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4巻

4-2

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 いくら盟主といえども、人の体自体を侵食領域で呑み込めはしない。敵は拳を防ぐことかなわず、片目の痛みにうめく。同時、剣を咥える力が弱まった。
 エヴァンは片手で敵の目をえぐり出さんとしつつ、もう一方の手元に力場魔法を用いる。腕力にさらに力が加わると、牙と剣がこすれる音が聞こえ始める。そしてその後は一瞬だった。
 束縛そくばくから解放された刃は、狼の頬をざっくりと斬り裂く。血が噴き出す中、狼は自分自身に力場魔法を用いて空中に静止。エヴァンだけが地面へと向かっていく。
 慌てて自身に力場魔法を用いて減速するも、すでに地上は目と鼻の先。エヴァンは歯を食いしばった。直後、受け身など何の意味も成さないほどの衝撃しょうげきが、背中からやってくる。鎧はひしゃげて体を圧迫し、肺の中から空気を絞り出していく。
 だが、寝転がっている余裕はない。すぐそこまで狼の牙が迫っていた。エヴァンは自身に力場魔法を用いて転がり、すんでのところで回避する。銀狼はさらに迫り、エヴァンは無理やり起き上がり後退、敵との間に石の壁を生み出した。
 しかしすぐさま狼は回り込んでくる。そしてかみ殺さんと頭を伸ばした直後、突き飛ばされたかのように飛び退いた。同時に、両者の間に槍が割り込んでくる。

「エヴァン様! 向こうには狼の群れが!」

 セラフィナに言われ周囲を観測すると、どうやら門の方だけでなく、今しがた落とされた方からも狼が迫っていた。挟撃きょうげきされる形になったのである。
 かといって、力場魔法により壁の内側に戻らんとしても、敵の方が早い。ならば、増援が集まらないうちに、この場から逃げてしまう方がましなのではないか。
 ちらと敵を見るも、見逃してくれそうな気配などなく、ますます獰猛どうもうに牙をいている。
 彼はその考えを即座に否定し、剣を強く握った。銀の狼は暫しその場で何度もくるくると回るような動作をして、やがて狙いを定めたのか、猛烈な勢いで駆けてくる。
 そして今度は鉄の刃が飛来した。盟主の生み出したそれを、石の壁を生み出すことで防ぐ。魔力の節約のため薄く生み出した部分にひびが入り、刃がわずかに突き出す。
 間髪れずに飛び掛かってきた狼へと剣を振るも、あっさりと回避される。が、そこでセラフィナの槍が敵を打ちえた。
 直後、エヴァンの背後に刃が浮かんだ。常人ならば気付くことはなかっただろう。生み出された途端、すさまじい力を加えられて対象へと向かっていくのだから、防ぐすべはないに等しい。
 が、エヴァンはそれに反応して体をひねった。首のあたりを狙った一撃は、肩を抉っていく。痛みに呻くも、この程度で済んだのは僥倖ぎょうこうと言えよう。背後にいる狼の群れを警戒して制御魔法で全域を観測していなければ、到底防ぎようもなかった。
 敵も警戒を強めたのか、一旦後退する。
 だが、それを見てもエヴァンはほっとひと息つくことさえできなかった。銀狼の向こうには、灰色の狼の群れがひかえていた。
 前進すべきか、後退すべきか。悩むも、まだ門の兵とやり合っていて混乱している方に突っ込む方がましに思われて、エヴァンは一旦下がることにした。
 敵を刺激しないよう、ゆっくりと後じさりしていく。一歩一歩がやけに重く、時間の進みが遅く感じられる。そうしながら呼吸を整えるも、先ほどの衝撃で体はきしむ。そのまま倒れ込んでしまいたいほどの疲労感をぐっと抑え込んで足を動かす。
 そして壁伝いに進んでいき、やがて壁のすみにたどり着く。そこから向こうを窺うと、敵の数もずいぶんと減っていた。ちらりと盟主を確認した後、エヴァンは背を向けて駆け出した。同時に、敵の群れも背後から迫ってくる。盟主だけでなく敵の大群を相手にする気にはなれなかったのだが、その判断が正しかったのかどうかは分からない。門の前ではまだ十数体の狼が城門を叩いており、木製もくせいの扉は今にも破壊されてしまいそうだった。
 そのうちの数体がエヴァンに気が付き、向かってくる。剣を構えるも、それよりも早くセラフィナが飛び出す。
 槍を振ると狼をひと突き。そして立て続けに二体目へと振りおろし、地面に打ち付ける。動かなくなった狼を蹴り上げ、向かってくる相手にぶつけてひるんだところを槍で突く。
 狼は次々と仕留められていくが、背後から迫ってくる数はものの比ではない。烏合うごうしゅうといえども、数十もの相手に取り囲まれるのは避けたい。
 また門扉もんぴが開かなければ、中には入れない。そしてそのためには、周囲の魔物を片づけねばならないだろう。
 そう踏んでいたのだが、敵が全て片付く前に門が開け放たれた。

