αφεσις

青空顎門

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一 非日常への陥穽⑦

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 翌日。それは突然訪れた。
 自国は午前九時丁度。朝の朝礼が終わり、ほんの少し遅れて始まった一時間目の授業が五分程度経過した正にその時だった。
 全ての輪郭が曖昧になり、世界から色彩が失われた。

「アノ、ミア?」

 その瞬間、朔耶は数週間前に体験した異空間での出来事を全て思い出し、その世界の名を無意識に呟いていた。
 瞬きさえしていないのに先程まで確かに視界の中にいた教師の姿が消失し、その服だけが残されているのを見る限り、あの日と同じように一握りの人間だけがこの世界に囚われているのだろう。

「な、何?」

 だから、そんな聞き慣れた少女の呆然とした声がすぐ隣から聞こえてきた瞬間、朔耶は驚愕で我に返って振り向いた。そこには、自失した様子の千影が立ち竦んでいた。

「さ、朔耶君。これ、一体……」

 ぎこちなく顔を向けてきた千影が縋るように一歩近づいてくる。
 あの日の朔耶とは異なり、傍に見知った者がいたために、この状況を確かな現実として認識し、だからこそ逆にその余りの異常さに思考が追いついていないのだろう。
 朔耶は一先ず混乱した様子の千影を落ち着かせようと、彼女の手を取って強く握った。

「千影、とりあえず冷静になるんだ」

 今の今まで忘れていたが、それでも二度目であるという事実は多少の冷静さをもたらしてくれる。
 しかし、あの時は夢か現かも分からない状態だったため、この状況が紛れもない現実だと確信した衝撃は正直大きかった。
 そこから生じる感情、恐怖は、震える千影の手とその感触を強く意識して抑え込む。

「とにかく、ここにいると危ない。行こう」
「そんな、どこへ?」
「安全な場所があるから」

 怯えたように瞳を揺らしている彼女を真っ直ぐに見詰めながら、彼女の手を握る力を少し強める。
 と、千影は戸惑った様子ながら小さく頷いてくれた。
 朔耶はそんな彼女に頷き返して、手を繋いだままで共に教室を出た。
 目的地はあの日、己刃に連れていかれた教会。
 記憶が正しければ、アノミアが終わるまで後三時間以上はある。となれば、ずっと教室にいるのは余りにも危険過ぎる。だが、あそこならきっと匿ってくれるはずだ。

「朔耶君。ここは、一体何なの?」

 二階。二年生の教室が並ぶ廊下を少し進んだところである程度落ち着きを取り戻したのか、千影がそう尋ねてきた。
 しかし、彼女のその手は、心の拠りどころとするかのように朔耶の手と結ばれたままだ。

「俺もよく分からないよ」
「でも、さっきアノミア、って」
「それは、しばらく前に一度だけ迷い込んだことがあったから。その時に教えて貰ったんだ。……何故だか、この世界のことはついさっきまで忘れてたけど」

 教会で己刃に言われたことを思い出す。
 この世界が終われば、全ての恐怖を忘れる。
 それはこういうことだったのだ。

「……そう。そういうことも、あるのかな。こんな訳の分からない世界では」

 千影は少しの間怪訝そうに首を傾げていたが、一応納得してくれたようだった。
 お互い虚構、フィクションが好きだと理解が早くて助かる。
 現実に起きてしまった非現実的な事態に対処するには、そういう知識が意外と役に立つのかもしれない。
 かなり限定的な有用性だが。

 実際、それはフィクションの副次的な有用性に過ぎない。
 普通に生きていれば、全く価値などないような。
 それの本来の価値は、人々に様々な生きる形を伝えることにあるのだろうから。
 しかし、今だけは、本来とは違う作用のおかげで冷静さを維持できていることに感謝すべきか。

「それで、これからどこに行くの?」
「教会に向かう。この世界にだけ、グラウンド脇の空き地にあるみたいなんだ。そこなら安全だから」
「そこなら安全、って。なら、ここは危険なの?」

