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一 阿頼耶⑥
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「……分かった。何をすればいいのかは分からないけど、手伝おう」
「ほ、本当ですか?」
半信半疑という感じの阿頼耶に頷いて答える。
「ありがとうございます! ご主人様!」
嬉しさを体全体で表すように阿頼耶は勢いよく抱き着いてきた。
それによって銀色に輝く髪が一瞬舞い上がり、思わずしっかり抱き止めるように腰に回した連示の手にさらさらと流れ落ちた。その感触と色が相まって正に絹のようだ。
彼女は両手を連示の首に回して爪先立ちになっていて、そのため、その可愛らしさと美しさが同居する整った顔が連示の目の前にある形になっていた。
「とても……嬉しいです」
触れ合った部分に感じる人間らしい、いや、女の子らしい柔らかさと、眼前の人間離れした愛らしい顔に心臓が勝手に高鳴ってしまう。そのことが人間以上の聴覚を持つはずの阿頼耶に気取られてしまわないか心配になって、尚のこと鼓動が速くなってしまった。
「そ、それで、俺はどうすればいいんだ? 阿頼耶」
頬擦りでもしてきそうな勢いの阿頼耶を落ち着かせようとしつつそう尋ねると、彼女は一瞬はっとしたように見上げてきて、それから尚嬉しそうに笑った。
「ど、どうしたんだ?」
「ご主人様に私の名前を呼んで頂けたので」
「あ、ああ。……えっと、今更だけど呼び捨てでよかったのか?」
「はい。ご主人様のお好きなように」
それからまた阿頼耶は、連示の胸に顔を埋めるように押しつけてきた。
「ま、まあ、それはともかく話を進めてくれないか?」
正直に言えば、もう少しの間だけ阿頼耶の温かで柔らかな感触を堪能していたい気持ちも心の片隅にはあったが、連示は彼女の肩に手を置いて体を離した。
さすがに、これ以上の羞恥は体に悪い気がする。
「あ、は、はい。すみません。つい興奮しちゃって」
阿頼耶は気恥ずかしそうに頬を赤らめながら一歩後ろに下がり、それから表情を真面目なものに戻した。そして、彼女は自分が入っていた箱の中を再び探り始め、服が入っていたものとは別の箱を取り出した。
「それは?」
「ええとですね。これはマイクロマシンを血管に注入するための装置です。これには私に対応したマイクロマシンが入っています」
「もしかして、アミクスが人格や記憶を共有するために使うあれか?」
「はい。目的は少し違いますけど同様のものです。血管を通って全身を隅々まで巡り、神経の電気信号を観測、時に干渉する機能があります」
阿頼耶はその箱を開けて、その中からかなり昔のしっかりした血圧計のような腕を入れる穴がある装置を取り出した。
「……こんな形をしているけど、つまるところ、これは注射器か?」
「はい。そのようなものです。その、私達は直接的に注射することができませんから、このように自動的、間接的な形を取るしかないんです。それで……少し痛いかと思いますけど、まずは左腕を入れて頂けますか? ご主人様」
「ああ、分かった」
連示は頷いて、装置に表示された指示通りに掌を上に向けてその穴に左手を入れた。
すると、すぐさま左手が動かないように固定されたため、次に来るだろう痛みを予想して少し緊張してしまう。
注射は大分久しぶりのことで拒否感があったが、これも停滞からの脱却のためだと連示は自分に言い聞かせた。
「少し力を抜いて下さいね」
阿頼耶は連示が思わず握り締めていた右手をゆっくりと開いて、両手で優しく包み込みながら、そう言って微笑みかけてきた。
そんな彼女へと視線を向けて体の力を少し抜いた瞬間、正に針が刺さったような痛みを腕に感じ、連示は顔をしかめた。
「大丈夫ですよ」
左腕の僅かな痛みに耐えながら、しかし、連示の意識は右手の温かさの方にあった。
