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第2章 弁護の依頼
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弁護士の廣田 武士(ひろた たけし)は、昼食時の混雑を避けるため少し遅く昼休憩をとることにしていた。正午を25分ほど過ぎたころ、事務机にひろげた書類を裏返し開いていた六法全書の頁に付箋をつけ閉じた。そして席を立ち「食事に行ってきます」と告げ、事務所近くの蕎麦屋に向かった。
廣田が向かった蕎麦屋は、この辺りではちょっとした人気の店で正午ころには店内に入りきれない客が店の前に並び列ができる。この店の名物は、冷やした麺類でランチタイムでも客の回転は速くその列の流れは速いのだが、廣田は、こういった列に並ぶのが苦手なのだ。ただ何もすることなく待つそのわずかな時間さえ、廣田は苦痛と感じわざわざ時間をずらし昼食をとるのだ。
信号交差点を渡り路地を曲がったところで、蕎麦屋の暖簾が見えた。昼時のピークを過ぎ空席まちの列は無く一人のサラリーマン風の男が店内に入っていくところだった。
廣田も、その客に続き暖簾をめくり店内を 覗いた。「あいにく満席ですので、しばらくお待ちください」と、店員が廣田に声をかけた。店の外に用意された丸い座面のスツールに腰を掛け席が空くのを待った。ほどなくして工員風の3人の客が店から出てきた。廣田は、立ち上がりすれ違うように暖簾をくぐり店内に入った。
ピークは過ぎているといえ、いつものことで長テーブルの相席を案内された。店員に「冷やしタヌキ」と告げ、縁に練ワサビが残った空のどんぶりがの置かれたままの、その長テーブルの角の席に座った。
廣田が注文した“冷やしタヌキ”は、この蕎麦屋の名物の一つで氷水でヒンヤリと冷やしたそばに、甘辛く炊いたお揚げにたっぷりの天かす刻み葱に多めのワサビがトッピングされている。汁は少なめで、特に食欲の落ちる夏場にはうってつけなのだ。なによりも、ランチタイムのような混雑時でも注文してすぐに出てくるから、時間が限られているサラリーマンのような勤め人たちには人気ナンバーワンのメニューなのだ。
廣田の、目の前の空になったどんぶりが下げられた。すかさず“冷やしタヌキ”とコップの麦茶が出された。廣田は、割りばしを割りそばをすすり始めた。正面のテレビ音声に、廣田はそばをすする手を止めテレビに目を向けた。キャスターが『郡上市の両親刺殺事件』の容疑者が起訴されたことを短く告げた。
廣田は、蕎麦屋をあとにし午後の1時ちょうどに居候している桜井法律事務所に戻った。
廣田は、65歳になるが2年前に検察庁を定年退官し弁護士に転向した検事上がりの弁護士いわゆるヤメケンである。そして自身の事務所を持たない居候のイソ弁なのだ。現在は、伝手のあったこの桜井法律事務所に在籍している。
「廣田先生、今日も冷やしタヌキですか」と、桜井 恵美子(さくらい えみこ)が声をかけた。
「まだまだ、暑いですからね」
「廣田君、弁護依頼が来たよ。恵美子には、ちょっと荷が重すぎるが、君に適任の案件なんだ」と桜井が言った。
「傷害事件ですか?」
「いやもっと厄介なんだが、郡上の有坂法律事務所からの紹介でね」
「郡上の有坂先生ですか……もしかして、今日送検された郡上市の両親刺殺事件ですか」
「察しがいいね、その刺殺事件ですよ」
「うちの事務所で、初めて扱う殺人容疑事件になりますね」
「荷が、重いですか」
「経験豊富な、廣田先生ならNo problemですよね」と、冷やかすように恵美子が言った。
「いや……どうしてうちの事務所に依頼が?」
「お父さんは、廣田先生が検事上がりだって随分宣伝してましたからね、そのかいがあって依頼が きたんですよ」
廣田は、その検事上がりの“ヤメケン”で元検事なのだが、検察事務官から特別孝試を経て検察官となった特任検事で、その経歴と立場上重要案件を取り扱ったことはなく、主に道路交通法違反・傷害窃盗事案を担当しており法廷経験などは一度もないのだ。
「その刺殺事件の被害者が、郡上大和信金の支店長をされていたそうで、その信金の顧問弁護士が有坂先生なんだ。有坂先生の事務所は刑事案件は扱わないし、顧問をされているからプライベートな案件には触れたくないとも言っておられましたね」
「被害者は、両親でしたね。クライアントは、ご家族ですか?」
「クライアントは、被害者の妹さんのようだ」
「被害者の妹さんですか、何か奇妙ですね」
「そりゃ、加害者・被害者が親子だから自然とそうなる」
「そうですか、被害者の妹さんですか」
「その妹さんは、関市に住んでおられるようでもう来ちゃうからね、断れないんだよ」
「とりあえず、状況を聞いてからですよね」
「まあ、話だけでも聞いてやってくれませんかね」
「そうですか」
「廣田先生の、仕掛の案件・スナックの看板を壊した示談の案件は、私が引き継ぎますから安心してください。恵美子も、離婚調停案件を早くかたずけて廣田先生を手伝ってあってください」
「はいはい。なにせ桜井法律事務所で、初めて扱う殺人容疑事件になりますからね。敗訴はできませんからね」
廣田の、経歴を知っている2人の言葉に、廣田は身がしまる思いがした。
桜井法律事務所は、岐阜地方裁判所・岐阜地方検察庁近くの雑居ビルの一室に事務所を構えている。クライアントは顧問契約をしている企業のほかに個人事業者が主な顧客であるが、事務所近くの歓楽街である柳瀬飲食店組合との契約をしており、その組合員が持ち込む飲食代の売掛代金の取り立相談や、酔ったお客とのもめごとで殴った蹴ったといったけんか程度の事案で、示談で和解できる案件ばかりで訴訟になるというほどの案件はめったにない。また岐阜県内に、刑事事件を扱う法律事務所は少なく、まして殺人となると県内には引き受ける法律事務所はまず無い。桜井は、そんな事件の弁護を引き受けたのだ。
