涙はソラを映す鏡

青空顎門

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四 涙が落ちる

脱出、避難

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 風を切るように走り続ける。この異形の姿のおかげなのか、そのスピードは普段よりも遥かに速く、ますます加速していた。
 穹路の脳裏には最悪の状況が過ぎっていた。
 高校生のクラスでさえ数名の死者が現実に出てしまっているのだ。
 対する真弥はまだ小学生に過ぎない。それに加え、もしグリーフ化が同じタイミングで起きていたなら、既に大分時間が経過してしまっている。
 穹路は祈るような気持ちで、さらに速度を上げた。
 途中、他の教室から現れ出てくるグリーフを闇雲に殴り飛ばしながら。
 そして、ようやく小学校の棟に至り、真弥の教室の近くに辿り着く。

「お願い、目を覚ましてよ! 皆!」

 そこから真弥の悲痛な叫びが廊下まで聞こえてきて、その切羽詰った声に焦燥感を大きくしつつ穹路は一気に教室に飛び込んだ。
 そこには唯一人、三体ものグリーフに囲まれながらも、その攻撃に耐えている真弥の姿があった。彼女の周囲には盾のようなものが浮かび上がっており、グリーフが近づこうとする度にそれを防いでいた。
 真弥は頭を抱えてしゃがみ込んだまま必死に呼びかけていた。
 頭部以外に面影を残さない程に変質しながら、それでも虚ろな声を発し続けているクラスメイトだったものに。

「目を、覚まして……」

 しかし、もはや他人を心配できるだけの気力はないのだろう。
 その声は次第に小さくなり、嗚咽混じりのものになっていた。

「もう、もう、こんなのやだよぉ。助けて……お姉ちゃん、助けて」
「真弥ちゃん!」

 穹路は叫びながら駆け寄り、グリーフを壁に向けて思い切り突き飛ばした。
 それは勢いよく壁に叩きつけられ、恐らく真弥のクラスメイトの声で呻き声を上げた後、床に倒れ込んだ。
 更に他の二体にも体ごと突っ込んで押し飛ばし、真弥から遠ざける。
 先程までと同様、それらと接触した瞬間それぞれのティアが転がり落ち、グリーフは不気味な痙攣を始めた。

「真弥ちゃん、大丈夫?」

 小さくなって蹲っている真弥になるべく穏やかに言いながら近づく。

「えっ!? ……お、お兄、ちゃん?」

 一瞬、穹路の姿に驚いたような声を上げたが、すぐにその声から穹路だと気づいたようで、真弥は警戒を解いた。
 盾が発生している範囲内に入ったことで、姿は異なっていても敵意はないと気づいてくれたからだろう。

「お兄ちゃん!」

 真弥は緊張の糸が切れてしまったようで、縋りつくように抱き着いてきた。

「こ、怖かった、よぅ。う、ぐす、ひっく」

 肩を震わせてしゃくり上げる真弥をあやすように、その頭をいつものように優しく撫でながら抱き締める。

「もう、大丈夫。すぐ螺希のところに行こう」
「……うん」

 一応床に落ちているティアを回収してから、穹路は真弥を抱き上げてその場を速やかに離れることにした。
 筋力までもが強化されているようで、真弥は羽のように軽く、速度を出すのに全く問題なさそうだ。
 一旦教室の扉のところで立ち止まり、中を振り返る。この場にグリーフを放置していいものか、と一瞬悩むが、今は螺希と合流する方が先だろう。
 それに、もはやティアを持たないグリーフに再生能力はない。ならば、ラクリマに対するような苦戦はしないはずだ。事実、後からグリーフ化させられた生徒は翠のティアを用いて容易く排除できたのだから。

「お兄ちゃん?」
「ああ、行こう」

 穹路は真弥をしっかりと抱いて、今度こそ螺希達の元へと駆け出した。
 他の教室には時折グリーフが残っていて、グリーフ化せずに死んだ生徒の遺体を弄ぶように切り刻んでいた。
 その光景に胸の奥に激しい怒りが湧き出て、その行為を今すぐに止めてやりたい気持ちにかられるが、何とかそれを心の内に押し留める。
 穹路はなるべくそれを真弥に見せないようにしつつ、廊下をとにかく走り続けた。

「真弥ちゃん、何ですぐに逃げなかったんだ? そのティアがあれば、教室から出ることぐらいできただろ?」
「それは、だって、わたしは少し戦えるから、他の皆を逃がさないと、って思って」

