2 / 35
一 明日の先の世界
目覚めと邂逅
しおりを挟む
長い、本当に長い間、夢を見ていたような気がした。
しかし、夢に時間という概念はないに等しい。だから、それが現実でどれ程の時間だったかなど、夢を見ていた本人である穹路には知る術がなかった。
「明けない夜はない、か」
寝起きの思考に真っ先に浮かんだのはその言葉で、穹路は無意識にそう呟いていた。しかし、夜という語の意味するところを思い出し、すぐに自嘲する。
夜とは明けることを前提とした言葉だ。
明けない夜などそもそも夜ではなく、それは単なる闇に過ぎない。
未だ靄のかかった脳裏でそんな益体もないことを考えながら起き上がり、何の気なしに目の前の光景に意識を向ける。
その瞬間、驚愕と共に意識が完全に覚醒し、寝ぼけた考えは消え去った。
「ここ、どこだ?」
記憶にない、見知らぬ部屋。
そこは六畳半程度の畳張りの部屋だった。
家具類がないためか少々寂しさを感じさせる。
その中央には布団が敷かれており、穹路は今その上で体を起こして座っていた。
夢で聞いた全く覚えのない声に続いてのこの光景に、一瞬まだ眠っているのではないかと自問する。しかし、それは決して夢などではなく、現実だった。
まず、かなり好意的に状況を確認して、その部屋自体に不審なところはなさそうだ。懐かしさを感じさせるこの雰囲気はむしろ心地よいぐらいだろう。
そのような評価は今、余り意味のないことだが。
「いや、それより――」
正直そんな周囲の状況よりも、穹路は自分自身の体に違和感を抱いていた。それこそが自分の記憶と現状の整合性が取れない最たるものだった。
一先ず記憶を一つずつ整理してみる。
穹路が今思い出せる限りで最も新しく確実だと思える光景は、病院のベッドに横たわって見た天井だった。
しかし、確実と言いながら、比較的という言葉を頭につけなければならない。
と言うのも、かなりの時間を虚ろな意識の中で過ごしていたため、はっきり最後の記憶と断言できるかと問われれば少々怪しいのだ。
ともかく、それは西暦二〇十九年の冬のことだった、はずだ。
後から考えれば様々な兆候はあったのかもしれないが、ある日急激に体調が悪化し、病院で診察を受けることになった。そこで穹路は自分が不治の病に侵されていることを知らされ、以来長い間をベッドの上で過ごしてきたのだ。
つまり穹路の記憶では、主観的に言って昨日まで確かに病院に入院しており、最終的に体は不調などというレベルを軽く通り越し、死に近い状態にあったのだ。
にもかかわらず、体は異常とも思える程に快調。
それは本来なら喜ぶべきことなのだろうが、今は戸惑うことしかできなかった。
まるで別の体に精神だけを移植されたような気分だ。
そんな状況で見覚えのない部屋に独りでいることに、次第に不安を覚え始める。
その心細さを誤魔化すように穹路が周囲を見回していると、和室の襖が静かに少しだけ開いた。続いて、その隙間から女の子の可愛らしい顔がゆっくりと現れ、丁度襖の動きに視線を向けていた穹路とばっちり目が合った。
「あ……えと、お兄ちゃん、目が覚めたんだ」
女の子は少し決まりが悪そうに苦笑いをしながら、しかし、どこか安堵したようにそう言うと襖を完全に開け放った。
「ちょっとだけ、待っててね」
そして、不安な気持ちを全て吹き飛ばしてくれるような朗らかな笑顔を穹路に向けてから、彼女は踵を返した。
「お姉ちゃーん! お兄ちゃんが起きたよーっ!」
そんな大きな声と共に、廊下を駆ける彼女の軽い足音が遠ざかってゆく。
穹路はその様子をただ呆然と眺めていることしかできなかった。
一体、今の女の子は誰なのか。
不思議な夢、見知らぬ部屋、自分自身の健康状態。それに加えて、また新たな疑問が積み重なる。
とは言え、今は女の子の言う通りにここで待つ以外に選択肢はない。
それからほぼ間を置かず、今度は二人分の落ち着いた足音が微かに聞こえてくる。
「お兄ちゃん、入るね」
まず先程の女の子が無邪気な笑みを浮かべながら、続いて端整な顔立ちの、しかし、かなり冷たい印象を受ける無表情の少女が部屋に入ってくる。
雰囲気から、女の子の方が年下なのは間違いない。
背丈は少女の方がほんの少し大きい程度でほとんど同じくらい。
少女は年齢に比べて小さく、女の子は同い年の子の中では大きい方だろう。
女の子は、赤と黒を基調としたチェックのブラウスに七分丈のジーンズという出で立ちで、その明るい笑顔と相まって非常に快活な印象を受ける。肩にかかるぐらいの、ほんの少し茶色がかったお下げ髪も年相応に可愛らしい。しかし、胸元に光る黒い真珠のような石がついたネックレスは大人っぽく感じられる。