「おいエヴァン、とっとと入れ!」

 中には狼どもも入っていってしまうが、すぐにそれらの悲鳴が聞こえてきた。
 駆け込んだ先では、不機嫌ふきげんそうなレスターが狼を斬り殺している。
 すぐさま門扉は閉められる。すでにぼろぼろになっていて、どれほど持つかは分からない。盟主の攻撃を食らえば一発で砕け散ることだってあり得る。

「……屋敷で寝込んでたんじゃないのか?」
「お前が死んだら、誰が俺を守るんだ? さっさとあいつを倒してしまえ」

 レスターは相変わらずであったが、保身ほしんのために全力を尽くす姿はいっそすがすがしい。と、そのとき、扉の方から大音声が聞こえてきた。盟主の攻撃が始まったらしい。そして扉は数秒とたずに崩壊していく。
 盟主が飛び出すかに思われた瞬間、門の上から袋が落とされていく。その直後にレスターが魔法で炎を生み出し、門扉の残骸ざんがいに命中させる。
 途端、勢いよく扉が燃え上がる。先ほどの袋は油が詰められていたらしい。狼どもはそれに呑みこまれ、げて嫌な臭いを放つ。

「撃て!」

 レスターの合図と共に、数台の弩砲がうなりを上げた。巨大な矢が炎の中へと飛び込んでいき、その向こうにいる敵を貫く。人を数体は貫ける威力がある弩砲だ、密集している中に撃ち込まれれば、ひとたまりもないだろう。
 そして幾度いくどとなく弩砲のバネがきしんだところで、壁を越えてくる影が一つ。群れを率いてくるのはあきらめたらしく、ただ一体で乗り込んでくる。

「お、おい、エヴァン。いいか、絶対に倒すんだぞ。屋敷には一歩たりとも入れるんじゃないぞ!」

 レスターはそんな捨て台詞と共に屋敷に舞い戻っていった。最後は情けない姿だが、彼もあの戦いで変わったのかもしれない。多くの従士も、彼の護衛ということで付き添っていく。盟主相手におじいたのだろうが、むしろ邪魔にならなくて丁度いい。
 銀の狼がしなやかに地に舞い降りると、エヴァンは再び剣を構える。もはや横槍よこやりが入ることはなく、ただ力で相手をねじ伏せるだけだ。
 魔法を使われた場合、不利になる。エヴァンが先制しようとすると、セラフィナがその意を汲み、敵へと飛び掛かった。身の倍近くもあろう槍を軽々と振り回し、よこぎの一撃を放つ。
 ぎりぎりのところで跳躍ちょうやくして回避されるも、セラフィナは立て続けに突きを三度繰り出した。敵は自身に力場魔法を用いて機敏きびんかわすが、その背後はすでにエヴァンに取られている。彼はセラフィナと挟撃するように、できるだけ小振りに、しかし広い範囲を払うように剣を振るった。
 剣は伏せる敵の頭上をかすめ取るように振るわれ、幾本もの毛を刈り取るも、その肉に触れることはかなわない。
 だが、そのときすでにセラフィナが小さな挙動きょどうで槍を振るっていた。敵目がけて向かっていく勢いは、たとえ力場魔法によりさまたげられたとしても止まりはしないだろう。そして、実際そうなるかと思われた瞬間、空間が歪んだ。狼がこれまで以上に素早い動作でその場から飛び退く。
 それは時空魔法。狼がおのれのいる空間だけ時間の進みを早くすることで、他より加速したのだ。
 銀狼は瞬時にしてその場を離脱りだつすると、立て続けに魔法を放つ。膨大ぼうだいな侵食領域を生かし、ありとある空間から鉄の刃を生み出し、地上に降り注がせる。闇雲やみくもに放たれたそれは大部分が無関係な方向に飛んでいくも、いくつかはエヴァンとセラフィナに迫る。
 セラフィナは生成魔法がほぼ使えない。それゆえに、すべてを自力で防がねばならなかった。そしてエヴァンも、彼女のところまで行く余裕はなかった。

