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父と私
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パパ、と呼んでみたくなった。ついさっき、昔の自分の映るDVDを見たからかもしれない。
撮影者はパパ。こっちが見ていて、いや聞いていて恥ずかしくなるような甘い声で、私の名前を呼んでいる。親馬鹿ったらありゃしない。正直今の自分は顔をしかめるほかなかったけど、画面の中の私は嬉しそうに「パパ」とカメラに向かって言った。カメラは相変わらず甘い声で笑っていた。
「馬鹿野郎」
思い出したら腹が立った。ソファに寝っ転がって、毒づいた。
パパは、本当に馬鹿野郎だ。こんなにもかわいがっていた娘を残して、あっさりと死んでしまったのだから、大馬鹿野郎もいいところだ。寝たまま眼球だけ動かして、仏壇のほうを見た。位牌は見えなかったけれど、代わりに壁に飾ってある遺影が視界の端に映った。
何にも知らないような顔をして、平然と私を見ている。あのころと変わらない、日焼けした肌に白いポロシャツ。またあとで撮り直せばいいやと適当な格好でとったこの写真が遺影になるだなんて、きっとパパは想像もしなかったに違いない。母がこの前ぽつりと、あの人のほうが五つも年上だったのに、今は私が五つも年上なのよ、と言った。もうあの日から十年が過ぎていた。
パパは事故死だった。雨の日のスリップ事故で、本当に突然逝ってしまった。私はまだ小学一年生だったが、その死を告げられた瞬間だけは鮮明に覚えている。
祖父母が学校に迎えに来て、そのまま病院へいった。車の中でパパが事故にあったことは聞いた。でも私にはそれを深刻だと思う能はなくて、それこそギャグ漫画にあるような骨折や、検査入院だけだと思っていた。何度も言うが、当時の小さい私には車内の重い空気を察する能力は皆無だった。
病院についた。正面から入って、すぐ左に曲がった。長椅子があって、そこに座っていろと言われたので座っていた。
その場には叔父もいた。私が尋ねる、「パパは元気だよね?」
叔父は何も言わずにただぎこちなく笑った。おそらく、そのときすでに叔父は「知っていた」のだろう。
やがて母が来た。泣いていた、今まで見たことないくらいに。
当時私は赤毛のアンが大好きだった。アニメの最終話まで、母とたまに父と一緒に見ていた。それもあって、母はこう言った。私の肩をぐっとつかんだ。
「パパは、お空の星になっちゃったの」
主人公アンの父代わりであったマシューが死んだときに、アンがいうセリフだった。
すぐに意味が分かった。まるで熱いやかんを触ったときの反射のように、直後に大声で泣いた。我ながらずるいものだ。母は代わりに泣けなくなって、私をあやすのにいっぱいいっぱいになった。だが、あやされようが慰められようが、涙が止まるわけがなかった。皆それをわかっていて、それでも母は私をあやしていた。やがて泣き疲れて寝てしまって、そして起きてもう一度泣いた。死という認識よりは、パパにもう会えない悲しみが勝っていたように思う。
そのあとはパパの遺体があるところへ行って、水に濡らした綿棒をパパの唇に当てる、というのを何回かやった。小さいながら、自己満足でしかない行為にイライラした。パパはこんな風に水を飲まない。
パパのほほには擦り傷があって、紫色の唇が白い肌に際立ってなんとも貧弱に見えた。いつもの日焼けしたパパとは全くの別人だった。体温も。手を握ればぞっとするような冷たさで、怖くて、怖く思う自分に悲しくなった。
いろいろな手続きが終わった。私たちは病院を後にした。外に出ると、朝はあんなに降っていた雨がやんでいた。祖母が、
「もう少しはやくあがってくれたら・・・」
続きにどんな言葉が来るかなんて、全員がわかっていた。心底そう思って空を見上げると、まだ空はどんよりと曇っていた。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ雲の切れ間から青が見えて、それがやけに苦しかった。
不思議なものだが、当日のことはここまで鮮明に覚えているくせに、葬式の記憶はほとんどない。「お通夜の最中に私の面倒を見てくれた人」は覚えているのだが、葬式自体の記憶がない。誰が来たか、どんな話をしたか。その時の母の様子さえ、覚えていない。ただひとつだけ覚えているのは、火葬場で、パパのお骨を骨壺に入れたときのこと。燃やされた棺から大きめの骨だけを選んで、参列者がひとつづつ、それを箸で入れていくような形だったとおもう。最後が私の番で、残っていたのはどうやら喉仏の部分の骨らしかった。火葬場の人がそれを見てこう言った、「喉仏は焼くときに壊れやすいんですが、お父様のは綺麗に残っていらっしゃいますね」