対して、新たに現れた少女は白いタートルネックに、プリーツのついた灰色の短いフレアスカート、そして黒いオーバーニーソックス。黒い髪はセミショート。全体的にスレンダーで確実に美人に分類されるレベルだろうが、それだけに警戒心を表に出した表情は勿体ない。
そんな少女もまた女の子とお揃いのネックレスをしていた。
二人の服装から判断する限り、現在の時節は春か秋のどちらかのようで、この推測もまた穹路の最後の記憶と大きく異なっていた。
そのことに戸惑いを強める穹路を余所に、女の子はニコニコとした表情のまま体育座りを少し崩して座り、少女の方はスカートを気にしながら布団の脇に正座した。
「とりあえず気がついてよかったね。お兄ちゃん」
女の子は嬉しそうに言ってくれるが、穹路は現状を何一つ理解できておらず、さらには少女からは何故か睨みつけられ、どう反応したものか困ってしまった。
「えっと、その――」
「貴方は何者なの?」
丁度何がどうなっているのか尋ねようとしたところを、突き放すような少女の問いに遮られる。静かな、しかし、だからこそ逆に威圧感のある声だった。
「ま、まあまあ、お姉ちゃん。まず自己紹介しようよ。人に名前を尋ねる時は、自分から名乗れ、って言うでしょ?」
厳しい視線を尚も穹路に向け続けている少女を宥めるように言ってから、女の子は穹路に笑顔を向け直した。
「わたしは真弥。望月真弥だよ。それで、お姉ちゃんは――」
横目でちらっと険しい表情のままでいる姉を見た真弥は、呆れたように小さく溜息をつきながら続けた。
「螺希って言うの。よろしくね。お兄ちゃん」
「あ、ああ、うん、よろしく。俺の名前は……穹路。蒼穹の穹に家路の路で穹路」
それは夢の中の彼女、ウーシアに貰ったと思われる名前だったが、何故だか本名ではなくそれを名乗るべきだと穹路は強く感じていた。
自分の本名は心の中に留めておけばいい。それはもう他者に対しては何の意味も持たないものでしかないから。そんな不可思議な直感が共にあって。
加えて、ウーシアの望み、自分を覚えていて欲しいという願望が、余りにも悲しく切ない思いに感じられたことも大きな理由の一つだった。
この名前を使うことでそれが果たされるのなら、きっとそうするべきなのだろう。
「それで、お兄ちゃんは何で空から落ちてきたの?」
「……はい? そ、空?」
真剣な表情の真弥に冗談のようなことを尋ねられ、一瞬思考が停止する。
「えーっと、真弥、ちゃん? ちょっと意味がよく分からないんだけど」
「そのままの意味。貴方は空から降ってきたの。私達の家の庭に」
穹路の言葉に困惑して助けを求めるように姉の顔を見た真弥に代わって、螺希がほとんど抑揚のない口調で告げる。
「いや、あの、螺希……さん。さすがにそれは嘘じゃ――」
「ない。庭を見れば分かる。その跡が残ってるから。それと私のことは別に呼び捨てで構わない。私も呼び捨てにさせて貰うから」
「あ、ああ、そう」
螺希の淡々と事実を述べるような口調に、一瞬信じてしまいそうになる。
「って、いやいや、おかしいだろ。それなら何で俺は無事なんだ?」
空から降ってきた、と態々表現するような高さなら、普通人間は命を落とすような高さを意味しているはずだ。少なくとも怪我の一つもない、どころか逆に体調がよくなっているこの状況では信じろと言う方が無茶だ。
「それに、この服も……」
穹路は今、入院時に来ていたような患者衣を身にまとっていた。それも新品同様で、破れたような形跡は一切ない。
「だから、何者? と聞いてるの」
それで最初の質問に戻るようだ。
「そうそう。昨日の夕方のことだけど、庭の方から物凄く大きな音がしたから、何だろって思って見に行ったら、ぐちゃぐちゃって金属っぽい破片が散らばってて、それがうにうにーって集まってお兄ちゃんになったんだよ?」
「……ごめん、真弥ちゃん。俺にはよく理解できないよ」
むしろ理解してはいけない気がした。
その反応に真弥は困ったように腕を組んだ。
「うーん、でも、それ以外に説明できないよ。とにかく、血みたいのも飛び散ってて、それが結構酷い光景で、お姉ちゃんも気を失っちゃって大変だったんだから」
そんな真弥の言葉が何となく意外に思え、穹路は螺希を見た。
第一印象では、彼女はそんな状況を前にしても冷静に対処しそうな感じがする。
当然ながら、たった数分の僅かな応対でのイメージなど信用性の欠片もないが。
螺希は穹路の視線から逃れるように顔を背けていたが、微かに頬が赤くなっていた。しかし、その変化は実に僅かなものだった。
「とにかくこれは現実のこと。本当は病院にでも押しつけたいところだけれど、何か訳ありのような気がしたから」
