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三 共に明日を生きるために⑦
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アノミアはそれから一日経った今日も変わらない。
しかし、朔耶自身の見方が変わったため、世界に潜む穢れの色も気にならなかった。
空は昨日の雨の名残のような雲で覆われていたが、心は晴れやかだ。
理由は簡単。昨日までとは違って隣に千影がいるからだ。
どうもアノミアでは自動的に半実体化してしまうらしく、彼女は今ふわふわと所在なさげに隣で浮かんでいた。朔耶の移動に合わせて彼女の位置も動くので、自分から動く必要は基本的にはないようだ。
「それで昨日は楽しんだか?」
昨日の顛末を報告すべく教会へと向かう途中、突然晶がそんなことを聞いてきた。
「は? ……え、な、何を、ですか?」
一瞬の思考停止の後、何とか気を取り直しつつ、とぼけるように尋ね返す。
言わんとしていることは何となく理解できているが。
「何を、って、その、なあ?」
「わ、私に聞かないでよ」
晶は、具体的なことを言うのはさすがに照れる、という感じで頬を赤らめ、話を振られた己刃も動揺したように顔を伏せた。
そして、晶は言い出した本人の癖に不満げに朔耶を睨み、それから千影に問うような視線を向けた。
千影なら素直に答えそうだからだろうか。
『な、何もなかったですよ』
案の定、千影はわたわたとしつつも真正直に答え、顔を赤くしながら手を握ってきた。
こうしたスキンシップは、半実体である彼女にとって自分の存在を確かめることのできる唯一のものだからなのか、かなり多かった。
しかし、それ以上は互いに奥手なため、昨日のように雰囲気が過剰に盛り上がりでもしない限り、中々機会は得られそうにない。
それに、できることなら、そういったことは彼女の魂の欠片を全て取り戻してからにしたいという気持ちも、落ち着いた今では強かった。
「来たな。四人共。……どうしたんだ?」
教会の前に至ると、そこで待っていた光輝が微妙な空気を感じてか首を傾げた。
「い、いえ、別に」
「そうか。とにかく中に入れ」
朔耶は深く追求してこない光輝に心の中で感謝しつつ、しかし、千影と手を繋いだままだったことに気づいて焦りながらも、結局そのままで彼の後に従った。これももう今更のことだ。
聖堂には既にパウロと智治の姿があった。擬似アノミア発生時、教鞭を取っていた智治は授業が終わった後、関係各所と連絡を取り合っていたらしい。
朔耶達はパウロに促されるまま最前列の長椅子に四人並んで座り、晶が宗則との戦いの一部始終を詳細に語った。その話が千影の特殊な力に及ぶと、パウロ達は興味深そうに聞き入っていた。
「ですから、千影の力は死の欲動由来の力を消し去るものだと思われます」
晶がそう結論すると光輝が納得するように頷く。
「昨日、彼が病院で意識を取り戻した時、アノミアでの記憶を全て失っていたらしい。このアノミアにも落ちていないようだ。そのことから考えても、照屋の力は橘の予測通り使徒の力を打ち消すものと言っていいだろう。しかも、根本から完全に、な」
自分の話題に千影は畏縮したように俯いてしまった。
「井出先生」
黙って話を聞いていた己刃が意を決したように口を開き、そんな彼女に視線が集まる。
「あの教会を守る三人の内、一人が力を失った今は好機です。こちらから攻め込むべきではないでしょうか。……照屋さんの魂の欠片を取り戻すためにも」
彼女の言葉にハッとする。
そう。後は彼等から魂の欠片を取り戻せば、千影の魂は完全な状態になり、元のように現実の世界で過ごせるようになるかもしれないのだ。
「確かに照屋の力を使えば相手を殺すことなく無力化できる。俺達にとって理想とも言える力だ。アノミアでの行為は法的に罪を問えないとしても、当然人として殺人を犯す訳にはいかないからな」
