50 / 80
4巻
4-2
しおりを挟むいくら盟主といえども、人の体自体を侵食領域で呑み込めはしない。敵は拳を防ぐことかなわず、片目の痛みに呻く。同時、剣を咥える力が弱まった。
エヴァンは片手で敵の目を抉り出さんとしつつ、もう一方の手元に力場魔法を用いる。腕力にさらに力が加わると、牙と剣が擦れる音が聞こえ始める。そしてその後は一瞬だった。
束縛から解放された刃は、狼の頬をざっくりと斬り裂く。血が噴き出す中、狼は自分自身に力場魔法を用いて空中に静止。エヴァンだけが地面へと向かっていく。
慌てて自身に力場魔法を用いて減速するも、すでに地上は目と鼻の先。エヴァンは歯を食いしばった。直後、受け身など何の意味も成さないほどの衝撃が、背中からやってくる。鎧はひしゃげて体を圧迫し、肺の中から空気を絞り出していく。
だが、寝転がっている余裕はない。すぐそこまで狼の牙が迫っていた。エヴァンは自身に力場魔法を用いて転がり、すんでのところで回避する。銀狼はさらに迫り、エヴァンは無理やり起き上がり後退、敵との間に石の壁を生み出した。
しかしすぐさま狼は回り込んでくる。そしてかみ殺さんと頭を伸ばした直後、突き飛ばされたかのように飛び退いた。同時に、両者の間に槍が割り込んでくる。
「エヴァン様! 向こうには狼の群れが!」
セラフィナに言われ周囲を観測すると、どうやら門の方だけでなく、今しがた落とされた方からも狼が迫っていた。挟撃される形になったのである。
かといって、力場魔法により壁の内側に戻らんとしても、敵の方が早い。ならば、増援が集まらないうちに、この場から逃げてしまう方がましなのではないか。
ちらと敵を見るも、見逃してくれそうな気配などなく、ますます獰猛に牙を剥いている。
彼はその考えを即座に否定し、剣を強く握った。銀の狼は暫しその場で何度もくるくると回るような動作をして、やがて狙いを定めたのか、猛烈な勢いで駆けてくる。
そして今度は鉄の刃が飛来した。盟主の生み出したそれを、石の壁を生み出すことで防ぐ。魔力の節約のため薄く生み出した部分にひびが入り、刃がわずかに突き出す。
間髪容れずに飛び掛かってきた狼へと剣を振るも、あっさりと回避される。が、そこでセラフィナの槍が敵を打ち据えた。
直後、エヴァンの背後に刃が浮かんだ。常人ならば気付くことはなかっただろう。生み出された途端、すさまじい力を加えられて対象へと向かっていくのだから、防ぐ術はないに等しい。
が、エヴァンはそれに反応して体を捻った。首のあたりを狙った一撃は、肩を抉っていく。痛みに呻くも、この程度で済んだのは僥倖と言えよう。背後にいる狼の群れを警戒して制御魔法で全域を観測していなければ、到底防ぎようもなかった。
敵も警戒を強めたのか、一旦後退する。
だが、それを見てもエヴァンはほっとひと息つくことさえできなかった。銀狼の向こうには、灰色の狼の群れが控えていた。
前進すべきか、後退すべきか。悩むも、まだ門の兵とやり合っていて混乱している方に突っ込む方がましに思われて、エヴァンは一旦下がることにした。
敵を刺激しないよう、ゆっくりと後じさりしていく。一歩一歩がやけに重く、時間の進みが遅く感じられる。そうしながら呼吸を整えるも、先ほどの衝撃で体は軋む。そのまま倒れ込んでしまいたいほどの疲労感をぐっと抑え込んで足を動かす。
そして壁伝いに進んでいき、やがて壁の角にたどり着く。そこから向こうを窺うと、敵の数もずいぶんと減っていた。ちらりと盟主を確認した後、エヴァンは背を向けて駆け出した。同時に、敵の群れも背後から迫ってくる。盟主だけでなく敵の大群を相手にする気にはなれなかったのだが、その判断が正しかったのかどうかは分からない。門の前ではまだ十数体の狼が城門を叩いており、木製の扉は今にも破壊されてしまいそうだった。
そのうちの数体がエヴァンに気が付き、向かってくる。剣を構えるも、それよりも早くセラフィナが飛び出す。
槍を振ると狼をひと突き。そして立て続けに二体目へと振りおろし、地面に打ち付ける。動かなくなった狼を蹴り上げ、向かってくる相手にぶつけて怯んだところを槍で突く。
