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一 非日常への陥穽⑥
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「いつも母さんがやかましくて、ごめんな」
千影を家に送るために一緒にマンションを出て開口一番、朔耶はそう言った。
あの後、千影の要望に応えて旧作版ジン・ヴェルト三九話以降を見ていると、すぐに夕食の時間になり、そうなると母親の招きを断れない彼女は食卓を共にすることになった。
嬉々として千影を朔耶の隣に座らせ、学校での様子を根掘り葉掘り聞く母親に、千影がはにかみながら頬を赤くし真正直に答える。
終始そんな感じだった夕食の後も二人で旧作版ジン・ヴェルトの続きを鑑賞し、ついさっきまで過ごしていたのだった。
「全く、食事中ぐらい大人しくしてればいいのに。いつも食べ辛いだろ?」
街灯と団地の窓からの光に包まれながら、二人並んで歩いていく。
薄暗いため、その距離は普段よりも遥かに近い。
「ううん、そんなことないよ」
「無理はしなくていいからな」
「無理なんかしてないよ。わたしは本当に嬉しいし、本当に楽しいから。でも、やっぱりいつもご馳走になっちゃうのは――」
「前にも言ったけどさ。そもそも母さんが強引に誘ってる訳だから、千影が遠慮する必要なんかないよ」
朔耶が千影の言葉を遮ってそう言いながら笑いかけると、彼女は、うん、と微かに決まりが悪そうに呟き、それから、ありがとう、と微笑んだ。
「母さんのことだから、毎日でも千影には来て欲しいと思ってるぞ。多分」
「さ、さすがに、そんなことないよぉ」
困ったように、しかし、とても柔らかい声を出す千影。
それは二人きりの彼女の話し方だ。
千影曰く、家族以外でその態度を取るのは朔耶だけらしい。
そのことが妙に嬉しくて自然と頬も緩んでしまう。
「朔耶君? どうして笑ってるの?」
「いや、相変わらず普段とのギャップが激しいな、って思ってさ。千影みたいのもいわゆるツンデレに属するのかな」
「え? ……わたしって、そんなに普段ツンツンしてるように見えるかな?」
デレの部分に突っ込みがないことに思わず声を出して笑ってしまうと、千影は何で笑われているのか分からないという感じで不満そうに唇を尖らせて見上げてきた。
そこには普段の表情の硬さはなく、年相応の、いや、童顔であるためむしろ幼さが、同時に端整な顔つきと相まって可憐さが感じられる。
「もう、朔耶君の意地悪」
「ごめんごめん」
顔を背けて不機嫌そうに言う千影のそんな言動がまた可愛らしく、思わずまた笑みを浮かべそうになるのを何とか耐えながら謝る。
「まあ、少なくとも俺はどっちの千影も好きだよ」
「え!? ……う、うん。ありがとう」
ぱっと驚いたように朔耶の顔を見て、しかし、すぐに戸惑ったように顔を赤くしながら視線を逸らし、もじもじしながら千影は俯いてしまった。
だが、その口調も横顔も嬉しさを隠し切れていなかった。
対して朔耶は、自然と口に出た言葉が冷静に振り返ると誤解されかねないもの、いや、全くの誤解ではないのだが、この場で伝えたかった意味とは違う形で伝わりかねないものだったことに遅れて気づき、内心動揺してしまっていた。
「そ、それより、今日の――」
「う、うん、えっとね――」
そして、そんな感情を誤魔化すように互いに話題を変え、それからは妙な間が生まれたりしないように朔耶は話を絶やさないよう心がけた。
そうやって二人で会話を続けながら歩いていると、ただでさえ短い彼女の住むマンションまでの道程がさらに短く感じられる。
「もう、着いちゃったね」
玄関先で千影が残念そうに目を伏せた。
「……千影」
彼女は少しの間自分を納得させるように目を閉じてから、一つ頷いて笑顔を作った。
「今日はありがとう、朔耶君。……また、明日」
「ああ、また明日」
マンションの入口で名残惜しそうにしつつも笑顔のまま手を振る千影に、時折振り返って何度か手を振り返しながら朔耶は来た道を引き返した。
今度は彼女がいないため、その短い道も長く感じてしまう。
だから、朔耶はとぼとぼと歩きながら今日という日を振り返っていた。
今日は日常として一際幸せな一日だったと言っていい。
特筆すべき問題もなく、友人達と普段通りに過ごすことができた。それは後々振り返ってみれば記憶に残っていない程度のものなのかもしれないが、だからこそ、かけがえのない一日だ。
