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第9章 第二回公判
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9月25日、第二回公判が行われた。
一回公判に引き続き、検察側の証人尋問が行われ、郡上大和信用金庫 郡上支店の和田結衣が証言台に立った。
「和田結衣です。郡上大和信金の郡上支店で、貸付窓口係をしております」
「被告人の上田健一は、あなたの高校時代の先輩でしたね」
「はい」
「高校の頃より、面識がありましたね」
「はい」
「支店長の上田紘一さんが、被告人の父であることは知っていましたか」
「はい。高校の時、お父様が銀行にお勤めと聞いておりましたが、信金に入りお父様が支店長さんだと知り驚きました」
「では、本題の質問をさせていただきます。 第二の現場となった、居間に置かれていた“証拠物件その5”の、この写真の女性はあなたですね」
「はい、私です」
「これは、お見合い写真ですね」
「お見合い写真では、ありません。成人式の記念に撮った写真です」
「成人式の記念写真ですか。では なぜ、その記念写真が、現場にあったのでしょうか」
「私が、支店長さんにお預けしたからです」
「亡くなられた、被害者の上田紘一さんに預けた。それはいつのことですか」
「支店長さんからお願いされ、事件の前日にお預けしました」
「事件の前日、7月2日に渡されたのですね」
「はい」
「被害者の上田紘一さんは、あなたに、どう言って依頼されましたか」
「奥様に紹介したいから、良ければ写真を貸してほしいとお願いされました。スナップ写真で良いと言われましたが、プリントしたものがありませんでしたから、成人式に撮ったその写真を翌日にお預けしました」
「奥様に紹介したいとは、お見合いをするということですね」
「お見合いのような肩苦しいものではなく、お付き合いのきっかけになればとおっしゃられました」
「それは、被告人と、お付き合いをして欲しいということですね。 被害者の上田紘一さんは、なぜそうされたのでしょう。その必要が、あったのでしょうか?」
「奥さまが、健一さんの縁談話がまとまらないことを心配されていると……」
「亡くなられた養母の上田詢子さんは、被告人の縁談話がまとまらないと心配されていたのですね」
「はい。そのようでした」
「縁談話がまとまらない。その理由を、聞かれましたか」
「はっきり口にされたわけではありませんがが、健一さんが養子さんだからと……」
「それは、被告人が、施設出身者だということですね」
「……そうだと、思います」
「写真を渡したときの、上田紘一さんの様子はどうでした」
「大変、喜んでおられました。写真を見て奥様が気に入れば、健一さんにそれとなく話しをするだろうとおっしゃいました」
「養父の上田紘一さんは、あなたと被告人の交際が始まることを期待していたということですね」
「そうだと……思います」
「その写真を、渡された後どうなりましたか」
「翌日に、わざわざ支店長さんから声を掛けてこられました」
「わざわざというのは、被害者の普段の行動とは違うということですね」
「はい、支店長室に呼ばれましたから」
「普段、支店長室に呼ばれることはなかったということですか」
「いいえ、支店長室に呼ばれることは度々ありましたが、それは仕事の要件で、私的なことで呼ばれたのは初めてでした」
「わざわざ、あなたを支店長室に呼び話しをされたのですね。それは、どのような話しだったのですか」
「奥様が、今晩にも健一さんに話しをするだろうとおっしゃいました」
「今晩というのは、事件の当日ですね」
「はい、そうです」
「事件のその晩に、被告人に話しをするといったのですね」
「はい」
「質問を変えます。 被害者の養父 上田紘一さんは、郡上大和信金創設者の一族で信金の支店長でした。後継者にあたる被告人を、信金に就職させなかったのはなぜでしょうか」
「支店長さんは、『健一さんには、好きなことをさせてやりたい』と言っておられましたから、そのようにされたのだと思います」
「被害者の紘一さんは、とても厳格な方とお聞きしております。自身にも厳しく、それゆえに施設出身者の被告人を信金に就職させなかったのではありませんか」
「それは、……分かりません」
「以上です」
【弁護側の尋問】
「あなたは、融資窓口の担当でしたね」
「はい」
「あなたは、被害者の上田紘一さんと、どのような関係でしたか」
「直接の部下ではありませんが、支店長さんは、気さくな方で良く声を掛けてくださいました」
「支店長の上田紘一さんは、複数いる女性行員のなかから、なぜ、窓口業務をしておられるあなたに、写真を貸してほしいとお願いしたのでしょうか」
「それは……私が、健一さんの後輩だと支店長さんが知ったからだと思います。 盆踊りのお手伝いで、私と健一さんが一緒にいるところに、偶然、支店長さんがおいでになられ、私が健一さんの後輩であることを話されました。 それに、支店長さんには、古くからのお客様がありましたので、報告や相談することが度々ありました」
「あなたと支店長の上田紘一さんは、他の行員さんより親密な関係であったということですね」
「親密だなんて……機会が、多かっただけです」
「表現が、適切ではありませんでしたね。 質問を変えます。あなたは、健一君が施設から迎えた養子であることを、以前よりご存じでしたね」
「はい。年配の方は皆さんご存じだと思いますが、私は、八幡高校に入学し、健一さんと同じ大和中学を卒業した友達から、誘拐のことや施設から迎えた養子さんであることをそれとなく聞いていました。 支店長さんから、写真を貸してほしいとお願いされたとき、遅くに出来た子を亡くし健一さんを施設から迎えたのだとお聞きしましたが、驚きはありませんでした」
「支店長の上田紘一さんから、被告人が施設出身者であることを聞き、それでも、あなたは写真を預けた。 被告人の健一君に、悪い印象はなかったということですね」
「はい。健一さんは、成績も良くバスケット部のキャプテンをしていましたから、女子の憧れでした。市のイベントで再会しましたが、以前の印象と変わりありませんでしたから、お話しをお聞きしたとき、嫌な気はしませんでした」
「それで、承諾したということですか」
「……はい」
「写真は、事件の前日 7月2日の木曜日に渡した。貸してほしいとお願いされたのは、その前日のことでしたね」
「はい、7月1日 水曜日でした」
「その7月1日。 どこで、お願いされましたか」
「車の中で、お願いされました」
「車の中ですか。具体的に、説明していただけますか」
「その日は、午後から融資の件で“陣屋さん”に伺いました。その道中の、車中でお願いされました」
「支店長の上田紘一さんが、同行されたのですか」
「はい。陣屋さんは、旅館とホテルを経営されておられる古くからのお客様で、ホテルを改装したいと融資の相談がありました。 その陣屋さんは、支店長さんの幼馴染でしたので、支店長さんが同行していただけることになり、そのホテルに二人で伺いました」
「そのホテルとは、どのような形態のものでしょうか。観光ホテルでしょうか、若しくはビジネスホテルでしょうか」
「ホテルといっても……郊外にある、国道沿いのホテルです」
「いわゆる“モーテル”ですね」
「……はい。ホテル千鳥です」
「その日の、午後からと証言されましたが、具体的に信金を出た時刻、戻られた時刻を覚えておられますか」
「窓口業務が落ち着いた、午後の3時ころに信金を出て、終業時刻まえの5時すぎに戻りました」
「そのホテル千鳥へ行かれた時、何か変わったことがあったのではありませんか」
「融資のお話しで、同行していただいただけですから、何もありません」
「では、支店長さんに、何か変わった様子はありませんでしたか」
「何も……無かったと、思います」
「写真は、その翌日に渡された。どこで、渡されたのですか」
「支店長室で、陣屋さんの融資計画書をお持ちしたときにお渡ししました」
「改めてお聞きします。あなたが知る、被告人はどんな人物ですか」
「高校時代の印象と変わりなく、とてもまじめな方だと思います」
「被告人が、養父母 二人を刺したと思いますか」
「そんなこと、絶対にないと信じています。 私の写真が、事件のきっかけになったように言われ、困惑し……とても残念です」