羞恥が微妙に混ざった声で、螺希は一気に早口で言った。
「それで結局お兄ちゃんはどうして落ちてきたの?」
もはや二人の間では、穹路が空から落下してきたことは揺るぎない事実として処理されているようだった。
穹路としては当の本人であるため、とても信じられる話ではなかったが、女の子二人がかりで騙される謂れもない……はずだ。
そこで穹路は一先ず現状を知ることを優先させて、それが事実だと前提して話を進めることにした。
「分からない。それは、記憶にない」
「お兄ちゃん、もしかして記憶喪失?」
にこやかだった真弥の表情が一転して心配そうなものになる。
螺希もまた微かな表情の変化ではあるが、困惑しているように見えた。
「それも……よく分からない」
人間とは忘れる動物。人は何かしらの記憶を常に喪失し続けている。そして、完全に失われた記憶を失ったと認識できる者などいない。ならば、自分ではそう思っていないだけで何かを忘却している可能性は十分にある訳だ。
そんな屁理屈はともかく、丁度自分自身の記憶の不整合さに戸惑っていたところだ。部分的な記憶喪失については自信を持って否定できない。
「どういうことなの?」
真弥が可愛らしく小首を傾げると、肩にかかるお下げ髪が小さく揺れた。
「とりあえず笑わないで聞いて欲しいんだけど――」
穹路が躊躇いがちに言いながら二人に視線を向けると、真弥は了解の意を示すように頷いて、螺希は真っ直ぐな瞳で続きを促した。
しかし、夢に時間という概念はないに等しい。だから、それが現実でどれ程の時間だったかなど、夢を見ていた本人である穹路には知る術がなかった。
「明けない夜はない、か」
寝起きの思考に真っ先に浮かんだのはその言葉で、穹路は無意識にそう呟いていた。しかし、夜という語の意味するところを思い出し、すぐに自嘲する。
夜とは明けることを前提とした言葉だ。
明けない夜などそもそも夜ではなく、それは単なる闇に過ぎない。
未だ靄のかかった脳裏でそんな益体もないことを考えながら起き上がり、何の気なしに目の前の光景に意識を向ける。
その瞬間、驚愕と共に意識が完全に覚醒し、寝ぼけた考えは消え去った。
「ここ、どこだ?」
記憶にない、見知らぬ部屋。
そこは六畳半程度の畳張りの部屋だった。
家具類がないためか少々寂しさを感じさせる。
その中央には布団が敷かれており、穹路は今その上で体を起こして座っていた。
夢で聞いた全く覚えのない声に続いてのこの光景に、一瞬まだ眠っているのではないかと自問する。しかし、それは決して夢などではなく、現実だった。
まず、かなり好意的に状況を確認して、その部屋自体に不審なところはなさそうだ。懐かしさを感じさせるこの雰囲気はむしろ心地よいぐらいだろう。
そのような評価は今、余り意味のないことだが。
「いや、それより――」
正直そんな周囲の状況よりも、穹路は自分自身の体に違和感を抱いていた。それこそが自分の記憶と現状の整合性が取れない最たるものだった。
一先ず記憶を一つずつ整理してみる。
穹路が今思い出せる限りで最も新しく確実だと思える光景は、病院のベッドに横たわって見た天井だった。
しかし、確実と言いながら、比較的という言葉を頭につけなければならない。
と言うのも、かなりの時間を虚ろな意識の中で過ごしていたため、はっきり最後の記憶と断言できるかと問われれば少々怪しいのだ。
ともかく、それは西暦二〇十九年の冬のことだった、はずだ。
後から考えれば様々な兆候はあったのかもしれないが、ある日急激に体調が悪化し、病院で診察を受けることになった。そこで穹路は自分が不治の病に侵されていることを知らされ、以来長い間をベッドの上で過ごしてきたのだ。
つまり穹路の記憶では、主観的に言って昨日まで確かに病院に入院しており、最終的に体は不調などというレベルを軽く通り越し、死に近い状態にあったのだ。
にもかかわらず、体は異常とも思える程に快調。
それは本来なら喜ぶべきことなのだろうが、今は戸惑うことしかできなかった。
まるで別の体に精神だけを移植されたような気分だ。
そんな状況で見覚えのない部屋に独りでいることに、次第に不安を覚え始める。
その心細さを誤魔化すように穹路が周囲を見回していると、和室の襖が静かに少しだけ開いた。続いて、その隙間から女の子の可愛らしい顔がゆっくりと現れ、丁度襖の動きに視線を向けていた穹路とばっちり目が合った。
「あ……えと、お兄ちゃん、目が覚めたんだ」
女の子は少し決まりが悪そうに苦笑いをしながら、しかし、どこか安堵したようにそう言うと襖を完全に開け放った。
「ちょっとだけ、待っててね」