そこには普通のアミクスに感じるような冷たさは一切なく、生身の人間と何ら変わらない確かな温もりがある。
「はい。終わりました」
阿頼耶の言葉と同時に左手の拘束が解かれたので、連示は腕を装置からゆっくりと引き抜いた。と、針が刺さったと思わしきところにガーゼが医療用テープで留められていた。
「……それで、これと手伝いに何の関わりがあるんだ? 阿頼耶と人格の共有なんてできないだろうし、記憶を共有しても仕方がないだろ?」
「それはですね――」
その質問を待っていた、という感じで阿頼耶は得意気な顔をした。
「ご主人様に私の体を使ってファントムと戦って頂くためなんです。先に述べた通り、私達の人格では規制がかかり、アミクスを直接破壊することはできませんから」
「その体を使って? 一体どうやって?」
昔のゲームのようにコントローラーで操れ、とでも言うのか。そう思って訝るような視線を送ると、阿頼耶は尚のこと得意そうに薄い胸を張った。
「疑似的に人格を交換して、です。マイクロマシンによって脳に出入りする電気信号を入れ替えることで、あたかも私とご主人様の人格が入れ替わったかのような状態にすることができます」
「そ、そんなことができるのか?」
「はい。とりあえず……そろそろ準備ができたと思うので、試してみましょう。マイクロマシンの状態も確認しておきたいですし。まずはこれでどうですか?」
阿頼耶がそう言った瞬間、連示の視界の中に突然連示自身の姿が現れた。
周囲の風景も部屋を別の角度、しかも低い位置から見たものに変わっている。
それに驚いて身じろぎすると、その目の前に現れた連示の姿もまた驚愕の表情を浮かべて僅かに身動きした。
「視覚のみ、私の体と接続しました。しかし、それ以外はそのままです」
試しに右の掌を見るように視線を下げ、手を目の前に動かそうとする。しかし、想定したように自分の手が見えることはなく、それどころか視界は全く動かなかった。
ただ、目の前にいる自分がその掌を見詰めている姿が、連示の目には映っていた。
「元に戻しますね」
阿頼耶の声が合図となったように、連示の視界には自分の右手が現れ、同時に周囲の風景も元の状態へと戻っていた。不思議に思いながら右手を開いたり閉じたりすると、当然目の前にある手がそのように動く。
「す、凄いな」
「褒めて下さって、とても嬉しいです」
阿頼耶は誇らしそうに、どこか照れたように両手を合わせながら笑った。
「ちゃんと機能しているようですし、次は完全に人格を交換してみますね?」
「え? あ、ちょっと――」
まだ心の準備ができていなかったため、待ってくれ、と連示は続けようとした。
「待って……え?」
しかし、その言葉は連示の声ではなく、阿頼耶の声で連示の耳に届いた。
視界はまた移り変わり、先程と同様に連示の目の前には自分自身の姿があった。
その顔には、明らかに自分のものとは思えないような余りにも純粋過ぎる笑顔が浮かんでいて、連示は酷く気味が悪く感じた。
心を落ち着かせるように軽く首を振ってから、連示は恐る恐る再び自分の右手を見るように視線を下げて、手を目の前まで移動させた。
すると、今度は正に自分自身の手として意識できる形で掌が現れる。だが、それは小さく可愛らしい手で、何より肌が透き通るように白かった。
それから自分の体を見るように顔を下に向けると、メイド服の一部である非常に短いスカートが視界の中に入ってきた。
「う、うわっ」
驚いて口走った言葉もまた阿頼耶の声。
連示は戸惑いながら、確かめるように今自分のものとして感じられている体に触れた。
「わ、わわ、ご主人様。それ以上は――」
軽い混乱を覚えながら、スカートの裾を摘んで持ち上げようとすると、連示の声が阿頼耶の慌てた口調で発せられた。
「な、何だか、恥ずかしいですよぅ」
「ちょ、俺の声でそんな話し方をするな! 気持ちが悪いわ!」