だからこそ、これまで使徒の襲撃に対しては時間切れまで防戦するしか術がなかった訳だが、と光輝はつけ加え、さらに続ける。
「こちらから打って出るいい機会かもしれないな」
「そうですね……策を練れば、かの教会の長、時乃宮ユダが相手でも何とかなるかもしれません」
目を閉じながら呟く智治。彼我の戦力を比較しているのだろう。
相手は二人。こちらは教会を離れられないパウロを除いて六人。その内の一人、千影がある意味使徒の天敵のような力を有しているのだから、勝算は十分あるような気がする。
気がかりは時乃宮ユダという人物の力がどれ程のものかだが。
『ま、待って下さい』
しかし、千影が慌てたように方向性が決まりつつある議論を遮った。
その場にいる全員の目が集中し、千影は一瞬窮してしまったようだが、おずおずと口を開く。
『……わたしは、別にこのままでいい、です』
「な、何? お前、本気で言っているのか!?」
理解できないという風の晶に、千影は申し訳なさそうにこくりと頷いた。
『わたしは朔耶君と一緒にいられれば、元に戻れなくても幸せですから』
「そんな、家族の人とかはいいの?」
儚い笑顔を見せる千影に己刃もまた困惑したように尋ねる。
『アノミアで一度死んだわたしのことは、お父さんもお母さんも忘れてます。なら、悲しまなくて済むでしょうし――』
「馬鹿を言うな!」
明らかな怒気を含んだ晶の叫びに、千影はびくっと体を震わせた。
「いいか。忘れていた方が幸せ、などということは決してない! 私は知っている。それを後から知ってしまった時、どれ程悲しいかをな」
『でも、思い出せないんだから、知ることなんてないじゃないですか』
「忘れたのか? アノミアによる影響を精神は知ることができると。私達使徒のように何がきっかけで真実に気づくか分からないのだぞ。それこそ頭をぶつけた程度で認識できるようになるかもしれん」
現にアノミアでの出来事を記憶できている使徒にとっては、晶の言葉は確かな説得力があった。
何かしらの影響でそれを認識できるようになる可能性があると、身を以って知っているのだから。
「全てを知ってしまった時、お前の家族が感じるのはどんな別離よりも深い悲しみだ。忘れていたという事実も同時に突きつけられるのだからな」
「…………うん。やっぱり私も魂の欠片を取り戻しに行くべきだと思うよ」
『で、でも――』
「でも、じゃない! 必ず奴等の教会に乗り込むからな。いいな? 反論は聞かん!」
強い言葉と共に千影の眼前に人差し指を突きつける晶。
千影はそれに怯んだように身を寄せてきたが、それでも晶を強い瞳で見詰めていた。
「晶さん。落ち着いて下さい」
パウロのしわがれた声が聖堂に重く響き、晶はハッとしたように決まりが悪そうな表情を浮かべて、千影から目を逸らした。
「……照屋さん。今は朝日奈君と話ができるだけで満足しているのでしょう。しかし、一度妥協せずにしっかりと考えてみて下さい。貴方が本当に望むことを」
俯いてしまった千影にパウロは穏やかに微笑む。
その優しい口調と表情に促されるように千影は、はい、とか細い声で答えて小さく頷いた。
千影は何よりも自分を心配してくれているのだろう、と朔耶は思った。
先程の作戦では、千影の力を利用するにしても、最終的には敵の使徒に朔耶が止めを刺す必要がある。
つまり、必然的に最も危険な目に遭う可能性が高くなる訳だから。
勿論、彼女が語った言葉には現時点での本心も確かに含まれているのだろうが。
結局この場ではそこで話が止まってしまい、そのまま解散することになった。
晶は、頭を冷やしてくる、と言ってさっさと教室に戻ってしまい、己刃ともいつもの階段で別れた。
そして、二人きりで二年C組の教室前の廊下に佇む。
朔耶は穢れが見て取れる空を見上げながら、千影の手が置かれた肩に意識を向けた。
アノミアではまだともかく、現実の世界では彼女の感触は全て肉体の勘違いによって得られるものに過ぎない。その事実がアノミアにおいても彼女の温もりを僅かに鈍らせているような、そんな感覚を朔耶は受けていた。
