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二 使徒達――新たな日常②
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「えっと、まず天使に九つの位階があるのって知っているかな?」
「ああ、あれですか? セラフィムとかケルビムとか」
「そうそう。朝日奈君、博識だね」
「い、いえ、それは、まあ――」
それは勿論、漫画やゲームによく登場する単語だから知っていただけのことだ。
が、どうやら己刃にはそういう方面の知識は全くないようだ。
天使の位階は九つある。上から熾天使、智天使、座天使、主天使、力天使、能天使、権天使、大天使、そして、天使だ。
己刃と晶がそうだという『座天』はそれに倣うなら上から三番目。それがどれ程のものかは分からないが、晶の口振りだとかなり高い位階のようだ。
「それで、私達の力の強さをその位階に当てはめて評価しているの。その上でそれに基づいて、戦力が地域毎に固まらないように調整している訳」
「まあ、ここは重要な拠点だから、ある程度戦力を集中させているのだがな」
機嫌を直したのか己刃の言葉に補足を加える晶。
「それで、朔耶の位階は何だ?」
先程の気まずさを誤魔化そうとしているのか、偉ぶるように腕を組んで晶が尋ねる。
朔耶は何も聞いていなかったため、己刃に視線を向けた。
すると、彼女は真剣そのものの表情で口を開いた。
「私が見たところだと『守護』だね」
「何? それは本当なのか?」
位階に『守護』はないじゃないか、と思った朔耶を余所に、驚愕で目を開く晶に己刃はアノミア内での出来事を語り始めた。朔耶からの伝聞の部分も含めて。
話が進んでいくにつれ、晶は神妙な顔つきになっていく。
その間、朔耶は千影のことを想いながら、時折自分の左手を見詰めていた。
「成程、な。それならば『守護』というのも頷ける」
実際に頷きながら言う晶の目には一瞬だけ憐憫が過ぎった。
「朔耶、お前も中々辛い経験をしたようだな。しかし、取り戻せる可能性がある以上、俯いている暇はない。しっかりと前を向いてその機会を掴むのだぞ。私も手伝ってやる」
「は、はい。ありがとうございます」
「何、感謝される程のことではない。私はお前が気に入った。それだけのことだ」
大事な人を守れなかった情けない話で何を気に入ったというのか、と疑問に思う。
すると、それが表情に出ていたのか、晶は屈託なく笑った。
「何故、と言いたそうな顔をしているな。……それはな。お前が『守護』の位階に属するからだ。何より大事な女のために力を得たというのがまたいい。私はそういう話が好きなのだ。実にヒーローっぽい」
失敗しているじゃないか、という突っ込みは自分にダメージが来るので呑み込む。
「は、はあ。いや、でも『守護』って位階にないですよね?」
「ああ。それは位階で言えば天使に相当するものだ。位階には共通して天使という言葉が後ろにつくからな。天使の位階なのだから当然と言えば当然のことなのだが……」
「それは、まあ、そうですね」
「うむ。それで区別するためにそう呼んでいるのだ。実際、守護天使という奴は天使に属する天使、ややこしいな。とにかく、それが勤めることがほとんどらしいしな」
「成程……って、それ、最下位じゃないですか」
弱い自分には適当な位階かもしれないとも思ったが、しかし、いざ順位をつけられて最下位なのは嫌なのが人情というものだろう。
「まあ、実際単純な戦闘力では一番弱いからな」
言葉の内容とは裏腹に、晶は決して馬鹿にした風ではなく全く真面目な表情で言った。
「実はね。位階は基本『熾天』『智天』『座天』『主天』『力天』『能天』『権天』『大天』の八つしか使われないの。純粋な戦闘力の優劣としては、ね」
「なら、『守護』は?」
「力を得るには求めが必要だと聞いただろう? そして、ああいった状況での求めは二つに大別される。即ち周囲の脅威を排除し尽くすための求めと、自分を含めた誰かを守るための求めだ」
確かにあの状況では二つに一つだ。朔耶は納得して頷いた。
「そして、前者は死の欲動と結びつき、後者は生の欲動と結びつく。『守護』は後者によって力を得た者を指す訳だ」