狼は次々と仕留められていくが、背後から迫ってくる数はものの比ではない。烏合の衆といえども、数十もの相手に取り囲まれるのは避けたい。
また門扉が開かなければ、中には入れない。そしてそのためには、周囲の魔物を片づけねばならないだろう。
そう踏んでいたのだが、敵が全て片付く前に門が開け放たれた。
「おいエヴァン、とっとと入れ!」
中には狼どもも入っていってしまうが、すぐにそれらの悲鳴が聞こえてきた。
駆け込んだ先では、不機嫌そうなレスターが狼を斬り殺している。
すぐさま門扉は閉められる。すでにぼろぼろになっていて、どれほど持つかは分からない。盟主の攻撃を食らえば一発で砕け散ることだってあり得る。
「……屋敷で寝込んでたんじゃないのか?」
「お前が死んだら、誰が俺を守るんだ? さっさとあいつを倒してしまえ」
レスターは相変わらずであったが、保身のために全力を尽くす姿はいっそすがすがしい。と、そのとき、扉の方から大音声が聞こえてきた。盟主の攻撃が始まったらしい。そして扉は数秒と経たずに崩壊していく。
盟主が飛び出すかに思われた瞬間、門の上から袋が落とされていく。その直後にレスターが魔法で炎を生み出し、門扉の残骸に命中させる。
途端、勢いよく扉が燃え上がる。先ほどの袋は油が詰められていたらしい。狼どもはそれに呑みこまれ、焦げて嫌な臭いを放つ。
「撃て!」
レスターの合図と共に、数台の弩砲が唸りを上げた。巨大な矢が炎の中へと飛び込んでいき、その向こうにいる敵を貫く。人を数体は貫ける威力がある弩砲だ、密集している中に撃ち込まれれば、ひとたまりもないだろう。
そして幾度となく弩砲のバネが軋んだところで、壁を越えてくる影が一つ。群れを率いてくるのは諦めたらしく、ただ一体で乗り込んでくる。
「お、おい、エヴァン。いいか、絶対に倒すんだぞ。屋敷には一歩たりとも入れるんじゃないぞ!」
レスターはそんな捨て台詞と共に屋敷に舞い戻っていった。最後は情けない姿だが、彼もあの戦いで変わったのかもしれない。多くの従士も、彼の護衛ということで付き添っていく。盟主相手に怖気付いたのだろうが、むしろ邪魔にならなくて丁度いい。
銀の狼がしなやかに地に舞い降りると、エヴァンは再び剣を構える。もはや横槍が入ることはなく、ただ力で相手をねじ伏せるだけだ。
魔法を使われた場合、不利になる。エヴァンが先制しようとすると、セラフィナがその意を汲み、敵へと飛び掛かった。身の倍近くもあろう槍を軽々と振り回し、横薙ぎの一撃を放つ。
ぎりぎりのところで跳躍して回避されるも、セラフィナは立て続けに突きを三度繰り出した。敵は自身に力場魔法を用いて機敏に躱すが、その背後はすでにエヴァンに取られている。彼はセラフィナと挟撃するように、できるだけ小振りに、しかし広い範囲を払うように剣を振るった。
剣は伏せる敵の頭上をかすめ取るように振るわれ、幾本もの毛を刈り取るも、その肉に触れることはかなわない。
だが、そのときすでにセラフィナが小さな挙動で槍を振るっていた。敵目がけて向かっていく勢いは、たとえ力場魔法により妨げられたとしても止まりはしないだろう。そして、実際そうなるかと思われた瞬間、空間が歪んだ。狼がこれまで以上に素早い動作でその場から飛び退く。
それは時空魔法。狼が己のいる空間だけ時間の進みを早くすることで、他より加速したのだ。
銀狼は瞬時にしてその場を離脱すると、立て続けに魔法を放つ。膨大な侵食領域を生かし、ありとある空間から鉄の刃を生み出し、地上に降り注がせる。闇雲に放たれたそれは大部分が無関係な方向に飛んでいくも、いくつかはエヴァンとセラフィナに迫る。
セラフィナは生成魔法がほぼ使えない。それゆえに、すべてを自力で防がねばならなかった。そしてエヴァンも、彼女のところまで行く余裕はなかった。
「敵を!」
たったひと言、短く告げられた思いがエヴァンの逡巡を打ち砕く。
エヴァンは生成魔法により石の壁を生み出すなり、それを盾代わりにして敵へと突っ込んでいく。防ぎきれないいくつかが肩を、腰を、膝をかすめていく。
