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一 明日の先の世界
目覚めと邂逅
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長い、本当に長い間、夢を見ていたような気がした。
しかし、夢に時間という概念はないに等しい。だから、それが現実でどれ程の時間だったかなど、夢を見ていた本人である穹路には知る術がなかった。
「明けない夜はない、か」
寝起きの思考に真っ先に浮かんだのはその言葉で、穹路は無意識にそう呟いていた。しかし、夜という語の意味するところを思い出し、すぐに自嘲する。
夜とは明けることを前提とした言葉だ。
明けない夜などそもそも夜ではなく、それは単なる闇に過ぎない。
未だ靄のかかった脳裏でそんな益体もないことを考えながら起き上がり、何の気なしに目の前の光景に意識を向ける。
その瞬間、驚愕と共に意識が完全に覚醒し、寝ぼけた考えは消え去った。
「ここ、どこだ?」
記憶にない、見知らぬ部屋。
そこは六畳半程度の畳張りの部屋だった。
家具類がないためか少々寂しさを感じさせる。
その中央には布団が敷かれており、穹路は今その上で体を起こして座っていた。
夢で聞いた全く覚えのない声に続いてのこの光景に、一瞬まだ眠っているのではないかと自問する。しかし、それは決して夢などではなく、現実だった。
まず、かなり好意的に状況を確認して、その部屋自体に不審なところはなさそうだ。懐かしさを感じさせるこの雰囲気はむしろ心地よいぐらいだろう。
そのような評価は今、余り意味のないことだが。
「いや、それより――」
正直そんな周囲の状況よりも、穹路は自分自身の体に違和感を抱いていた。それこそが自分の記憶と現状の整合性が取れない最たるものだった。
一先ず記憶を一つずつ整理してみる。
穹路が今思い出せる限りで最も新しく確実だと思える光景は、病院のベッドに横たわって見た天井だった。
しかし、確実と言いながら、比較的という言葉を頭につけなければならない。
と言うのも、かなりの時間を虚ろな意識の中で過ごしていたため、はっきり最後の記憶と断言できるかと問われれば少々怪しいのだ。
ともかく、それは西暦二〇十九年の冬のことだった、はずだ。
後から考えれば様々な兆候はあったのかもしれないが、ある日急激に体調が悪化し、病院で診察を受けることになった。そこで穹路は自分が不治の病に侵されていることを知らされ、以来長い間をベッドの上で過ごしてきたのだ。
つまり穹路の記憶では、主観的に言って昨日まで確かに病院に入院しており、最終的に体は不調などというレベルを軽く通り越し、死に近い状態にあったのだ。
にもかかわらず、体は異常とも思える程に快調。
それは本来なら喜ぶべきことなのだろうが、今は戸惑うことしかできなかった。
まるで別の体に精神だけを移植されたような気分だ。
そんな状況で見覚えのない部屋に独りでいることに、次第に不安を覚え始める。
その心細さを誤魔化すように穹路が周囲を見回していると、和室の襖が静かに少しだけ開いた。続いて、その隙間から女の子の可愛らしい顔がゆっくりと現れ、丁度襖の動きに視線を向けていた穹路とばっちり目が合った。
「あ……えと、お兄ちゃん、目が覚めたんだ」
女の子は少し決まりが悪そうに苦笑いをしながら、しかし、どこか安堵したようにそう言うと襖を完全に開け放った。
「ちょっとだけ、待っててね」
そして、不安な気持ちを全て吹き飛ばしてくれるような朗らかな笑顔を穹路に向けてから、彼女は踵を返した。
「お姉ちゃーん! お兄ちゃんが起きたよーっ!」
そんな大きな声と共に、廊下を駆ける彼女の軽い足音が遠ざかってゆく。
穹路はその様子をただ呆然と眺めていることしかできなかった。
一体、今の女の子は誰なのか。
不思議な夢、見知らぬ部屋、自分自身の健康状態。それに加えて、また新たな疑問が積み重なる。
とは言え、今は女の子の言う通りにここで待つ以外に選択肢はない。
それからほぼ間を置かず、今度は二人分の落ち着いた足音が微かに聞こえてくる。
「お兄ちゃん、入るね」
まず先程の女の子が無邪気な笑みを浮かべながら、続いて端整な顔立ちの、しかし、かなり冷たい印象を受ける無表情の少女が部屋に入ってくる。
雰囲気から、女の子の方が年下なのは間違いない。