そして、不安な気持ちを全て吹き飛ばしてくれるような朗らかな笑顔を穹路に向けてから、彼女は踵を返した。
「お姉ちゃーん! お兄ちゃんが起きたよーっ!」
そんな大きな声と共に、廊下を駆ける彼女の軽い足音が遠ざかってゆく。
穹路はその様子をただ呆然と眺めていることしかできなかった。
一体、今の女の子は誰なのか。
不思議な夢、見知らぬ部屋、自分自身の健康状態。それに加えて、また新たな疑問が積み重なる。
とは言え、今は女の子の言う通りにここで待つ以外に選択肢はない。
それからほぼ間を置かず、今度は二人分の落ち着いた足音が微かに聞こえてくる。
「お兄ちゃん、入るね」
まず先程の女の子が無邪気な笑みを浮かべながら、続いて端整な顔立ちの、しかし、かなり冷たい印象を受ける無表情の少女が部屋に入ってくる。
雰囲気から、女の子の方が年下なのは間違いない。
背丈は少女の方がほんの少し大きい程度でほとんど同じくらい。
少女は年齢に比べて小さく、女の子は同い年の子の中では大きい方だろう。
女の子は、赤と黒を基調としたチェックのブラウスに七分丈のジーンズという出で立ちで、その明るい笑顔と相まって非常に快活な印象を受ける。肩にかかるぐらいの、ほんの少し茶色がかったお下げ髪も年相応に可愛らしい。しかし、胸元に光る黒い真珠のような石がついたネックレスは大人っぽく感じられる。
対して、新たに現れた少女は白いタートルネックに、プリーツのついた灰色の短いフレアスカート、そして黒いオーバーニーソックス。黒い髪はセミショート。全体的にスレンダーで確実に美人に分類されるレベルだろうが、それだけに警戒心を表に出した表情は勿体ない。
そんな少女もまた女の子とお揃いのネックレスをしていた。
二人の服装から判断する限り、現在の時節は春か秋のどちらかのようで、この推測もまた穹路の最後の記憶と大きく異なっていた。
そのことに戸惑いを強める穹路を余所に、女の子はニコニコとした表情のまま体育座りを少し崩して座り、少女の方はスカートを気にしながら布団の脇に正座した。
「とりあえず気がついてよかったね。お兄ちゃん」
女の子は嬉しそうに言ってくれるが、穹路は現状を何一つ理解できておらず、さらには少女からは何故か睨みつけられ、どう反応したものか困ってしまった。
「えっと、その――」
「貴方は何者なの?」
丁度何がどうなっているのか尋ねようとしたところを、突き放すような少女の問いに遮られる。静かな、しかし、だからこそ逆に威圧感のある声だった。
「ま、まあまあ、お姉ちゃん。まず自己紹介しようよ。人に名前を尋ねる時は、自分から名乗れ、って言うでしょ?」
厳しい視線を尚も穹路に向け続けている少女を宥めるように言ってから、女の子は穹路に笑顔を向け直した。
「わたしは真弥。望月真弥だよ。それで、お姉ちゃんは――」
横目でちらっと険しい表情のままでいる姉を見た真弥は、呆れたように小さく溜息をつきながら続けた。
「螺希って言うの。よろしくね。お兄ちゃん」
「あ、ああ、うん、よろしく。俺の名前は……穹路。蒼穹の穹に家路の路で穹路」
それは夢の中の彼女、ウーシアに貰ったと思われる名前だったが、何故だか本名ではなくそれを名乗るべきだと穹路は強く感じていた。
自分の本名は心の中に留めておけばいい。それはもう他者に対しては何の意味も持たないものでしかないから。そんな不可思議な直感が共にあって。
加えて、ウーシアの望み、自分を覚えていて欲しいという願望が、余りにも悲しく切ない思いに感じられたことも大きな理由の一つだった。
この名前を使うことでそれが果たされるのなら、きっとそうするべきなのだろう。
「それで、お兄ちゃんは何で空から落ちてきたの?」
「……はい? そ、空?」
真剣な表情の真弥に冗談のようなことを尋ねられ、一瞬思考が停止する。
「えーっと、真弥、ちゃん? ちょっと意味がよく分からないんだけど」
「そのままの意味。貴方は空から降ってきたの。私達の家の庭に」
穹路の言葉に困惑して助けを求めるように姉の顔を見た真弥に代わって、螺希がほとんど抑揚のない口調で告げる。
「いや、あの、螺希……さん。さすがにそれは嘘じゃ――」
「ない。庭を見れば分かる。その跡が残ってるから。それと私のことは別に呼び捨てで構わない。私も呼び捨てにさせて貰うから」
「あ、ああ、そう」
螺希の淡々と事実を述べるような口調に、一瞬信じてしまいそうになる。
「って、いやいや、おかしいだろ。それなら何で俺は無事なんだ?」
空から降ってきた、と態々表現するような高さなら、普通人間は命を落とすような高さを意味しているはずだ。少なくとも怪我の一つもない、どころか逆に体調がよくなっているこの状況では信じろと言う方が無茶だ。