健一は、視線を落としたまま身動きせずにいた。
「最後に、お聞きします。あなたは、健一君と交際ができることを願っていましたか」
「……はい」
「それは、今でも変わりませんか」
「健一さんが、両親を刺したとは思っていません。……ですから……変わりません」
そのとき、一瞬、健一の肩が動いた。
「以上です」
検察側の最後の証人となる、県警本部刑事課 課長の尋問が行われた。
「県警本部刑事課 課長、横山 勉(よこやま つとむ)です」
「取調べは、横山刑事課長 あなたが行ったのですね」
「はい。私が、この事件の担当となりましたので、私が、事情聴取しました」
「取調べ時の、被告人の態度や様子はどうでしたか」
「身元確認で、“葵一巳”だと主張しました。 上田健一だなと確認すると、『健一じゃない、葵一巳だ』と言い張り、取調べがはかどりませんでしたので、それ以降の取調べは“葵一巳”として行いました。 大声を上げることも暴れることも無く、素直に応じていました」
「身元確認以降は、特に問題なく取調べができたわけですね」
「はい」
「では、被告人が、供述調書に署名したときの様子を話していただけますか」
「はい。私が、供述調書を読み上げ『お前がやったんだな。間違いは無いな』と、被告人に確認しました。被告人は、うなずき自ら供述調書に署名しました」
「供述調書の署名は、強要したものでは無いということですね」
「はい。素直に署名しました」
「以上です」
弁護側の喚問が行われた。
「取調べは、横山刑事課長 あなたが行ったのですね」
「はい。この事件の担当でしたから、私が行いました」
「通常は、所轄の担当刑事が行うものではありませんか、なぜ、県警本部に所属するあなたが取調べを行ったのですか」
「当初、所轄の安田警部補と須田刑事が取調べしておりましたが、身元確認の段階でつまずいておりましたから、私が行うことにしました」
「被告人が、黙秘していたとお聞きしましたが」
「黙秘ではありません。ためらうというか、渋ってなかなか話そうとしなかっただけです。 取調べは“葵一巳”として行いました。被告人は、この法廷でも、葵一巳だと答えています。自身が行った惨忍な凶行を認めたくなかった。だから、上田健一ではない葵一巳だと主張したのでしょう。心象が悪くなるだけですからね、理解できませんよ」
「質問を変えます。 犯行のきっかけは、『背中を流していた養母の詢子さんと、被告人自身の見合い話しで口論となった』とされておりますが、これは被告人の供述したものですか。被告人は、黙秘していたのではありませんか」
「そのようなことはありません。養母の詢子と口論となったことは、被告人自身の供述です」
「浴室でされたはずの口論の様子、また、詢子さんと紘一さんをどのように刺したか、調書には具体的な記述がありません。それは、どうしてでしょうか」
「被告人は、自身の犯行を認めたくなかったのでしょう。口論となったことは素直に認めましたが、その会話や犯行について、断片的に供述したからです」
「被告人が黙秘し送検期限が迫り、『義母を鏡に打ち付け押し倒し、割れた鏡でのどを刺した。テーブルに置かれていた包丁で、義父の左腹部を包丁で刺した』と、あなたが事件のストリーを創作し、被告人に署名を強要したのではありませんか!」
「失敬な! 創作などではない。被告人は、事実を語り自ら調書に署名しています。断じて強要などではない!」
「被告人は、『自分のせいだ』と言っただけではありませんか」
「確かに、そのような表現の供述はありました。現場からは、関係者以外の指紋・足跡は検出されておりませんし、逃走者の目撃証言もありません。 2つの凶器からは、被告人の指紋が検出されています。ですから、被告人の関与は間違いないことです」
「以上です」
弁護側の1人目の、証人尋問が行われた。
「当初予定していた証人、園部正次郎さんの体調が思わしくありませんので、息子さんの園部陽次郎さんに来ていただきました」
「検察官は、この証人の尋問を認めますか」
「しかるべく」
「では、証人の尋問を認めます」
「では、改めて証人は、氏名・職業を述べてください」
「えー 園部陽次郎です。関(市)で、刃物を製造しております」
「弁護人は、尋問をどうぞ」
「あなたと、事件の関係を説明してください」
「えっと……上田詢子さんの、義理の弟にあたります。その……妻が、詢子さんの妹です」
「凶器とされる、この包丁に見覚えがありますか」
「はい。姉の銘が入っていますから、義理の父、園部正次郎が作った包丁で姉に持たせたと聞いております」
「上田詢子さんの、お父様 園部正次郎さんが作り、上田家に嫁ぐとき詢子さんに持たせた物なのですね」
「はい。市販はしていない特別な物で、今まで3組しか作っていないと聞いています。 残りの2組は、妻の洋子と義理の母が使っています」
「果物などを切るときに使用する、ペティナイフと呼ばれるものですね」
証人の園部陽次郎は、包丁の話しを流暢に語り始めた。
「ペティナイフは、三徳包丁等と比べると刃幅が狭く、先が尖っているのが特徴です。うちのペティナイフは、刃が15センチと少し長く、果物に限らず、料理の下拵えにも使いやすいサイズです。 姉も、この包丁を良く使っていたようで、事件前に父が研ぎ直しています」
「研ぎ直し、それはいつのことですか」
「事件のあった前の週、たしか火曜日でした、父が研いでいる間、姉は洋子と雑談をしていました」
「研いだばかりで、“良く切れた”ということですね」
「はい。それは、とても良く切れたはずです」
「今まで3組しか作られていない“特別な物”とのことですが、一般的な包丁とどこが違うのですか」
「はい。刃の根本部分、柄に差し込まれた部分を中子と呼びます。和包丁の場合、中子を熱し木製の柄に差し込みます……」
「意義あり! 証拠品の包丁は、凶器として使われたことについては疑いのない事実で、包丁の作りを審議する必要性は無いと考えます」
「弁護人は、何を明らかにしようとしているのでしょうか」
「証拠とされる包丁を使用し殺害したとされることについて、反論を行いたいと考えています」
「あの……裁判長。私は、主婦としてとても興味があるお話しのようでもう少し聞きたいと思います」と、40歳代の女性裁判員が発言した。
「では、証人は、証言を続けてください」
「えーと、プロ仕様は切れ味重視、一般用は、錆びにくい材料を……そう、その中子でしたね。 えーと、洋包丁の場合は、柄の部分も金属で作られた一体のもありますが、家庭用などの一般的なものは、半中子と言って、柄に切り込みを入れ中子を差込み2本の鋲で固定します。業務用などのプロ仕様では、本通しと言って、柄と同じ形をした中子部分を固い木材で挟み、3本の鋲で固定し柄を付けます。プロ仕様は、握り部分すべて中子が通っているということで強度・耐久性が高いということです。
通常、柄の部分の中子の厚さは、本通しでも刃と同じ厚さです。 その父が作った包丁は、柄の断面を見ていただければ判ると思いますが、刃の3倍ほどの厚さです。材料も多く必要になりますし、手間が掛かりますからこういった作り方はしません」
「どうして、柄の部分を厚くしてあるのですか」
「はい。その分、少し重くなりますが握ったときのバランスと、安全性です。包丁の重心を手元に近くすることで、力のない小柄な女性でも使い易くなるのです。特に一番大きな牛刀は刃渡りが21センチにもなりますから女性では扱い辛いのです」
「もう一つの安全性とは、どういうことでしょうか」
「誤って包丁を落としてしまったとき、刃先が下になり落下することがあります。 昔、母が、包丁を落とし刃先が床に刺さり、刃先が折れたことがあったそうです。もう少しずれていたら、足に刺さっていたところだったと聞いております。それで、父が、この包丁を製作したとのだと聞いております。 よく使う三徳包丁の刃渡り18センチのものであれば、柄が下になり落ちる割合が6割以上、ペティナイフであれば、ほとんど柄が下になり落ちます」
「犯行に使用されたとする15センチのペティナイフであれば、柄が下になり落ち足には刺さらない。安全ということですね」
「はい。テーブルか椅子があれば簡単に再現できます。実際にお目にかけましょうか」
廣田は、妹の園部洋子が普段使用しているペティナイフ“弁号証2”と、同じサイズの市販品“弁号証3”を提示した。
