囲から不審がられるだろうし、元の木阿弥だ。
『すぐ近くにいるのに、自由に話せないのは、何だか変に辛いよ』
彼女の悲しげな口調に、せめて席が一番前でなければ筆談という選択肢もあるのに、と一瞬考え、しかし、朔耶はすぐにその方法を否定した。
それはそれで普段の会話のテンポを感じられない。
それは慣れていない者にとっては大きな違和感となるに違いない。
『……でも、授業中にこんなこと考えるのは、おかしいんだよね。本当は』
自嘲するように呟く千影。だが、休み時間でも自由に話せないのは同じことだ。
学校では周囲にほぼ必ず人がいる以上、どうしても会話はぎこちなくなる。
昼休みや放課後なら学院会室に行けばいいかもしれないが、それでは根本的な解決にはならない。
それに今日のように何となく行くのが躊躇われることもあるかもしれない。
『あ……』
授業の終わりを告げる鐘が鳴り、途方に暮れたような千影の気配が伝わってくる。
やはり作戦の危険性が彼女に迷いを与えているのだろう。
現状をよしとして妥協できれば、安全に、この日常も惰性的なものに変えることができる。
なのに、それを捨ててまで、朔耶や己刃達に危険な橋を渡らせてまで望んでいいことなのか、と。
だが、その迷いはほとんど彼女の答えを示している。
本来、誰かの身の安全と天秤にかけられるような選択肢は少ない。
迷っている時点で彼女の本当の望みがどれだけ強いのか分かる。
パウロに言われた通り妥協なく考えれば、それは決まり切っているのだから。
そうやって千影の胸にある葛藤に思いを巡らしている間に教師が入れ替わり、担任が帰りのショートホームルームを終わらせる。
朔耶はほとんど無意識的に礼をして机を下げ、即座に廊下に出た。
が、千影の浮かない気持ちが感じられ、窓の前で立ち止まる。
「朔耶」
心配の色の濃い呼びかけに振り返ると、真剣な表情の和也が歩み寄ってきた。
「本当に大丈夫なのか? 最近調子悪そうだし、昨日もあれきり戻って来なかったし」
「いや、昨日のは、その、学院会の仕事が入ったんだ。言っただろ? それで時々出かけなきゃいけないこともあるって」
「だからな。まずお前がそんなのに入ったのが信じられないんだよ。お前、部活は入らないって言ってたじゃないか。あれか? あの己刃って先輩に弱みでも握られたのか?」
和也の妙な想像に唖然とするが、それも心配してのことなので一応心の中では感謝しておく。
が、さすがに己刃に悪いので、そこはしっかりと否定すべきだろう。
「確かにちょっとなし崩し的だったけど、そういうことはないよ。俺は納得してるし」
「でもな――」
「朔兄!」
和也がまだ納得できない様子で口を開いた瞬間、陽菜が彼を脇に突き飛ばして抱き着いてきた。
そんな彼女に千影は慌てたように隣で半実体化し、不機嫌そうに口をへの字に曲げて顔を赤くしながら陽菜を睨みつけた。
しかし、彼女はすぐに悲しげに目を伏せてしまった。
陽菜にはやはり千影の姿が見えていない。
視線が千影を捉えることはなく、一切気にした風もなく腕を絡めてくる。
見せつけようとするでもなく、ただただ自然に。
「陽菜ちゃん。どうしたの?」
「朔兄と一緒に帰ろうと思って。今日は邪魔者なしで帰れるよね?」
「それは……」
真っ直ぐ過ぎる好意に当惑してしまい、言葉に詰まる。
陽菜の好意が本物だとしても、千影に想いを伝えた以上は応える訳にはいかない。
しかし、自意識過剰かもしれないが、諦めさせることも難しい。
陽菜は千影のことを覚えていないのだ。他に好きな子がいる、と言ったところで、それは誰、と問われれば意味がない。
それに、だからと言ってこういう形のつき合いを完全に絶たなければいけない訳でもないし、その辺りの微妙な対応をどうすればいいのか朔耶には分からなかった。
「ごめんね。今日は行かないといけないところがあるから」
だから、今は用事を作って誤魔化すことしかできなかった。
「えーっ、そんなあ」
そして、残念そうに唇を尖らせる陽菜にもう一度、ごめんね、と謝り、複雑な表情のままでいる和也に別れを告げて管理棟へと歩き出す。
陽菜についた嘘を真にするため、何か用事を、と考え、やはり晶の様子を見に行こうと決めたためだ。
放課後の管理棟は生徒の影はまばらだが、教師はいるので千影と大っぴらに話をすることはできない。
『朔耶君……』
しかし、少しの間口を閉ざしていた千影の、余りに切なそうな、今にも泣き出してしまいそうな声に、朔耶はハッとして彼女を見た。
『わたし、本当に忘れられてるんだね』
どこか自嘲するように目を潤ませて言う千影に言葉を失う。
朔耶や他の使徒と会話できるようになった今だからこそ逆に、陽菜の言動を受けてその事実を強く実感したのだろう。
『お父さんとお母さんも、ああなのかな』
あの日から朔耶と常に一緒にいた千影は両親の様子を知らない。
知らないからこそ、今朝のアノミアであのようなことを口にできたのかもしれない。
『……一人忘れられたぐらいで、世界は変わらないんだね』
「千影……」
人一人消えたぐらいで世界の歯車は乱れない。
よく言われることだが、実際にその事実に直面した衝撃は容易く想像できるものではない。
自分の人生、歩んできた道程の価値を否定されるばかりか、生そのものの無意味さを突きつけられているようなものだ。
生の無意味さ。存在の無価値さ。あるいは、それがグノーシスの使徒達の行動原理なのかもしれない。
確かにそんな考えが頭を過ぎることがないとは言えない。
思春期にあれば特に。
それでも朔耶は今を生きている者として生を否定したくはなかった。
それは理屈に先立つ強い感情だった。
「やっぱり、全てを取り戻そう」
一階の奥を曲がった先の人気のない廊下を歩きながら、はっきり言葉にして伝える。
『で、でも、朔耶君達が危ない目に――』
「確かにそうかもしれない。俺だって千影のためじゃなければ、自分から危険に飛び込むような真似はしたくない。でも、今の半端な満足で妥協したら、絶対に将来後悔することになると思う。それに――」
朔耶は学院会室から少し離れた場所で立ち止まり、彼女と向かい合った。
「俺は千影と本当の意味で一緒に生きていきたいから」
『朔耶君……』
真っ直ぐに千影の目を見据える。
彼女はまだ迷いが残っているらしく瞳を揺らしていたが、やがておずおずと頷いた。
「おい、お前達。いつまでそこで見詰め合っている。さっさと中に入れ」
呆れたような声に振り返ると、学院会室の扉が僅かに開き、晶がそこから顔だけを出していた。
「は、はい。すみません」
慌てて部屋に入ると、既に己刃の姿もあった。
相変わらず姿勢正しく座っている。
そんな彼女の隣に戻った晶も普段通りに不遜な感じであぐらをかき、しかし、今回ばかりは決まりが悪そうに視線を微妙に逸らしていた。
朔耶も少々話し辛い空気を思い出しながら、二人とちゃぶ台を挟んで反対側に千影と並んで正座した。
「まあ、その、何だ」
気まずい雰囲気を嫌ってか、すぐさま晶が口を開く。
「アノミアでは、怒鳴って悪かったな」
『い、いえ、そんなことない、です』
「しかし、悪いが、私の考えは変わらん」
『……はい』
「答え、聞かせて貰えるかな? 神父様が言ったこと、ちゃんと考えてくれたと思うから」
己刃の問いに居住まいをさらに正して、彼女の目をしっかりと見据える。
そして、朔耶は二人で決めた答えを告げた。
「俺は千影を元に戻してやりたい。だから、その、先輩達がよければ、協力して下さい」
同意するように千影も小さく頷く。
晶はそれを見て満足そうに相好を崩した。
「言っただろう。私達は最初からそのつもりだ」
朔耶はその言葉に感謝を口にしようとして、いつもそれで晶に怒られていることを思い出し、はい、と言うだけに留めた。