事務所の、ドアがノックされた。
「お見えのようですよ」
「どうぞ、こちらへ」と恵美子が迎えた。
「初めまして、私は園部洋子と申します。甥の弁護のご相談をしたくお伺いました」
「はい。有坂先生より伺っております。どうぞこちらへ」と、恵美子が応接テーブルに案内した。
桜井が「桜井法律事務所の桜井です。ご相談を受けます、桜井恵美子弁護士と廣田武士先生です」と、2人を紹介しそれぞれが名刺を渡した。
「どうぞお掛けくださいと」桜井が促した。
廣田が「よろしくお願いします」とお辞儀し園部洋子の正面に腰を掛けた。
恵美子が、園部洋子にお茶を出し「甥御さんの、弁護のご相談とは」いいながら廣田の横に腰を掛けた。
「郡上大和信金で、有坂先生を紹介されていただいたのですが、殺人事件は扱わないからとこちらを紹介されました」
「そうでしたか。その相談とは、郡上市の両親刺殺事件ですね」
「はい」
「すでに起訴された案件ですから、すでに弁護人が選定されているはずですが」
「国選の弁護士さんが担当されると、有坂先生よりお聞きしました。その国選の弁護人には、あまり期待しないほうが良いと……」
「では、弁護の依頼ということでしょうか」
「はい」
「それでは、伺いましょうか」
「あのおとなしい健一君が、姉夫婦を殺すなんてありえません。何かの間違いです。警察では、何も教えてもらえなくて会うことも出来できませんでした」
「それは、心配でしたね」
「健一君とは、送検された息子さんですね。園部洋子さんでしたね。あなたと被告の健一君との関係を説明していただけますか」
「はい。健一君は、姉夫婦の息子で私の甥にあたります。私の父は、刃物製造業を営んでいます。姉は、短大を出た後よそに勤めず工場の事務をしておりました。機械の更新をするとき、郡上大和信金が融資を受けてくれてその時の担当が紘一さんだったんです。そのとき、姉のつけた帳簿を見た紘一さんが姉を気に入り嫁いだのです」
「では、事件について説明していただけますか。うちの事務所も新聞報道くらいの情報しかないんです。園部さんが御存じな範囲で構いませんので、事件の内容をお話していただけませんか」
「はい。健一君が、入浴中に姉を押し倒し割れた鏡で首を切り、119番していた紘一さんを包丁で刺し殺したと……」
「新聞報道と、同じですね。原因は、家庭内のいざこざでしょか」
「そんな、ことがあるはずがありません。とても優しいまじめな青年なんですよ!」
「お姉さん夫婦の、家族構成を教えていただけますか」
「姉夫婦と、健一君の3人暮らしです。紘一さんは、郡上大和信金の郡上支店長でした。姉は、勤めをしたことはなく、健一君は、市役所の観光課に勤務していると聞いていますが……」
「何か?」
「新聞には書かれていませんでしたが、実は、健一君は実の子供じゃないんです」
「養子さんということですか」
「はい。姉夫婦には、なかなか子供が出来なくて」
「それで、養子さんを……」
「いいえ、遅くでしたが姉が32歳のとき、健一君が生まれました」
「健一君?」
「健一君が、二人になりましたね」
「逮捕された健一君は、“一巳”でしたが名前を変えたのです。その実の子の健一君は、遅くに出来た子でしたから姉夫婦はとても可愛がっていましたが……」
「何か、ご不幸でも……」
「二十年も前のことです。2歳8か月のときに……誘拐されました」
「誘拐!?」
「それで、行方が判らない?」
「もう、亡くなっていると思います」
「2歳8か月だと、名前ぐらいは喋れますよね」
「それが、少し口が遅いと、姉はとても心配していました」
「口が遅い?」
「もうすぐ3歳になるのに、返事くらいしかし出来ないって姉は心配していました」
「その、実子の健一君が誘拐された事件とは?」
「姉が、洗濯物を取り込んでいる間に庭で砂遊びしていた健一君がいなくなってしまったんです。家の中や近所を探したそうですが見つからず交番に届けました。消防団や青年団の方に探していただいたのですが夜になっても見つかりませんでした。翌朝から捜索することとなり、その晩私は姉に付き添い上田の家に泊まりました。
翌朝、捜索を始めようという頃に電話があり私がとりました。『1,000万を用意しろ』と……」
「それで、誘拐事件に?」
「1,000万? ですか」
「その頃の紘一さんは、貸付の担当をされておられ信金に無理を言って都合したようです。 午後にもう一度電話があり、紘一さんが指示された時刻に神社へ持っていきました」
「1,000万を支払ったのですね」
「はい。犯人は、お金を持ってバイクで逃げる途中対向車に衝突し死んでしまって、健一君は行方知れずに……」
「そんなことが……」
「それで、養子さんを迎えたわけですね」
「そんなことがあって、姉は、うつになってしまいました。少でも気が紛れればと紘一さんが気遣い、たびたびお寺や神社・温泉に出掛けるようになりました。 今の健一君は、浜名湖の舘山寺行ったときに偶然に出会い近くの施設から迎えたと聞いています。健一君が、小学校に上がる前のことです」
「養護施設ですか」
「たしか“葵園”だったと思います。姉夫婦は、健一君が戻ってきたとそれはとても喜んでいました」
「先ほどの、一巳君の名前のことですが“健一”は正式に届けがされているのですか」
「弁護士さんに、相談し変えたと聞いています。確か10歳のときだったと思います」
「10歳のときですか」
「なんでも、7年経過すると行方不明者の死亡が認められるとかで」
「民法 “第30条” 失踪の宣言ですね。それで、健一君を死亡扱いにして、一巳君から健一君に変更したということでしょかね」
「一巳君のことを、上田さん夫婦はどう呼んでいたのですか」