背丈は少女の方がほんの少し大きい程度でほとんど同じくらい。
少女は年齢に比べて小さく、女の子は同い年の子の中では大きい方だろう。
女の子は、赤と黒を基調としたチェックのブラウスに七分丈のジーンズという出で立ちで、その明るい笑顔と相まって非常に快活な印象を受ける。肩にかかるぐらいの、ほんの少し茶色がかったお下げ髪も年相応に可愛らしい。しかし、胸元に光る黒い真珠のような石がついたネックレスは大人っぽく感じられる。
対して、新たに現れた少女は白いタートルネックに、プリーツのついた灰色の短いフレアスカート、そして黒いオーバーニーソックス。黒い髪はセミショート。全体的にスレンダーで確実に美人に分類されるレベルだろうが、それだけに警戒心を表に出した表情は勿体ない。
そんな少女もまた女の子とお揃いのネックレスをしていた。
二人の服装から判断する限り、現在の時節は春か秋のどちらかのようで、この推測もまた穹路の最後の記憶と大きく異なっていた。
そのことに戸惑いを強める穹路を余所に、女の子はニコニコとした表情のまま体育座りを少し崩して座り、少女の方はスカートを気にしながら布団の脇に正座した。
「とりあえず気がついてよかったね。お兄ちゃん」
女の子は嬉しそうに言ってくれるが、穹路は現状を何一つ理解できておらず、さらには少女からは何故か睨みつけられ、どう反応したものか困ってしまった。
「えっと、その――」
「貴方は何者なの?」
丁度何がどうなっているのか尋ねようとしたところを、突き放すような少女の問いに遮られる。静かな、しかし、だからこそ逆に威圧感のある声だった。
「ま、まあまあ、お姉ちゃん。まず自己紹介しようよ。人に名前を尋ねる時は、自分から名乗れ、って言うでしょ?」
厳しい視線を尚も穹路に向け続けている少女を宥めるように言ってから、女の子は穹路に笑顔を向け直した。
「わたしは真弥。望月真弥だよ。それで、お姉ちゃんは――」
横目でちらっと険しい表情のままでいる姉を見た真弥は、呆れたように小さく溜息をつきながら続けた。
「螺希って言うの。よろしくね。お兄ちゃん」
「あ、ああ、うん、よろしく。俺の名前は……穹路。蒼穹の穹に家路の路で穹路」
それは夢の中の彼女、ウーシアに貰ったと思われる名前だったが、何故だか本名ではなくそれを名乗るべきだと穹路は強く感じていた。
自分の本名は心の中に留めておけばいい。それはもう他者に対しては何の意味も持たないものでしかないから。そんな不可思議な直感が共にあって。
加えて、ウーシアの望み、自分を覚えていて欲しいという願望が、余りにも悲しく切ない思いに感じられたことも大きな理由の一つだった。
この名前を使うことでそれが果たされるのなら、きっとそうするべきなのだろう。
「それで、お兄ちゃんは何で空から落ちてきたの?」
「……はい? そ、空?」
真剣な表情の真弥に冗談のようなことを尋ねられ、一瞬思考が停止する。
「えーっと、真弥、ちゃん? ちょっと意味がよく分からないんだけど」
「そのままの意味。貴方は空から降ってきたの。私達の家の庭に」
穹路の言葉に困惑して助けを求めるように姉の顔を見た真弥に代わって、螺希がほとんど抑揚のない口調で告げる。
「いや、あの、螺希……さん。さすがにそれは嘘じゃ――」
「ない。庭を見れば分かる。その跡が残ってるから。それと私のことは別に呼び捨てで構わない。私も呼び捨てにさせて貰うから」
「あ、ああ、そう」
螺希の淡々と事実を述べるような口調に、一瞬信じてしまいそうになる。
「って、いやいや、おかしいだろ。それなら何で俺は無事なんだ?」
空から降ってきた、と態々表現するような高さなら、普通人間は命を落とすような高さを意味しているはずだ。少なくとも怪我の一つもない、どころか逆に体調がよくなっているこの状況では信じろと言う方が無茶だ。
「それに、この服も……」
穹路は今、入院時に来ていたような患者衣を身にまとっていた。それも新品同様で、破れたような形跡は一切ない。
「だから、何者? と聞いてるの」
それで最初の質問に戻るようだ。
「そうそう。昨日の夕方のことだけど、庭の方から物凄く大きな音がしたから、何だろって思って見に行ったら、ぐちゃぐちゃって金属っぽい破片が散らばってて、それがうにうにーって集まってお兄ちゃんになったんだよ?」