つい阿頼耶の声でそう叫ぶと、目の前の自分がしゅんとなってしまった。
その様子がまた余りにも気持ち悪くて、連示は思わず自分自身を睨みつけてしまった。
「す、すみません。ちょっと待って下さい」
そんな反省の言葉の直後、目の前の連示は無表情になって直立し、完全に口を噤んだ。
『これでどうですか?』
それからすぐに脳裏に阿頼耶そのものの声色でそんな言葉が響いた。
「何だ。そうやって話せるなら、最初からそうすればよかったじゃないか」
『ちょっとした冗談のつもりだったんです。許して下さい』
「いや、まあ、そこまで恐縮しなくてもいいんだけどさ」
連示は人形のように佇む自分自身の体を無視して、少しばかり低くなった目線で周囲を一通り眺めてから、鏡を求めて洗面所へと歩き出した。
「これもマイクロマシンを利用した能力なのか?」
『はい。聴覚に干渉して疑似的に念話をしているような状態にあります。ご主人様も私に伝えたい言葉を思い浮かべて話そうとすれば伝わりますよ。まあ、内部の処理的には筆談に音声をつけているようなものですけど』
「えっと」『……伝わっているか?』
連示は阿頼耶に言われた通り、脳裏で文字を思い浮かべつつ、それが彼女に届くよう念じた。瞬間、タイムラグなしに頭の中に自分自身の声が響く。それは実際に外界に音が出ていないだけで、ほとんど普通に喋っているのと感覚に違いはなかった。
『はい。ばっちりです!』
『……そうか』
元気よく答える阿頼耶に小さく笑いながら、連示は洗面台の鏡の前に立った。
そこに映し出されていたのは当然のように阿頼耶の姿だった。
軽く微笑んでいる表情は、先程までの阿頼耶とは印象が少し違うが、それでもやはり元がいいためか、非常に可愛らしい。
阿頼耶の笑顔を純粋培養の無垢な少女の笑顔とするなら、これは身近に感じるような普通の女の子の笑顔、という感じか。
そう思ってから連示はふと冷静になり、今の自分の状況が女装して自画自賛している男の図のように感じて無性に恥ずかしくなってしまった。
そのせいで鏡の中の阿頼耶が頬を桜色に染めていて、それがまた異様に可愛らしくて羞恥が連鎖的に増してしまう。
だから、その感情を抑え込もうと表情を無理矢理不機嫌な色で塗り潰す。と、鏡に映る阿頼耶は少し怒ったような顔になった。
それでようやく落ち着いて自分の状態を確認していると、一ヶ所だけ人格交換を行う前と異なっている部分があることに気づく。
「ん? 目が何だか、赤くなっているけど――」
綺麗な緑色だった瞳が、鮮血のように鮮やかな赤色に変わっていた。
「まさか、故障か!? レッドリングか!?」
『いえいえ、そんな大昔のゲーム機じゃないんですから。これは人格を交換している証ですよ。人格を元に戻せば、緑色に戻ります』
「そ、そうか」
あるいは、相対するアミクスへのある種の警告のようなものだろうか。
「……しかし、本当に人格が交換されているんだな」
『あくまでも疑似的に、ですけどね』
そんな阿頼耶の悪戯っぽい声が頭の中に響いたのとほぼ同時に、視界の中に警告音と共にパソコンのウインドウのようなものが開いた。
そこには地図が描かれ、その中にPというマークが表示されている。
「阿頼耶、これは何だ?」
『え? あ……間が、悪いですね。これは幻影人格の発生通知です。私達は電子の海の揺らぎから、担当範囲内に発生したそれを感知できるようになっているので。えっと、この表示の場合はファントム、ですね』
「お、おい、行かなくていいのか?」
当惑したように呟く阿頼耶に連示は強く尋ねた。
『詳細な機能説明がまだですし、何よりご主人様がその体にまだ慣れていないでしょうから。それに、この規模なら特別処理班に任せても大丈夫かとは思います。けど……』
連示に対する気遣いを見せながら、しかし、行かなければならない、という強い使命感が彼女の口調からは滲み出ていた。
「俺に気を使わなくていい。それが阿頼耶のなすべきことなんだろ?」