「敵を!」

 たったひと言、短く告げられた思いがエヴァンの逡巡しゅんじゅんを打ち砕く。
 エヴァンは生成魔法により石の壁を生み出すなり、それを盾代わりにして敵へと突っ込んでいく。防ぎきれないいくつかが肩を、腰を、ひざをかすめていく。
 だが、エヴァンはそれでも止まることはなかった。敵の攻撃がむと盾を投げ捨て、おどり出る。狙いを定めて剣を振りかぶったときには、もう銀色が目の前に迫っていた。
 鋭い刃が敵の血を欲して向かっていく。
 しかし、またもやぎりぎりで、と同時にあっさりと魔法を使われてけられる。このまま翻弄され続けるわけにはいかないと、エヴァンは懐から魔石を取り出すなり制御魔法を使用し放り投げた。
 それは狼の背後にまでいくと、一定の距離をたもって静止、間髪かんはつれずにぼうっと赤く燃え上がった。銀狼はそちらを警戒し、エヴァンの方にわずかばかりの隙を見せる。それは誘いの可能性もあったが、エヴァンは勝負所と見た。
 剣を振りかぶりつつ、瞳に意識を集中させる。途端、体の内から暴威ぼういが溢れ出す。
 すさまじい勢いで展開された侵食領域は、盟主相手に引けをとらないどころか、その周囲を丸々呑み込んでいく。
 そして狼の周囲すべてを取り囲んだ瞬間、ダグラス領全域をおおっていた侵食領域が消え去った。空間的に連続していなければ、維持いじはできないのだろう。
 だが、エヴァンの領域はそれだけにとどまらなかった。狼の毛を、そして皮をむしばんでいく。敵の侵食領域よりも早い処理で自身の領域を優先的に食い込ませるのを、実戦において初めて用いた瞬間であった。
 表面を覆ったところで侵食は停止したが、それで十分だった。エヴァンはすぐさまその部分に力場魔法を用いる。
 しかと四本の足で地に立っていた狼は、押しつぶされていつくばらずにはいられなかった。動けぬその敵は、もはや叩き斬られるのを待つのみ。
 エヴァンは振り上げた剣に力を込めた。それが敵にぶち当たるかに思われた瞬間、血が舞い上がり、狼の皮がげた。
 表面部分だけが力を受けているのなら、その部分を捨て去ってしまえばよい。自身を切り捨てるという手段は、人ならばそうそう思いつくものではない。それをやってのけた狼は血まみれになりながら、肉を風にさらしながら、よろよろと逃げ出す。
 エヴァンには咄嗟とっさに追う余力はなかった。魔法が切れると、どっと疲れが吹き出す。
 逃げる狼を睨みながら、短剣を敵目がけて投げつけるも、肉をわずかにかするだけにとどまる。

(くそ……! ここで逃してなるものか!)

 歯がみしながら敵の背を追わんとした瞬間、隣を槍が通り過ぎていき、狼の胴体を見事に貫いた。狼はくししにされて、痛みにのけぞることさえ許されない。その場に崩れ落ちると、暫くは手足を動かしていたものの、やがておとなしくなる。
 エヴァンはそれを見届けると、セラフィナの方を振り返った。彼女の鎧はへこんでおり、そして衣服もあちこちすり切れていたが、目立った外傷はない。
 エヴァンは大きくひと息ついた。



 3


 戦いの終わりと共に駆け寄ってくるセラフィナを見るなり、エヴァンに言いしれぬ安堵あんどと喜び、そして幸せにも似た解放感が訪れる。

「エヴァン様! ご無事ですか!?」
「問題ないよ。それよりセラ、君の傷は? どこか痛むところは?」

 エヴァンは強敵を前にしたときよりも、おろおろしていたに違いない。そんな様子を見てセラフィナはいつものように微笑ほほえんだ。

「問題ありません。このようなものは、かすり傷に過ぎません」

 それはただの強がりではないだろう。エヴァンの影響を受けてか、比較的合理的な考え方をするようになったセラフィナは、重大なこと、とりわけ後々影響が大きくなりそうなことならば、すぐに打ち明ける。
 それからエヴァンはゆっくりと、銀狼の死骸しがいへと歩いていく。セラフィナは突き刺さったままの槍を手に取ると、狼を蹴り出すように踏みながら、ぐいと引き抜いた。
 盟主の肉体が消えていく気配はない。ならば捨ててしまうのももったいない。