だが、エヴァンはそれでも止まることはなかった。敵の攻撃が止むと盾を投げ捨て、躍り出る。狙いを定めて剣を振りかぶったときには、もう銀色が目の前に迫っていた。
鋭い刃が敵の血を欲して向かっていく。
しかし、またもやぎりぎりで、と同時にあっさりと魔法を使われて避けられる。このまま翻弄され続けるわけにはいかないと、エヴァンは懐から魔石を取り出すなり制御魔法を使用し放り投げた。
それは狼の背後にまでいくと、一定の距離を保って静止、間髪容れずにぼうっと赤く燃え上がった。銀狼はそちらを警戒し、エヴァンの方にわずかばかりの隙を見せる。それは誘いの可能性もあったが、エヴァンは勝負所と見た。
剣を振りかぶりつつ、瞳に意識を集中させる。途端、体の内から暴威が溢れ出す。
すさまじい勢いで展開された侵食領域は、盟主相手に引けをとらないどころか、その周囲を丸々呑み込んでいく。
そして狼の周囲すべてを取り囲んだ瞬間、ダグラス領全域を覆っていた侵食領域が消え去った。空間的に連続していなければ、維持はできないのだろう。
だが、エヴァンの領域はそれだけにとどまらなかった。狼の毛を、そして皮を蝕んでいく。敵の侵食領域よりも早い処理で自身の領域を優先的に食い込ませるのを、実戦において初めて用いた瞬間であった。
表面を覆ったところで侵食は停止したが、それで十分だった。エヴァンはすぐさまその部分に力場魔法を用いる。
しかと四本の足で地に立っていた狼は、押しつぶされて這いつくばらずにはいられなかった。動けぬその敵は、もはや叩き斬られるのを待つのみ。
エヴァンは振り上げた剣に力を込めた。それが敵にぶち当たるかに思われた瞬間、血が舞い上がり、狼の皮が剥げた。
表面部分だけが力を受けているのなら、その部分を捨て去ってしまえばよい。自身を切り捨てるという手段は、人ならばそうそう思いつくものではない。それをやってのけた狼は血まみれになりながら、肉を風に晒しながら、よろよろと逃げ出す。
エヴァンには咄嗟に追う余力はなかった。魔法が切れると、どっと疲れが吹き出す。
逃げる狼を睨みながら、短剣を敵目がけて投げつけるも、肉をわずかにかするだけにとどまる。
(くそ……! ここで逃してなるものか!)
歯がみしながら敵の背を追わんとした瞬間、隣を槍が通り過ぎていき、狼の胴体を見事に貫いた。狼は串刺しにされて、痛みにのけぞることさえ許されない。その場に崩れ落ちると、暫くは手足を動かしていたものの、やがておとなしくなる。
エヴァンはそれを見届けると、セラフィナの方を振り返った。彼女の鎧はへこんでおり、そして衣服もあちこちすり切れていたが、目立った外傷はない。
エヴァンは大きくひと息ついた。
3
戦いの終わりと共に駆け寄ってくるセラフィナを見るなり、エヴァンに言いしれぬ安堵と喜び、そして幸せにも似た解放感が訪れる。
「エヴァン様! ご無事ですか!?」
「問題ないよ。それよりセラ、君の傷は? どこか痛むところは?」
エヴァンは強敵を前にしたときよりも、おろおろしていたに違いない。そんな様子を見てセラフィナはいつものように微笑んだ。
「問題ありません。このようなものは、かすり傷に過ぎません」
それはただの強がりではないだろう。エヴァンの影響を受けてか、比較的合理的な考え方をするようになったセラフィナは、重大なこと、とりわけ後々影響が大きくなりそうなことならば、すぐに打ち明ける。
それからエヴァンはゆっくりと、銀狼の死骸へと歩いていく。セラフィナは突き刺さったままの槍を手に取ると、狼を蹴り出すように踏みながら、ぐいと引き抜いた。
盟主の肉体が消えていく気配はない。ならば捨ててしまうのももったいない。
「今晩は、こいつのシチューにしようか」
「おいしそうには見えませんが……食べられないことはないでしょうね」
セラフィナはひょいと肉片をつまみ上げる。それを見てふと思いついたエヴァンは、毛皮を拾い上げる。
見事に胴体から切り離されているため、後は肉をこそぎ落として防腐処理を済ませれば、衣類として使えるはずだ。先ほどの戦闘でちぎれている部分もあるが、機能には問題ないだろう。