 そんなことを真弥が言うので、穹路は一瞬言葉を失ってしまった。
 成り行きで留まらざるを得なかったのではなく、完全に自分の意思で。
 武人もそうだったが、そんなことはやろうと思っても実際にできることではない。

「……そっか。真弥ちゃんは、勇気があるね」

 穹路は真弥をより強く抱き締めた。

「でも、わたし、怖くて泣いちゃったよ?」
「そんなの当然だよ。俺だって、さっき泣いちゃったから。怖くて、さ」
「……うん。ありがと、お兄ちゃん」

 そんな会話を交わしつつ廊下を走り抜け、小学校側の昇降口から一旦外へと出る。
 外の雰囲気は校内以上に緊迫していて空気が重い。そう感じるのは、周囲に人の気配がなく、遠くからは発砲音らしき異音が耳に届くからだろう。
 今回の出来事は何もこの学校だけで起きていることではないのだ。

「何……あれ」

 真弥が空を見上げながら呆然と呟く。
 そこに目を向けると、何十匹もの鳥、というには巨大で奇怪な形をした何かが編隊を組んで横切っていった。

「鳥型の、グリーフ?」
「お、お兄ちゃん!」

 耳元で呼ぶ声に目線を戻す。空に目をやった穹路の代わりに周囲を警戒していたらしい真弥の視線を追って校門を見る。
 すると、装甲に覆われたワゴン車が物凄いスピードで突っ込んできて、穹路達の目の前で急停止した。

「な、何だ?」

 その扉が開いて中から現れたのは、歪な形状のボーガンを手にした琥珀だった。
 彼女のいつもの前髪は全て上げられ、ピンで留められている。
 琥珀はボーガンの狙いを穹路に定め、いつになく厳しく睨みつけてきていた。

「せ、先生?」
「琥珀お姉ちゃん?」

 真弥と同時に言うと、琥珀は当惑したような表情になった。

「その声、穹路君、なの?」
「は、はい。そうです」

 穹路の頭から爪先まで視線を動かし、それから琥珀はボーガンを下ろした。

「成程、あり得ないことじゃ、ないのかな。……って、それより螺希は無事!?」

 彼女は切羽詰ったように整った顔を焦燥で歪ませ、眼前まで迫ってきた。

「ぶ、無事です。今は教室に。俺達も向かうところです」
「そう。なら、急いで」

 一瞬安堵したように、しかし、すぐに表情を引き締めた琥珀はボーガンを肩に担ぎ、先導するように歩き出す。
 そんな彼女に、穹路も慌てて真弥を抱き直して従った。
 琥珀を加え、穹路達は高校側の昇降口を抜けて、周囲を警戒しつつもできる限りの速さで三年A組の教室へと向かった。そして、その前に至り、階段から近い教室後方の扉を先頭の琥珀が勢いよく開け放つ。
 瞬間、翠が緊張したように銃口を向けてきた。が、すぐに琥珀だと気づいたらしく、彼女はほとんど泣きそうな表情を見せて、ホッと息を吐いた。

「お姉ちゃん!」

 教室に入って真弥を床に下ろすと、彼女はそう叫んで螺希の胸に飛び込んだ。

「真弥……よかった。無事で」

 心の底からの安堵がありありと分かる表情で瞳を潤ませながら、螺希は真弥を強く、強く抱き締めていた。
 普段感情がほとんど表に出ない螺希のその様子から、どれだけ真弥を心配していたかがよく分かる。

「お、お姉ちゃん、苦しいよ」

 真弥もまた口ではそんなことを言いつつも、螺希の温もりを確かめるように両腕に力を込めていた。

「もう少し感動の対面を満喫させてあげたいところだけどね。面倒臭いことに街中グリーフだらけなのよ。とにかく今はシェルターに急がないと」
「琥珀……うん、分かった」

 螺希は小さく頷くと、まだ離れたくなさそうに彼女の顔を見上げる真弥の頭を一度優しく撫でてから体を離した。

「で、穹路君。いつまでもそんな姿になってないで、早く元に戻って。他の人に勘違いされないように」
「え? い、いや、あの。どうすれば」
「そんなのティアを使うのと同じ要領でできるでしょ? いい? 君の体にはティアが埋め込まれてるの。その体はそれの作用に間違いないんだから。なら、ティアと同じようにすればいいはずよ」
「そんな、急に言われても」
「ほら、うじうじ言ってないで、さっさとやるの! できなかったら、それはグリーフの体ってことだから、これで撃ち抜くからね!」