「今晩は、こいつのシチューにしようか」
「おいしそうには見えませんが……食べられないことはないでしょうね」

 セラフィナはひょいと肉片をつまみ上げる。それを見てふと思いついたエヴァンは、毛皮を拾い上げる。
 見事に胴体から切り離されているため、後は肉をこそぎ落として防腐処理ぼうふしょりを済ませれば、衣類として使えるはずだ。先ほどの戦闘でちぎれている部分もあるが、機能には問題ないだろう。
 そうしていると、侵食領域がなくなったことに気が付いたのか、屋敷の前にレスターの姿が見えた。エヴァンは一瞥いちべつすると、すぐに興味をなくして再びセラフィナに視線を戻す。
 荒れた屋敷周辺の始末はレスターにでも任せておけばいいだろう、とエヴァンはセラフィナと、離れに戻ることにした。そして二人だけの根城ねじろに戻ってきた頃、歓声が上がり始める。エヴァンはそれを聞き流しながら椅子いすにゆったりと腰掛けて、セラフィナを眺めていた。
 彼女の方が軽傷だったということで、エヴァンが休むように言われたのだが、いつもいつも、彼女ばかりが動いているのは気が引ける。何より、彼女だって無傷ではないのだから。
 そう思いつつもお言葉に甘えて鎧を外すと、もはや修理しても使い続けることが難しそうなほどに削れ、ひしゃげていた。圧迫感から解放された肺いっぱいに空気を吸い込む。
 あちこち骨が折れたと思っていたが、肺は機能しており、痛みもずいぶん引いている。ずっしりとした疲労感は残っているが、以前に瞳の力を使ったときより遥かにましだ。おそらく、自身の力が増したことで、瞳が人体側に侵食領域を浸潤しんじゅんする影響が弱まったのだろう。
 その代わりにやってきたのは、猛烈な飢餓きが感だった。エヴァンはえがたくなって、そこらにあった乾物かんぶつを口に放り込む。

「あの……エヴァン様? もうすぐできますよ?」
「ありがとう、セラ。だけどどうにも無性むしょうに腹が減ってね。いつも君に頼ってばかりだけど、君の手料理が一番おいしいから、これからも頼むよ」
「はい! では腕によりをかけて作りましょう!」

 保存性を重視したせいでやけにしょっぱい干し肉を、湯で流し込む。ぬくもりが喉を通って、胃に落ちてきた。それからじんわりと広がるのが、春の陽光のように心地好い。わずかに残っていた緊張感が、すっとけていった。
 やがて料理が出来上がると、二人だけの晩餐会が始まる。だが、無粋にも邪魔するやからが現れた。扉が開いて姿を現したのは、レスターだった。

「エヴァン、ご苦労だったな。めてつかわすぞ」
「……用件はそれだけか?」

 やけに態度がでかいが、レスターもそれなりに働いていたので、無下むげにすることもないかとエヴァンは思う。が、愛想あいそを浮かべる必要はなく、その態度はすげないものだ。

「もうすぐ王の兵が到着するが、そのときに説明が必要になる。お前とて、何もせずに寝てなどいられなくなるぞ!」

 半ばなか捨て台詞ぜりふ気味に、レスターは言い置いて出ていった。
 扉が閉まると、二人は今度こそ食事にありつく。先ほど仕留めたばかりの盟主の肉であり、非常に希少価値の高いものだ。が、それがおいしさと比例することはなかった。

「……おいしくないですね」
「なんだか、ひどい味だ」

 狼の肉自体がそうなのか、あるいは魔物の肉だからなのかはわからない。けれど、エヴァンはひたすら胃の中に詰め込んでいく。味の方はともかく、食えば腹がふくれ、精が付く。
 エヴァンが食事を終えたのは、家中の食品を食い尽くした後だった。
 窓から外を眺めると、領民たちも各々の家に戻ったようで、屋敷から出ていく人影はもうない。一方、魔物の死骸や魔石の回収、門の修繕しゅうぜんなどにはまだまだ時間がかかりそうだった。
 すべきこともなくなると、エヴァンは猛烈な眠気に襲われ、さっさと風呂に入って寝ることにした。
 この日も、セラフィナと共に脱衣所に向かう。もうずいぶん成長したのだから、そういうことも意識せざるを得ない年なのだから、と思う一方で、恋仲こいなかなのだから何も問題はない、ずっと続けてきた関係を今更終わらせたくない、という思いもある。同じ一室にありながら、互いの方を見ることもなく、衣擦れきぬずの音だけが沈黙を破る。
 ランタンに炎をともさなければ、体の輪郭りんかくこそわかるものの、近づかねばはっきりとは見えない。その薄暗さが、二人にとっては丁度よいものだった。
 姿は見えず、しかし存在が確かに感じられる距離。息遣いきづかいは水音にかき消される。エヴァンは肩まで湯につかると、傷跡が染みてちくちくと痛んだ。