そんなことを考えて、ふと、朔耶はここ最近の自分の考え方に何故か疑問を抱いた。
正確には思い出せないが、ほんの少し前の自分はもっと非日常に強い憧れを持っていた気がする。
勿論、それは今も心の表層にはあるが、それでもこの日常を尊く感じる気持ちの方が遥かに強い。
何か、その変化のきっかけとなった重大な出来事があったはずだ。
なのに、それを忘れてしまっているような気がする。妙な違和感が胸に横たわっている。
だが、それを思い出してしまったら、きっと今の日常に亀裂が入ってしまう。
唐突にそんな強い感覚が疑問に思う気持ちを諌めるように湧き上がってきた。
朔耶は複雑に絡まった自分の歪な感情に立ち止まり、薄く、しかし、星の光が一切見られない程度には曇った夜空を見上げた。
雲の奥から月の光だけが僅かに漏れ、空を僅かに白く染めようとしている。
その白、というよりも灰色と黒のコントラストに何かを思い出しそうになり、朔耶は首を振った。
そして、その感覚を振り払うように再び目の前の道を見据えて歩き出した。
***
夜、千影は自室でぼんやりと机に向かっていた。
その傍ら、机の端には読みかけの小説が置かれている。
当然、本が傷むので読みかけのページを見開きのまま伏せるような真似は絶対にしない。
この本を買った時に貰った栞を挟んでいる。
非日常へと誘うチケットである本を粗末に扱うことなど考えられない。
しかし、時間が経っても千影の手が本に伸びることはなかった。
内容はとても面白い。なのに、肝心の自分自身の気分が乗らずに溜息ばかりが出る。
朔耶と別れ、両親も寝静まり、部屋で独りになると途端に世界から色が失われる気がする。
非日常への憧憬。少しずつ降り積もっていたそれが心を押し潰そうとしている。
どこか別の場所に行ってしまいたくなる気持ちが、抑えられなくなる程に強くなっている。
それは朔耶と出会う前に生まれたものだ。
小学校の頃からずっと両親は共働きで、千影は多くの時間を独りで過ごしてきた。
その寂しさを埋めるために本を読んできた。
時に、ドキドキするような世界を疑似体験させてくれるそれが本当に大好きだった。
結果として、小学校の高学年になる頃にはクラスで孤立し、心の内には非日常を強く望む気持ちが植えつけられていた程に。
「朔耶君……」
しかし、それも彼の名を口にすれば、彼のことを考えれば、多少和らいでくれる。
朔耶は中学二年生、三年生と同じクラスで仲よくしてくれた。
高校一年生の時には不幸にも違うクラスになってしまったが、それでもクラスに遊びに来てくれたりして友達でい続けてくれた。
そして今年。また一緒のクラスになれた時は本当に嬉しかった。
これは恋。
それまで一度もそんな感情を抱いたことはなかったが、様々な本で読んだ知識から推測するとそれが自分の感情の答えとして得ることができた。
そうでなくとも、自分自身でそうだと確信できる。
これがそうでないのなら、自分は一生恋などできないだろうと思うぐらいに。
「好き、ってどういう意味でなのかな……」
友達としてなのか、それとも――。
後者であれば、嬉しい。
もしも、この日常の行く先、未来が彼と共に歩めるものなら、それはきっと非日常などよりもきっと自分を満たしてくれる、そんな日常になるはずだ。そう信じている。
だが、やはり経験がないせいで、より彼に近づくための決定的な一歩を踏み出せずにいるのだ。
自惚れを恐れずに言えば、友達以上恋人未満のような距離感。
それはぬるま湯のように心地いいものだが、しかし、長くつかり過ぎるときっと風邪を引いてしまう。
だから、後一歩。どこかで勇気を出さなければならない。
それを理解しているのに、今日こそは、という気持ちと、まだ今日は、という気持ちがぶつかり合って今日もまた前者が負けてしまった。
決定的な一歩は今の関係を変えてしまうものだから。いい方にしろ、悪い方にしろ。
だからなのだろうか。以前よりも非日常への憧憬が強まっているように感じるのは。
もしかしたらそれは、早く踏み出せ、と自分を急かしているのかもしれない。
そうしなければ、非日常に憧れるだけの、世界から居場所を失っていくだけの憐れな人間に戻ってしまうのだから、と。
「朔耶君……」
千影はもう一度だけ溜息をつき、小説を同様のジャンルのものがずらりと並ぶ本棚に戻して、今日はもう眠ってしまうことにした。