流れるように話していた晶は、一旦言葉を区切って一息ついてから再び口を開く。
「そいつは特殊な能力を持つことが多いのだ。だから区別され、能力によっては重宝される。アノミアにあった私達の教会も『守護』の使徒が過去に作ったものらしい」
「朝日奈君の能力は、精神と魂の保管、かな」
己刃はそう言うと何故か微かに目を逸らすようにして、瞳を自虐の色で染めながら言葉を続けた。
「普通アノミアに入る時は一人きりの時が多いし、タナトスの脅威に晒された上で力を求めるから、ほとんど相手を攻撃するのが主目的の力が生まれるの。でも、朝日奈君の場合は状況が状況だったから、ね」
千影を死なせたくない。そんな想いによって求められ、生じた力。
だから、己刃の言ったような能力になったようだ。
それだけ千影を特別に想っていたのだと実感する。
「まあ、そういうことだ。戦闘は私達に任せ、朔耶は朔耶の目的を果たすといい」
晶はそう言うが、正直不安が募る。
少々特別な能力を持っていても戦闘力は最弱。
それでは目的を果たす以前に、タナトスにすら負けてしまうのではないか、と。
その疑問をそのまま晶にぶつけると、彼女は朔耶を安心させようとしているかのように自信に溢れた笑顔を見せた。
「使徒であればタナトスにはまず負けない。それに私達もいる。だから、心配するな」
「でも、タナトスって死の欲動が具現化したものなんですよね。なら、それの度合いによって強くなるんじゃないですか?」
一度目の時と二度目の時。朔耶から具現化したタナトスは大きさも恐らく強さも違っていた。
それはつまりそういうことではないか。
「確かに朔耶の言う通りだ。が、使徒からすれば野良タナトスなど物の数ではないし、私達の手に余るような強大なタナトスを生む程の死の欲動を抱いている者は、既にアノミアに入る前に狂い、どこかで自殺しているか、誰かを傷つけて身を滅ぼしているさ。死の欲動とはそういうものだ」
どこか他人事のように、諦めたように晶は言った。
しかし、それも当然のことだ。
使徒などと言っても、結局は具現化したタナトスを滅ぼしているだけ。
実際に死の欲動に囚われている誰かを直接救うことなどできはしない。
その全てを救うことができるとすれば、社会そのものが持つ力以外にはないだろう。
「……成程。言われてみれば、そう、かもしれません。けど、だったら、その段階に至る前にアノミアに入るはずじゃないですか?」
破壊衝動に身を任せる段階よりも、アノミアに落ちる段階の方が死の欲動のレベルが低いのなら、身を滅ぼす前にアノミアに囚われてもおかしくないはずだが。
「死の欲動は個人の気分、感情だけで決まるものではない。当人を取り巻く環境如何で急激に増減する複合的なものだ。例えば満月の日に事故や事件が増えるように、様々な要因で突然溢て出てきたりする。勿論、蓄積されるものもあるが、多くは野良タナトスとしてアノミアに放出されるし……まあ、一概には言えないがな」
つまり、ちょっとした出来事かがきっかけとなり、アノミアに囚われるレベルを飛び越えて死の欲動に侵されることもある訳だ。
そして、そうなると、この現実世界で破壊衝動に身を任せて犯罪に走ってしまったり、自らを傷つけてしまったりしてしまうのだろう。
あの人が何故、というような行動はこれに由来するのかもしれない。
「しかし、溢れ出てくる、ですか」
その表現が気になって確認するように呟く。
「そうだ。生と死の欲動はどちらも生得的なもの。そして、死の欲動はより根底に存在しているものだ。私達はそれに生の欲動で蓋をして懸命に生きている。しかし、何かの拍子にその蓋、生の欲動が弱まってしまえば、死の欲動が泉のように湧き出てくるのだ」
生の欲動が弱まる原因は色々と考えられるだろう。
人間関係。社会のしがらみ。根本的な生への疑問。あるいは、それこそ病や怪我でその部分の脳機能が阻害されることもあるかもしれない。
「ともかく具現したタナトスなど恐れるに足らん。内なる死の欲動の方が余程恐ろしいものだからな」
「それにアノミアで一番怖いのは奴等、だからね」
己刃が忌々しげに呟く。
奴等、とは今日対峙した彼等のことのようだ。
「彼等は何者なんですか?」