「妹の園部洋子さんが使用しているこの包丁は、全長260ミリメートル、刃渡り150ミリメートル、重量が93グラムで、“証拠物件その3”と同時期に園部正次郎氏が製作したもので同一といってよいものです。そして、この市販品のペティナイフは、 全長260ミリメートル、刃渡り150ミリメートルで、重量は、75グラムです。
この2本のペティナイフを使用し、落下する様子を比較したいと思います。 裁判長、許可を頂けますか」
「どうぞ、再現を見せてください」
「では、園部陽次郎さん、このパイプ椅子で、実際にやっていただけますか」
「はい。2つの包丁を、椅子の縁に平行に並べに置きます。椅子の背もたれを持ち上げ、傾斜をつけ包丁を落とします」
「どうでしょうか、うちの包丁は柄が下になり落ちたでしょ」
「もう一度、お願します」
「椅子の、背もたれを持ち上げます。うちの包丁は柄が下になり落ちます。検事さんもやってみますか」
「証人、再現はもう結構です。弁護人は、それが何に係るというのですか」
「はい。テーブルに上に置いてあった包丁が落下し、刃先が上方に向いた状態で床に落ち、そこへ被害者の紘一さんが、倒れこんだ。と、いうことです。
被告人が、この包丁で被害者を刺すところは誰も目撃していません。供述調書には具体的にどの様に刺したと記述されておらず、検察が主張する被告人がこの包丁で刺したというのは推測にすぎません。 弁護人は、供述調書に書かれている供述自体が疑わしいものと考えます」
傍聴席が、ざわついた。
「裁判長! 意義あり」
「弁護人は、言葉を選んで発言するよう心掛けてください」
「はい。 続けさせていただきます。この現場写真をご覧ください。本来テーブルが置かれていたこの位置 この床にできた血だまりの中に、僅かですが凹みが確認できます。開示請求した関係書類には、凹みがあると記載されていますが、証拠として提出された実況見分調書には記述されておりません。 この床の傷こそが、刃が上向きに落下した証しであると考えます」
「意義あり!」
「検察官、どうぞ」
「その床の凹みは、犯行時以前の日常生活で生じたものと判断しております。 証人は、その凹みが犯行時に出来たと証明できるのですか」
「証明は、出来ません。 死体検案書に示された凶器が刺さった角度と向きには、被告人が刺したとするには疑問が残るところです。 調書には、“被告人が遺体を起こし仰向けにした”と記述されています。床の凹みは、遺体の右横45センチメートルに位置し、発見時の上向きの遺体をうつぶせに戻せば、床の凹みと被害者の傷口はおおよそ一致します。ですから、被害者が何かの拍子に倒れ込みテーブルがずれ、テーブルに置かれていた包丁が落下し、刃先が上向きになった包丁に、被害者 紘一さんが倒れ込み左腹部に刺さったものとするのが妥当と考えます」
傍聴席が、再びざわついた。
「以上です」
【検察側の尋問】
「その、落下の状態や安全性を、証明できる公的な書面などがあるのですか」
「書面ですか、そんなものはありません。何でしたら、もう一度やってみましょうか」
「結構です。 安全性を、証明できる書面はない。床の凹みがいつ出来たものかも不明で、事件との関連性について何の根拠もありません。 『包丁の刃が、上を向いて落ちた。そこへ被害者が倒れ、刺さった』など、そんな都合のいい偶然はあり得ない。すべては、弁護人が思いついた空想でしかありません」
「検察官は、ほかに尋問することはありますか」
「ありません」
「証人は、下がってください」
弁護側の、もう一人の証人、園部洋子の証人尋問が行われた。
「証人は、氏名・職業を述べてください」
「園部洋子です。家業の刃物製造を手伝っております」
「証人は、亡くなった上田詢子の妹さんで、被告人 健一君の、伯母にあたるわけですね」
「はい、そうです」
「被告人の健一君と、被害者の上田紘一さん 詢子さんとの関係はどうでしたか」
「健一君は、とてもまじめで素直な青年です。親子関係が悪いなどあり得ません」
「家庭内暴力は、ありましたか」
「いいえ、そんなことは一切ありません。私は、度々姉夫婦宅を訪れていましたが、いつも綺麗に片付いていましたし、そんな話しを聞いたことはありません」
「被告人の健一君は、小さい頃いじめを受けていたのではありませんか」
「はい。中学の頃にはいじめはなくなったようですが、小学生の頃には、“貰われっ子って”いじめられていたようです。 リコーダーを田んぼに投げ捨てられ、学校から泥だらけで帰ってきて庭で体を洗っていたこともあったようです。それでも『自分が転んで、田んぼに落ちた』と、言っていたと姉から聞いたことがあります」
「意義あり! 証人の供述は、被告人から直接聞いたものでなく伝聞供述に相当し証拠にはなりません」
「でんぶん きょうじゅつ? ですか」
「“見聞きしたことを聞いた”ということで証拠能力がないということですが、証人は、被害者の上田詢子さんから直接お聞きになったのですね」と、江田恭子が尋ねた。
「はい、姉がそう言っていました」
3人の裁判官が、小声で打合せをした。
「裁判所は、問題はないと判断します。証人は、証言を続けてください」
「では、詢子さんの、健一君への接し方はどうだったでしょうか」
「姉夫婦は、実の子を誘拐で亡くしていますから、溺愛というかそれはたいせつにしていました。
健一君が、小学校に入学した数日は、学校まで送り一日中廊下から様子を見ていたようですし、低学年の頃まで学校の送り迎えをしていました。小学校の修学旅行では、先回りして見守っていたほどです」
「修学旅行で先回りする。それは、宿泊が伴うことになりますね。夫の紘一さんは、詢子さんのその行動を容認していたということですね」
「そうだと思います。紘一さんも、可愛くて仕方がなかったと思います」
「事件発生時、詢子さんは健一君の背中を流していた。健一君の背中を流すのが、お姉さんの日課だったのですね」
「はい、そうです。『お嫁さんを貰っても、背中は私が流してやるの』と、姉は言っていました」
「『お嫁さんを貰っても、背中は私が流す』それは、どういう意味でしょうか」
「それは、……その言葉のとおりだと思います」
「先ほどの証人、信金の和田結衣さんが、『紘一さんが、健一君の縁談話がまとまらないと言っていた』と証言されました。あなたは、そのようなお話しを聞いておられましたか」
「はい。姉は『縁談話がまとまらない』と、健一君の結婚を心配していました」
「心配されていた。具体的に、どう言っていたのでしょうか」
「健一君は、異性とのお付き合いもなく、良い縁談話しも無いと心配し、なんとか良いお相手を見つけてやりたいと言っていました」
「異性とのお付き合いのことも、心配しておられたのですね」
「はい。健一君 自身が、お付き合いに慎重になっているようだと言っていました」
「詢子さんは、健一君が、養護施設出身者だから、異性とのお付き合いに慎重になり、縁談話しも無いと言っていたのですね」
「はい、そうです」
「それで、見合いの相手を見つけてやりたい。その、お相手が見つかったのでしょか」
「見合いとは聞いてはおりませんが。信金にお勤めのお嬢さんだと聞きました」
「そのお話しは、どれくらい進んでいたのでしょうか」
「紘一さんが、お嬢さんから写真をお借りして、姉に見せたのだと」
「その写真とは、現場の居間に置かれていた、郡上大和信金郡上支店 和田結衣さんの写真ですね」
「お名前を、聞いたわけではありませんが、そうだと思います」
「詢子さんは、健一君が施設出身であることが障害となっていると、とても心配されていた。その和田結衣さんの話しについて、詢子さんはどのような感触だったのでしょうか」
「写真をお借りできたと喜び、健一君とも面識があるからと期待していたような様子でした。そして、『もうすぐ、はっきりする』とも言っていました」
「その『もうすぐ、はっきりする』とは、何が、はっきりするのでしょうか」
「それは、話してはくれませんでしたから分りませんが、悪い話しではないと思いました」
「和田結衣さんとの、お付き合いのことでしょうか」
「そうだと、思います」
「そのお話しは、いつされたのですか」
「事件があった、その日の午後に電話で話しました」
「事件の当日、午後にお話しをされたのですね」