「それに、この服も……」
穹路は今、入院時に来ていたような患者衣を身にまとっていた。それも新品同様で、破れたような形跡は一切ない。
「だから、何者? と聞いてるの」
それで最初の質問に戻るようだ。
「そうそう。昨日の夕方のことだけど、庭の方から物凄く大きな音がしたから、何だろって思って見に行ったら、ぐちゃぐちゃって金属っぽい破片が散らばってて、それがうにうにーって集まってお兄ちゃんになったんだよ?」
「……ごめん、真弥ちゃん。俺にはよく理解できないよ」
むしろ理解してはいけない気がした。
その反応に真弥は困ったように腕を組んだ。
「うーん、でも、それ以外に説明できないよ。とにかく、血みたいのも飛び散ってて、それが結構酷い光景で、お姉ちゃんも気を失っちゃって大変だったんだから」
そんな真弥の言葉が何となく意外に思え、穹路は螺希を見た。
第一印象では、彼女はそんな状況を前にしても冷静に対処しそうな感じがする。
当然ながら、たった数分の僅かな応対でのイメージなど信用性の欠片もないが。
螺希は穹路の視線から逃れるように顔を背けていたが、微かに頬が赤くなっていた。しかし、その変化は実に僅かなものだった。
「とにかくこれは現実のこと。本当は病院にでも押しつけたいところだけれど、何か訳ありのような気がしたから」
羞恥が微妙に混ざった声で、螺希は一気に早口で言った。
「それで結局お兄ちゃんはどうして落ちてきたの?」
もはや二人の間では、穹路が空から落下してきたことは揺るぎない事実として処理されているようだった。
穹路としては当の本人であるため、とても信じられる話ではなかったが、女の子二人がかりで騙される謂れもない……はずだ。
そこで穹路は一先ず現状を知ることを優先させて、それが事実だと前提して話を進めることにした。
「分からない。それは、記憶にない」
「お兄ちゃん、もしかして記憶喪失?」
にこやかだった真弥の表情が一転して心配そうなものになる。
螺希もまた微かな表情の変化ではあるが、困惑しているように見えた。
「それも……よく分からない」
人間とは忘れる動物。人は何かしらの記憶を常に喪失し続けている。そして、完全に失われた記憶を失ったと認識できる者などいない。ならば、自分ではそう思っていないだけで何かを忘却している可能性は十分にある訳だ。
そんな屁理屈はともかく、丁度自分自身の記憶の不整合さに戸惑っていたところだ。部分的な記憶喪失については自信を持って否定できない。
「どういうことなの?」
真弥が可愛らしく小首を傾げると、肩にかかるお下げ髪が小さく揺れた。
「とりあえず笑わないで聞いて欲しいんだけど――」
穹路が躊躇いがちに言いながら二人に視線を向けると、真弥は了解の意を示すように頷いて、螺希は真っ直ぐな瞳で続きを促した。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活
昼寝部
ファンタジー
この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。
しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。
そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。
しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。
そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。
これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
EX級アーティファクト化した介護用ガイノイドと行く未来異星世界遺跡探索~君と添い遂げるために~
青空顎門
SF
病で余命宣告を受けた主人公。彼は介護用に購入した最愛のガイノイド(女性型アンドロイド)の腕の中で息絶えた……はずだったが、気づくと彼女と共に見知らぬ場所にいた。そこは遥か未来――時空間転移技術が暴走して崩壊した後の時代、宇宙の遥か彼方の辺境惑星だった。男はファンタジーの如く高度な技術の名残が散見される世界で、今度こそ彼女と添い遂げるために未来の超文明の遺跡を巡っていく。
※小説家になろう様、カクヨム様、ノベルアップ+様、ノベルバ様にも掲載しております。
【なろう440万pv!】船が沈没して大海原に取り残されたオッサンと女子高生の漂流サバイバル&スローライフ