「敵だ。私達の最大の。奴等はグノーシス主義クリストイ派を名乗り、アノミアを神聖視している。それを世界の、即ち神の意思などと考え、世界をタナトスで満たそうとしているのだ。それが世界の死に繋がると理解しながら。奴等、グノーシスの使徒共は異端者でしかない!」
晶もまた同様に渋面で吐き捨てるように言う。
二人共、彼等への嫌悪は相当のもののようだ。
「グノーシス主義では、この宇宙を悪しき不完全な神が創造したものとしているの。そして、その創造物である物質、肉体を悪と考えている。結果、極端な禁欲主義か快楽主義のどっちかに傾くんだけど……」
「つまりグノーシス主義者にとって死は穢れた肉体からの解放、即ち救いになる訳だ。だが、だとしてもアノミアを神聖視するなどふざけている」
晶の声には苛立ちが募っていた。
「……この話は止めだ。胸糞が悪くなる。それよりも――」
その苛立ちを自覚しているのか、自制するように晶は話題を変えようとしていた。
「明日からの巡回はどうする?」
「私達はいつも通り街の巡回。だけど、明日だけは朝日奈君のために皆一緒で、ね」
「そうか。まあ、当然だな。井出教諭と森本教諭は基本学校を離れない訳だし。……本来なら、教諭達が朔耶と千影とやらを助けていただろうに、全く奴等のせいで!」
結局憤慨を抑え切れなかったのか、晶は、がん、とちゃぶ台を思い切り殴り、その痛みに顔を歪ませて涙目になっていた。
「はいはい。晶、その話はやめにしたんでしょ?」
どうどう、という感じで己刃に宥められ、晶はばつが悪そうに顔を背けてしまった。
彼女は不機嫌そうに口を噤み、一瞬部屋を微妙な沈黙が支配する。
ある程度話をしたとはいえ、さすがに初対面の相手との間の無言は気まずい。そう思って朔耶は何か話題の種はないかと部屋を見回した。
「あれ? 晶先輩、それって――」
視界に家で見慣れたものが入り、意識の焦点をそれに向ける。
「ん? おお、これか。これはな」
途端に晶は機嫌を直したように相好を崩し、それを両手で抱えた。
「やっぱり、時界天士ジン・ヴェルトの旧作版BDボックスじゃないですか」
何故この部屋にそれがあるのかは全く分からないが、彼女の手の中にあるのは間違いなくそれだった。
「ほう、朔耶。すぐに旧作版だと気づくとは、お前中々に通だな。驚いたぞ」
晶が勢いよく身を乗り出して、その青い瞳を爛々と輝かせる。
その表情はとても無邪気なもので外見相応。
言えば怒るかもしれないが、とても子供っぽくて可愛らしい。
彼女の動きによってふわりと揺れた柔らかな髪から香る甘い匂いは、幼さを感じさせる。
「俺も驚きましたよ。これがこんなところにあるなんて。晶先輩のですか?」
「いや、これは私のではない。実はあの作品の原作者は使徒の関係者らしくてな。そういう関係でここに置かれているらしい。私の調べたところによると、だがな」
晶の話に朔耶は驚いた。
思いがけない、というか随分と妙な形で昨日までの日常と現在の非日常との接点が出てきてしまった。
もしかすると日常と非日常の間にある壁は、実は非常に薄く脆いものなのかもしれない。
「勿論、家には同じものがあるぞ。この作品は私も大好きなのだ」
「へえ、よく買えましたね。全話一セットだから、いい値段するのに。俺なんかは貯金を注ぎ込んで何とか買いましたよ」
「ほう、朔耶も持っているのか。それは奇遇だな。私の場合は母上が誕生日に買ってくれたのだ。先にも言ったが、母上は大の日本好きでな。広く、深く様々なものを好んでいた。特に漫画やアニメ、これに連なる文化は世界に誇れると褒めていた。恐らく私の誕生日と言いながら自分も見たかったのだろうがな」
そう言って苦笑する晶の表情には微かに影が落ちていた。
しかし、初対面から深く踏み込む真似はできず、朔耶は深く追求しなかった。
「まあ、そういう訳で気づいた時には私もそういったものが好きになっていたのだ」
何はともあれ、趣味の部分で共通の話題を得たことで妙に親近感が湧く。
「あ、あのー、二人共……」
おずおずと声をかけられ、慌てて二人同時に振り向く。
すっかり己刃のことを失念していた。
忘れられていた彼女はどことなく寂しそうだ。
「あのね。まず先に巡回の話と連絡を終わらせちゃっていい?」
「あ、は、はい。すみません、己刃先輩」
失敗した。妙な印象を与えてしまったかもしれない。
そう思って、朔耶は心の中で溜息をついた。