そんな朔耶の心の内を知ってか知らずか、彼女は機嫌よさそうに何度か頷いた。
「照屋さんもいいの?」
『わたしは……朔耶君が決めたことだから』
「何だ、千影。はっきりしないな」
晶は、ふむ、と困ったように思案顔になったかと思えば、次の瞬間にはにやっと意地の悪い笑みを浮かべ、曰くありげに千影を見た。
「例えば、その体では朔耶の子を産めないぞ? それでいいのか?」
突然の思わぬ物言いに、千影は理解が追いつかなかったのか一瞬ぽかんとしたが、頬が緩々と紅潮していき、あうぅ、と妙な声を上げて朔耶の背に隠れてしまった。
「あ、晶先輩。それは色々と飛び越し過ぎです!」
「む、そうか?」
全く反省していない嫌らしい笑顔のまま晶は続ける。
「なら、そうだな。……例えば、はい、あーん、とかもできないのだぞ。その体では。どうだ? そういうことをしたいとは思わないのか?」
『それは、その……』
朔耶の背から顔だけを出し、視線を地面に逸らしながら千影は続ける。
『したい、です』
「そうだろう。そうだろう」
うんうん、と満足そうに腕を組んで頷く晶。
自身の恋愛テンプレート通りのことを、千影も望んだことが嬉しかったようだ。
更に晶は、どうだ、と言わんばかりに得意げな顔を朔耶に向けてくる。
恋愛経験がない、と言われたことを根に持っていたらしい。
だが、随分と俗っぽいことでやる気を出させようとしているものだ、と朔耶は内心で呆れたが、結局人間そんなものなのだろうな、とも思った。
行動に伴う高尚な理由は、大概が後づけなのかもしれない。
実際、朔耶も二人の会話を聞いて、千影を元に戻そうという決意がさらに強固になったのを自覚していたので文句を言うことはできなかった。
どちらにせよ、今は二連続で受けた羞恥で発言する気にはなれなかったが。
「千影、元に戻りたいな?」
千影の意思を確かめるように、先程までとは打って変わって真剣に尋ねる晶。
『……はい。戻りたいです』
今度こそ確かな決意を瞳に宿し、そんな晶から目を逸らさずに千影が言う。
『朔耶君と一緒に生きていきたいから』
それから千影は朔耶を振り返って、もじもじとしながら手を握ってきた。
朔耶がその手を強く握り返すと彼女は頬を赤らめながらも、どこまでも嬉しそうに微笑んだ。
「おーおー、お熱いことで」
「本当。ちょっと妬けちゃうね」
二人が楽しげにそんなことを言うので、朔耶は千影と共に小さくなってしまった。
しかし、そんな中でも千影は体を寄せてきていた。
「まあ、だからこそ、尚のことやる気も出るというものだがな」
目聡くそれを横目で見るようにしながら、晶が決意を改めるように呟く。
「そうだね。取り戻せるものは全て取り戻さないと」
学院会室の窓から見える厚い雲の、更にその先にある青空を見据えるように空を見上げながら。
晶の言葉に己刃もまた力強く同意する。
『……頼もしいね。本当にお姉さんが二人できたみたい』
そんな二人に千影が耳元で内緒話をするように囁く。
その声がどことなく嬉しそうなのは、千影もまた一人っ子だったからに違いない。
朔耶もそうだが、一人っ子は総じて兄弟姉妹に幻想を抱く傾向が強い。
要するにないものねだりで、手に入らないものを美化しているのだが。
それはもしかしたら晶にも当てはまるのかもしれない。
「さて、では、私達で策の一つや二つ、考えて――」
改めて真面目に話し始めた晶だったが、すぐに呆れたように溜息をついた。
「おい、お前達。そんなに引っついていないで、私の話を聞け」
『え、あ、すす、すみません』
慌てたように千影は離れた、つもりだったようだが、その移動距離は本当にささやかなもので、さすがの晶も、やれやれ、という感じで肩を竦めた。
それから彼女は気を取り直したように、コホン、とわざとらしく咳をして話を本筋に戻した。
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