「迎えてすぐから、姉は“けんちゃん”と、紘一さんは “けんいち”と呼んでいました」
「ケンちゃんですか」
「その、ご相談の事件のことですが」
「健一君は、とても大人しく優しい子なんです。決して人を、それも親を刺すなんて考えられません」
「何か、心当たりはありませんか。何でもかまいません」
「まったく……」
「親子関係は、どうだったのですか」
「実は……、姉は可愛がり過ぎというか過保護で、妹の私から見ても少し行き過ぎだと思えるほどで、何から何まで世話を妬いていました。 小学校に入ったばかりの頃は、教室まで送り一日中廊下から様子を見ていたようですし、1年生のあいだは学校の玄関まで迎えに行っていたようです。 それだけではありません。修学旅行では、行く先々を先回りして物陰から様子を見ていたようなんです」
「実の子が、誘拐されているんですから心配だったのでしょうね」
「お風呂も、中学の頃まで姉と一緒に入っていたようで、それはやり過ぎだって私が注意ましたから、それからは一人で入っていたようですが、それでも背中は必ず流していたようで『お嫁さんを貰っても、背中は私が流してやるの』と言っていました。そう最近は、紘一さんの『若い頃に良く似てきた』とも言っていました」
「血の、繋がりが無いのに似てきたと?」
「そこまで、思い込むものですか」
「夫婦でも、長年連れ添っていると似てくると言いますからね」
「姉夫婦は、健一君のことを本当の子供だと思っていたようです」
「そうですか」
「上田さんの、夫婦仲はどうでしたか」
「とても良かったですよ…… ただ紘一さんは、少し几帳面すぎるようなところがあり躾も厳しい人だったようでした。
結婚は、私の方が遅かったんですが、先に私に二人の子が出来ました。私の子供が小さいころはよく招いてくれました。まだ子供がいない姉夫婦は、とても可愛がってくれましたが居づらいというか、子供たちが家じゅうを走り回り部屋を散らかすので私は居心地が悪かったのです。散らかしたまままた別の遊びをする。その様子を、紘一さんは笑って見てくれていましたが、姉は、直ぐに片付けテーブルや床を拭いていました」
「潔癖症ですか?」
「それほどでもないと思いますが、紘一さんの曽祖父は信金の創立者の御一人だと聞いております。人の上に立つ者は、常に手本でいなければならないと身だしなみや身の回りはとてもきちんとされておられました。来客も多かったのでしょう家の中もいつも綺麗に片付けられていました。そんな家系に嫁いだ姉も神経質になっていたのだと思います」
「厳格な方だったのですね」
「それと……健一君の将来のことを姉は心配していたようです」
「というのは?」
「就職も、健一君の好きにすればいいと言って、紘一さんは信金に入れなかったようです」
「どうしてですか」
「その言葉の通り、健一君の好きなことをさせてあげたかったのか、養子さんだから入れてあげなかったのかはわかりません」
「養子さんだから、ですか?」
「施設出身だからだと思います」
「健一君の出生が、わからないということですか?」
「姉は、健一君を施設から迎えた経緯は話してくれましたが、健一君がなぜ施設にいたかは話してくれませんでした。姉夫婦は、知っていたと思いますがその話しを避けていましたから、健一君にも話していないと思います」
「何か、訳ありのようですね」
「それと、健一君の、結婚のことも心配していました。健一君は、異性とのお付き合いもなくそんな話しも無いと心配し『なんとか、良い相手を見つけてやりたい』と言っていました」
「お相手を見つける。お見合いですか」
「そのお見合いも、健一君が施設出身だから良いはなしが無いと言っていました」
「見合いとなると、身元がはっきりしていないとなかなか難しいですよね」
「今どきは、マッチングアプリみたいなものがあるがね、昔は素行調査や身辺調査などしていましたね、未だに身辺調査を得意としている探偵事務所もあるからね」
「それが……事件の当日の昼間、紘一さんが『信金にお勤めのお嬢様の写真を預かってきた』と姉が電話をかけてきました」
「お見合い写真ですか」
「見合いかどうかはわかりませんが、お相手が見つかったような口ぶりでした。それと『もうすぐはっきりする』からとも言っていました」
「はっきりする、とは」
「それが、何かは判りませんが、悪いことではないようで何か期待しているように感じました」
「期待していた?」
「写真のお嬢様のことですかね」
「健一君が、どうしてお二人を刺したと思いますか」
「分かりません」
「家庭内の暴力は、どうだったでしょうか」
「躾の厳しさ、その身のまわりの世話が、若者の言うウザかったのでは?」
「そんなことは、絶対にないと思います。健一君は、いじめられても告げ口もしない自分が転んだと言う子だったんですから」
「いったい、何があったのでしょうか」
「先日の葬儀のときに、紘一さん従妹という方に相談したのですが『血の繋がっていない、犯人の弁護などする必要はない』と、とりあってもくれず、信金さんはプライベートなことだからと弁護士さんを紹介してくれただけで、他に頼れるところが無いのです。どうか、弁護を引き受けていただけませんか」
「お任せください、うちには元検事の廣田がおりますのでご安心ください」と桜井が言った。
「引き受けて、頂けるのですね」
「安心はできませんよ。殺人罪となると、実刑は、まず避けられない」と、桜井が口を開いた。
「実刑……死刑と、いうことですか」
「何人殺したから、死刑と決まっているわけではありません。殺人罪の刑法第199条は『人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する』とされ、殺人罪は原則として執行猶予にはなりません」
「執行猶予にならない……」
「養子さんが、養父母の二人を殺したとなると情状は悪いですからね、よほどの事情がないことには酌量の余地がないと判断されます」
「どういうことでしょうか」
「よほどの事情があって、親を殺めた。例えば親から暴力を受けていたとか、母親をかばって父を刺したというようなケースの場合は、その情状が考慮されます。すでに撤廃されましたが以前は尊属殺人罪と言って、近い親族を殺めたまたは実行しようとした場合には通常より刑が重かったんです。 現行法では、量刑は動機や計画的で有ったか無かったかにより決定されます。 養父母二人ですからね、現行法でも10年から15年でしょうか」
「10年……ですか」
「まだ、調書を読んだわけではありませんが、殺人の容疑で起訴と報道されましたから、殺意が有った。と判断されたわけですね」
「そのようだね」
「殺意……ですか。殺意など、絶対に有るわけがありません。あんな優しい健一君が、2人を殺そうなどと思うはずがありません……」
「まぁまぁ、まだ決まったわけじゃありませんから。動機も殺意も無い場合、例えば、階段で相手と出会い頭にぶつかり相手が転倒・転落し死なせてしまったようなケースですと過失致死罪となりますから、執行猶予となる場合もあります」
「そうですか」
「過失致死。もしくは傷害致死に、持ち込めればよいのですがね」と廣田が呟いた。
「ところで、その弁護にかかる費用ですが」と恵美子が弁護依頼書を差し出した。
「うちの事務所では相談料+着手金+日当+実費となります。また、判決に応じて成功報酬をいただきます」
「成功報酬……ですか」
「成功報酬は、勝訴した場合には着手金と同程度。刑が減刑された場合などその程度に応じてお願いしております。また刑期に減刑が無かった場合は頂きません。 着手金は、刑事事件で既に起訴されておりますから50万円で、日当は、交通費を含めて一日一名あたり3万円となります。ただし新幹線や航空運賃などは実費とさせていただきます。初回相談料は無料ですので、本日分についてはご不要とさせていただきます。 よろしいでしょうか」
「費用のお支払いは、私が責任をもって致しますので、どうかお願いします」
「では、ご契約とさせて頂きます。こちらにご署名をお願いします」
「よろしく、お願いします」
「それにしても、事件からかなり日にちが経っていますよね」
「勾留延長が、されたからね」
「どういうわけで?」
「被疑者の健一君が、自分がやったと容疑は認めたようなんだが、その後黙秘し、詳細とその動機が判然としなかったと聞いている」
「そうですか。半落ちですか」
「どうして、黙秘なんでしょかね、メリットなどありませんよね」
「誰かをかばうか、隠しておきたいことがある。そのための黙秘でしょう」
「洋子さんに、何か心当たりがありますか」
「いいえ……誰を、かばっているのでしょうか?」
「何かを、隠しておきたい。とすれば……」
「廣田先生は、もう判ったのですか」
「判るはずは、ありませんよ」
「健一君は、今どこに居るのでしょうか? どこへ行ったらよいものか……とりあえず、現金と肌着を準備してきています」
「それは準備が良いですね。現金は、拘置所内の売店で買い物をしたりできますからね」
「拘置所?」
「今は、岐阜拘置所にいるはずです。警察の取調べの間は、警察署内で留置されますが、送検・起訴後は拘置所で勾留されます。証拠隠滅や逃走の恐れが無い場合には保釈が認められますが、健一君の場合は、殺人罪で起訴されていますし事の重大さに悲観し自殺することも考えられますから、保釈請求しても認められることはまず無いでしょう」
「事件後、面会されていなかったのですね」
「はい」
「でしたら、これから面会に行きましょうか、予約はいらないんですよ」
「おねがいします」
「廣田君、急いだ方がいいよ。恵美子、車を回してくれるかい」
「面会は、午後4時迄ですから急ぎましょう」
「はい」
「接見は、どうでした」
「とりあえず、挨拶をして弁護人選任届に指印をいただきました」
「被告の、印象はどうでした」
「大人しく、口数が少ない青年といった感じでしょうか、洋子さんの話しは素直に聞いていましたが事件のことは何も話そうとはしなかったですね」
「廣田君は、どう感じましたか」
「そう、とても真面目そうな青年といった感じで、とても両親を刺したとは思えません。黙秘の理由が弁護のカギのように感じましたね」
「お二人の葬儀は、紘一さんの従妹さんが喪主を務められ近くの葬儀会場でここなわれたそうですよ。大勢の会葬者で会場に入りきれないほどだったそうですが、信金からは一対の献花と総務部から一人が参列しただけだったようですよ。対応が冷たいというか素っ気なさ過ぎませんか」
「そうだな、信金にしてみればプライベートなことだし、裁判がが始まってもいないからな……対応に苦慮したんじゃないかな」
「それにしても不幸な家族ですよね。実のお子さんを誘拐されそして今回の事件でしょ。お父さんは、20年前の誘拐事件のことは覚えてましたか」
「そりゃ覚えてますよ、被疑者死亡で裁判は行われなかったから記憶に深く刻まれなかったようで忘れかけていたことは事実だ。 テレビや新聞の報道は、被疑者が逃走中に死亡した後だったからな、翌日の朝刊はトップ記事だった。被疑者が少年だったこともあり、記事の内容は警察の発表をなぞっただけの単調な内容だったと覚えてる。テレビでは山狩りの様子がヘリコプターから中継もされたよ。被疑者や被害者のプライベートな情報も、各局が競争するかのように報道したよ。被疑者は未成年のはずだが、その被疑者の実家近くからの破廉恥な中継映像も流れた。捜索に警察犬も導入したようだが何も手がかりが見つからず、次第に報道も希薄になったからな……まさかその誘拐事件の被害者夫婦が今回依頼された事件の被害者だったなんてそれにしても不運な夫婦だよ、よりによって養子に迎えた息子に殺されるなんて……」