本当に、つい話に夢中になってしまった。
晶の方もまた、再び決まりが悪そうに視線を逸らしていた。
「ああ、あれですか? セラフィムとかケルビムとか」
「そうそう。朝日奈君、博識だね」
「い、いえ、それは、まあ――」
それは勿論、漫画やゲームによく登場する単語だから知っていただけのことだ。
が、どうやら己刃にはそういう方面の知識は全くないようだ。
天使の位階は九つある。上から熾天使、智天使、座天使、主天使、力天使、能天使、権天使、大天使、そして、天使だ。
己刃と晶がそうだという『座天』はそれに倣うなら上から三番目。それがどれ程のものかは分からないが、晶の口振りだとかなり高い位階のようだ。
「それで、私達の力の強さをその位階に当てはめて評価しているの。その上でそれに基づいて、戦力が地域毎に固まらないように調整している訳」
「まあ、ここは重要な拠点だから、ある程度戦力を集中させているのだがな」
機嫌を直したのか己刃の言葉に補足を加える晶。
「それで、朔耶の位階は何だ?」
先程の気まずさを誤魔化そうとしているのか、偉ぶるように腕を組んで晶が尋ねる。
朔耶は何も聞いていなかったため、己刃に視線を向けた。
すると、彼女は真剣そのものの表情で口を開いた。
「私が見たところだと『守護』だね」
「何? それは本当なのか?」
位階に『守護』はないじゃないか、と思った朔耶を余所に、驚愕で目を開く晶に己刃はアノミア内での出来事を語り始めた。朔耶からの伝聞の部分も含めて。
話が進んでいくにつれ、晶は神妙な顔つきになっていく。
その間、朔耶は千影のことを想いながら、時折自分の左手を見詰めていた。
「成程、な。それならば『守護』というのも頷ける」
実際に頷きながら言う晶の目には一瞬だけ憐憫が過ぎった。
「朔耶、お前も中々辛い経験をしたようだな。しかし、取り戻せる可能性がある以上、俯いている暇はない。しっかりと前を向いてその機会を掴むのだぞ。私も手伝ってやる」
「は、はい。ありがとうございます」
「何、感謝される程のことではない。私はお前が気に入った。それだけのことだ」
大事な人を守れなかった情けない話で何を気に入ったというのか、と疑問に思う。
すると、それが表情に出ていたのか、晶は屈託なく笑った。
「何故、と言いたそうな顔をしているな。……それはな。お前が『守護』の位階に属するからだ。何より大事な女のために力を得たというのがまたいい。私はそういう話が好きなのだ。実にヒーローっぽい」
失敗しているじゃないか、という突っ込みは自分にダメージが来るので呑み込む。
「は、はあ。いや、でも『守護』って位階にないですよね?」
「ああ。それは位階で言えば天使に相当するものだ。位階には共通して天使という言葉が後ろにつくからな。天使の位階なのだから当然と言えば当然のことなのだが……」
「それは、まあ、そうですね」
「うむ。それで区別するためにそう呼んでいるのだ。実際、守護天使という奴は天使に属する天使、ややこしいな。とにかく、それが勤めることがほとんどらしいしな」
「成程……って、それ、最下位じゃないですか」
弱い自分には適当な位階かもしれないとも思ったが、しかし、いざ順位をつけられて最下位なのは嫌なのが人情というものだろう。
「まあ、実際単純な戦闘力では一番弱いからな」
言葉の内容とは裏腹に、晶は決して馬鹿にした風ではなく全く真面目な表情で言った。
「実はね。位階は基本『熾天』『智天』『座天』『主天』『力天』『能天』『権天』『大天』の八つしか使われないの。純粋な戦闘力の優劣としては、ね」
「なら、『守護』は?」
「力を得るには求めが必要だと聞いただろう? そして、ああいった状況での求めは二つに大別される。即ち周囲の脅威を排除し尽くすための求めと、自分を含めた誰かを守るための求めだ」
確かにあの状況では二つに一つだ。朔耶は納得して頷いた。
「そして、前者は死の欲動と結びつき、後者は生の欲動と結びつく。『守護』は後者によって力を得た者を指す訳だ」
流れるように話していた晶は、一旦言葉を区切って一息ついてから再び口を開く。
「そいつは特殊な能力を持つことが多いのだ。だから区別され、能力によっては重宝される。アノミアにあった私達の教会も『守護』の使徒が過去に作ったものらしい」