「はい」
「話題を変えます。 上田さんご夫妻が、健一君を養護施設“葵園”から迎えた経緯をご存知ですね。話していただけますか」
「はい。姉夫婦には、遅くに出来た実子の健一君がおりました。その健一君は、3歳の誕生日をまえに誘拐され戻ってきませんでした」
「誘拐され、行方不明になってしまったのですね」
「はい、そのことがあって姉は体調がすぐれずうつになり、心配した紘一さんが少しでも気が紛れればと、姉を連れ温泉や神社お寺を巡るようになりました。 誘拐から4年が過ぎたころ、宿泊していたホテルのプールで水浴びをしている子供たちの中に、健一君を見つけ“葵園”を訪ねたと聞いております」
「被告人の健一君と、偶然に出会った。その当時の、上田さん夫婦の様子はどのようでしたか」
「それはもう大変な喜びようで、土産を持って二人で訪ねてきました。姉は、以前のように明るくなりうつの様子は見られませんでした」
「被告人の、元々の名前は“葵一巳”ですが、10歳の誕生日の頃に“健一”に改名されています。 10歳の頃とは、実子の健一君の誘拐から7年です。失踪から7年経過すれば法的に死亡扱いとされます。そのころ被告人の名前が改名されたわけですが、上田さんご夫婦は、被告人をどのように呼んでいましたか」
「養子さんに迎えたときから『けんちゃん』と呼んでいました。“一巳君”と、呼んだことは一度も無かったと記憶しています」
「改名の届け出する以前、養子に迎えた直後から『健一』と呼んでいたのですね。それは、なぜでしょうか」
「実の子のように……思っていた。そう思いたかったに違いありません」
「被告人の健一君を、亡くなった実子と同じ名前で呼び、そして実子のように思っていたということですね」
「はい。今の健一君を、わが子だと思いたかった。……私には、そう見えました」
「上田さん宅には、亡くなったはずの実子、健一君の写真が一つも飾られていませんでした。そして仏壇に、位牌も置かれていませんでした。ご存じでしたか」
「はい。そのことは知っていましたが、そんな酷なことを聞くことはできませんから言葉にして確かめたことはありません。 姉夫婦は、健一君が亡くなったと思いたくなかったのだと思います。ですから……葬儀もしていません」
「上田さんご夫婦は、誘拐された実子の葬儀を出していない。まだどこかで生きていて、いつかは戻ってくると思っていたのでしょうか」
「生きていると、信じていた……願っていたのだと思います」
「以上です」
【検察側の尋問】
「被告人は、市役所の観光課に勤めていました。そして亡くなった養父の紘一さんは、信金の創立者の一族でした。その養父の紘一さんは、可愛くて仕方がなかった被告人を、なぜ信金に就職させなかったのですか」
「姉から、健一君には、好きなことをさせてやりたいと聞いております」
「被告人が、施設から迎えた養子だから、信金に就職させなかったのではありませんか」
「そのようには、聞いておりません」
「そうですか、質問を変えます。 上田さんのお宅は、いつも綺麗に片付けられていたのですね」
「支店長さんをしておられ、来客も多かったようでいつ行っても家の中は綺麗に片付けされていました。 紘一さんは、常々『人の上に立つものは、手本にならなければいけない。行いは潔癖で、身ぎれいにしておかなければといけない』と言っておられたようで、身なりも生活も派手ではありませんでした」
「几帳面で神経質なほど綺麗好き、そして躾に厳しかったのではありありませんか」
「躾が厳しかったかどうかは判りませんが、紘一さんも健一君も礼儀正しい人でした」
「養父の上田紘一さんは、被告人に対する躾は厳しく自身にも厳しい厳格な人だった。それゆえに、被告人が養護施設から迎えた養子だから、信金に就職させなかったのではありませんか」
「紘一さんから、直接聞いたわけではありませんが、先ほど言ったように、好きなことをさせてやりたいからと聞いています」
「では、被害者の養母 詢子さんの躾はどうでしたか」
「私よりは、厳しかったと思います」
「被害者 養母の詢子さんの世話焼きは、度が過ぎるほど過保護だったのではありませんか。先ほど証人が証言した『学校まで送り、一日中、廊下で様子を見ていた。小学校の修学旅行では先回りして見守っていた』その行為は、異常ではありませんか」
「確かに、私とは違いますが、実の子を亡くしていますからそれも仕方ないことだと思います」
「養母の詢子さんが、被告人の背中を毎日流していた。それは、日課になっていたのですね」
「お風呂は、中学のころまで一緒に入っていたようですが、それはやりすぎだと、私が注意しましたから、それからは一人で入っていたようですが、背中は必ず流していたようです」
「中学のころまで息子さんと一緒に入浴していた。成人した息子の背中を毎日流す、それは異常な行動ではありませんか。あなたは、ご主人の背中を毎日流しておられますか」
「いいえ」
「息子の背中を毎日流す、被告人は、それを嫌がっていたのではありませんか」
「それは、それぞれの家庭のことで……嫌がっていたかは、健一君にお聞きになればよいことです」
「そうですね。質問を変えます。 養母の詢子さんの世話焼きは、学校の送り迎え、修学旅行に先回り、中学生までお風呂に入り、成人となった今でも背中を流す。そして見合いの話し、そんな養母の世話焼きが、煩わしい、若者言葉で言うところのウザィと感じていたのではありませんか」
「そんなことは無いと思います。姉と一緒に、デパートへ買い物に行ったことがあります。姉は、紘一さんと健一君のポロシャツを買い求めました。健一君が、そのポロシャツを着ているところを見ましたから、嫌がっていたとは思えません」
「それは、いつのことですか」
「健一君が、大学に入った夏の初めだったと」
「大学生になっても、衣類を養母に買ってもらっていたのですね」
「そのようです」
「以上です」
「裁判長。被告人の尋問を行いたいと考えます」と、弁護人の廣田が申し出た。
3人の裁判官が、小声で打合せをした。
「裁判所は、尋問を許可したいと考えますが、検察官は認めますか」
「しかるべく」
「では、被告人は前へ」
「確認します。 健一君、あなたが、養母の詢子さんと養父の紘一さんを刺したのですか」
「……」
「健一君、もう今しか機会は無いのですよ。本当のことを言って!」
「被告人は、答えなさい」と、江田恭子が促した。
「健一君!」
「黙秘しますか?」と、遠山博章裁判長が尋ねた。
「健一君……」被告人の健一は、一言も言葉を発しなかった。
「検察官は、被告人に尋問を行いますか」
「はい」
「では、一点だけ。 被告人は、6月30日と7月1日の2日間、タウン誌の編集者 高橋涼子との取材に同行し八幡の街を訪ね歩いていた。養父の上田紘一さんは、信金の和田結衣さんから写真を借り……」
「うるさい!! もうやめてくれ!」と、健一は、興奮し怒鳴るように言った。
「静粛に!」
「被告人は、静粛にしなさい。 退席することになりますよ」と、江田恭子裁判官が諭した。
「被告人、これで審理を終わりますが、最後に言っておきたいことがありますか」と、遠山博章裁判長が尋ねた。
「ありません!」
「被告人は、席に戻りなさい」
「では、以上をもって審理を終了いたします。 次回は、9月28日 論告求刑公判を当法廷で行います」
こうして、被告人 健一の殺意が明らかにならないまま審理は終了した。 減刑には、情状だけが頼りであったが、被告人 上田健一の態度は、裁判官そして裁判員に悪い印象を与えたまま第二回公判は終り、3日後には、検察官は、論告し求刑を行う。弁護人の廣田には、もう反証の機会はないのだ。
「洋子さん、すいませんでした。お父様が、落ちても刺さらないようにと工夫した包丁が、紘一さんに刺さったなんて機嫌を悪くされてことでしょう。こうでも、しないと健一君を弁護することができなかったんです」と、廣田が、園部洋子に声を掛けた。
「いいえ、驚きましたが、父の包丁が刺さったことは事実ですから……廣田先生、実は、こんなものが姉の家のポストにありました」と、一枚の紙きれを廣田に渡した。
「これは、……恵美子君。すぐに連絡を取ってください」
園部洋子は、無人となった上田家に新聞が配達され続けているのではないか、請求書が送られてきてはいないかと心配し、上田家を訪れ、ポストの “不在連絡票”を見つけ持ち帰ったというのだ。そして、廣田は、養護施設“葵園”を訪ねる必要があると感じた。
一回公判に引き続き、検察側の証人尋問が行われ、郡上大和信用金庫 郡上支店の和田結衣が証言台に立った。
「和田結衣です。郡上大和信金の郡上支店で、貸付窓口係をしております」
「被告人の上田健一は、あなたの高校時代の先輩でしたね」
「はい」
「高校の頃より、面識がありましたね」
「はい」
「支店長の上田紘一さんが、被告人の父であることは知っていましたか」
「はい。高校の時、お父様が銀行にお勤めと聞いておりましたが、信金に入りお父様が支店長さんだと知り驚きました」
「では、本題の質問をさせていただきます。 第二の現場となった、居間に置かれていた“証拠物件その5”の、この写真の女性はあなたですね」
「はい、私です」
「これは、お見合い写真ですね」
「お見合い写真では、ありません。成人式の記念に撮った写真です」
「成人式の記念写真ですか。では なぜ、その記念写真が、現場にあったのでしょうか」
「私が、支店長さんにお預けしたからです」
「亡くなられた、被害者の上田紘一さんに預けた。それはいつのことですか」
「支店長さんからお願いされ、事件の前日にお預けしました」
「事件の前日、7月2日に渡されたのですね」
「はい」
「被害者の上田紘一さんは、あなたに、どう言って依頼されましたか」
「奥様に紹介したいから、良ければ写真を貸してほしいとお願いされました。スナップ写真で良いと言われましたが、プリントしたものがありませんでしたから、成人式に撮ったその写真を翌日にお預けしました」
「奥様に紹介したいとは、お見合いをするということですね」
「お見合いのような肩苦しいものではなく、お付き合いのきっかけになればとおっしゃられました」
「それは、被告人と、お付き合いをして欲しいということですね。 被害者の上田紘一さんは、なぜそうされたのでしょう。その必要が、あったのでしょうか?」
「奥さまが、健一さんの縁談話がまとまらないことを心配されていると……」
「亡くなられた養母の上田詢子さんは、被告人の縁談話がまとまらないと心配されていたのですね」
「はい。そのようでした」
「縁談話がまとまらない。その理由を、聞かれましたか」
「はっきり口にされたわけではありませんがが、健一さんが養子さんだからと……」
「それは、被告人が、施設出身者だということですね」
「……そうだと、思います」
「写真を渡したときの、上田紘一さんの様子はどうでした」
「大変、喜んでおられました。写真を見て奥様が気に入れば、健一さんにそれとなく話しをするだろうとおっしゃいました」
「養父の上田紘一さんは、あなたと被告人の交際が始まることを期待していたということですね」
「そうだと……思います」
「その写真を、渡された後どうなりましたか」
「翌日に、わざわざ支店長さんから声を掛けてこられました」
「わざわざというのは、被害者の普段の行動とは違うということですね」
「はい、支店長室に呼ばれましたから」
「普段、支店長室に呼ばれることはなかったということですか」
「いいえ、支店長室に呼ばれることは度々ありましたが、それは仕事の要件で、私的なことで呼ばれたのは初めてでした」
「わざわざ、あなたを支店長室に呼び話しをされたのですね。それは、どのような話しだったのですか」
「奥様が、今晩にも健一さんに話しをするだろうとおっしゃいました」
「今晩というのは、事件の当日ですね」
「はい、そうです」
「事件のその晩に、被告人に話しをするといったのですね」
「はい」
「質問を変えます。 被害者の養父 上田紘一さんは、郡上大和信金創設者の一族で信金の支店長でした。後継者にあたる被告人を、信金に就職させなかったのはなぜでしょうか」
「支店長さんは、『健一さんには、好きなことをさせてやりたい』と言っておられましたから、そのようにされたのだと思います」
「被害者の紘一さんは、とても厳格な方とお聞きしております。自身にも厳しく、それゆえに施設出身者の被告人を信金に就職させなかったのではありませんか」
「それは、……分かりません」
「以上です」
【弁護側の尋問】
「あなたは、融資窓口の担当でしたね」
「はい」
「あなたは、被害者の上田紘一さんと、どのような関係でしたか」
「直接の部下ではありませんが、支店長さんは、気さくな方で良く声を掛けてくださいました」
「支店長の上田紘一さんは、複数いる女性行員のなかから、なぜ、窓口業務をしておられるあなたに、写真を貸してほしいとお願いしたのでしょうか」
「それは……私が、健一さんの後輩だと支店長さんが知ったからだと思います。 盆踊りのお手伝いで、私と健一さんが一緒にいるところに、偶然、支店長さんがおいでになられ、私が健一さんの後輩であることを話されました。 それに、支店長さんには、古くからのお客様がありましたので、報告や相談することが度々ありました」
「あなたと支店長の上田紘一さんは、他の行員さんより親密な関係であったということですね」
「親密だなんて……機会が、多かっただけです」
「表現が、適切ではありませんでしたね。 質問を変えます。あなたは、健一君が施設から迎えた養子であることを、以前よりご存じでしたね」
「はい。年配の方は皆さんご存じだと思いますが、私は、八幡高校に入学し、健一さんと同じ大和中学を卒業した友達から、誘拐のことや施設から迎えた養子さんであることをそれとなく聞いていました。 支店長さんから、写真を貸してほしいとお願いされたとき、遅くに出来た子を亡くし健一さんを施設から迎えたのだとお聞きしましたが、驚きはありませんでした」
「支店長の上田紘一さんから、被告人が施設出身者であることを聞き、それでも、あなたは写真を預けた。 被告人の健一君に、悪い印象はなかったということですね」
「はい。健一さんは、成績も良くバスケット部のキャプテンをしていましたから、女子の憧れでした。市のイベントで再会しましたが、以前の印象と変わりありませんでしたから、お話しをお聞きしたとき、嫌な気はしませんでした」
「それで、承諾したということですか」
「……はい」
「写真は、事件の前日 7月2日の木曜日に渡した。貸してほしいとお願いされたのは、その前日のことでしたね」
「はい、7月1日 水曜日でした」
「その7月1日。 どこで、お願いされましたか」
「車の中で、お願いされました」
「車の中ですか。具体的に、説明していただけますか」
「その日は、午後から融資の件で“陣屋さん”に伺いました。その道中の、車中でお願いされました」
「支店長の上田紘一さんが、同行されたのですか」
「はい。陣屋さんは、旅館とホテルを経営されておられる古くからのお客様で、ホテルを改装したいと融資の相談がありました。 その陣屋さんは、支店長さんの幼馴染でしたので、支店長さんが同行していただけることになり、そのホテルに二人で伺いました」
「そのホテルとは、どのような形態のものでしょうか。観光ホテルでしょうか、若しくはビジネスホテルでしょうか」
「ホテルといっても……郊外にある、国道沿いのホテルです」
「いわゆる“モーテル”ですね」
「……はい。ホテル千鳥です」
「その日の、午後からと証言されましたが、具体的に信金を出た時刻、戻られた時刻を覚えておられますか」
「窓口業務が落ち着いた、午後の3時ころに信金を出て、終業時刻まえの5時すぎに戻りました」
「そのホテル千鳥へ行かれた時、何か変わったことがあったのではありませんか」
「融資のお話しで、同行していただいただけですから、何もありません」
「では、支店長さんに、何か変わった様子はありませんでしたか」
「何も……無かったと、思います」
「写真は、その翌日に渡された。どこで、渡されたのですか」
「支店長室で、陣屋さんの融資計画書をお持ちしたときにお渡ししました」
「改めてお聞きします。あなたが知る、被告人はどんな人物ですか」
「高校時代の印象と変わりなく、とてもまじめな方だと思います」
「被告人が、養父母 二人を刺したと思いますか」
「そんなこと、絶対にないと信じています。 私の写真が、事件のきっかけになったように言われ、困惑し……とても残念です」
健一は、視線を落としたまま身動きせずにいた。
「最後に、お聞きします。あなたは、健一君と交際ができることを願っていましたか」
「……はい」