そうしていると、侵食領域がなくなったことに気が付いたのか、屋敷の前にレスターの姿が見えた。エヴァンは一瞥すると、すぐに興味をなくして再びセラフィナに視線を戻す。
荒れた屋敷周辺の始末はレスターにでも任せておけばいいだろう、とエヴァンはセラフィナと、離れに戻ることにした。そして二人だけの根城に戻ってきた頃、歓声が上がり始める。エヴァンはそれを聞き流しながら椅子にゆったりと腰掛けて、セラフィナを眺めていた。
彼女の方が軽傷だったということで、エヴァンが休むように言われたのだが、いつもいつも、彼女ばかりが動いているのは気が引ける。何より、彼女だって無傷ではないのだから。
そう思いつつもお言葉に甘えて鎧を外すと、もはや修理しても使い続けることが難しそうなほどに削れ、ひしゃげていた。圧迫感から解放された肺いっぱいに空気を吸い込む。
あちこち骨が折れたと思っていたが、肺は機能しており、痛みもずいぶん引いている。ずっしりとした疲労感は残っているが、以前に瞳の力を使ったときより遥かにましだ。おそらく、自身の力が増したことで、瞳が人体側に侵食領域を浸潤する影響が弱まったのだろう。
その代わりにやってきたのは、猛烈な飢餓感だった。エヴァンは耐えがたくなって、そこらにあった乾物を口に放り込む。
「あの……エヴァン様? もうすぐできますよ?」
「ありがとう、セラ。だけどどうにも無性に腹が減ってね。いつも君に頼ってばかりだけど、君の手料理が一番おいしいから、これからも頼むよ」
「はい! では腕によりをかけて作りましょう!」
保存性を重視したせいでやけにしょっぱい干し肉を、湯で流し込む。ぬくもりが喉を通って、胃に落ちてきた。それからじんわりと広がるのが、春の陽光のように心地好い。わずかに残っていた緊張感が、すっと解けていった。
やがて料理が出来上がると、二人だけの晩餐会が始まる。だが、無粋にも邪魔する輩が現れた。扉が開いて姿を現したのは、レスターだった。
「エヴァン、ご苦労だったな。褒めて遣わすぞ」
「……用件はそれだけか?」
やけに態度がでかいが、レスターもそれなりに働いていたので、無下にすることもないかとエヴァンは思う。が、愛想を浮かべる必要はなく、その態度はすげないものだ。
「もうすぐ王の兵が到着するが、そのときに説明が必要になる。お前とて、何もせずに寝てなどいられなくなるぞ!」
半ば捨て台詞気味に、レスターは言い置いて出ていった。
扉が閉まると、二人は今度こそ食事にありつく。先ほど仕留めたばかりの盟主の肉であり、非常に希少価値の高いものだ。が、それがおいしさと比例することはなかった。
「……おいしくないですね」
「なんだか、ひどい味だ」
狼の肉自体がそうなのか、あるいは魔物の肉だからなのかはわからない。けれど、エヴァンはひたすら胃の中に詰め込んでいく。味の方はともかく、食えば腹がふくれ、精が付く。
エヴァンが食事を終えたのは、家中の食品を食い尽くした後だった。
窓から外を眺めると、領民たちも各々の家に戻ったようで、屋敷から出ていく人影はもうない。一方、魔物の死骸や魔石の回収、門の修繕などにはまだまだ時間がかかりそうだった。
すべきこともなくなると、エヴァンは猛烈な眠気に襲われ、さっさと風呂に入って寝ることにした。
この日も、セラフィナと共に脱衣所に向かう。もうずいぶん成長したのだから、そういうことも意識せざるを得ない年なのだから、と思う一方で、恋仲なのだから何も問題はない、ずっと続けてきた関係を今更終わらせたくない、という思いもある。同じ一室にありながら、互いの方を見ることもなく、衣擦れの音だけが沈黙を破る。
ランタンに炎を灯さなければ、体の輪郭こそわかるものの、近づかねばはっきりとは見えない。その薄暗さが、二人にとっては丁度よいものだった。
姿は見えず、しかし存在が確かに感じられる距離。息遣いは水音にかき消される。エヴァンは肩まで湯につかると、傷跡が染みてちくちくと痛んだ。
「セラ、傷は大丈夫?」
「大した傷ではありませんよ」