「朝日奈君の能力は、精神と魂の保管、かな」
己刃はそう言うと何故か微かに目を逸らすようにして、瞳を自虐の色で染めながら言葉を続けた。
「普通アノミアに入る時は一人きりの時が多いし、タナトスの脅威に晒された上で力を求めるから、ほとんど相手を攻撃するのが主目的の力が生まれるの。でも、朝日奈君の場合は状況が状況だったから、ね」
千影を死なせたくない。そんな想いによって求められ、生じた力。
だから、己刃の言ったような能力になったようだ。
それだけ千影を特別に想っていたのだと実感する。
「まあ、そういうことだ。戦闘は私達に任せ、朔耶は朔耶の目的を果たすといい」
晶はそう言うが、正直不安が募る。
少々特別な能力を持っていても戦闘力は最弱。
それでは目的を果たす以前に、タナトスにすら負けてしまうのではないか、と。
その疑問をそのまま晶にぶつけると、彼女は朔耶を安心させようとしているかのように自信に溢れた笑顔を見せた。
「使徒であればタナトスにはまず負けない。それに私達もいる。だから、心配するな」
「でも、タナトスって死の欲動が具現化したものなんですよね。なら、それの度合いによって強くなるんじゃないですか?」
一度目の時と二度目の時。朔耶から具現化したタナトスは大きさも恐らく強さも違っていた。
それはつまりそういうことではないか。
「確かに朔耶の言う通りだ。が、使徒からすれば野良タナトスなど物の数ではないし、私達の手に余るような強大なタナトスを生む程の死の欲動を抱いている者は、既にアノミアに入る前に狂い、どこかで自殺しているか、誰かを傷つけて身を滅ぼしているさ。死の欲動とはそういうものだ」
どこか他人事のように、諦めたように晶は言った。
しかし、それも当然のことだ。
使徒などと言っても、結局は具現化したタナトスを滅ぼしているだけ。
実際に死の欲動に囚われている誰かを直接救うことなどできはしない。
その全てを救うことができるとすれば、社会そのものが持つ力以外にはないだろう。
「……成程。言われてみれば、そう、かもしれません。けど、だったら、その段階に至る前にアノミアに入るはずじゃないですか?」
破壊衝動に身を任せる段階よりも、アノミアに落ちる段階の方が死の欲動のレベルが低いのなら、身を滅ぼす前にアノミアに囚われてもおかしくないはずだが。
「死の欲動は個人の気分、感情だけで決まるものではない。当人を取り巻く環境如何で急激に増減する複合的なものだ。例えば満月の日に事故や事件が増えるように、様々な要因で突然溢て出てきたりする。勿論、蓄積されるものもあるが、多くは野良タナトスとしてアノミアに放出されるし……まあ、一概には言えないがな」
つまり、ちょっとした出来事かがきっかけとなり、アノミアに囚われるレベルを飛び越えて死の欲動に侵されることもある訳だ。
そして、そうなると、この現実世界で破壊衝動に身を任せて犯罪に走ってしまったり、自らを傷つけてしまったりしてしまうのだろう。
あの人が何故、というような行動はこれに由来するのかもしれない。
「しかし、溢れ出てくる、ですか」
その表現が気になって確認するように呟く。
「そうだ。生と死の欲動はどちらも生得的なもの。そして、死の欲動はより根底に存在しているものだ。私達はそれに生の欲動で蓋をして懸命に生きている。しかし、何かの拍子にその蓋、生の欲動が弱まってしまえば、死の欲動が泉のように湧き出てくるのだ」
生の欲動が弱まる原因は色々と考えられるだろう。
人間関係。社会のしがらみ。根本的な生への疑問。あるいは、それこそ病や怪我でその部分の脳機能が阻害されることもあるかもしれない。
「ともかく具現したタナトスなど恐れるに足らん。内なる死の欲動の方が余程恐ろしいものだからな」
「それにアノミアで一番怖いのは奴等、だからね」
己刃が忌々しげに呟く。
奴等、とは今日対峙した彼等のことのようだ。
「彼等は何者なんですか?」
「敵だ。私達の最大の。奴等はグノーシス主義クリストイ派を名乗り、アノミアを神聖視している。それを世界の、即ち神の意思などと考え、世界をタナトスで満たそうとしているのだ。それが世界の死に繋がると理解しながら。奴等、グノーシスの使徒共は異端者でしかない!」
晶もまた同様に渋面で吐き捨てるように言う。