「それは、今でも変わりませんか」
「健一さんが、両親を刺したとは思っていません。……ですから……変わりません」
そのとき、一瞬、健一の肩が動いた。
「以上です」
検察側の最後の証人となる、県警本部刑事課 課長の尋問が行われた。
「県警本部刑事課 課長、横山 勉(よこやま つとむ)です」
「取調べは、横山刑事課長 あなたが行ったのですね」
「はい。私が、この事件の担当となりましたので、私が、事情聴取しました」
「取調べ時の、被告人の態度や様子はどうでしたか」
「身元確認で、“葵一巳”だと主張しました。 上田健一だなと確認すると、『健一じゃない、葵一巳だ』と言い張り、取調べがはかどりませんでしたので、それ以降の取調べは“葵一巳”として行いました。 大声を上げることも暴れることも無く、素直に応じていました」
「身元確認以降は、特に問題なく取調べができたわけですね」
「はい」
「では、被告人が、供述調書に署名したときの様子を話していただけますか」
「はい。私が、供述調書を読み上げ『お前がやったんだな。間違いは無いな』と、被告人に確認しました。被告人は、うなずき自ら供述調書に署名しました」
「供述調書の署名は、強要したものでは無いということですね」
「はい。素直に署名しました」
「以上です」
弁護側の喚問が行われた。
「取調べは、横山刑事課長 あなたが行ったのですね」
「はい。この事件の担当でしたから、私が行いました」
「通常は、所轄の担当刑事が行うものではありませんか、なぜ、県警本部に所属するあなたが取調べを行ったのですか」
「当初、所轄の安田警部補と須田刑事が取調べしておりましたが、身元確認の段階でつまずいておりましたから、私が行うことにしました」
「被告人が、黙秘していたとお聞きしましたが」
「黙秘ではありません。ためらうというか、渋ってなかなか話そうとしなかっただけです。 取調べは“葵一巳”として行いました。被告人は、この法廷でも、葵一巳だと答えています。自身が行った惨忍な凶行を認めたくなかった。だから、上田健一ではない葵一巳だと主張したのでしょう。心象が悪くなるだけですからね、理解できませんよ」
「質問を変えます。 犯行のきっかけは、『背中を流していた養母の詢子さんと、被告人自身の見合い話しで口論となった』とされておりますが、これは被告人の供述したものですか。被告人は、黙秘していたのではありませんか」
「そのようなことはありません。養母の詢子と口論となったことは、被告人自身の供述です」
「浴室でされたはずの口論の様子、また、詢子さんと紘一さんをどのように刺したか、調書には具体的な記述がありません。それは、どうしてでしょうか」
「被告人は、自身の犯行を認めたくなかったのでしょう。口論となったことは素直に認めましたが、その会話や犯行について、断片的に供述したからです」
「被告人が黙秘し送検期限が迫り、『義母を鏡に打ち付け押し倒し、割れた鏡でのどを刺した。テーブルに置かれていた包丁で、義父の左腹部を包丁で刺した』と、あなたが事件のストリーを創作し、被告人に署名を強要したのではありませんか!」
「失敬な! 創作などではない。被告人は、事実を語り自ら調書に署名しています。断じて強要などではない!」
「被告人は、『自分のせいだ』と言っただけではありませんか」
「確かに、そのような表現の供述はありました。現場からは、関係者以外の指紋・足跡は検出されておりませんし、逃走者の目撃証言もありません。 2つの凶器からは、被告人の指紋が検出されています。ですから、被告人の関与は間違いないことです」
「以上です」
弁護側の1人目の、証人尋問が行われた。
「当初予定していた証人、園部正次郎さんの体調が思わしくありませんので、息子さんの園部陽次郎さんに来ていただきました」
「検察官は、この証人の尋問を認めますか」
「しかるべく」
「では、証人の尋問を認めます」
「では、改めて証人は、氏名・職業を述べてください」
「えー 園部陽次郎です。関(市)で、刃物を製造しております」
「弁護人は、尋問をどうぞ」
「あなたと、事件の関係を説明してください」
「えっと……上田詢子さんの、義理の弟にあたります。その……妻が、詢子さんの妹です」
「凶器とされる、この包丁に見覚えがありますか」
「はい。姉の銘が入っていますから、義理の父、園部正次郎が作った包丁で姉に持たせたと聞いております」
「上田詢子さんの、お父様 園部正次郎さんが作り、上田家に嫁ぐとき詢子さんに持たせた物なのですね」
「はい。市販はしていない特別な物で、今まで3組しか作っていないと聞いています。 残りの2組は、妻の洋子と義理の母が使っています」
「果物などを切るときに使用する、ペティナイフと呼ばれるものですね」
証人の園部陽次郎は、包丁の話しを流暢に語り始めた。
「ペティナイフは、三徳包丁等と比べると刃幅が狭く、先が尖っているのが特徴です。うちのペティナイフは、刃が15センチと少し長く、果物に限らず、料理の下拵えにも使いやすいサイズです。 姉も、この包丁を良く使っていたようで、事件前に父が研ぎ直しています」
「研ぎ直し、それはいつのことですか」
「事件のあった前の週、たしか火曜日でした、父が研いでいる間、姉は洋子と雑談をしていました」
「研いだばかりで、“良く切れた”ということですね」
「はい。それは、とても良く切れたはずです」
「今まで3組しか作られていない“特別な物”とのことですが、一般的な包丁とどこが違うのですか」
「はい。刃の根本部分、柄に差し込まれた部分を中子と呼びます。和包丁の場合、中子を熱し木製の柄に差し込みます……」
「意義あり! 証拠品の包丁は、凶器として使われたことについては疑いのない事実で、包丁の作りを審議する必要性は無いと考えます」
「弁護人は、何を明らかにしようとしているのでしょうか」
「証拠とされる包丁を使用し殺害したとされることについて、反論を行いたいと考えています」
「あの……裁判長。私は、主婦としてとても興味があるお話しのようでもう少し聞きたいと思います」と、40歳代の女性裁判員が発言した。
「では、証人は、証言を続けてください」
「えーと、プロ仕様は切れ味重視、一般用は、錆びにくい材料を……そう、その中子でしたね。 えーと、洋包丁の場合は、柄の部分も金属で作られた一体のもありますが、家庭用などの一般的なものは、半中子と言って、柄に切り込みを入れ中子を差込み2本の鋲で固定します。業務用などのプロ仕様では、本通しと言って、柄と同じ形をした中子部分を固い木材で挟み、3本の鋲で固定し柄を付けます。プロ仕様は、握り部分すべて中子が通っているということで強度・耐久性が高いということです。
通常、柄の部分の中子の厚さは、本通しでも刃と同じ厚さです。 その父が作った包丁は、柄の断面を見ていただければ判ると思いますが、刃の3倍ほどの厚さです。材料も多く必要になりますし、手間が掛かりますからこういった作り方はしません」
「どうして、柄の部分を厚くしてあるのですか」
「はい。その分、少し重くなりますが握ったときのバランスと、安全性です。包丁の重心を手元に近くすることで、力のない小柄な女性でも使い易くなるのです。特に一番大きな牛刀は刃渡りが21センチにもなりますから女性では扱い辛いのです」
「もう一つの安全性とは、どういうことでしょうか」
「誤って包丁を落としてしまったとき、刃先が下になり落下することがあります。 昔、母が、包丁を落とし刃先が床に刺さり、刃先が折れたことがあったそうです。もう少しずれていたら、足に刺さっていたところだったと聞いております。それで、父が、この包丁を製作したとのだと聞いております。 よく使う三徳包丁の刃渡り18センチのものであれば、柄が下になり落ちる割合が6割以上、ペティナイフであれば、ほとんど柄が下になり落ちます」
「犯行に使用されたとする15センチのペティナイフであれば、柄が下になり落ち足には刺さらない。安全ということですね」
「はい。テーブルか椅子があれば簡単に再現できます。実際にお目にかけましょうか」
廣田は、妹の園部洋子が普段使用しているペティナイフ“弁号証2”と、同じサイズの市販品“弁号証3”を提示した。
「妹の園部洋子さんが使用しているこの包丁は、全長260ミリメートル、刃渡り150ミリメートル、重量が93グラムで、“証拠物件その3”と同時期に園部正次郎氏が製作したもので同一といってよいものです。そして、この市販品のペティナイフは、 全長260ミリメートル、刃渡り150ミリメートルで、重量は、75グラムです。
この2本のペティナイフを使用し、落下する様子を比較したいと思います。 裁判長、許可を頂けますか」
「どうぞ、再現を見せてください」
「では、園部陽次郎さん、このパイプ椅子で、実際にやっていただけますか」
「はい。2つの包丁を、椅子の縁に平行に並べに置きます。椅子の背もたれを持ち上げ、傾斜をつけ包丁を落とします」
「どうでしょうか、うちの包丁は柄が下になり落ちたでしょ」
「もう一度、お願します」
「椅子の、背もたれを持ち上げます。うちの包丁は柄が下になり落ちます。検事さんもやってみますか」
「証人、再現はもう結構です。弁護人は、それが何に係るというのですか」
「はい。テーブルに上に置いてあった包丁が落下し、刃先が上方に向いた状態で床に落ち、そこへ被害者の紘一さんが、倒れこんだ。と、いうことです。
被告人が、この包丁で被害者を刺すところは誰も目撃していません。供述調書には具体的にどの様に刺したと記述されておらず、検察が主張する被告人がこの包丁で刺したというのは推測にすぎません。 弁護人は、供述調書に書かれている供述自体が疑わしいものと考えます」
傍聴席が、ざわついた。
「裁判長! 意義あり」
「弁護人は、言葉を選んで発言するよう心掛けてください」
「はい。 続けさせていただきます。この現場写真をご覧ください。本来テーブルが置かれていたこの位置 この床にできた血だまりの中に、僅かですが凹みが確認できます。開示請求した関係書類には、凹みがあると記載されていますが、証拠として提出された実況見分調書には記述されておりません。 この床の傷こそが、刃が上向きに落下した証しであると考えます」
「意義あり!」
「検察官、どうぞ」
「その床の凹みは、犯行時以前の日常生活で生じたものと判断しております。 証人は、その凹みが犯行時に出来たと証明できるのですか」
「証明は、出来ません。 死体検案書に示された凶器が刺さった角度と向きには、被告人が刺したとするには疑問が残るところです。 調書には、“被告人が遺体を起こし仰向けにした”と記述されています。床の凹みは、遺体の右横45センチメートルに位置し、発見時の上向きの遺体をうつぶせに戻せば、床の凹みと被害者の傷口はおおよそ一致します。ですから、被害者が何かの拍子に倒れ込みテーブルがずれ、テーブルに置かれていた包丁が落下し、刃先が上向きになった包丁に、被害者 紘一さんが倒れ込み左腹部に刺さったものとするのが妥当と考えます」
傍聴席が、再びざわついた。
「以上です」
【検察側の尋問】
「その、落下の状態や安全性を、証明できる公的な書面などがあるのですか」
「書面ですか、そんなものはありません。何でしたら、もう一度やってみましょうか」
「結構です。 安全性を、証明できる書面はない。床の凹みがいつ出来たものかも不明で、事件との関連性について何の根拠もありません。 『包丁の刃が、上を向いて落ちた。そこへ被害者が倒れ、刺さった』など、そんな都合のいい偶然はあり得ない。すべては、弁護人が思いついた空想でしかありません」
「検察官は、ほかに尋問することはありますか」
「ありません」
「証人は、下がってください」
弁護側の、もう一人の証人、園部洋子の証人尋問が行われた。
「証人は、氏名・職業を述べてください」
「園部洋子です。家業の刃物製造を手伝っております」
「証人は、亡くなった上田詢子の妹さんで、被告人 健一君の、伯母にあたるわけですね」
「はい、そうです」
「被告人の健一君と、被害者の上田紘一さん 詢子さんとの関係はどうでしたか」
「健一君は、とてもまじめで素直な青年です。親子関係が悪いなどあり得ません」
「家庭内暴力は、ありましたか」
「いいえ、そんなことは一切ありません。私は、度々姉夫婦宅を訪れていましたが、いつも綺麗に片付いていましたし、そんな話しを聞いたことはありません」
「被告人の健一君は、小さい頃いじめを受けていたのではありませんか」
「はい。中学の頃にはいじめはなくなったようですが、小学生の頃には、“貰われっ子って”いじめられていたようです。 リコーダーを田んぼに投げ捨てられ、学校から泥だらけで帰ってきて庭で体を洗っていたこともあったようです。それでも『自分が転んで、田んぼに落ちた』と、言っていたと姉から聞いたことがあります」
「意義あり! 証人の供述は、被告人から直接聞いたものでなく伝聞供述に相当し証拠にはなりません」
「でんぶん きょうじゅつ? ですか」
「“見聞きしたことを聞いた”ということで証拠能力がないということですが、証人は、被害者の上田詢子さんから直接お聞きになったのですね」と、江田恭子が尋ねた。
「はい、姉がそう言っていました」
3人の裁判官が、小声で打合せをした。
「裁判所は、問題はないと判断します。証人は、証言を続けてください」
「では、詢子さんの、健一君への接し方はどうだったでしょうか」
「姉夫婦は、実の子を誘拐で亡くしていますから、溺愛というかそれはたいせつにしていました。
健一君が、小学校に入学した数日は、学校まで送り一日中廊下から様子を見ていたようですし、低学年の頃まで学校の送り迎えをしていました。小学校の修学旅行では、先回りして見守っていたほどです」
「修学旅行で先回りする。それは、宿泊が伴うことになりますね。夫の紘一さんは、詢子さんのその行動を容認していたということですね」
「そうだと思います。紘一さんも、可愛くて仕方がなかったと思います」
「事件発生時、詢子さんは健一君の背中を流していた。健一君の背中を流すのが、お姉さんの日課だったのですね」
「はい、そうです。『お嫁さんを貰っても、背中は私が流してやるの』と、姉は言っていました」
「『お嫁さんを貰っても、背中は私が流す』それは、どういう意味でしょうか」
「それは、……その言葉のとおりだと思います」
「先ほどの証人、信金の和田結衣さんが、『紘一さんが、健一君の縁談話がまとまらないと言っていた』と証言されました。あなたは、そのようなお話しを聞いておられましたか」
「はい。姉は『縁談話がまとまらない』と、健一君の結婚を心配していました」
「心配されていた。具体的に、どう言っていたのでしょうか」
「健一君は、異性とのお付き合いもなく、良い縁談話しも無いと心配し、なんとか良いお相手を見つけてやりたいと言っていました」
「異性とのお付き合いのことも、心配しておられたのですね」
「はい。健一君 自身が、お付き合いに慎重になっているようだと言っていました」
「詢子さんは、健一君が、養護施設出身者だから、異性とのお付き合いに慎重になり、縁談話しも無いと言っていたのですね」
「はい、そうです」
「それで、見合いの相手を見つけてやりたい。その、お相手が見つかったのでしょか」
「見合いとは聞いてはおりませんが。信金にお勤めのお嬢さんだと聞きました」
「そのお話しは、どれくらい進んでいたのでしょうか」
「紘一さんが、お嬢さんから写真をお借りして、姉に見せたのだと」
「その写真とは、現場の居間に置かれていた、郡上大和信金郡上支店 和田結衣さんの写真ですね」
「お名前を、聞いたわけではありませんが、そうだと思います」
「詢子さんは、健一君が施設出身であることが障害となっていると、とても心配されていた。その和田結衣さんの話しについて、詢子さんはどのような感触だったのでしょうか」
「写真をお借りできたと喜び、健一君とも面識があるからと期待していたような様子でした。そして、『もうすぐ、はっきりする』とも言っていました」
「その『もうすぐ、はっきりする』とは、何が、はっきりするのでしょうか」
「それは、話してはくれませんでしたから分りませんが、悪い話しではないと思いました」
「和田結衣さんとの、お付き合いのことでしょうか」
「そうだと、思います」
「そのお話しは、いつされたのですか」
「事件があった、その日の午後に電話で話しました」
「事件の当日、午後にお話しをされたのですね」
「はい」
「話題を変えます。 上田さんご夫妻が、健一君を養護施設“葵園”から迎えた経緯をご存知ですね。話していただけますか」