早く明日を迎え、朔耶に会うために。
千影を家に送るために一緒にマンションを出て開口一番、朔耶はそう言った。
あの後、千影の要望に応えて旧作版ジン・ヴェルト三九話以降を見ていると、すぐに夕食の時間になり、そうなると母親の招きを断れない彼女は食卓を共にすることになった。
嬉々として千影を朔耶の隣に座らせ、学校での様子を根掘り葉掘り聞く母親に、千影がはにかみながら頬を赤くし真正直に答える。
終始そんな感じだった夕食の後も二人で旧作版ジン・ヴェルトの続きを鑑賞し、ついさっきまで過ごしていたのだった。
「全く、食事中ぐらい大人しくしてればいいのに。いつも食べ辛いだろ?」
街灯と団地の窓からの光に包まれながら、二人並んで歩いていく。
薄暗いため、その距離は普段よりも遥かに近い。
「ううん、そんなことないよ」
「無理はしなくていいからな」
「無理なんかしてないよ。わたしは本当に嬉しいし、本当に楽しいから。でも、やっぱりいつもご馳走になっちゃうのは――」
「前にも言ったけどさ。そもそも母さんが強引に誘ってる訳だから、千影が遠慮する必要なんかないよ」
朔耶が千影の言葉を遮ってそう言いながら笑いかけると、彼女は、うん、と微かに決まりが悪そうに呟き、それから、ありがとう、と微笑んだ。
「母さんのことだから、毎日でも千影には来て欲しいと思ってるぞ。多分」
「さ、さすがに、そんなことないよぉ」
困ったように、しかし、とても柔らかい声を出す千影。
それは二人きりの彼女の話し方だ。
千影曰く、家族以外でその態度を取るのは朔耶だけらしい。
そのことが妙に嬉しくて自然と頬も緩んでしまう。
「朔耶君? どうして笑ってるの?」
「いや、相変わらず普段とのギャップが激しいな、って思ってさ。千影みたいのもいわゆるツンデレに属するのかな」
「え? ……わたしって、そんなに普段ツンツンしてるように見えるかな?」
デレの部分に突っ込みがないことに思わず声を出して笑ってしまうと、千影は何で笑われているのか分からないという感じで不満そうに唇を尖らせて見上げてきた。
そこには普段の表情の硬さはなく、年相応の、いや、童顔であるためむしろ幼さが、同時に端整な顔つきと相まって可憐さが感じられる。
「もう、朔耶君の意地悪」
「ごめんごめん」
顔を背けて不機嫌そうに言う千影のそんな言動がまた可愛らしく、思わずまた笑みを浮かべそうになるのを何とか耐えながら謝る。
「まあ、少なくとも俺はどっちの千影も好きだよ」
「え!? ……う、うん。ありがとう」
ぱっと驚いたように朔耶の顔を見て、しかし、すぐに戸惑ったように顔を赤くしながら視線を逸らし、もじもじしながら千影は俯いてしまった。
だが、その口調も横顔も嬉しさを隠し切れていなかった。
対して朔耶は、自然と口に出た言葉が冷静に振り返ると誤解されかねないもの、いや、全くの誤解ではないのだが、この場で伝えたかった意味とは違う形で伝わりかねないものだったことに遅れて気づき、内心動揺してしまっていた。
「そ、それより、今日の――」
「う、うん、えっとね――」
そして、そんな感情を誤魔化すように互いに話題を変え、それからは妙な間が生まれたりしないように朔耶は話を絶やさないよう心がけた。
そうやって二人で会話を続けながら歩いていると、ただでさえ短い彼女の住むマンションまでの道程がさらに短く感じられる。
「もう、着いちゃったね」
玄関先で千影が残念そうに目を伏せた。
「……千影」
彼女は少しの間自分を納得させるように目を閉じてから、一つ頷いて笑顔を作った。
「今日はありがとう、朔耶君。……また、明日」
「ああ、また明日」
マンションの入口で名残惜しそうにしつつも笑顔のまま手を振る千影に、時折振り返って何度か手を振り返しながら朔耶は来た道を引き返した。
今度は彼女がいないため、その短い道も長く感じてしまう。
だから、朔耶はとぼとぼと歩きながら今日という日を振り返っていた。
今日は日常として一際幸せな一日だったと言っていい。
特筆すべき問題もなく、友人達と普段通りに過ごすことができた。それは後々振り返ってみれば記憶に残っていない程度のものなのかもしれないが、だからこそ、かけがえのない一日だ。
そんなことを考えて、ふと、朔耶はここ最近の自分の考え方に何故か疑問を抱いた。