『……はい。ありがとうございます、ご主人様。では、お願いします』
「ああ」
連示は阿頼耶の声に頷いてそのまま玄関に向かおうとしたが、そこには自分の靴しかないことに気づいて立ち止まった。
もし戦闘を行うのなら、サイズが合わない靴を履くのは不利だ。
「阿頼耶、靴は――」
『箱の中のものを使って下さい。素材が特別で非常に丈夫ですから。この体の挙動にも耐え得るぐらいに』
連示の靴を使用できない別の理由に、それもあったか、と納得しつつ、彼女に言われた通りに箱の中を探ると靴という文字が大きく書かれた箱が二つ出てきた。一方には清楚な印象を受ける革靴が、他方には鮮やかな色で彩られたスニーカーが入っていた。
即座に動き易そうなスニーカーを選び、それを玄関口で履く。
そのまま部屋を出たところで連示は不安を一つ感じ、そのドアの前で再度立ち止まった。
『どうしました?』
「この体、この格好で動き回って大丈夫か? どう考えても目立つぞ?」
『それは大丈夫です。アミクスにはネットワークを介して干渉し、私が見えていても記憶には残らないようにしていますから。それに人間はこの時間、複合娯楽施設にいるか、家にこもっているかの二つに一つですからね』
確かにこの住宅街は朝と夜以外は生身の人間の姿はまばら、どころか見当たらない。
一般大衆にとって、この時代の家はほとんど寝に帰ってくるだけの場所なのだから。
昼の間でも見かけるアミクスは、コミュニケーションモードに入っていなければ酷く虚ろな様子で幽霊のように見える。二重の意味でゴーストタウンだと言えるだろう。
『それに監視カメラにはダミーの映像を流していますから、特別処理班の実働部隊にだけ注意すれば大丈夫です』
「そうか。分かった。……アミクスの問題をひた隠しにしているような組織は信用できないからな。俺達がやろう」
『はい!』
「よし、じゃあ、行くか」
そうして連示は変化の扉を開くために一つ深く息を吐いて気合いを入れ、視界に表示される位置へ向けて駆け出した。
「ほ、本当ですか?」
半信半疑という感じの阿頼耶に頷いて答える。
「ありがとうございます! ご主人様!」
嬉しさを体全体で表すように阿頼耶は勢いよく抱き着いてきた。
それによって銀色に輝く髪が一瞬舞い上がり、思わずしっかり抱き止めるように腰に回した連示の手にさらさらと流れ落ちた。その感触と色が相まって正に絹のようだ。
彼女は両手を連示の首に回して爪先立ちになっていて、そのため、その可愛らしさと美しさが同居する整った顔が連示の目の前にある形になっていた。
「とても……嬉しいです」
触れ合った部分に感じる人間らしい、いや、女の子らしい柔らかさと、眼前の人間離れした愛らしい顔に心臓が勝手に高鳴ってしまう。そのことが人間以上の聴覚を持つはずの阿頼耶に気取られてしまわないか心配になって、尚のこと鼓動が速くなってしまった。
「そ、それで、俺はどうすればいいんだ? 阿頼耶」
頬擦りでもしてきそうな勢いの阿頼耶を落ち着かせようとしつつそう尋ねると、彼女は一瞬はっとしたように見上げてきて、それから尚嬉しそうに笑った。
「ど、どうしたんだ?」
「ご主人様に私の名前を呼んで頂けたので」
「あ、ああ。……えっと、今更だけど呼び捨てでよかったのか?」
「はい。ご主人様のお好きなように」
それからまた阿頼耶は、連示の胸に顔を埋めるように押しつけてきた。
「ま、まあ、それはともかく話を進めてくれないか?」
正直に言えば、もう少しの間だけ阿頼耶の温かで柔らかな感触を堪能していたい気持ちも心の片隅にはあったが、連示は彼女の肩に手を置いて体を離した。
さすがに、これ以上の羞恥は体に悪い気がする。
「あ、は、はい。すみません。つい興奮しちゃって」
阿頼耶は気恥ずかしそうに頬を赤らめながら一歩後ろに下がり、それから表情を真面目なものに戻した。そして、彼女は自分が入っていた箱の中を再び探り始め、服が入っていたものとは別の箱を取り出した。