「はい。姉夫婦には、遅くに出来た実子の健一君がおりました。その健一君は、3歳の誕生日をまえに誘拐され戻ってきませんでした」
「誘拐され、行方不明になってしまったのですね」
「はい、そのことがあって姉は体調がすぐれずうつになり、心配した紘一さんが少しでも気が紛れればと、姉を連れ温泉や神社お寺を巡るようになりました。 誘拐から4年が過ぎたころ、宿泊していたホテルのプールで水浴びをしている子供たちの中に、健一君を見つけ“葵園”を訪ねたと聞いております」
「被告人の健一君と、偶然に出会った。その当時の、上田さん夫婦の様子はどのようでしたか」
「それはもう大変な喜びようで、土産を持って二人で訪ねてきました。姉は、以前のように明るくなりうつの様子は見られませんでした」
「被告人の、元々の名前は“葵一巳”ですが、10歳の誕生日の頃に“健一”に改名されています。 10歳の頃とは、実子の健一君の誘拐から7年です。失踪から7年経過すれば法的に死亡扱いとされます。そのころ被告人の名前が改名されたわけですが、上田さんご夫婦は、被告人をどのように呼んでいましたか」
「養子さんに迎えたときから『けんちゃん』と呼んでいました。“一巳君”と、呼んだことは一度も無かったと記憶しています」
「改名の届け出する以前、養子に迎えた直後から『健一』と呼んでいたのですね。それは、なぜでしょうか」
「実の子のように……思っていた。そう思いたかったに違いありません」
「被告人の健一君を、亡くなった実子と同じ名前で呼び、そして実子のように思っていたということですね」
「はい。今の健一君を、わが子だと思いたかった。……私には、そう見えました」
「上田さん宅には、亡くなったはずの実子、健一君の写真が一つも飾られていませんでした。そして仏壇に、位牌も置かれていませんでした。ご存じでしたか」
「はい。そのことは知っていましたが、そんな酷なことを聞くことはできませんから言葉にして確かめたことはありません。 姉夫婦は、健一君が亡くなったと思いたくなかったのだと思います。ですから……葬儀もしていません」
「上田さんご夫婦は、誘拐された実子の葬儀を出していない。まだどこかで生きていて、いつかは戻ってくると思っていたのでしょうか」
「生きていると、信じていた……願っていたのだと思います」
「以上です」
【検察側の尋問】
「被告人は、市役所の観光課に勤めていました。そして亡くなった養父の紘一さんは、信金の創立者の一族でした。その養父の紘一さんは、可愛くて仕方がなかった被告人を、なぜ信金に就職させなかったのですか」
「姉から、健一君には、好きなことをさせてやりたいと聞いております」
「被告人が、施設から迎えた養子だから、信金に就職させなかったのではありませんか」
「そのようには、聞いておりません」
「そうですか、質問を変えます。 上田さんのお宅は、いつも綺麗に片付けられていたのですね」
「支店長さんをしておられ、来客も多かったようでいつ行っても家の中は綺麗に片付けされていました。 紘一さんは、常々『人の上に立つものは、手本にならなければいけない。行いは潔癖で、身ぎれいにしておかなければといけない』と言っておられたようで、身なりも生活も派手ではありませんでした」
「几帳面で神経質なほど綺麗好き、そして躾に厳しかったのではありありませんか」
「躾が厳しかったかどうかは判りませんが、紘一さんも健一君も礼儀正しい人でした」
「養父の上田紘一さんは、被告人に対する躾は厳しく自身にも厳しい厳格な人だった。それゆえに、被告人が養護施設から迎えた養子だから、信金に就職させなかったのではありませんか」
「紘一さんから、直接聞いたわけではありませんが、先ほど言ったように、好きなことをさせてやりたいからと聞いています」
「では、被害者の養母 詢子さんの躾はどうでしたか」
「私よりは、厳しかったと思います」
「被害者 養母の詢子さんの世話焼きは、度が過ぎるほど過保護だったのではありませんか。先ほど証人が証言した『学校まで送り、一日中、廊下で様子を見ていた。小学校の修学旅行では先回りして見守っていた』その行為は、異常ではありませんか」
「確かに、私とは違いますが、実の子を亡くしていますからそれも仕方ないことだと思います」
「養母の詢子さんが、被告人の背中を毎日流していた。それは、日課になっていたのですね」
「お風呂は、中学のころまで一緒に入っていたようですが、それはやりすぎだと、私が注意しましたから、それからは一人で入っていたようですが、背中は必ず流していたようです」
「中学のころまで息子さんと一緒に入浴していた。成人した息子の背中を毎日流す、それは異常な行動ではありませんか。あなたは、ご主人の背中を毎日流しておられますか」
「いいえ」
「息子の背中を毎日流す、被告人は、それを嫌がっていたのではありませんか」
「それは、それぞれの家庭のことで……嫌がっていたかは、健一君にお聞きになればよいことです」
「そうですね。質問を変えます。 養母の詢子さんの世話焼きは、学校の送り迎え、修学旅行に先回り、中学生までお風呂に入り、成人となった今でも背中を流す。そして見合いの話し、そんな養母の世話焼きが、煩わしい、若者言葉で言うところのウザィと感じていたのではありませんか」
「そんなことは無いと思います。姉と一緒に、デパートへ買い物に行ったことがあります。姉は、紘一さんと健一君のポロシャツを買い求めました。健一君が、そのポロシャツを着ているところを見ましたから、嫌がっていたとは思えません」
「それは、いつのことですか」
「健一君が、大学に入った夏の初めだったと」
「大学生になっても、衣類を養母に買ってもらっていたのですね」
「そのようです」
「以上です」
「裁判長。被告人の尋問を行いたいと考えます」と、弁護人の廣田が申し出た。
3人の裁判官が、小声で打合せをした。
「裁判所は、尋問を許可したいと考えますが、検察官は認めますか」
「しかるべく」
「では、被告人は前へ」
「確認します。 健一君、あなたが、養母の詢子さんと養父の紘一さんを刺したのですか」
「……」
「健一君、もう今しか機会は無いのですよ。本当のことを言って!」
「被告人は、答えなさい」と、江田恭子が促した。
「健一君!」
「黙秘しますか?」と、遠山博章裁判長が尋ねた。
「健一君……」被告人の健一は、一言も言葉を発しなかった。
「検察官は、被告人に尋問を行いますか」
「はい」
「では、一点だけ。 被告人は、6月30日と7月1日の2日間、タウン誌の編集者 高橋涼子との取材に同行し八幡の街を訪ね歩いていた。養父の上田紘一さんは、信金の和田結衣さんから写真を借り……」
「うるさい!! もうやめてくれ!」と、健一は、興奮し怒鳴るように言った。
「静粛に!」
「被告人は、静粛にしなさい。 退席することになりますよ」と、江田恭子裁判官が諭した。
「被告人、これで審理を終わりますが、最後に言っておきたいことがありますか」と、遠山博章裁判長が尋ねた。
「ありません!」
「被告人は、席に戻りなさい」
「では、以上をもって審理を終了いたします。 次回は、9月28日 論告求刑公判を当法廷で行います」
こうして、被告人 健一の殺意が明らかにならないまま審理は終了した。 減刑には、情状だけが頼りであったが、被告人 上田健一の態度は、裁判官そして裁判員に悪い印象を与えたまま第二回公判は終り、3日後には、検察官は、論告し求刑を行う。弁護人の廣田には、もう反証の機会はないのだ。
「洋子さん、すいませんでした。お父様が、落ちても刺さらないようにと工夫した包丁が、紘一さんに刺さったなんて機嫌を悪くされてことでしょう。こうでも、しないと健一君を弁護することができなかったんです」と、廣田が、園部洋子に声を掛けた。
「いいえ、驚きましたが、父の包丁が刺さったことは事実ですから……廣田先生、実は、こんなものが姉の家のポストにありました」と、一枚の紙きれを廣田に渡した。
「これは、……恵美子君。すぐに連絡を取ってください」
園部洋子は、無人となった上田家に新聞が配達され続けているのではないか、請求書が送られてきてはいないかと心配し、上田家を訪れ、ポストの “不在連絡票”を見つけ持ち帰ったというのだ。そして、廣田は、養護施設“葵園”を訪ねる必要があると感じた。
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