 不安げに見上げてくる千影に首を縦に振る。
 その答えに、千影はショックを受けたようにその場で立ち止まってしまった。

「前は、タナトスとかいう化物に襲われた。その時は助けて貰えたけど……」

 都合よく二度目を期待するのは間違いだろう。
 自分達で何とか安全を確保しなければならない。

「千影。今はとにかく行こう」

 繋いだ手を引いて、先を急ぐように促す。
 この世界に関する問答も考察も全て安全な場所ですればいい。
 今はこんなところで立ち止まってはいられない。

「……うん」

 再び一緒に歩き出し、周囲に注意を払いながら一階に降りる。
 途中、他の教室の様子が視界に入るが、やはり人の姿はない。
 朔耶達の教室と同じで、不自然に制服が散らばっているだけだ。

 教会があるグラウンドは高校側の昇降口とはこの校舎を挟んで反対側にある。
 態々靴を履き替えて建物の周りを回っていくのは、現状余りにも大きなロスだ。
 タナトスと遭遇する確率が格段に増えるだろう。
 ならば、窓から直接グラウンドに行くべきだ。
 そう考えて窓に近づいた瞬間、ほぼ無音の世界に重量のある何かが衝突するような轟音が響き渡った。

「きゃあっ!」

 その音に驚いたのか、千影が小さな悲鳴と共に抱き着いてくる。
 それは、今正に向かおうとしていたグラウンドで発生したもののようだった。

「な、何が――」

 慌てて廊下の窓からそこに目を凝らす。と、その音を発した何かによって引き起こされたらしい砂塵がゆっくりと晴れていき、その中から五人の人間の姿が現れた。
 内三人は見覚えがある。
 一人は以前この世界で助けてくれた先輩、己刃その人。
 一人は物理の教諭でキリスト教徒でもある井出光輝。
 そして、最後の一人は森本智治。ミッションスクールの特色とも言える聖書の授業を担当する教師。当然キリスト教徒であり、尚且つ神父でもある。
 この二人の授業を朔耶も千影も受けたことがあった。

 しかし、残る二人は誰だか分からない。
 一人は長身痩躯、長髪の男で黒衣を見にまとっていた。
 もう一人も同じ意匠の黒衣を風になびかせていたが、対照的にスキンヘッドの筋骨隆々とした大男だった。偏見かもしれないが、学校の関係者とは思えない。
 見知った三人は忌々しそうに彼等を睨みつけて対峙しているが、朔耶には見知らぬ二人が何者なのか見当がつくはずもなかった。少なくとも雰囲気から友好的な存在ではないことは確かだろうが。

「あ……」

 次の瞬間、己刃が動く。
 右手を前方に勢いよく突き出し、あの日と同じように黒い何か、しかし、今度は複数の鋭い刃を周囲に生み出した。そして、それを見知らぬ二人に向けて投擲する。
 朔耶の目には黒い糸を引いたようにしか見えない速度で放たれたそれは、再び恐ろしい程の激突音を発すると共に激しく砂を巻き上げた。
 が、少しして治まった砂煙の中から姿を現した二人は、何事もなかったかの如く三人の前に悠然と立っていた。その近く、刃が直撃した地面には深く切り裂かれたような跡が生じていたにもかかわらず。

 そんな中にあって。長身の男は何故か己刃達から視線を逸らし、朔耶達の方へと目を向けた。
 瞬間、氷のように冷たいその瞳に射竦められ、朔耶は思わず体を硬直させてしまった。
 それは日常にあっては見る機会のない、ある種の狂気を含んだ目だった。

「朔耶君!」

 だから、その千影の叫びを聞くまで朔耶は気づけなかった。
 ここは安全圏ではないことは理解していたはずなのに、グラウンドの光景などに意識を奪われていて。
 振り返り、怯えたように震える千影の視線を辿る。

「タナ、トス……」

 その先には奇怪でおぞましい影が、あの日見たものよりも一回り以上も大きく確かな姿を晒していた。
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