「それは?」
「ええとですね。これはマイクロマシンを血管に注入するための装置です。これには私に対応したマイクロマシンが入っています」
「もしかして、アミクスが人格や記憶を共有するために使うあれか?」
「はい。目的は少し違いますけど同様のものです。血管を通って全身を隅々まで巡り、神経の電気信号を観測、時に干渉する機能があります」
阿頼耶はその箱を開けて、その中からかなり昔のしっかりした血圧計のような腕を入れる穴がある装置を取り出した。
「……こんな形をしているけど、つまるところ、これは注射器か?」
「はい。そのようなものです。その、私達は直接的に注射することができませんから、このように自動的、間接的な形を取るしかないんです。それで……少し痛いかと思いますけど、まずは左腕を入れて頂けますか? ご主人様」
「ああ、分かった」
連示は頷いて、装置に表示された指示通りに掌を上に向けてその穴に左手を入れた。
すると、すぐさま左手が動かないように固定されたため、次に来るだろう痛みを予想して少し緊張してしまう。
注射は大分久しぶりのことで拒否感があったが、これも停滞からの脱却のためだと連示は自分に言い聞かせた。
「少し力を抜いて下さいね」
阿頼耶は連示が思わず握り締めていた右手をゆっくりと開いて、両手で優しく包み込みながら、そう言って微笑みかけてきた。
そんな彼女へと視線を向けて体の力を少し抜いた瞬間、正に針が刺さったような痛みを腕に感じ、連示は顔をしかめた。
「大丈夫ですよ」
左腕の僅かな痛みに耐えながら、しかし、連示の意識は右手の温かさの方にあった。
そこには普通のアミクスに感じるような冷たさは一切なく、生身の人間と何ら変わらない確かな温もりがある。
「はい。終わりました」
阿頼耶の言葉と同時に左手の拘束が解かれたので、連示は腕を装置からゆっくりと引き抜いた。と、針が刺さったと思わしきところにガーゼが医療用テープで留められていた。
「……それで、これと手伝いに何の関わりがあるんだ? 阿頼耶と人格の共有なんてできないだろうし、記憶を共有しても仕方がないだろ?」
「それはですね――」
その質問を待っていた、という感じで阿頼耶は得意気な顔をした。
「ご主人様に私の体を使ってファントムと戦って頂くためなんです。先に述べた通り、私達の人格では規制がかかり、アミクスを直接破壊することはできませんから」
「その体を使って? 一体どうやって?」
昔のゲームのようにコントローラーで操れ、とでも言うのか。そう思って訝るような視線を送ると、阿頼耶は尚のこと得意そうに薄い胸を張った。
「疑似的に人格を交換して、です。マイクロマシンによって脳に出入りする電気信号を入れ替えることで、あたかも私とご主人様の人格が入れ替わったかのような状態にすることができます」
「そ、そんなことができるのか?」
「はい。とりあえず……そろそろ準備ができたと思うので、試してみましょう。マイクロマシンの状態も確認しておきたいですし。まずはこれでどうですか?」
阿頼耶がそう言った瞬間、連示の視界の中に突然連示自身の姿が現れた。
周囲の風景も部屋を別の角度、しかも低い位置から見たものに変わっている。
それに驚いて身じろぎすると、その目の前に現れた連示の姿もまた驚愕の表情を浮かべて僅かに身動きした。
「視覚のみ、私の体と接続しました。しかし、それ以外はそのままです」
試しに右の掌を見るように視線を下げ、手を目の前に動かそうとする。しかし、想定したように自分の手が見えることはなく、それどころか視界は全く動かなかった。
ただ、目の前にいる自分がその掌を見詰めている姿が、連示の目には映っていた。
「元に戻しますね」