「桜井先生。殺人と判決が下されたわけじゃありませんよ!」
「すまない。失言だ、今の発言は『公判記録から削除していただきたい』まずは、起訴状が届いてからだな」
廣田が向かった蕎麦屋は、この辺りではちょっとした人気の店で正午ころには店内に入りきれない客が店の前に並び列ができる。この店の名物は、冷やした麺類でランチタイムでも客の回転は速くその列の流れは速いのだが、廣田は、こういった列に並ぶのが苦手なのだ。ただ何もすることなく待つそのわずかな時間さえ、廣田は苦痛と感じわざわざ時間をずらし昼食をとるのだ。
信号交差点を渡り路地を曲がったところで、蕎麦屋の暖簾が見えた。昼時のピークを過ぎ空席まちの列は無く一人のサラリーマン風の男が店内に入っていくところだった。
廣田も、その客に続き暖簾をめくり店内を 覗いた。「あいにく満席ですので、しばらくお待ちください」と、店員が廣田に声をかけた。店の外に用意された丸い座面のスツールに腰を掛け席が空くのを待った。ほどなくして工員風の3人の客が店から出てきた。廣田は、立ち上がりすれ違うように暖簾をくぐり店内に入った。
ピークは過ぎているといえ、いつものことで長テーブルの相席を案内された。店員に「冷やしタヌキ」と告げ、縁に練ワサビが残った空のどんぶりがの置かれたままの、その長テーブルの角の席に座った。
廣田が注文した“冷やしタヌキ”は、この蕎麦屋の名物の一つで氷水でヒンヤリと冷やしたそばに、甘辛く炊いたお揚げにたっぷりの天かす刻み葱に多めのワサビがトッピングされている。汁は少なめで、特に食欲の落ちる夏場にはうってつけなのだ。なによりも、ランチタイムのような混雑時でも注文してすぐに出てくるから、時間が限られているサラリーマンのような勤め人たちには人気ナンバーワンのメニューなのだ。
廣田の、目の前の空になったどんぶりが下げられた。すかさず“冷やしタヌキ”とコップの麦茶が出された。廣田は、割りばしを割りそばをすすり始めた。正面のテレビ音声に、廣田はそばをすする手を止めテレビに目を向けた。キャスターが『郡上市の両親刺殺事件』の容疑者が起訴されたことを短く告げた。
廣田は、蕎麦屋をあとにし午後の1時ちょうどに居候している桜井法律事務所に戻った。
廣田は、65歳になるが2年前に検察庁を定年退官し弁護士に転向した検事上がりの弁護士いわゆるヤメケンである。そして自身の事務所を持たない居候のイソ弁なのだ。現在は、伝手のあったこの桜井法律事務所に在籍している。
「廣田先生、今日も冷やしタヌキですか」と、桜井 恵美子(さくらい えみこ)が声をかけた。
「まだまだ、暑いですからね」
「廣田君、弁護依頼が来たよ。恵美子には、ちょっと荷が重すぎるが、君に適任の案件なんだ」と桜井が言った。
「傷害事件ですか?」
「いやもっと厄介なんだが、郡上の有坂法律事務所からの紹介でね」
「郡上の有坂先生ですか……もしかして、今日送検された郡上市の両親刺殺事件ですか」
「察しがいいね、その刺殺事件ですよ」
「うちの事務所で、初めて扱う殺人容疑事件になりますね」
「荷が、重いですか」
「経験豊富な、廣田先生ならNo problemですよね」と、冷やかすように恵美子が言った。
「いや……どうしてうちの事務所に依頼が?」
「お父さんは、廣田先生が検事上がりだって随分宣伝してましたからね、そのかいがあって依頼が きたんですよ」
廣田は、その検事上がりの“ヤメケン”で元検事なのだが、検察事務官から特別孝試を経て検察官となった特任検事で、その経歴と立場上重要案件を取り扱ったことはなく、主に道路交通法違反・傷害窃盗事案を担当しており法廷経験などは一度もないのだ。
「その刺殺事件の被害者が、郡上大和信金の支店長をされていたそうで、その信金の顧問弁護士が有坂先生なんだ。有坂先生の事務所は刑事案件は扱わないし、顧問をされているからプライベートな案件には触れたくないとも言っておられましたね」
「被害者は、両親でしたね。クライアントは、ご家族ですか?」
「クライアントは、被害者の妹さんのようだ」
「被害者の妹さんですか、何か奇妙ですね」
「そりゃ、加害者・被害者が親子だから自然とそうなる」
「そうですか、被害者の妹さんですか」
「その妹さんは、関市に住んでおられるようでもう来ちゃうからね、断れないんだよ」
「とりあえず、状況を聞いてからですよね」
「まあ、話だけでも聞いてやってくれませんかね」
「そうですか」
「廣田先生の、仕掛の案件・スナックの看板を壊した示談の案件は、私が引き継ぎますから安心してください。恵美子も、離婚調停案件を早くかたずけて廣田先生を手伝ってあってください」
「はいはい。なにせ桜井法律事務所で、初めて扱う殺人容疑事件になりますからね。敗訴はできませんからね」
廣田の、経歴を知っている2人の言葉に、廣田は身がしまる思いがした。
桜井法律事務所は、岐阜地方裁判所・岐阜地方検察庁近くの雑居ビルの一室に事務所を構えている。クライアントは顧問契約をしている企業のほかに個人事業者が主な顧客であるが、事務所近くの歓楽街である柳瀬飲食店組合との契約をしており、その組合員が持ち込む飲食代の売掛代金の取り立相談や、酔ったお客とのもめごとで殴った蹴ったといったけんか程度の事案で、示談で和解できる案件ばかりで訴訟になるというほどの案件はめったにない。また岐阜県内に、刑事事件を扱う法律事務所は少なく、まして殺人となると県内には引き受ける法律事務所はまず無い。桜井は、そんな事件の弁護を引き受けたのだ。
事務所の、ドアがノックされた。
「お見えのようですよ」
「どうぞ、こちらへ」と恵美子が迎えた。
「初めまして、私は園部洋子と申します。甥の弁護のご相談をしたくお伺いました」
「はい。有坂先生より伺っております。どうぞこちらへ」と、恵美子が応接テーブルに案内した。
桜井が「桜井法律事務所の桜井です。ご相談を受けます、桜井恵美子弁護士と廣田武士先生です」と、2人を紹介しそれぞれが名刺を渡した。
「どうぞお掛けくださいと」桜井が促した。
廣田が「よろしくお願いします」とお辞儀し園部洋子の正面に腰を掛けた。
恵美子が、園部洋子にお茶を出し「甥御さんの、弁護のご相談とは」いいながら廣田の横に腰を掛けた。
「郡上大和信金で、有坂先生を紹介されていただいたのですが、殺人事件は扱わないからとこちらを紹介されました」
「そうでしたか。その相談とは、郡上市の両親刺殺事件ですね」
「はい」
「すでに起訴された案件ですから、すでに弁護人が選定されているはずですが」
「国選の弁護士さんが担当されると、有坂先生よりお聞きしました。その国選の弁護人には、あまり期待しないほうが良いと……」
「では、弁護の依頼ということでしょうか」
「はい」
「それでは、伺いましょうか」
「あのおとなしい健一君が、姉夫婦を殺すなんてありえません。何かの間違いです。警察では、何も教えてもらえなくて会うことも出来できませんでした」
「それは、心配でしたね」
「健一君とは、送検された息子さんですね。園部洋子さんでしたね。あなたと被告の健一君との関係を説明していただけますか」
「はい。健一君は、姉夫婦の息子で私の甥にあたります。私の父は、刃物製造業を営んでいます。姉は、短大を出た後よそに勤めず工場の事務をしておりました。機械の更新をするとき、郡上大和信金が融資を受けてくれてその時の担当が紘一さんだったんです。そのとき、姉のつけた帳簿を見た紘一さんが姉を気に入り嫁いだのです」
「では、事件について説明していただけますか。うちの事務所も新聞報道くらいの情報しかないんです。園部さんが御存じな範囲で構いませんので、事件の内容をお話していただけませんか」
「はい。健一君が、入浴中に姉を押し倒し割れた鏡で首を切り、119番していた紘一さんを包丁で刺し殺したと……」
「新聞報道と、同じですね。原因は、家庭内のいざこざでしょか」
「そんな、ことがあるはずがありません。とても優しいまじめな青年なんですよ!」
「お姉さん夫婦の、家族構成を教えていただけますか」
「姉夫婦と、健一君の3人暮らしです。紘一さんは、郡上大和信金の郡上支店長でした。姉は、勤めをしたことはなく、健一君は、市役所の観光課に勤務していると聞いていますが……」
「何か?」
「新聞には書かれていませんでしたが、実は、健一君は実の子供じゃないんです」
「養子さんということですか」
「はい。姉夫婦には、なかなか子供が出来なくて」
「それで、養子さんを……」
「いいえ、遅くでしたが姉が32歳のとき、健一君が生まれました」
「健一君?」
「健一君が、二人になりましたね」
「逮捕された健一君は、“一巳”でしたが名前を変えたのです。その実の子の健一君は、遅くに出来た子でしたから姉夫婦はとても可愛がっていましたが……」
「何か、ご不幸でも……」
「二十年も前のことです。2歳8か月のときに……誘拐されました」
「誘拐!?」
「それで、行方が判らない?」
「もう、亡くなっていると思います」
「2歳8か月だと、名前ぐらいは喋れますよね」
「それが、少し口が遅いと、姉はとても心配していました」
「口が遅い?」
「もうすぐ3歳になるのに、返事くらいしかし出来ないって姉は心配していました」
「その、実子の健一君が誘拐された事件とは?」
「姉が、洗濯物を取り込んでいる間に庭で砂遊びしていた健一君がいなくなってしまったんです。家の中や近所を探したそうですが見つからず交番に届けました。消防団や青年団の方に探していただいたのですが夜になっても見つかりませんでした。翌朝から捜索することとなり、その晩私は姉に付き添い上田の家に泊まりました。
翌朝、捜索を始めようという頃に電話があり私がとりました。『1,000万を用意しろ』と……」
「それで、誘拐事件に?」
「1,000万? ですか」
「その頃の紘一さんは、貸付の担当をされておられ信金に無理を言って都合したようです。 午後にもう一度電話があり、紘一さんが指示された時刻に神社へ持っていきました」
「1,000万を支払ったのですね」
「はい。犯人は、お金を持ってバイクで逃げる途中対向車に衝突し死んでしまって、健一君は行方知れずに……」
「そんなことが……」
「それで、養子さんを迎えたわけですね」
「そんなことがあって、姉は、うつになってしまいました。少でも気が紛れればと紘一さんが気遣い、たびたびお寺や神社・温泉に出掛けるようになりました。 今の健一君は、浜名湖の舘山寺行ったときに偶然に出会い近くの施設から迎えたと聞いています。健一君が、小学校に上がる前のことです」
「養護施設ですか」
「たしか“葵園”だったと思います。姉夫婦は、健一君が戻ってきたとそれはとても喜んでいました」
「先ほどの、一巳君の名前のことですが“健一”は正式に届けがされているのですか」
「弁護士さんに、相談し変えたと聞いています。確か10歳のときだったと思います」
「10歳のときですか」
「なんでも、7年経過すると行方不明者の死亡が認められるとかで」
「民法 “第30条” 失踪の宣言ですね。それで、健一君を死亡扱いにして、一巳君から健一君に変更したということでしょかね」
「一巳君のことを、上田さん夫婦はどう呼んでいたのですか」
「迎えてすぐから、姉は“けんちゃん”と、紘一さんは “けんいち”と呼んでいました」
「ケンちゃんですか」
「その、ご相談の事件のことですが」
「健一君は、とても大人しく優しい子なんです。決して人を、それも親を刺すなんて考えられません」
「何か、心当たりはありませんか。何でもかまいません」
「まったく……」
「親子関係は、どうだったのですか」
「実は……、姉は可愛がり過ぎというか過保護で、妹の私から見ても少し行き過ぎだと思えるほどで、何から何まで世話を妬いていました。 小学校に入ったばかりの頃は、教室まで送り一日中廊下から様子を見ていたようですし、1年生のあいだは学校の玄関まで迎えに行っていたようです。 それだけではありません。修学旅行では、行く先々を先回りして物陰から様子を見ていたようなんです」
「実の子が、誘拐されているんですから心配だったのでしょうね」
「お風呂も、中学の頃まで姉と一緒に入っていたようで、それはやり過ぎだって私が注意ましたから、それからは一人で入っていたようですが、それでも背中は必ず流していたようで『お嫁さんを貰っても、背中は私が流してやるの』と言っていました。そう最近は、紘一さんの『若い頃に良く似てきた』とも言っていました」
「血の、繋がりが無いのに似てきたと?」
「そこまで、思い込むものですか」
「夫婦でも、長年連れ添っていると似てくると言いますからね」
「姉夫婦は、健一君のことを本当の子供だと思っていたようです」
「そうですか」
「上田さんの、夫婦仲はどうでしたか」
「とても良かったですよ…… ただ紘一さんは、少し几帳面すぎるようなところがあり躾も厳しい人だったようでした。
結婚は、私の方が遅かったんですが、先に私に二人の子が出来ました。私の子供が小さいころはよく招いてくれました。まだ子供がいない姉夫婦は、とても可愛がってくれましたが居づらいというか、子供たちが家じゅうを走り回り部屋を散らかすので私は居心地が悪かったのです。散らかしたまままた別の遊びをする。その様子を、紘一さんは笑って見てくれていましたが、姉は、直ぐに片付けテーブルや床を拭いていました」
「潔癖症ですか?」
「それほどでもないと思いますが、紘一さんの曽祖父は信金の創立者の御一人だと聞いております。人の上に立つ者は、常に手本でいなければならないと身だしなみや身の回りはとてもきちんとされておられました。来客も多かったのでしょう家の中もいつも綺麗に片付けられていました。そんな家系に嫁いだ姉も神経質になっていたのだと思います」
「厳格な方だったのですね」
「それと……健一君の将来のことを姉は心配していたようです」
「というのは?」
「就職も、健一君の好きにすればいいと言って、紘一さんは信金に入れなかったようです」
「どうしてですか」
「その言葉の通り、健一君の好きなことをさせてあげたかったのか、養子さんだから入れてあげなかったのかはわかりません」
「養子さんだから、ですか?」
「施設出身だからだと思います」
「健一君の出生が、わからないということですか?」
「姉は、健一君を施設から迎えた経緯は話してくれましたが、健一君がなぜ施設にいたかは話してくれませんでした。姉夫婦は、知っていたと思いますがその話しを避けていましたから、健一君にも話していないと思います」
「何か、訳ありのようですね」
「それと、健一君の、結婚のことも心配していました。健一君は、異性とのお付き合いもなくそんな話しも無いと心配し『なんとか、良い相手を見つけてやりたい』と言っていました」
「お相手を見つける。お見合いですか」
「そのお見合いも、健一君が施設出身だから良いはなしが無いと言っていました」
「見合いとなると、身元がはっきりしていないとなかなか難しいですよね」
「今どきは、マッチングアプリみたいなものがあるがね、昔は素行調査や身辺調査などしていましたね、未だに身辺調査を得意としている探偵事務所もあるからね」
「それが……事件の当日の昼間、紘一さんが『信金にお勤めのお嬢様の写真を預かってきた』と姉が電話をかけてきました」
「お見合い写真ですか」
「見合いかどうかはわかりませんが、お相手が見つかったような口ぶりでした。それと『もうすぐはっきりする』からとも言っていました」
「はっきりする、とは」
「それが、何かは判りませんが、悪いことではないようで何か期待しているように感じました」
「期待していた?」
「写真のお嬢様のことですかね」
「健一君が、どうしてお二人を刺したと思いますか」
「分かりません」
「家庭内の暴力は、どうだったでしょうか」
「躾の厳しさ、その身のまわりの世話が、若者の言うウザかったのでは?」
「そんなことは、絶対にないと思います。健一君は、いじめられても告げ口もしない自分が転んだと言う子だったんですから」
「いったい、何があったのでしょうか」
「先日の葬儀のときに、紘一さん従妹という方に相談したのですが『血の繋がっていない、犯人の弁護などする必要はない』と、とりあってもくれず、信金さんはプライベートなことだからと弁護士さんを紹介してくれただけで、他に頼れるところが無いのです。どうか、弁護を引き受けていただけませんか」
「お任せください、うちには元検事の廣田がおりますのでご安心ください」と桜井が言った。
「引き受けて、頂けるのですね」
「安心はできませんよ。殺人罪となると、実刑は、まず避けられない」と、桜井が口を開いた。
「実刑……死刑と、いうことですか」
「何人殺したから、死刑と決まっているわけではありません。殺人罪の刑法第199条は『人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する』とされ、殺人罪は原則として執行猶予にはなりません」
「執行猶予にならない……」
「養子さんが、養父母の二人を殺したとなると情状は悪いですからね、よほどの事情がないことには酌量の余地がないと判断されます」
「どういうことでしょうか」