しかし、朔耶自身の見方が変わったため、世界に潜む穢れの色も気にならなかった。
空は昨日の雨の名残のような雲で覆われていたが、心は晴れやかだ。
理由は簡単。昨日までとは違って隣に千影がいるからだ。
どうもアノミアでは自動的に半実体化してしまうらしく、彼女は今ふわふわと所在なさげに隣で浮かんでいた。朔耶の移動に合わせて彼女の位置も動くので、自分から動く必要は基本的にはないようだ。
「それで昨日は楽しんだか?」
昨日の顛末を報告すべく教会へと向かう途中、突然晶がそんなことを聞いてきた。
「は? ……え、な、何を、ですか?」
一瞬の思考停止の後、何とか気を取り直しつつ、とぼけるように尋ね返す。
言わんとしていることは何となく理解できているが。
「何を、って、その、なあ?」
「わ、私に聞かないでよ」
晶は、具体的なことを言うのはさすがに照れる、という感じで頬を赤らめ、話を振られた己刃も動揺したように顔を伏せた。
そして、晶は言い出した本人の癖に不満げに朔耶を睨み、それから千影に問うような視線を向けた。
千影なら素直に答えそうだからだろうか。
『な、何もなかったですよ』
案の定、千影はわたわたとしつつも真正直に答え、顔を赤くしながら手を握ってきた。
こうしたスキンシップは、半実体である彼女にとって自分の存在を確かめることのできる唯一のものだからなのか、かなり多かった。
しかし、それ以上は互いに奥手なため、昨日のように雰囲気が過剰に盛り上がりでもしない限り、中々機会は得られそうにない。
それに、できることなら、そういったことは彼女の魂の欠片を全て取り戻してからにしたいという気持ちも、落ち着いた今では強かった。
「来たな。四人共。……どうしたんだ?」
教会の前に至ると、そこで待っていた光輝が微妙な空気を感じてか首を傾げた。
「い、いえ、別に」
「そうか。とにかく中に入れ」
朔耶は深く追求してこない光輝に心の中で感謝しつつ、しかし、千影と手を繋いだままだったことに気づいて焦りながらも、結局そのままで彼の後に従った。これももう今更のことだ。
聖堂には既にパウロと智治の姿があった。擬似アノミア発生時、教鞭を取っていた智治は授業が終わった後、関係各所と連絡を取り合っていたらしい。
朔耶達はパウロに促されるまま最前列の長椅子に四人並んで座り、晶が宗則との戦いの一部始終を詳細に語った。その話が千影の特殊な力に及ぶと、パウロ達は興味深そうに聞き入っていた。
「ですから、千影の力は死の欲動由来の力を消し去るものだと思われます」
晶がそう結論すると光輝が納得するように頷く。
「昨日、彼が病院で意識を取り戻した時、アノミアでの記憶を全て失っていたらしい。このアノミアにも落ちていないようだ。そのことから考えても、照屋の力は橘の予測通り使徒の力を打ち消すものと言っていいだろう。しかも、根本から完全に、な」
自分の話題に千影は畏縮したように俯いてしまった。
「井出先生」
黙って話を聞いていた己刃が意を決したように口を開き、そんな彼女に視線が集まる。
「あの教会を守る三人の内、一人が力を失った今は好機です。こちらから攻め込むべきではないでしょうか。……照屋さんの魂の欠片を取り戻すためにも」
彼女の言葉にハッとする。
そう。後は彼等から魂の欠片を取り戻せば、千影の魂は完全な状態になり、元のように現実の世界で過ごせるようになるかもしれないのだ。
「確かに照屋の力を使えば相手を殺すことなく無力化できる。俺達にとって理想とも言える力だ。アノミアでの行為は法的に罪を問えないとしても、当然人として殺人を犯す訳にはいかないからな」
だからこそ、これまで使徒の襲撃に対しては時間切れまで防戦するしか術がなかった訳だが、と光輝はつけ加え、さらに続ける。
「こちらから打って出るいい機会かもしれないな」
「そうですね……策を練れば、かの教会の長、時乃宮ユダが相手でも何とかなるかもしれません」
目を閉じながら呟く智治。彼我の戦力を比較しているのだろう。
相手は二人。こちらは教会を離れられないパウロを除いて六人。その内の一人、千影がある意味使徒の天敵のような力を有しているのだから、勝算は十分あるような気がする。
気がかりは時乃宮ユダという人物の力がどれ程のものかだが。
『ま、待って下さい』
しかし、千影が慌てたように方向性が決まりつつある議論を遮った。
その場にいる全員の目が集中し、千影は一瞬窮してしまったようだが、おずおずと口を開く。
『……わたしは、別にこのままでいい、です』
「な、何? お前、本気で言っているのか!?」
理解できないという風の晶に、千影は申し訳なさそうにこくりと頷いた。
『わたしは朔耶君と一緒にいられれば、元に戻れなくても幸せですから』
「そんな、家族の人とかはいいの?」
儚い笑顔を見せる千影に己刃もまた困惑したように尋ねる。
『アノミアで一度死んだわたしのことは、お父さんもお母さんも忘れてます。なら、悲しまなくて済むでしょうし――』
「馬鹿を言うな!」
明らかな怒気を含んだ晶の叫びに、千影はびくっと体を震わせた。
「いいか。忘れていた方が幸せ、などということは決してない! 私は知っている。それを後から知ってしまった時、どれ程悲しいかをな」
『でも、思い出せないんだから、知ることなんてないじゃないですか』
「忘れたのか? アノミアによる影響を精神は知ることができると。私達使徒のように何がきっかけで真実に気づくか分からないのだぞ。それこそ頭をぶつけた程度で認識できるようになるかもしれん」
現にアノミアでの出来事を記憶できている使徒にとっては、晶の言葉は確かな説得力があった。
何かしらの影響でそれを認識できるようになる可能性があると、身を以って知っているのだから。
「全てを知ってしまった時、お前の家族が感じるのはどんな別離よりも深い悲しみだ。忘れていたという事実も同時に突きつけられるのだからな」
「…………うん。やっぱり私も魂の欠片を取り戻しに行くべきだと思うよ」
『で、でも――』
「でも、じゃない! 必ず奴等の教会に乗り込むからな。いいな? 反論は聞かん!」
強い言葉と共に千影の眼前に人差し指を突きつける晶。
千影はそれに怯んだように身を寄せてきたが、それでも晶を強い瞳で見詰めていた。
「晶さん。落ち着いて下さい」
パウロのしわがれた声が聖堂に重く響き、晶はハッとしたように決まりが悪そうな表情を浮かべて、千影から目を逸らした。
「……照屋さん。今は朝日奈君と話ができるだけで満足しているのでしょう。しかし、一度妥協せずにしっかりと考えてみて下さい。貴方が本当に望むことを」
俯いてしまった千影にパウロは穏やかに微笑む。
その優しい口調と表情に促されるように千影は、はい、とか細い声で答えて小さく頷いた。
千影は何よりも自分を心配してくれているのだろう、と朔耶は思った。
先程の作戦では、千影の力を利用するにしても、最終的には敵の使徒に朔耶が止めを刺す必要がある。
つまり、必然的に最も危険な目に遭う可能性が高くなる訳だから。
勿論、彼女が語った言葉には現時点での本心も確かに含まれているのだろうが。
結局この場ではそこで話が止まってしまい、そのまま解散することになった。
晶は、頭を冷やしてくる、と言ってさっさと教室に戻ってしまい、己刃ともいつもの階段で別れた。
そして、二人きりで二年C組の教室前の廊下に佇む。
朔耶は穢れが見て取れる空を見上げながら、千影の手が置かれた肩に意識を向けた。
アノミアではまだともかく、現実の世界では彼女の感触は全て肉体の勘違いによって得られるものに過ぎない。その事実がアノミアにおいても彼女の温もりを僅かに鈍らせているような、そんな感覚を朔耶は受けていた。
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