そう言いつつ、彼女もまた湯船に入ってくる。その裸体を矯めつ眇めつ眺めていたのなら傷もよく見えたのだろうが、エヴァンは視線を向けることができなかった。
「それにしても、エヴァン様の食欲には目を見張るものがありますね」
「……いよいよ、化け物じみてきた、かな」
エヴァンは自身の背を軽く撫でた。そこには竜の鱗がある。とは言っても、今では至近距離で目を凝らして見ない限り、ただの痣にしか見えない。
「そのようなことは。たとえそうであっても――」
湯のぬくもりよりもずっと温かな、触れ合う肌の感触。
「ずっと、お慕いしております」
体を預ける彼女の表情が薄暗がりでもはっきりと見える。どんな聖人よりも優しくて、どんな美の女神だってかなわないほど美しくて、何よりも大好きな笑顔があった。
エヴァンは息を呑み、言葉を失った。そしてその代わりに彼女を抱き寄せる。初めはセラフィナも驚いて身をこわばらせていたが、やがて身をゆだねた。
どんな戦いの高揚感も、このひとときには遠く及ばない。あまりにも穏やかな時間だった。
翌朝、ダグラス領の町には大勢の兵が集まっていたが、それぞれ困惑気味である。さもありなん、国の安寧を脅かす大敵である盟主を討たんと、死を覚悟で駆けつけた結果、すでに討たれてしまったというのだから。
盟主が死んだという事実に半信半疑な兵も少なくない。だが、盟主の特徴である広大な侵食領域はすでに消滅している。信じられずとも、信じなければならないといったところだろう。
そんなわけでエヴァンは兵たちの元に説明に赴くことになっていた。昨日のうちに食料は全て平らげてしまったため、まだ朝食も食べていない。それゆえに、どうせ町に出かけることにはなるのだが、話が長くなればそれも遅れよう。
エヴァンは離れを出ると、従士の姿を見つける。どうやらずっと待っていたらしい。
「エヴァン様、いまだ納得しておられない方々も多く、どうか迅速に事態を収めていただくよう……」
他領より力関係で遥かに劣るダグラスの家臣としては当然の小言――あるいは弱音だったのかもしれない。だが、エヴァンは適当に返事をしつつ、あくびを一つ。
「エヴァン様、お口が開いていますよ? せっかくの美男子が台無しです」
「ああ……そんなことを言ってくれるのは君だけだから、かまいやしないさ」
エヴァンの目的は買い物であり、当然セラフィナも同行する。従士は馬車を用意してくれるそうだったが、エヴァンは自分の馬を出して、セラフィナと二人で騎乗した。
屋敷を離れて、畦道を行く。左右に見える田畑は魔物の襲撃によって踏み荒らされているが、見るも無残な野菜の残骸が散らばっていることもなく、エヴァンも安堵する。なにせ、今から町に行っても何も食料がないこともあり得たのだから。
そうして空腹感が高まってきたところで、ようやく町が見えてくる。どうやら統率を失った魔物が出る危険があるため、兵が駐屯しているらしい。ダグラスの従士たちのほかに、ハンフリーの兵も多数見られる。
先の従士を置いてきてしまったため、誰のところに行けばいいのかも分かっていない。一応、束ねる騎士がいるということは聞いていたが、そもそもエヴァンは正式に招聘されたわけでもなく、事情を説明するためにこちらから伺うのだから、相応の地位にある者なら誰でもいい。とはいえ、いろいろ手順というものもある。
あたりを見回していると、やけに兵の視線を集めていることに気が付いた。
「エヴァン殿、ですよね?」
「ええ、私がダグラス領領主の四男、エヴァン・ダグラスです」
それを聞き、兵はやはり、と感嘆した。詳しく話を聞いてみると、マハヴィルの首都を攻めたときの兵の中にいた者らしい。なにやら、エヴァンはちょっとした有名人になっているそうだ。というのも、敵将のババールがハンフリーの将を三人討ち取った影響は大きく、さらにそれを打ち倒したエヴァンが持ち上げられることになったのだろう。
それをきっかけに、エヴァンは幾人かを経由して、騎士のところにいくことになった。
幕舎を訪ねると、見知った顔と見知らぬ顔が半々であった。エヴァンは深々と頭を下げ、ねぎらいの言葉をかけるも、彼を知る将が先を促した。