 穹路が戸惑っていると、琥珀はわざとらしく声を荒げて脅迫してきた。
 ボーガンで撃たれてはたまったものではない。
 なので、必死に元に戻るように念じる。
 本当にこの状態はティアの影響によるものなのか、と若干疑問に思いながら。

「あ、戻った」

 真弥に言われ、窓ガラスに目をやると確かに本来の体に戻っていた。

「凄い、一瞬で――」
「はいはい。それは後。穹路君が元に戻ったことだし、さっさと行くよ? あ、桐生君は一番後ろで警戒よろしく」

 武人が頷くのを確認すると、琥珀は注意を払いながら先頭を切って教室を出た。
 その後を螺希、真弥、穹路、翠、そして、武人と続く。
 翠は武人と同様に後方に対しても目を光らせていた。
 そうやって隊列を組んだまま慎重に廊下を進んでいく。
 真弥の教室へ向かった時よりも明らかにグリーフの気配は少なくなっていて、結果、何とかそれに遭遇せずに高校側の昇降口から外に出ることができた。
 恐らく、ほとんどがより多くの人間がいる街の中心へと向かったのだろう。

「あの車に乗って」

 琥珀は上空を厳しく注視しながら、そう促した。
 その言葉に従って、一人ずつ先程のワゴン車に速やかに乗り込む。
 琥珀は教師としての責任感からか、ぎりぎりまで周囲を警戒し、一番後から乗車して扉を閉めた。
 そして、すぐさま車は走り出す。運転手は見知らぬ男性だった。

「これで一安心、かな。さすがのグリーフもこの車を壊すのは無理なはずだから」

 助手席に座った琥珀は緊張を解いていつもの声色で言った。
 その様子を見る限り、車内は本当に安全なのだろう。

「でも、グリーフの爪って物凄く硬いんじゃないんですか?」
「大丈夫。あれの爪は落涙の日当時に最も強度の優れてた物質で構成されてるけれど、多分この車の装甲は今年のヒヒイロガネでできてるから」

 三列ある座席の三列目、穹路と真弥の間に座る螺希が答えた。

「ヒヒイロガネ? それって確か架空の金属じゃなかったか?」
「ヒヒイロガネは強度に特化した金属に与えられる称号。他にもオリハルコンやミスリルなんかも一つの称号として他の条件で優秀な金属に与えられてる。例えばオリハルコンは軽金属で強度に優れたもの。ミスリルはそのバランスと、何より応用性に優れたもの」
「ティアのおかげでマテリアルの分野は急激に発達したから。プログラムさえあれば誰でも素材を作り出せるし。それで毎年、コンテストみたいなのがあるのよ。まあ、それはこの騒動が収拾したら、螺希にでも聞いて。螺希、そのコンテストの常連だから」
「この騒動が収拾したら、ですか。……一体、何が起きてるんです?」

 半ば答えを予測しつつも確認するつもりで琥珀に尋ねるが、彼女は眉間にしわを寄せたまま、しばらく俯いて黙り込んだ。

「落涙の日だ」

 そんな琥珀に代わり、真ん中の席に翠と並んで座っていた武人が簡潔に答える。
 それは予想通りの答えだった。

「人間がグリーフ化した時の状況はあの時と同じ特徴を示している。規模は当時に比べて小さいだろうがな」

 つけ加えられた武人の言葉に耳を疑う。
 初めて体験した穹路としては、これ以上の規模など考えられなかった。
 だが、当時出回っていた連関型ティアの量は今とは比べものにならないのだ。
 そう考えると、当時の惨状を容易に想像できる。

「確かに初動の規模は小さいかもしれないけどね。早く原因を探し出して叩き潰さないと人間は一生地下シェルター生活になりかねない。あの空の奴――」

 琥珀が視線で指し示した先には空を行くグリーフらしき影が見て取れた。

「鳥類由来のグリーフ。今までのグリーフとは行動パターンも違うし、何より飛行能力のせいで拭涙師達も苦戦してる。超長距離仕様の武装プログラムは余り作られてないからね。このままじゃ、状況は悪化する一方よ」

 溜息をつきながら、琥珀は表情を怒りで染めた。

「全くお偉いさんは私達科学者の忠告に耳を貸さないで、自分の保身と金稼ぎを優先させるんだから! 明確な証拠が必要? そんなもん出てからじゃ遅いでしょうが! 呑気に構えてていい問題と一緒にするなって言うのよ!」