阿頼耶の声が合図となったように、連示の視界には自分の右手が現れ、同時に周囲の風景も元の状態へと戻っていた。不思議に思いながら右手を開いたり閉じたりすると、当然目の前にある手がそのように動く。
「す、凄いな」
「褒めて下さって、とても嬉しいです」
阿頼耶は誇らしそうに、どこか照れたように両手を合わせながら笑った。
「ちゃんと機能しているようですし、次は完全に人格を交換してみますね?」
「え? あ、ちょっと――」
まだ心の準備ができていなかったため、待ってくれ、と連示は続けようとした。
「待って……え?」
しかし、その言葉は連示の声ではなく、阿頼耶の声で連示の耳に届いた。
視界はまた移り変わり、先程と同様に連示の目の前には自分自身の姿があった。
その顔には、明らかに自分のものとは思えないような余りにも純粋過ぎる笑顔が浮かんでいて、連示は酷く気味が悪く感じた。
心を落ち着かせるように軽く首を振ってから、連示は恐る恐る再び自分の右手を見るように視線を下げて、手を目の前まで移動させた。
すると、今度は正に自分自身の手として意識できる形で掌が現れる。だが、それは小さく可愛らしい手で、何より肌が透き通るように白かった。
それから自分の体を見るように顔を下に向けると、メイド服の一部である非常に短いスカートが視界の中に入ってきた。
「う、うわっ」
驚いて口走った言葉もまた阿頼耶の声。
連示は戸惑いながら、確かめるように今自分のものとして感じられている体に触れた。
「わ、わわ、ご主人様。それ以上は――」
軽い混乱を覚えながら、スカートの裾を摘んで持ち上げようとすると、連示の声が阿頼耶の慌てた口調で発せられた。
「な、何だか、恥ずかしいですよぅ」
「ちょ、俺の声でそんな話し方をするな! 気持ちが悪いわ!」
つい阿頼耶の声でそう叫ぶと、目の前の自分がしゅんとなってしまった。
その様子がまた余りにも気持ち悪くて、連示は思わず自分自身を睨みつけてしまった。
「す、すみません。ちょっと待って下さい」
そんな反省の言葉の直後、目の前の連示は無表情になって直立し、完全に口を噤んだ。
『これでどうですか?』
それからすぐに脳裏に阿頼耶そのものの声色でそんな言葉が響いた。
「何だ。そうやって話せるなら、最初からそうすればよかったじゃないか」
『ちょっとした冗談のつもりだったんです。許して下さい』
「いや、まあ、そこまで恐縮しなくてもいいんだけどさ」
連示は人形のように佇む自分自身の体を無視して、少しばかり低くなった目線で周囲を一通り眺めてから、鏡を求めて洗面所へと歩き出した。
「これもマイクロマシンを利用した能力なのか?」
『はい。聴覚に干渉して疑似的に念話をしているような状態にあります。ご主人様も私に伝えたい言葉を思い浮かべて話そうとすれば伝わりますよ。まあ、内部の処理的には筆談に音声をつけているようなものですけど』
「えっと」『……伝わっているか?』
連示は阿頼耶に言われた通り、脳裏で文字を思い浮かべつつ、それが彼女に届くよう念じた。瞬間、タイムラグなしに頭の中に自分自身の声が響く。それは実際に外界に音が出ていないだけで、ほとんど普通に喋っているのと感覚に違いはなかった。
『はい。ばっちりです!』
『……そうか』
元気よく答える阿頼耶に小さく笑いながら、連示は洗面台の鏡の前に立った。
そこに映し出されていたのは当然のように阿頼耶の姿だった。
軽く微笑んでいる表情は、先程までの阿頼耶とは印象が少し違うが、それでもやはり元がいいためか、非常に可愛らしい。
阿頼耶の笑顔を純粋培養の無垢な少女の笑顔とするなら、これは身近に感じるような普通の女の子の笑顔、という感じか。
そう思ってから連示はふと冷静になり、今の自分の状況が女装して自画自賛している男の図のように感じて無性に恥ずかしくなってしまった。
そのせいで鏡の中の阿頼耶が頬を桜色に染めていて、それがまた異様に可愛らしくて羞恥が連鎖的に増してしまう。
だから、その感情を抑え込もうと表情を無理矢理不機嫌な色で塗り潰す。と、鏡に映る阿頼耶は少し怒ったような顔になった。
それでようやく落ち着いて自分の状態を確認していると、一ヶ所だけ人格交換を行う前と異なっている部分があることに気づく。
「ん? 目が何だか、赤くなっているけど――」
綺麗な緑色だった瞳が、鮮血のように鮮やかな赤色に変わっていた。
「まさか、故障か!? レッドリングか!?」
『いえいえ、そんな大昔のゲーム機じゃないんですから。これは人格を交換している証ですよ。人格を元に戻せば、緑色に戻ります』
「そ、そうか」
あるいは、相対するアミクスへのある種の警告のようなものだろうか。
「……しかし、本当に人格が交換されているんだな」
『あくまでも疑似的に、ですけどね』
そんな阿頼耶の悪戯っぽい声が頭の中に響いたのとほぼ同時に、視界の中に警告音と共にパソコンのウインドウのようなものが開いた。
そこには地図が描かれ、その中にPというマークが表示されている。
「阿頼耶、これは何だ?」
『え? あ……間が、悪いですね。これは幻影人格の発生通知です。私達は電子の海の揺らぎから、担当範囲内に発生したそれを感知できるようになっているので。えっと、この表示の場合はファントム、ですね』
「お、おい、行かなくていいのか?」
当惑したように呟く阿頼耶に連示は強く尋ねた。
『詳細な機能説明がまだですし、何よりご主人様がその体にまだ慣れていないでしょうから。それに、この規模なら特別処理班に任せても大丈夫かとは思います。けど……』
連示に対する気遣いを見せながら、しかし、行かなければならない、という強い使命感が彼女の口調からは滲み出ていた。
「俺に気を使わなくていい。それが阿頼耶のなすべきことなんだろ?」
『……はい。ありがとうございます、ご主人様。では、お願いします』
「ああ」
連示は阿頼耶の声に頷いてそのまま玄関に向かおうとしたが、そこには自分の靴しかないことに気づいて立ち止まった。
もし戦闘を行うのなら、サイズが合わない靴を履くのは不利だ。
「阿頼耶、靴は――」
『箱の中のものを使って下さい。素材が特別で非常に丈夫ですから。この体の挙動にも耐え得るぐらいに』
連示の靴を使用できない別の理由に、それもあったか、と納得しつつ、彼女に言われた通りに箱の中を探ると靴という文字が大きく書かれた箱が二つ出てきた。一方には清楚な印象を受ける革靴が、他方には鮮やかな色で彩られたスニーカーが入っていた。
即座に動き易そうなスニーカーを選び、それを玄関口で履く。
そのまま部屋を出たところで連示は不安を一つ感じ、そのドアの前で再度立ち止まった。
『どうしました?』
「この体、この格好で動き回って大丈夫か? どう考えても目立つぞ?」
『それは大丈夫です。アミクスにはネットワークを介して干渉し、私が見えていても記憶には残らないようにしていますから。それに人間はこの時間、複合娯楽施設にいるか、家にこもっているかの二つに一つですからね』
確かにこの住宅街は朝と夜以外は生身の人間の姿はまばら、どころか見当たらない。
一般大衆にとって、この時代の家はほとんど寝に帰ってくるだけの場所なのだから。
昼の間でも見かけるアミクスは、コミュニケーションモードに入っていなければ酷く虚ろな様子で幽霊のように見える。二重の意味でゴーストタウンだと言えるだろう。
『それに監視カメラにはダミーの映像を流していますから、特別処理班の実働部隊にだけ注意すれば大丈夫です』
「そうか。分かった。……アミクスの問題をひた隠しにしているような組織は信用できないからな。俺達がやろう」
『はい!』
「よし、じゃあ、行くか」
そうして連示は変化の扉を開くために一つ深く息を吐いて気合いを入れ、視界に表示される位置へ向けて駆け出した。
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