私の側にいた母が反応した。そうなんですか、なるほど、とか適当な相づちを打ちながら、一緒に骨を見た。言われてみればたしかに喉仏の形に見えなくもなかったが、私にとってそれは、ただの骨にしか過ぎなかった。
「じゃあこの骨はいちばん上におきましょう」
母はひょいとそれを骨壺の中、たくさんの骨があるうちのいちばん上の真ん中に置いた。やっぱりどうみてもただの骨だった。
母にこの話をしたら、笑われた。そして他のことは覚えていないと私が言うと、思い出さなくていいと言われた。その通りだと思ったので、以来葬式のことを無理に思い出そうとはしていない。葬式があったということ、それだけで私には十分すぎる事実なのだ。
しかし、どうしたってパパが私を映したDVDやあちらこちらに飾られたパパの写真は目についてしまう。そういえば、家族でご飯に行ったとき、パパが言った。「百歳まで生きるぞ!!」
嘘ばっかり。ふざけるなよ。約束したのに、たくさんたくさん生きるって。
写真の中のパパは、馬鹿みたいな笑顔で私と並んでいる。私も、パパと並ぶことを当たり前だと勘違いして、同じような馬鹿っぽい笑みを浮かべている。どいつもこいつも馬鹿ばっかりで、だけどいなくなってしまったのはパパだけだ。
だから、私はパパを見ると毒づきたくなる。無鉄砲すぎ。残される人のこと考えてなさすぎ。自分は大丈夫だって思いすぎ。私のこと大好きすぎ。だから、私はいまこんなにつらいんじゃないか。もらった愛の返し方を、パパはすっかり奪ってしまった。
「大馬鹿野郎」
言っても、パパは微動だにしない。それをわかっていて、散々文句だけ言って、パパと一緒にいた七年間を甘えて過ごした私のほうが、よっぽど大馬鹿なのに。
風呂場で母が私を呼んでいた。ソファを降りて、一度仏壇を正面から見据えた。遺影のパパがこちらを見ている。いつもおんなじ瞳で、私を見ている。あれはパパであって、パパじゃない。私のパパは、もうどこにもいない。
それをわかっていて、私たちは誰かをあの箱に見出だそうとする。見出だせるわけないのに、見出だせたつもりになる。しょうがない、私たちはそうでもしないと、誰かの死を受け入れられない。それを皆知っている。
「……ばーか」
だから私は、こうしてパパがもういないことを、何回も何回も確認しているのだ。きっとこれからも言うだろう。何回も何回も、何回も何回も。しかしどうしたってこれだけはわからない、果たしてパパがいないことを受け入れられる日はくるのだろうか、など。
撮影者はパパ。こっちが見ていて、いや聞いていて恥ずかしくなるような甘い声で、私の名前を呼んでいる。親馬鹿ったらありゃしない。正直今の自分は顔をしかめるほかなかったけど、画面の中の私は嬉しそうに「パパ」とカメラに向かって言った。カメラは相変わらず甘い声で笑っていた。
「馬鹿野郎」
思い出したら腹が立った。ソファに寝っ転がって、毒づいた。
パパは、本当に馬鹿野郎だ。こんなにもかわいがっていた娘を残して、あっさりと死んでしまったのだから、大馬鹿野郎もいいところだ。寝たまま眼球だけ動かして、仏壇のほうを見た。位牌は見えなかったけれど、代わりに壁に飾ってある遺影が視界の端に映った。
何にも知らないような顔をして、平然と私を見ている。あのころと変わらない、日焼けした肌に白いポロシャツ。またあとで撮り直せばいいやと適当な格好でとったこの写真が遺影になるだなんて、きっとパパは想像もしなかったに違いない。母がこの前ぽつりと、あの人のほうが五つも年上だったのに、今は私が五つも年上なのよ、と言った。もうあの日から十年が過ぎていた。
パパは事故死だった。雨の日のスリップ事故で、本当に突然逝ってしまった。私はまだ小学一年生だったが、その死を告げられた瞬間だけは鮮明に覚えている。
祖父母が学校に迎えに来て、そのまま病院へいった。車の中でパパが事故にあったことは聞いた。でも私にはそれを深刻だと思う能はなくて、それこそギャグ漫画にあるような骨折や、検査入院だけだと思っていた。何度も言うが、当時の小さい私には車内の重い空気を察する能力は皆無だった。
病院についた。正面から入って、すぐ左に曲がった。長椅子があって、そこに座っていろと言われたので座っていた。
その場には叔父もいた。私が尋ねる、「パパは元気だよね?」
叔父は何も言わずにただぎこちなく笑った。おそらく、そのときすでに叔父は「知っていた」のだろう。
やがて母が来た。泣いていた、今まで見たことないくらいに。
当時私は赤毛のアンが大好きだった。アニメの最終話まで、母とたまに父と一緒に見ていた。それもあって、母はこう言った。私の肩をぐっとつかんだ。
「パパは、お空の星になっちゃったの」
主人公アンの父代わりであったマシューが死んだときに、アンがいうセリフだった。
すぐに意味が分かった。まるで熱いやかんを触ったときの反射のように、直後に大声で泣いた。我ながらずるいものだ。母は代わりに泣けなくなって、私をあやすのにいっぱいいっぱいになった。だが、あやされようが慰められようが、涙が止まるわけがなかった。皆それをわかっていて、それでも母は私をあやしていた。やがて泣き疲れて寝てしまって、そして起きてもう一度泣いた。死という認識よりは、パパにもう会えない悲しみが勝っていたように思う。
そのあとはパパの遺体があるところへ行って、水に濡らした綿棒をパパの唇に当てる、というのを何回かやった。小さいながら、自己満足でしかない行為にイライラした。パパはこんな風に水を飲まない。
パパのほほには擦り傷があって、紫色の唇が白い肌に際立ってなんとも貧弱に見えた。いつもの日焼けしたパパとは全くの別人だった。体温も。手を握ればぞっとするような冷たさで、怖くて、怖く思う自分に悲しくなった。
いろいろな手続きが終わった。私たちは病院を後にした。外に出ると、朝はあんなに降っていた雨がやんでいた。祖母が、
「もう少しはやくあがってくれたら・・・」
続きにどんな言葉が来るかなんて、全員がわかっていた。心底そう思って空を見上げると、まだ空はどんよりと曇っていた。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ雲の切れ間から青が見えて、それがやけに苦しかった。
不思議なものだが、当日のことはここまで鮮明に覚えているくせに、葬式の記憶はほとんどない。「お通夜の最中に私の面倒を見てくれた人」は覚えているのだが、葬式自体の記憶がない。誰が来たか、どんな話をしたか。その時の母の様子さえ、覚えていない。ただひとつだけ覚えているのは、火葬場で、パパのお骨を骨壺に入れたときのこと。燃やされた棺から大きめの骨だけを選んで、参列者がひとつづつ、それを箸で入れていくような形だったとおもう。最後が私の番で、残っていたのはどうやら喉仏の部分の骨らしかった。火葬場の人がそれを見てこう言った、「喉仏は焼くときに壊れやすいんですが、お父様のは綺麗に残っていらっしゃいますね」
私の側にいた母が反応した。そうなんですか、なるほど、とか適当な相づちを打ちながら、一緒に骨を見た。言われてみればたしかに喉仏の形に見えなくもなかったが、私にとってそれは、ただの骨にしか過ぎなかった。
「じゃあこの骨はいちばん上におきましょう」
母はひょいとそれを骨壺の中、たくさんの骨があるうちのいちばん上の真ん中に置いた。やっぱりどうみてもただの骨だった。
母にこの話をしたら、笑われた。そして他のことは覚えていないと私が言うと、思い出さなくていいと言われた。その通りだと思ったので、以来葬式のことを無理に思い出そうとはしていない。葬式があったということ、それだけで私には十分すぎる事実なのだ。
しかし、どうしたってパパが私を映したDVDやあちらこちらに飾られたパパの写真は目についてしまう。そういえば、家族でご飯に行ったとき、パパが言った。「百歳まで生きるぞ!!」
嘘ばっかり。ふざけるなよ。約束したのに、たくさんたくさん生きるって。
写真の中のパパは、馬鹿みたいな笑顔で私と並んでいる。私も、パパと並ぶことを当たり前だと勘違いして、同じような馬鹿っぽい笑みを浮かべている。どいつもこいつも馬鹿ばっかりで、だけどいなくなってしまったのはパパだけだ。
だから、私はパパを見ると毒づきたくなる。無鉄砲すぎ。残される人のこと考えてなさすぎ。自分は大丈夫だって思いすぎ。私のこと大好きすぎ。だから、私はいまこんなにつらいんじゃないか。もらった愛の返し方を、パパはすっかり奪ってしまった。
「大馬鹿野郎」
言っても、パパは微動だにしない。それをわかっていて、散々文句だけ言って、パパと一緒にいた七年間を甘えて過ごした私のほうが、よっぽど大馬鹿なのに。
風呂場で母が私を呼んでいた。ソファを降りて、一度仏壇を正面から見据えた。遺影のパパがこちらを見ている。いつもおんなじ瞳で、私を見ている。あれはパパであって、パパじゃない。私のパパは、もうどこにもいない。
それをわかっていて、私たちは誰かをあの箱に見出だそうとする。見出だせるわけないのに、見出だせたつもりになる。しょうがない、私たちはそうでもしないと、誰かの死を受け入れられない。それを皆知っている。
「……ばーか」
だから私は、こうしてパパがもういないことを、何回も何回も確認しているのだ。きっとこれからも言うだろう。何回も何回も、何回も何回も。しかしどうしたってこれだけはわからない、果たしてパパがいないことを受け入れられる日はくるのだろうか、など。
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