 不機嫌そうに助手席の窓ガラスを凄い勢いで殴りつけ、その痛みのためか琥珀は顔を引きつらせた。
 興奮し過ぎて、グリーフの攻撃にも耐えられる仕様だということを忘れていたようだ。そうでなくとも車の窓ガラスを素手で殴れば普通に痛いものだが。

「本当に、何が、不測の事態よ。私は予測してたっての! そんなことは打てる手を全部打ってから言いなさいよ!」

 その痛みのせいでさらに不満が爆発したのか、もはや子供が駄々を捏ねるように琥珀は助手席で暴れていた。
 しかし、まあ、政治家にも色々とあるのだろう。
 金も物資も人間の時間も無限ではないし。

「琥珀。気持ちは分からなくもないけれど、うるさい」

 冷たく言い放たれた螺希の言葉にショックを受けたように、一瞬にして琥珀は大人しくなってしまった。
 しかし、俯いてまだぶつぶつと文句を言っている。

「それより、これからどのシェルターに行くんですか?」
「第一区零番シェルターです」

 螺希の質問に運転手が簡潔な言葉で答える。

「成程。琥珀、貴方を寄越したのは私の伯父ね?」

 落ち込んでいる様子の琥珀に対して、螺希は淡々と言葉を放つ。
 琥珀は一つ大きく溜息をつくと、何事もなかったかのように顔を上げた。

「……そうよ。逃げてきたクラスの子を連れて近場のシェルターに入ったけど確認したら螺希達がいなかったからね。本当はすぐ助けに来たかったけど、さすがに今の街中を一人でうろつくのは自殺行為だから。そこに逢瀬区長から螺希の無事を確認する電話が来たから、事情を話してこの装甲車を寄越して貰って助けに来た訳」
「そう。気が進まないけれど、あっちに着いたらお礼言っておかないと」

 そう言った螺希は腕を組みながら深く嘆息した。
 その表情はどことなく不本意そうだ。
 しかし、そのおかげで助かったのは事実。螺希にはいい顔をされないかもしれないが、彼女の伯父に会ったらしっかり感謝しておこう。そう穹路は思った。

「でも、零番シェルターって、あれか? VIP用で一番丈夫、みたいな」
「それは少し違う。確かに全てのシェルターの中で一番頑丈ではあるけれど、それは天橋立に最も近いからこそのこと。落涙の日の再来に備えて最前線の施設として建設されたの」
「だったら、危ないんじゃないか?」
「考え方によっては最も安全な場所と言えなくもない。その丈夫さもさることながら、多くの拭涙師が配置されてるはずだから」

 確かにグリーフの攻撃が各シェルターに対して均等であれば、最前線とは言っても、むしろ安全なのかもしれない。
 あくまでも襲撃の質も量も均等であれば、の話だが。

「間もなく到着します」

 車内に運転手の抑揚のない声が響き、穹路は外に視線を移した。
 窓、装甲の隙間から見える街は異様な程に閑散としていた。時折、グリーフの歪んだ影が見て取れ、終末の世界を感じさせる光景に成り果てている。
 ほんの僅かな時間で世界は姿を一変させていた。

 やがて車はとあるビルの地下駐車場へと入り、その奥で停車した。
 運転手はそこで車から降りると外に設置された機械に鍵とカードキーを挿し、更にティアを填め込んでから暗証番号を手早く入力する。
 それと同時に、車体が低く振動し始め、停車したまま移動を開始した。
 どうやら機械式駐車場のように車ごと運ばれているようだ。
 更に地下へと向かっているらしく、完全に太陽光が遮られて何も見えなくなる。
 速度計などは光を放っているので、目の順応が追いついていない部分も多少はあるだろうが。
 それでも、あのような状況に巻き込まれた後では、その暗闇に言い知れぬ不安を感じてしまう。

 だが、手に何か温かいものが触れ、それで穹路は心の落ち着きを取り戻した。
 それは螺希の手のようだった。
 何かを探すようにして少しの間穹路の手を探り、それが探していたものだったのかぎゅっと握ってくる。
 恐らく螺希も不安なのだろう。
 感情が表に出にくいため、いつも冷静そうに見えてはいるが、彼女も内面的には全く普通の女の子なのだ。
 だから、穹路は黙ったまま螺希の手を握り返し、再び光に照らされるまでの間ずっと握り続けていた。

「ありがと……穹路」

 そして光が戻る頃、螺希は他の誰にも聞こえないような小さな声でそう呟いた。
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