「ええ、すでにご存じかとは思いますが、二日前、この地に盟主が出現しました。侵食領域の進展は王都近くまで及んでいたと伺っております。そして昨日、盟主がこの町に接近しました。そこで町民の避難は済ませていたため、領主の居館まで引きつけ、迎え撃ちました。美しい銀の狼でしたが、死骸は処理したためご覧に入れることはできません。毛皮でしたら、お目にかけることができますが、いかがいたしましょうか」
エヴァンはすらすらと言葉を紡ぐ。将は納得した者とそうでない者が半々である。しかし、わざわざ兵を出しておきながら、何もせずにのこのこ帰ってきたというのでは、外聞が悪かろう。
どうしたものか、と将たちは頭を抱えた。
「では、私が殿下に毛皮を献上するというのはいかがでしょうか? 一介の兵の身分で差し出がましいこととは存じますが、我らがダグラスの忠誠と、盟主をものともせぬ殿下のご威光も示せましょう」
エヴァンは場を取り繕うために適当に述べたのだが、果たしてそうなった。結局のところ、責任を取るのが嫌だったのかもしれない。武官である彼らがより政治的に巧妙な策を思い浮かぶこともなかった。
そうなると、エヴァンは一部の将と共に、王都へと向かうことになる。一度屋敷に戻るべく、買い物を済ませ、馬にくくりつけてから、二人並んでゆっくりと畦道を戻っていく。
「それにしても、また謁見することになるとは、思ってもいませんでした」
エヴァンはセラフィナの言葉に頷きつつも、頭の中では違うことを考えていた。短期間で盟主がやってきたことの意味。そしてあの狼が盟主になる前と後で二度、自身を見てきたということ。
今一度、運命が動き出すのを感じずにはいられなかった。そしてだからこそ、彼女を巻き込み、再び戦いに身を投じることになる決断を躊躇していた。
セラフィナはにこやかな笑みを浮かべて、エヴァンの顔をのぞき込む。その温顔の前では、泣き叫ぶ稚児だってすぐ笑顔になるだろう。エヴァンは生唾を呑み込むと、意を決して口を開いた。
「これは確信とか、根拠があってのことではないんだけど……俺は立ち止まることを許されてはいないのではないか、と感じるんだ。先を促されているというか、そうしなければ運命の奔流に流されてしまうのではないかと思うことがある。一時はあの記憶もなりを潜めていたからこうした日々に安んじていたけれど、やはり俺が動かねば災厄の方から向かってくるらしい」
「それが、恐ろしいのですか?」
「他人の手のひらで踊らされるのが、怖くないわけはないさ。何より、君を巻き込んでしまうのが怖いんだよ」
「……大丈夫ですよ。私はエヴァン様のゆくところであれば、どこにでもお供いたします。エヴァン様が気に病むことはありません。それは、私の願いでもありますから」
セラフィナは愛らしくはにかんだ。エヴァンはどれほど自身が強くなろうと、どれほどこざかしい知恵を身に付けようと、彼女にはかなわないのだと思った。
「マティアス公国に行かれるのですか? 確かそのようにおっしゃられていたと覚えていますが」
「そうしようと思っている。あそこには第三盟主リンドブルムがいて、信仰の対象となっているそうだ。俺の記憶に間違いがない限り、そこで俺の運命を、誰かの思惑を、知ることになるだろう」
「では、そうしましょう。ご両親にはいつお伝えしますか?」
「出立の前には伝えようと思う。マティアスには首都から行く方が近いから」
セラフィナがやや驚いたのはおそらく、エヴァンが家族と別れるというのにこれまたあっさりと済ませようとしているからだろう。だが、彼女はすぐに頷いた。
そうなると、また長旅の準備が必要だ。鎧は首都にて調達すればいいから、金と着替えがあれば済む。
エヴァンはまだ見ぬ新天地を思い描いた。
0
お気に入りに追加
697
あなたにおすすめの小説
【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします
*
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!?
しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です!
めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので!
本編完結しました!
時々おまけを更新しています。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
辺境伯家ののんびり発明家 ~異世界でマイペースに魔道具開発を楽しむ日々~
雪月 夜狐
ファンタジー
壮年まで生きた前世の記憶を持ちながら、気がつくと辺境伯家の三男坊として5歳の姿で異世界に転生していたエルヴィン。彼はもともと物作りが大好きな性格で、前世の知識とこの世界の魔道具技術を組み合わせて、次々とユニークな発明を生み出していく。
辺境の地で、家族や使用人たちに役立つ便利な道具や、妹のための可愛いおもちゃ、さらには人々の生活を豊かにする新しい魔道具を作り上げていくエルヴィン。やがてその才能は周囲の人々にも認められ、彼は王都や商会での取引を通じて新しい人々と出会い、仲間とともに成長していく。
しかし、彼の心にはただの「発明家」以上の夢があった。この世界で、誰も見たことがないような道具を作り、貴族としての責任を果たしながら、人々に笑顔と便利さを届けたい——そんな野望が、彼を新たな冒険へと誘う。
他作品の詳細はこちら:
『転生特典:錬金術師スキルを習得しました!』
【https://www.alphapolis.co.jp/novel/297545791/906915890】
『テイマーのんびり生活!スライムと始めるVRMMOスローライフ』 【https://www.alphapolis.co.jp/novel/297545791/515916186】
『ゆるり冒険VR日和 ~のんびり異世界と現実のあいだで~』
【https://www.alphapolis.co.jp/novel/297545791/166917524】
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
家ごと異世界ライフ
ねむたん
ファンタジー
突然、自宅ごと異世界の森へと転移してしまった高校生・紬。電気や水道が使える不思議な家を拠点に、自給自足の生活を始める彼女は、個性豊かな住人たちや妖精たちと出会い、少しずつ村を発展させていく。温泉の発見や宿屋の建築、そして寡黙なドワーフとのほのかな絆――未知の世界で織りなす、笑いと癒しのスローライフファンタジー!
【完結】もふもふ獣人転生
*
BL
白い耳としっぽのもふもふ獣人に生まれ、強制労働で死にそうなところを助けてくれたのは、最愛の推しでした。
ちっちゃなもふもふ獣人と、攻略対象の凛々しい少年の、両片思い? な、いちゃらぶもふもふなお話です。
本編完結しました!
おまけをちょこちょこ更新しています。
第12回BL大賞、奨励賞をいただきました、読んでくださった方、応援してくださった方、投票してくださった方のおかげです、ほんとうにありがとうございました!
オバサンが転生しましたが何も持ってないので何もできません!
みさちぃ
恋愛
50歳近くのおばさんが異世界転生した!
転生したら普通チートじゃない?何もありませんがっ!!
前世で苦しい思いをしたのでもう一人で生きて行こうかと思います。
とにかく目指すは自由気ままなスローライフ。
森で調合師して暮らすこと!
ひとまず読み漁った小説に沿って悪役令嬢から国外追放を目指しますが…
無理そうです……
更に隣で笑う幼なじみが気になります…
完結済みです。
なろう様にも掲載しています。
副題に*がついているものはアルファポリス様のみになります。
エピローグで完結です。
番外編になります。
※完結設定してしまい新しい話が追加できませんので、以後番外編載せる場合は別に設けるかなろう様のみになります。
貴族家三男の成り上がりライフ 生まれてすぐに人外認定された少年は異世界を満喫する
美原風香
ファンタジー
「残念ながらあなたはお亡くなりになりました」
御山聖夜はトラックに轢かれそうになった少女を助け、代わりに死んでしまう。しかし、聖夜の心の内の一言を聴いた女神から気に入られ、多くの能力を貰って異世界へ転生した。
ーけれども、彼は知らなかった。数多の神から愛された彼は生まれた時点で人外の能力を持っていたことを。表では貴族として、裏では神々の使徒として、異世界のヒエラルキーを駆け上っていく!これは生まれてすぐに人外認定された少年の最強に無双していく、そんなお話。
✳︎不定期更新です。
21/12/17 1巻発売!
22/05/25 2巻発売!
コミカライズ決定!
20/11/19 HOTランキング1位
ありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。