正確には思い出せないが、ほんの少し前の自分はもっと非日常に強い憧れを持っていた気がする。
勿論、それは今も心の表層にはあるが、それでもこの日常を尊く感じる気持ちの方が遥かに強い。
何か、その変化のきっかけとなった重大な出来事があったはずだ。
なのに、それを忘れてしまっているような気がする。妙な違和感が胸に横たわっている。
だが、それを思い出してしまったら、きっと今の日常に亀裂が入ってしまう。
唐突にそんな強い感覚が疑問に思う気持ちを諌めるように湧き上がってきた。
朔耶は複雑に絡まった自分の歪な感情に立ち止まり、薄く、しかし、星の光が一切見られない程度には曇った夜空を見上げた。
雲の奥から月の光だけが僅かに漏れ、空を僅かに白く染めようとしている。
その白、というよりも灰色と黒のコントラストに何かを思い出しそうになり、朔耶は首を振った。
そして、その感覚を振り払うように再び目の前の道を見据えて歩き出した。
***
夜、千影は自室でぼんやりと机に向かっていた。
その傍ら、机の端には読みかけの小説が置かれている。
当然、本が傷むので読みかけのページを見開きのまま伏せるような真似は絶対にしない。
この本を買った時に貰った栞を挟んでいる。
非日常へと誘うチケットである本を粗末に扱うことなど考えられない。
しかし、時間が経っても千影の手が本に伸びることはなかった。
内容はとても面白い。なのに、肝心の自分自身の気分が乗らずに溜息ばかりが出る。
朔耶と別れ、両親も寝静まり、部屋で独りになると途端に世界から色が失われる気がする。
非日常への憧憬。少しずつ降り積もっていたそれが心を押し潰そうとしている。
どこか別の場所に行ってしまいたくなる気持ちが、抑えられなくなる程に強くなっている。
それは朔耶と出会う前に生まれたものだ。
小学校の頃からずっと両親は共働きで、千影は多くの時間を独りで過ごしてきた。
その寂しさを埋めるために本を読んできた。
時に、ドキドキするような世界を疑似体験させてくれるそれが本当に大好きだった。
結果として、小学校の高学年になる頃にはクラスで孤立し、心の内には非日常を強く望む気持ちが植えつけられていた程に。
「朔耶君……」
しかし、それも彼の名を口にすれば、彼のことを考えれば、多少和らいでくれる。
朔耶は中学二年生、三年生と同じクラスで仲よくしてくれた。
高校一年生の時には不幸にも違うクラスになってしまったが、それでもクラスに遊びに来てくれたりして友達でい続けてくれた。
そして今年。また一緒のクラスになれた時は本当に嬉しかった。
これは恋。
それまで一度もそんな感情を抱いたことはなかったが、様々な本で読んだ知識から推測するとそれが自分の感情の答えとして得ることができた。
そうでなくとも、自分自身でそうだと確信できる。
これがそうでないのなら、自分は一生恋などできないだろうと思うぐらいに。
「好き、ってどういう意味でなのかな……」
友達としてなのか、それとも――。
後者であれば、嬉しい。
もしも、この日常の行く先、未来が彼と共に歩めるものなら、それはきっと非日常などよりもきっと自分を満たしてくれる、そんな日常になるはずだ。そう信じている。
だが、やはり経験がないせいで、より彼に近づくための決定的な一歩を踏み出せずにいるのだ。
自惚れを恐れずに言えば、友達以上恋人未満のような距離感。
それはぬるま湯のように心地いいものだが、しかし、長くつかり過ぎるときっと風邪を引いてしまう。
だから、後一歩。どこかで勇気を出さなければならない。
それを理解しているのに、今日こそは、という気持ちと、まだ今日は、という気持ちがぶつかり合って今日もまた前者が負けてしまった。
決定的な一歩は今の関係を変えてしまうものだから。いい方にしろ、悪い方にしろ。
だからなのだろうか。以前よりも非日常への憧憬が強まっているように感じるのは。
もしかしたらそれは、早く踏み出せ、と自分を急かしているのかもしれない。
そうしなければ、非日常に憧れるだけの、世界から居場所を失っていくだけの憐れな人間に戻ってしまうのだから、と。
「朔耶君……」
千影はもう一度だけ溜息をつき、小説を同様のジャンルのものがずらりと並ぶ本棚に戻して、今日はもう眠ってしまうことにした。
早く明日を迎え、朔耶に会うために。
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