「……ごめん、真弥ちゃん。俺にはよく理解できないよ」
むしろ理解してはいけない気がした。
その反応に真弥は困ったように腕を組んだ。
「うーん、でも、それ以外に説明できないよ。とにかく、血みたいのも飛び散ってて、それが結構酷い光景で、お姉ちゃんも気を失っちゃって大変だったんだから」
そんな真弥の言葉が何となく意外に思え、穹路は螺希を見た。
第一印象では、彼女はそんな状況を前にしても冷静に対処しそうな感じがする。
当然ながら、たった数分の僅かな応対でのイメージなど信用性の欠片もないが。
螺希は穹路の視線から逃れるように顔を背けていたが、微かに頬が赤くなっていた。しかし、その変化は実に僅かなものだった。
「とにかくこれは現実のこと。本当は病院にでも押しつけたいところだけれど、何か訳ありのような気がしたから」
羞恥が微妙に混ざった声で、螺希は一気に早口で言った。
「それで結局お兄ちゃんはどうして落ちてきたの?」
もはや二人の間では、穹路が空から落下してきたことは揺るぎない事実として処理されているようだった。
穹路としては当の本人であるため、とても信じられる話ではなかったが、女の子二人がかりで騙される謂れもない……はずだ。
そこで穹路は一先ず現状を知ることを優先させて、それが事実だと前提して話を進めることにした。
「分からない。それは、記憶にない」
「お兄ちゃん、もしかして記憶喪失?」
にこやかだった真弥の表情が一転して心配そうなものになる。
螺希もまた微かな表情の変化ではあるが、困惑しているように見えた。
「それも……よく分からない」
人間とは忘れる動物。人は何かしらの記憶を常に喪失し続けている。そして、完全に失われた記憶を失ったと認識できる者などいない。ならば、自分ではそう思っていないだけで何かを忘却している可能性は十分にある訳だ。
そんな屁理屈はともかく、丁度自分自身の記憶の不整合さに戸惑っていたところだ。部分的な記憶喪失については自信を持って否定できない。
「どういうことなの?」
真弥が可愛らしく小首を傾げると、肩にかかるお下げ髪が小さく揺れた。
「とりあえず笑わないで聞いて欲しいんだけど――」
穹路が躊躇いがちに言いながら二人に視線を向けると、真弥は了解の意を示すように頷いて、螺希は真っ直ぐな瞳で続きを促した。
しかし、夢に時間という概念はないに等しい。だから、それが現実でどれ程の時間だったかなど、夢を見ていた本人である穹路には知る術がなかった。
「明けない夜はない、か」
寝起きの思考に真っ先に浮かんだのはその言葉で、穹路は無意識にそう呟いていた。しかし、夜という語の意味するところを思い出し、すぐに自嘲する。
夜とは明けることを前提とした言葉だ。
明けない夜などそもそも夜ではなく、それは単なる闇に過ぎない。
未だ靄のかかった脳裏でそんな益体もないことを考えながら起き上がり、何の気なしに目の前の光景に意識を向ける。
その瞬間、驚愕と共に意識が完全に覚醒し、寝ぼけた考えは消え去った。
「ここ、どこだ?」
記憶にない、見知らぬ部屋。
そこは六畳半程度の畳張りの部屋だった。
家具類がないためか少々寂しさを感じさせる。
その中央には布団が敷かれており、穹路は今その上で体を起こして座っていた。
夢で聞いた全く覚えのない声に続いてのこの光景に、一瞬まだ眠っているのではないかと自問する。しかし、それは決して夢などではなく、現実だった。
まず、かなり好意的に状況を確認して、その部屋自体に不審なところはなさそうだ。懐かしさを感じさせるこの雰囲気はむしろ心地よいぐらいだろう。
そのような評価は今、余り意味のないことだが。
「いや、それより――」
正直そんな周囲の状況よりも、穹路は自分自身の体に違和感を抱いていた。それこそが自分の記憶と現状の整合性が取れない最たるものだった。
一先ず記憶を一つずつ整理してみる。
穹路が今思い出せる限りで最も新しく確実だと思える光景は、病院のベッドに横たわって見た天井だった。
しかし、確実と言いながら、比較的という言葉を頭につけなければならない。
と言うのも、かなりの時間を虚ろな意識の中で過ごしていたため、はっきり最後の記憶と断言できるかと問われれば少々怪しいのだ。
ともかく、それは西暦二〇十九年の冬のことだった、はずだ。