「セラ、傷は大丈夫?」
「大した傷ではありませんよ」

 そう言いつつ、彼女もまた湯船に入ってくる。その裸体をめつすがめつ眺めていたのなら傷もよく見えたのだろうが、エヴァンは視線を向けることができなかった。

「それにしても、エヴァン様の食欲には目を見張るものがありますね」
「……いよいよ、化け物じみてきた、かな」

 エヴァンは自身の背を軽く撫でた。そこには竜のうろこがある。とは言っても、今では至近距離で目をらして見ない限り、ただのあざにしか見えない。

「そのようなことは。たとえそうであっても――」

 湯のぬくもりよりもずっと温かな、触れ合う肌の感触。

「ずっと、おしたいしております」

 体を預ける彼女の表情が薄暗がりでもはっきりと見える。どんな聖人よりも優しくて、どんな美の女神だってかなわないほど美しくて、何よりも大好きな笑顔があった。
 エヴァンは息を呑み、言葉を失った。そしてその代わりに彼女を抱き寄せる。初めはセラフィナも驚いて身をこわばらせていたが、やがて身をゆだねた。
 どんな戦いの高揚感も、このひとときには遠く及ばない。あまりにも穏やかな時間だった。


 翌朝、ダグラス領の町には大勢の兵が集まっていたが、それぞれ困惑気味である。さもありなん、国の安寧あんねいおびやかす大敵である盟主を討たんと、死を覚悟で駆けつけた結果、すでに討たれてしまったというのだから。
 盟主が死んだという事実に半信半疑な兵も少なくない。だが、盟主の特徴である広大な侵食領域はすでに消滅している。信じられずとも、信じなければならないといったところだろう。
 そんなわけでエヴァンは兵たちの元に説明におもむくことになっていた。昨日のうちに食料は全てたいらげてしまったため、まだ朝食も食べていない。それゆえに、どうせ町に出かけることにはなるのだが、話が長くなればそれも遅れよう。
 エヴァンは離れを出ると、従士の姿を見つける。どうやらずっと待っていたらしい。

「エヴァン様、いまだ納得しておられない方々も多く、どうか迅速じんそくに事態を収めていただくよう……」

 他領より力関係で遥かに劣るダグラスの家臣としては当然の小言――あるいは弱音だったのかもしれない。だが、エヴァンは適当に返事をしつつ、あくびを一つ。

「エヴァン様、お口が開いていますよ? せっかくの美男子が台無しです」
「ああ……そんなことを言ってくれるのは君だけだから、かまいやしないさ」

 エヴァンの目的は買い物であり、当然セラフィナも同行する。従士は馬車を用意してくれるそうだったが、エヴァンは自分の馬を出して、セラフィナと二人で騎乗した。
 屋敷を離れて、畦道を行く。左右に見える田畑は魔物の襲撃によって踏み荒らされているが、見るも無残な野菜の残骸が散らばっていることもなく、エヴァンも安堵する。なにせ、今から町に行っても何も食料がないこともあり得たのだから。
 そうして空腹感が高まってきたところで、ようやく町が見えてくる。どうやら統率を失った魔物が出る危険があるため、兵が駐屯しているらしい。ダグラスの従士たちのほかに、ハンフリーの兵も多数見られる。
 先の従士を置いてきてしまったため、誰のところに行けばいいのかも分かっていない。一応、束ねる騎士がいるということは聞いていたが、そもそもエヴァンは正式に招聘しょうへいされたわけでもなく、事情を説明するためにこちらからうかがうのだから、相応の地位にある者なら誰でもいい。とはいえ、いろいろ手順というものもある。
 あたりを見回していると、やけに兵の視線を集めていることに気が付いた。