二人共、彼等への嫌悪は相当のもののようだ。
「グノーシス主義では、この宇宙を悪しき不完全な神が創造したものとしているの。そして、その創造物である物質、肉体を悪と考えている。結果、極端な禁欲主義か快楽主義のどっちかに傾くんだけど……」
「つまりグノーシス主義者にとって死は穢れた肉体からの解放、即ち救いになる訳だ。だが、だとしてもアノミアを神聖視するなどふざけている」
晶の声には苛立ちが募っていた。
「……この話は止めだ。胸糞が悪くなる。それよりも――」
その苛立ちを自覚しているのか、自制するように晶は話題を変えようとしていた。
「明日からの巡回はどうする?」
「私達はいつも通り街の巡回。だけど、明日だけは朝日奈君のために皆一緒で、ね」
「そうか。まあ、当然だな。井出教諭と森本教諭は基本学校を離れない訳だし。……本来なら、教諭達が朔耶と千影とやらを助けていただろうに、全く奴等のせいで!」
結局憤慨を抑え切れなかったのか、晶は、がん、とちゃぶ台を思い切り殴り、その痛みに顔を歪ませて涙目になっていた。
「はいはい。晶、その話はやめにしたんでしょ?」
どうどう、という感じで己刃に宥められ、晶はばつが悪そうに顔を背けてしまった。
彼女は不機嫌そうに口を噤み、一瞬部屋を微妙な沈黙が支配する。
ある程度話をしたとはいえ、さすがに初対面の相手との間の無言は気まずい。そう思って朔耶は何か話題の種はないかと部屋を見回した。
「あれ? 晶先輩、それって――」
視界に家で見慣れたものが入り、意識の焦点をそれに向ける。
「ん? おお、これか。これはな」
途端に晶は機嫌を直したように相好を崩し、それを両手で抱えた。
「やっぱり、時界天士ジン・ヴェルトの旧作版BDボックスじゃないですか」
何故この部屋にそれがあるのかは全く分からないが、彼女の手の中にあるのは間違いなくそれだった。
「ほう、朔耶。すぐに旧作版だと気づくとは、お前中々に通だな。驚いたぞ」
晶が勢いよく身を乗り出して、その青い瞳を爛々と輝かせる。
その表情はとても無邪気なもので外見相応。
言えば怒るかもしれないが、とても子供っぽくて可愛らしい。
彼女の動きによってふわりと揺れた柔らかな髪から香る甘い匂いは、幼さを感じさせる。
「俺も驚きましたよ。これがこんなところにあるなんて。晶先輩のですか?」
「いや、これは私のではない。実はあの作品の原作者は使徒の関係者らしくてな。そういう関係でここに置かれているらしい。私の調べたところによると、だがな」
晶の話に朔耶は驚いた。
思いがけない、というか随分と妙な形で昨日までの日常と現在の非日常との接点が出てきてしまった。
もしかすると日常と非日常の間にある壁は、実は非常に薄く脆いものなのかもしれない。
「勿論、家には同じものがあるぞ。この作品は私も大好きなのだ」
「へえ、よく買えましたね。全話一セットだから、いい値段するのに。俺なんかは貯金を注ぎ込んで何とか買いましたよ」
「ほう、朔耶も持っているのか。それは奇遇だな。私の場合は母上が誕生日に買ってくれたのだ。先にも言ったが、母上は大の日本好きでな。広く、深く様々なものを好んでいた。特に漫画やアニメ、これに連なる文化は世界に誇れると褒めていた。恐らく私の誕生日と言いながら自分も見たかったのだろうがな」
そう言って苦笑する晶の表情には微かに影が落ちていた。
しかし、初対面から深く踏み込む真似はできず、朔耶は深く追求しなかった。
「まあ、そういう訳で気づいた時には私もそういったものが好きになっていたのだ」
何はともあれ、趣味の部分で共通の話題を得たことで妙に親近感が湧く。
「あ、あのー、二人共……」
おずおずと声をかけられ、慌てて二人同時に振り向く。
すっかり己刃のことを失念していた。
忘れられていた彼女はどことなく寂しそうだ。
「あのね。まず先に巡回の話と連絡を終わらせちゃっていい?」
「あ、は、はい。すみません、己刃先輩」
失敗した。妙な印象を与えてしまったかもしれない。
そう思って、朔耶は心の中で溜息をついた。
本当に、つい話に夢中になってしまった。
晶の方もまた、再び決まりが悪そうに視線を逸らしていた。
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