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宮殿から少し離れたこの場所は、裏庭と呼ばれる小さな園庭。立派な中庭とは違ってここは滅多に人が通らない。

(昔、ルシアン様とよく遊んだわね……)

懐かしい記憶を思い出す度に目頭が熱くなる。私はベンチに腰掛け目元をハンカチで押さえた。


ルシアン様への想いに気付いたのは突然だった。

婚約が結ばれたのは互いに5歳のとき。
王太子であるルシアン様の結婚相手には筆頭公爵家であり年も近い私が順当に選ばれ、それからは好きでも嫌いでもなくそれなりに接していた。
政略結婚とは本来そういうもの。
当人同士の感情など二の次だと子供ながらに理解していたから。
でもある日、私が12歳になった頃。当時の王妃であったルシアン様の祖母、マリアン様主催のお茶会で私の運命はガラリと変わった。
何とも思わなかったルシアン様がその日をさかいにとてつもなく素敵な方だと思うようになった。どんなに酷く扱われても嫌いに思えず、むしろ怒らせてしまうことに罪悪感を抱く。
カッコよくて、偉大で、素敵なルシアン様。彼のためなら何だってしてあげた。

『面倒な書類整理は私が片付けておきますね』

『隣国との意見交換会?もちろん代わりに出席しておきますので』

『試験勉強?そんなのなさらなくても良いように、私が山を張っておきますのでご安心を』

彼がやれといった事は何でもやってきた。
それが幸せで、頼られているのが嬉しくて……でも、どんなに尽くそうともルシアン様が私を愛してくれることはなかった。

そんな関係が一年も続けば周りの態度も大きく変わる。
仕事を与えにくる文官たちは雑用のようにこき使い、交流会を計画する外交官たちは全てこちらに任せきり。
ルシアン様の取り巻きである令息や令嬢も、試験前だけ声をかけてきては気軽にテストの山を聞きにくる始末。
頑張れば頑張るほど空回り、ただの都合のいい女へと成り下がってしまった。

それでも、ルシアン様のためならばと……


「ルシアンさま……っ、」

ポーチに忍ばせていた手鏡を取り出し勢いよく地面に叩きつける。震える指先でガラス片を手に取り、そっと首筋にあてた。

遊びの恋だと言われても許せない、そのくらいルシアン様を愛してしまったの。
彼に愛されない人生なんていらないわ。

「さようなら」

力を込めた瞬間、それを阻むようにガッと手首を掴まれる。


「それは流石に見過ごせないな」


私以外誰もいないはずなのに、低くて心地いい声が頭上から聞こえた。
顔をあげれば、この国では滅多に見かけない黒髪の男性が苦笑している。そして彼の赤みがかった黒い瞳は、まるで私を見透かしているようにまっすぐ見つめていた。

「っ離して、くださいっ!」

我に返り掴まれた手を振り払おうとする、でもびくともしない。

「はなして……っおねがい、!」
「自我を失いかけるほど追い詰められてしまったのか。やはり……後一歩のところまで浸蝕が進んでいる」
「っ、誰なんですか貴方はっ!」

ぶつぶつと訳の分からないことを言う男は、同情するように顔を歪めながらじろじろ観察する。

「そんな小さなガラスでは身体が傷付き苦しむだけだ。落ち着いて」
「うるさいっ!うるさいっ!」

惨めすぎる。死ぬことも許されないなんて……っ!
 
「あの方に愛されないなら、こんな命っ……!」

バタバタ暴れる私をその人は優しく抱き締めた。拘束するような乱暴なものではなく、宥めるように、包み込むようにぎゅっと。

「……手荒な真似はしたくない。先に謝っておくよ」
「えっ?……んぅっ」

顔を上げた瞬間、柔らかい感触で唇を塞がれた。それが私のファーストキスだと分かったのはその数秒後。
そして甘い液体が口に移され思わずゴクッと飲み込んでしまった。

「けほっ!あ、貴方……一体何を、」
「体に害があるものではないから。緊急を要する事態だったから荒療治させて貰ったよ」
「どういう……っ?!」

問いただそうとした瞬間、眠気に似た感覚が全身を襲う。立っていられなくなり、もう一度男の腕の中にぽすっと身体を預けた。

害がないって……嘘じゃない。

は術さえ解ければあとは自然回復する。浸蝕の程度はひどいが、そのうち精神も安定してくるし物事の視野も広くなるだろう」
「みりょう、って……」

何一つ理解が出来ない。でも、こんな状態になってしまったのは十中八九あの液体のせいということは分かる。

うとうとしながら何とか耐えてみるが、髪を撫でられその手付きが気持ちよくてもっも眠気を誘ってきた。

「君が本来の姿に戻ったときまた会いに行く。だからそれまではゆっくり休みなさい」

優しくて温かい声に、まるで子供のように全てを預け深い眠りについた。


記憶の奥底にこびりついた沢山の思い出。

ルシアン様はいつも決まって人が多くいる場所で私をお叱りになる。きっと周りに威厳を見せつけたかったのね。

そうそう。面倒なことはすぐに押し付けてきていた。
書類整理とか、学園の課題とか……次期王妃の仕事だとか何とか言って。

しかも当たり前のように浮気ばっかり。
それなのに一回も謝ったことなんてない。むしろそっちの方が本命でお前はついでだ、なんて言われたこともあった。




「あれ?何で私、あんなクズのこと愛してたのかしら」
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