後から考えれば様々な兆候はあったのかもしれないが、ある日急激に体調が悪化し、病院で診察を受けることになった。そこで穹路は自分が不治の病に侵されていることを知らされ、以来長い間をベッドの上で過ごしてきたのだ。
つまり穹路の記憶では、主観的に言って昨日まで確かに病院に入院しており、最終的に体は不調などというレベルを軽く通り越し、死に近い状態にあったのだ。
にもかかわらず、体は異常とも思える程に快調。
それは本来なら喜ぶべきことなのだろうが、今は戸惑うことしかできなかった。
まるで別の体に精神だけを移植されたような気分だ。
そんな状況で見覚えのない部屋に独りでいることに、次第に不安を覚え始める。
その心細さを誤魔化すように穹路が周囲を見回していると、和室の襖が静かに少しだけ開いた。続いて、その隙間から女の子の可愛らしい顔がゆっくりと現れ、丁度襖の動きに視線を向けていた穹路とばっちり目が合った。
「あ……えと、お兄ちゃん、目が覚めたんだ」
女の子は少し決まりが悪そうに苦笑いをしながら、しかし、どこか安堵したようにそう言うと襖を完全に開け放った。
「ちょっとだけ、待っててね」
そして、不安な気持ちを全て吹き飛ばしてくれるような朗らかな笑顔を穹路に向けてから、彼女は踵を返した。
「お姉ちゃーん! お兄ちゃんが起きたよーっ!」
そんな大きな声と共に、廊下を駆ける彼女の軽い足音が遠ざかってゆく。
穹路はその様子をただ呆然と眺めていることしかできなかった。
一体、今の女の子は誰なのか。
不思議な夢、見知らぬ部屋、自分自身の健康状態。それに加えて、また新たな疑問が積み重なる。
とは言え、今は女の子の言う通りにここで待つ以外に選択肢はない。
それからほぼ間を置かず、今度は二人分の落ち着いた足音が微かに聞こえてくる。
「お兄ちゃん、入るね」
まず先程の女の子が無邪気な笑みを浮かべながら、続いて端整な顔立ちの、しかし、かなり冷たい印象を受ける無表情の少女が部屋に入ってくる。
雰囲気から、女の子の方が年下なのは間違いない。
背丈は少女の方がほんの少し大きい程度でほとんど同じくらい。
少女は年齢に比べて小さく、女の子は同い年の子の中では大きい方だろう。
女の子は、赤と黒を基調としたチェックのブラウスに七分丈のジーンズという出で立ちで、その明るい笑顔と相まって非常に快活な印象を受ける。肩にかかるぐらいの、ほんの少し茶色がかったお下げ髪も年相応に可愛らしい。しかし、胸元に光る黒い真珠のような石がついたネックレスは大人っぽく感じられる。
対して、新たに現れた少女は白いタートルネックに、プリーツのついた灰色の短いフレアスカート、そして黒いオーバーニーソックス。黒い髪はセミショート。全体的にスレンダーで確実に美人に分類されるレベルだろうが、それだけに警戒心を表に出した表情は勿体ない。
そんな少女もまた女の子とお揃いのネックレスをしていた。
二人の服装から判断する限り、現在の時節は春か秋のどちらかのようで、この推測もまた穹路の最後の記憶と大きく異なっていた。
そのことに戸惑いを強める穹路を余所に、女の子はニコニコとした表情のまま体育座りを少し崩して座り、少女の方はスカートを気にしながら布団の脇に正座した。
「とりあえず気がついてよかったね。お兄ちゃん」
女の子は嬉しそうに言ってくれるが、穹路は現状を何一つ理解できておらず、さらには少女からは何故か睨みつけられ、どう反応したものか困ってしまった。
「えっと、その――」
「貴方は何者なの?」
丁度何がどうなっているのか尋ねようとしたところを、突き放すような少女の問いに遮られる。静かな、しかし、だからこそ逆に威圧感のある声だった。
「ま、まあまあ、お姉ちゃん。まず自己紹介しようよ。人に名前を尋ねる時は、自分から名乗れ、って言うでしょ?」
厳しい視線を尚も穹路に向け続けている少女を宥めるように言ってから、女の子は穹路に笑顔を向け直した。
「わたしは真弥。望月真弥だよ。それで、お姉ちゃんは――」
横目でちらっと険しい表情のままでいる姉を見た真弥は、呆れたように小さく溜息をつきながら続けた。
「螺希って言うの。よろしくね。お兄ちゃん」
「あ、ああ、うん、よろしく。俺の名前は……穹路。蒼穹の穹に家路の路で穹路」
それは夢の中の彼女、ウーシアに貰ったと思われる名前だったが、何故だか本名ではなくそれを名乗るべきだと穹路は強く感じていた。