「よほどの事情があって、親を殺めた。例えば親から暴力を受けていたとか、母親をかばって父を刺したというようなケースの場合は、その情状が考慮されます。すでに撤廃されましたが以前は尊属殺人罪と言って、近い親族を殺めたまたは実行しようとした場合には通常より刑が重かったんです。 現行法では、量刑は動機や計画的で有ったか無かったかにより決定されます。 養父母二人ですからね、現行法でも10年から15年でしょうか」
「10年……ですか」
「まだ、調書を読んだわけではありませんが、殺人の容疑で起訴と報道されましたから、殺意が有った。と判断されたわけですね」
「そのようだね」
「殺意……ですか。殺意など、絶対に有るわけがありません。あんな優しい健一君が、2人を殺そうなどと思うはずがありません……」
「まぁまぁ、まだ決まったわけじゃありませんから。動機も殺意も無い場合、例えば、階段で相手と出会い頭にぶつかり相手が転倒・転落し死なせてしまったようなケースですと過失致死罪となりますから、執行猶予となる場合もあります」
「そうですか」
「過失致死。もしくは傷害致死に、持ち込めればよいのですがね」と廣田が呟いた。
「ところで、その弁護にかかる費用ですが」と恵美子が弁護依頼書を差し出した。
「うちの事務所では相談料+着手金+日当+実費となります。また、判決に応じて成功報酬をいただきます」
「成功報酬……ですか」
「成功報酬は、勝訴した場合には着手金と同程度。刑が減刑された場合などその程度に応じてお願いしております。また刑期に減刑が無かった場合は頂きません。 着手金は、刑事事件で既に起訴されておりますから50万円で、日当は、交通費を含めて一日一名あたり3万円となります。ただし新幹線や航空運賃などは実費とさせていただきます。初回相談料は無料ですので、本日分についてはご不要とさせていただきます。 よろしいでしょうか」
「費用のお支払いは、私が責任をもって致しますので、どうかお願いします」
「では、ご契約とさせて頂きます。こちらにご署名をお願いします」
「よろしく、お願いします」
「それにしても、事件からかなり日にちが経っていますよね」
「勾留延長が、されたからね」
「どういうわけで?」
「被疑者の健一君が、自分がやったと容疑は認めたようなんだが、その後黙秘し、詳細とその動機が判然としなかったと聞いている」
「そうですか。半落ちですか」
「どうして、黙秘なんでしょかね、メリットなどありませんよね」
「誰かをかばうか、隠しておきたいことがある。そのための黙秘でしょう」
「洋子さんに、何か心当たりがありますか」
「いいえ……誰を、かばっているのでしょうか?」
「何かを、隠しておきたい。とすれば……」
「廣田先生は、もう判ったのですか」
「判るはずは、ありませんよ」
「健一君は、今どこに居るのでしょうか? どこへ行ったらよいものか……とりあえず、現金と肌着を準備してきています」
「それは準備が良いですね。現金は、拘置所内の売店で買い物をしたりできますからね」
「拘置所?」
「今は、岐阜拘置所にいるはずです。警察の取調べの間は、警察署内で留置されますが、送検・起訴後は拘置所で勾留されます。証拠隠滅や逃走の恐れが無い場合には保釈が認められますが、健一君の場合は、殺人罪で起訴されていますし事の重大さに悲観し自殺することも考えられますから、保釈請求しても認められることはまず無いでしょう」
「事件後、面会されていなかったのですね」
「はい」
「でしたら、これから面会に行きましょうか、予約はいらないんですよ」
「おねがいします」
「廣田君、急いだ方がいいよ。恵美子、車を回してくれるかい」
「面会は、午後4時迄ですから急ぎましょう」
「はい」
「接見は、どうでした」
「とりあえず、挨拶をして弁護人選任届に指印をいただきました」
「被告の、印象はどうでした」
「大人しく、口数が少ない青年といった感じでしょうか、洋子さんの話しは素直に聞いていましたが事件のことは何も話そうとはしなかったですね」
「廣田君は、どう感じましたか」
「そう、とても真面目そうな青年といった感じで、とても両親を刺したとは思えません。黙秘の理由が弁護のカギのように感じましたね」
「お二人の葬儀は、紘一さんの従妹さんが喪主を務められ近くの葬儀会場でここなわれたそうですよ。大勢の会葬者で会場に入りきれないほどだったそうですが、信金からは一対の献花と総務部から一人が参列しただけだったようですよ。対応が冷たいというか素っ気なさ過ぎませんか」
「そうだな、信金にしてみればプライベートなことだし、裁判がが始まってもいないからな……対応に苦慮したんじゃないかな」
「それにしても不幸な家族ですよね。実のお子さんを誘拐されそして今回の事件でしょ。お父さんは、20年前の誘拐事件のことは覚えてましたか」
「そりゃ覚えてますよ、被疑者死亡で裁判は行われなかったから記憶に深く刻まれなかったようで忘れかけていたことは事実だ。 テレビや新聞の報道は、被疑者が逃走中に死亡した後だったからな、翌日の朝刊はトップ記事だった。被疑者が少年だったこともあり、記事の内容は警察の発表をなぞっただけの単調な内容だったと覚えてる。テレビでは山狩りの様子がヘリコプターから中継もされたよ。被疑者や被害者のプライベートな情報も、各局が競争するかのように報道したよ。被疑者は未成年のはずだが、その被疑者の実家近くからの破廉恥な中継映像も流れた。捜索に警察犬も導入したようだが何も手がかりが見つからず、次第に報道も希薄になったからな……まさかその誘拐事件の被害者夫婦が今回依頼された事件の被害者だったなんてそれにしても不運な夫婦だよ、よりによって養子に迎えた息子に殺されるなんて……」
「桜井先生。殺人と判決が下されたわけじゃありませんよ!」
「すまない。失言だ、今の発言は『公判記録から削除していただきたい』まずは、起訴状が届いてからだな」
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