「エヴァン殿、ですよね?」
「ええ、私がダグラス領領主の四男、エヴァン・ダグラスです」

 それを聞き、兵はやはり、と感嘆かんたんした。詳しく話を聞いてみると、マハヴィルの首都を攻めたときの兵の中にいた者らしい。なにやら、エヴァンはちょっとした有名人になっているそうだ。というのも、敵将のババールがハンフリーの将を三人討ち取った影響は大きく、さらにそれを打ち倒したエヴァンが持ち上げられることになったのだろう。
 それをきっかけに、エヴァンは幾人かを経由して、騎士のところにいくことになった。
 幕舎ばくしゃを訪ねると、見知った顔と見知らぬ顔が半々であった。エヴァンは深々と頭を下げ、ねぎらいの言葉をかけるも、彼を知る将が先をうながした。

「ええ、すでにご存じかとは思いますが、二日前、この地に盟主が出現しました。侵食領域の進展は王都近くまで及んでいたと伺っております。そして昨日、盟主がこの町に接近しました。そこで町民の避難は済ませていたため、領主の居館きょかんまで引きつけ、迎え撃ちました。美しい銀の狼でしたが、死骸は処理したためご覧に入れることはできません。毛皮でしたら、お目にかけることができますが、いかがいたしましょうか」

 エヴァンはすらすらと言葉をつむぐ。将は納得した者とそうでない者が半々である。しかし、わざわざ兵を出しておきながら、何もせずにのこのこ帰ってきたというのでは、外聞がいぶんが悪かろう。
 どうしたものか、と将たちは頭を抱えた。

「では、私が殿下に毛皮を献上けんじょうするというのはいかがでしょうか? 一介いっかいの兵の身分で差し出がましいこととは存じますが、我らがダグラスの忠誠と、盟主をものともせぬ殿下のご威光いこうも示せましょう」

 エヴァンは場を取りつくろうために適当に述べたのだが、果たしてそうなった。結局のところ、責任を取るのが嫌だったのかもしれない。武官である彼らがより政治的に巧妙な策を思い浮かぶこともなかった。
 そうなると、エヴァンは一部の将と共に、王都へと向かうことになる。一度屋敷に戻るべく、買い物を済ませ、馬にくくりつけてから、二人並んでゆっくりと畦道を戻っていく。

「それにしても、また謁見えっけんすることになるとは、思ってもいませんでした」

 エヴァンはセラフィナの言葉にうなずきつつも、頭の中では違うことを考えていた。短期間で盟主がやってきたことの意味。そしてあの狼が盟主になる前と後で二度、自身を見てきたということ。
 今一度、運命が動き出すのを感じずにはいられなかった。そしてだからこそ、彼女を巻き込み、再び戦いに身を投じることになる決断を躊躇ちゅうちょしていた。
 セラフィナはにこやかな笑みを浮かべて、エヴァンの顔をのぞき込む。その温顔おんがんの前では、泣き叫ぶ稚児だってすぐ笑顔になるだろう。エヴァンは生唾なまつばを呑み込むと、意を決して口を開いた。

「これは確信とか、根拠があってのことではないんだけど……俺は立ち止まることを許されてはいないのではないか、と感じるんだ。先を促されているというか、そうしなければ運命の奔流ほんりゅうに流されてしまうのではないかと思うことがある。一時はあの記憶もなりを潜めていたからこうした日々に安んやすじていたけれど、やはり俺が動かねば災厄の方から向かってくるらしい」
「それが、恐ろしいのですか?」
「他人の手のひらで踊らされるのが、怖くないわけはないさ。何より、君を巻き込んでしまうのが怖いんだよ」
「……大丈夫ですよ。私はエヴァン様のゆくところであれば、どこにでもお供いたします。エヴァン様が気に病むことはありません。それは、私の願いでもありますから」

 セラフィナは愛らしくはにかんだ。エヴァンはどれほど自身が強くなろうと、どれほどこざかしい知恵を身に付けようと、彼女にはかなわないのだと思った。

「マティアス公国に行かれるのですか? 確かそのようにおっしゃられていたと覚えていますが」
「そうしようと思っている。あそこには第三盟主リンドブルムがいて、信仰の対象となっているそうだ。俺の記憶に間違いがない限り、そこで俺の運命を、誰かの思惑おもわくを、知ることになるだろう」
「では、そうしましょう。ご両親にはいつお伝えしますか?」
出立しゅったつの前には伝えようと思う。マティアスには首都から行く方が近いから」

 セラフィナがやや驚いたのはおそらく、エヴァンが家族と別れるというのにこれまたあっさりと済ませようとしているからだろう。だが、彼女はすぐに頷いた。
 そうなると、また長旅の準備が必要だ。鎧は首都にて調達すればいいから、金と着替えがあれば済む。
 エヴァンはまだ見ぬ新天地を思い描いた。

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