自分の本名は心の中に留めておけばいい。それはもう他者に対しては何の意味も持たないものでしかないから。そんな不可思議な直感が共にあって。
加えて、ウーシアの望み、自分を覚えていて欲しいという願望が、余りにも悲しく切ない思いに感じられたことも大きな理由の一つだった。
この名前を使うことでそれが果たされるのなら、きっとそうするべきなのだろう。
「それで、お兄ちゃんは何で空から落ちてきたの?」
「……はい? そ、空?」
真剣な表情の真弥に冗談のようなことを尋ねられ、一瞬思考が停止する。
「えーっと、真弥、ちゃん? ちょっと意味がよく分からないんだけど」
「そのままの意味。貴方は空から降ってきたの。私達の家の庭に」
穹路の言葉に困惑して助けを求めるように姉の顔を見た真弥に代わって、螺希がほとんど抑揚のない口調で告げる。
「いや、あの、螺希……さん。さすがにそれは嘘じゃ――」
「ない。庭を見れば分かる。その跡が残ってるから。それと私のことは別に呼び捨てで構わない。私も呼び捨てにさせて貰うから」
「あ、ああ、そう」
螺希の淡々と事実を述べるような口調に、一瞬信じてしまいそうになる。
「って、いやいや、おかしいだろ。それなら何で俺は無事なんだ?」
空から降ってきた、と態々表現するような高さなら、普通人間は命を落とすような高さを意味しているはずだ。少なくとも怪我の一つもない、どころか逆に体調がよくなっているこの状況では信じろと言う方が無茶だ。
「それに、この服も……」
穹路は今、入院時に来ていたような患者衣を身にまとっていた。それも新品同様で、破れたような形跡は一切ない。
「だから、何者? と聞いてるの」
それで最初の質問に戻るようだ。
「そうそう。昨日の夕方のことだけど、庭の方から物凄く大きな音がしたから、何だろって思って見に行ったら、ぐちゃぐちゃって金属っぽい破片が散らばってて、それがうにうにーって集まってお兄ちゃんになったんだよ?」
「……ごめん、真弥ちゃん。俺にはよく理解できないよ」
むしろ理解してはいけない気がした。
その反応に真弥は困ったように腕を組んだ。
「うーん、でも、それ以外に説明できないよ。とにかく、血みたいのも飛び散ってて、それが結構酷い光景で、お姉ちゃんも気を失っちゃって大変だったんだから」
そんな真弥の言葉が何となく意外に思え、穹路は螺希を見た。
第一印象では、彼女はそんな状況を前にしても冷静に対処しそうな感じがする。
当然ながら、たった数分の僅かな応対でのイメージなど信用性の欠片もないが。
螺希は穹路の視線から逃れるように顔を背けていたが、微かに頬が赤くなっていた。しかし、その変化は実に僅かなものだった。
「とにかくこれは現実のこと。本当は病院にでも押しつけたいところだけれど、何か訳ありのような気がしたから」
羞恥が微妙に混ざった声で、螺希は一気に早口で言った。
「それで結局お兄ちゃんはどうして落ちてきたの?」
もはや二人の間では、穹路が空から落下してきたことは揺るぎない事実として処理されているようだった。
穹路としては当の本人であるため、とても信じられる話ではなかったが、女の子二人がかりで騙される謂れもない……はずだ。
そこで穹路は一先ず現状を知ることを優先させて、それが事実だと前提して話を進めることにした。
「分からない。それは、記憶にない」
「お兄ちゃん、もしかして記憶喪失?」
にこやかだった真弥の表情が一転して心配そうなものになる。
螺希もまた微かな表情の変化ではあるが、困惑しているように見えた。
「それも……よく分からない」
人間とは忘れる動物。人は何かしらの記憶を常に喪失し続けている。そして、完全に失われた記憶を失ったと認識できる者などいない。ならば、自分ではそう思っていないだけで何かを忘却している可能性は十分にある訳だ。
そんな屁理屈はともかく、丁度自分自身の記憶の不整合さに戸惑っていたところだ。部分的な記憶喪失については自信を持って否定できない。
「どういうことなの?」
真弥が可愛らしく小首を傾げると、肩にかかるお下げ髪が小さく揺れた。
「とりあえず笑わないで聞いて欲しいんだけど――」
穹路が躊躇いがちに言いながら二人に視線を向けると、真弥は了解の意を示すように頷いて、螺希は真っ直ぐな瞳で続きを促した。
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