海凪ととかる
SF
離島に向かうフェリーでたまたま一緒になった一人旅のオッサン、岳人《がくと》と帰省途中の女子高生、美岬《みさき》。 二人は船を降りればそれっきりになるはずだった。しかし、運命はそれを許さなかった。
衝突事故により沈没するフェリー。乗員乗客が救命ボートで船から逃げ出す中、衝突の衝撃で海に転落した美岬と、そんな美岬を助けようと海に飛び込んでいた岳人は救命ボートに気づいてもらえず、サメの徘徊する大海原に取り残されてしまう。
絶体絶命のピンチ! しかし岳人はアウトドア業界ではサバイバルマスターの通り名で有名なサバイバルの専門家だった。
ありあわせの材料で筏を作り、漂流物で筏を補強し、雨水を集め、太陽熱で真水を蒸留し、プランクトンでビタミンを補給し、捕まえた魚を保存食に加工し……なんとか生き延びようと創意工夫する岳人と美岬。
大海原の筏というある意味密室空間で共に過ごし、語り合い、力を合わせて極限状態に立ち向かううちに二人の間に特別な感情が芽生え始め……。
はたして二人は絶体絶命のピンチを生き延びて社会復帰することができるのか?
小説家になろうSF(パニック)部門にて400万pv達成、日間/週間/月間1位、四半期2位、年間/累計3位の実績あり。
カクヨムのSF部門においても高評価いただき80万pv達成、最高週間2位、月間3位の実績あり。

シーフードミックス
黒はんぺん
SF
ある日あたしはロブスターそっくりの宇宙人と出会いました。出会ったその日にハンバーガーショップで話し込んでしまいました。
以前からあたしに憑依する何者かがいたけれど、それは宇宙人さんとは無関係らしい。でも、その何者かさんはあたしに警告するために、とうとうあたしの内宇宙に乗り込んできたの。
ちょっとびっくりだけど、あたしの内宇宙には天の川銀河やアンドロメダ銀河があります。よかったら見物してってね。
内なる宇宙にもあたしの住むご町内にも、未知の生命体があふれてる。遭遇の日々ですね。
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
忘却の艦隊
KeyBow
SF
新設された超弩級砲艦を旗艦とし新造艦と老朽艦の入れ替え任務に就いていたが、駐留基地に入るには数が多く、月の1つにて物資と人員の入れ替えを行っていた。
大型輸送艦は工作艦を兼ねた。
総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。
残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。
輸送任務の最先任士官は大佐。
新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。
本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。
他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。
公安に近い監査だった。
しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。
そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。
機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。
完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。
意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。
恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。
なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。
しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。
艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。
そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。
果たして彼らは帰還できるのか?
帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる