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4巻
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ハンフリー王国の西、ダグラス領では、秋の収穫祭が行われていた。森はまるで燃えているかのように、すっかり赤く色めいている。
マハヴィル王国における戦乱が収まって、早一か月。すっかり戦争の気配はなりを潜めて、人々は現実の生活を豊かにしてくれる、実りのことで頭がいっぱいだった。
この日、エヴァンはセラフィナと町に来ていた。ダグラス領はさほど裕福な土地ではないため、日頃は質素な暮らしが良く似合っているのだが、今日はそのイメージとはかけ離れている。
女性たちは収穫したばかりの雑穀を抱えて忙しそうに歩き回り、男性はこの日のためにとっておいた家畜の肉を捌いている。気の早いものはワイングラスを片手に、すでに酔いが回っていた。
そうして活気溢れる町はエヴァンがよく知る町とは異なっているが、他の領土ではもっと人で賑わっているところも少なくないそうだ。
「こうしていると、何かがあるわけでもありませんが、何だか楽しい気分になってしまいますね」
「何事もないのが一番だよ。凡夫である俺には、こうして君と過ごす平穏な日々より幸せな日など、想像できやしない」
「英雄がずいぶんと、小さなことをおっしゃいますね」
セラフィナはどことなく嬉しそうに言った。
英雄、たしかにそれはそうなのだろう。
しかし実際に、エヴァンがダグラス領にもたらしたものはそう多くはない。亜人に対する差別的条項を撤廃させたところで、多少、チェペク共和国との戦乱の気配が遠のいたというくらいの利しかないのだから。
だが、エヴァンは英雄願望があるわけでもない。ここ最近は、朝起きて剣の稽古などをした後、昼辺りには山に狩りに出かけ、そして日が落ちると離れに戻ってセラフィナと歓談する生活を送っている。それこそ彼が望んだ一番の報酬だったのかもしれない。
しかし、エヴァンはそれがいつまでも続くものだとは思っていない。前世の記憶に関する運命はこれまで彼を翻弄し続けてきた。それが唐突に止むとは思えないのだ。何か手がかりがあれば答えを求めていずれまた、旅立つことになろう。
小難しいことを考えていると、顔に出ていたのだろう、セラフィナが小突いてくる。エヴァンは彼女の手を取って、暫し町中を見て歩いた。
日が暮れ始めると、豚肉の腸詰など日頃は食べない物も並べられ、民は収穫したばかりのぶどうを口にし、ワインを呷っている。
エヴァンも雰囲気に当てられて、何となく酔っているかのような気分になる。
「私達も食事にしましょうか」
それから離れに戻って、セラフィナと二人だけの晩餐会。二人で料理を作り、そして二人で食卓に着く。いつもと変わらぬ一日であった。
その翌日、エヴァンは目が覚めると、剣を軽く振り、そして朝食を取る。それが終わってセラフィナと卓に着いて、今日は何をしようかと考えていたときのことだ。
襲ってきたのは唐突な違和感。エヴァンはすぐさま腰の剣に手を伸ばし様子を窺うも、一つ息を吐いて警戒を解いた。
だが、思い過ごしだったわけではない。遥か遠方からでも分かるほどに強力な敵――盟主が現れたのだ。
つい数か月前にも、ハンフリー国内で盟主は出現しており、エヴァンがそれを討ち取っている。だというのに、また次の盟主が現れるというのは異例の事態だ。
何かがおかしいと思いながらも、エヴァンは建物を出ていた。そしてダグラスの屋敷を駆けあがって、父バリーの部屋を訪ねるなり、堰を切ったように言葉を述べる。
「父上、盟主が出現しました。ハンフリー王へ救援の使者を出すと共に、町周辺の警護を」
それから具体的な行動を一つ一つ告げていくと、バリーは驚いたようにエヴァンを見ていたが、すぐに立ち上がった。
暫くして早馬が駆けていき、町では、盟主の影響を受けた魔物を警戒して従士たちが警備にあたることになった。
「それにしても、英雄か。ずいぶんと様になったじゃないか」
町を眺めていたエヴァンにバリーが声をかけた。
「この半年で多くのことを学びました。ですが、まだまだ分からぬことばかりです」
それを謙遜と取ったのか、バリーは小さく笑った。
報告が入ってきたのは、その日のうちだった。魔物が町に押し寄せてきて、とても数名では抑えきれないということだ。
エヴァンは剣を佩き、鎧を身に着ける。そしてセラフィナも槍を手にしていた。本来、貴族、あるいは騎士がわざわざ先頭に立って戦う必要はない。
だが、エヴァンはこの領内で自身が一番、魔物に対抗する力を有していることを知っている。何もせずに崩壊を眺める気にはなれなかった。
屋敷を守る従士たちに「町に行く」とひと言告げると走り出す。
一か月、戦いから身を遠ざけていたとは思えないほど、体の調子はすこぶるいい。エヴァンが駆ける速度を上げると、セラフィナはそれに合わせて並走する。このままどこまでも行けそうな勢いだった。
間もなく、町が見えてきた。昔はずいぶんと遠く感じたものだが、今はあっと言う間だ。
そうして町中へと入っていくと、狼の群れに襲われている従士たちの姿があった。
エヴァンは侵食領域を広げ、生成魔法を使用。いくつもの礫を生み出すと、それぞれ別々の狼に狙いを定めて撃ち出した。
今にも喉元に食いつかんとしていた狼の頭部にぶち当たり、従士は思わず二人に顔を向ける。
「気を抜くな!」
エヴァンは言いつつ、斬り込む。
近くにいた一体が接近に気付くよりも早くその体を断ち、ようやく気付いた一体を貫く。側面から迫ってきた狼は、セラフィナが振るう槍で地面に叩き付けられた。
それからはあっという間だった。十数体いた狼も全て片が付き、逃げていくものさえ確実に仕留められていく。その強さや侵食領域を持つことから魔物と推測されるが、二人の前では無力だった。
「エヴァン様、見事な腕前で」
「それより、町民たちは?」
「皆避難済みです。問題ありません」
聞きたいことはまだ他にもあったが、従士たちの傷が深かったので、手当てを先にすることにした。
突然訪れた災厄。エヴァンは何かが変わり始めていると感じていた。
夜半、風が強かった。轟々と吹き荒れる音が屋内まで響いてくる。
エヴァンは眠れずにいた。盟主の出現によって、周囲にはその侵食領域の影響が及んでいる。体には纒わり付くような違和感があって、寝返りを打つたびに粘性の空気がこびりついているような錯覚に陥る。
一方、隣ではセラフィナがすやすやと心地好さそうに眠っている。
一見危機感がなく呑気にも見えるその様は、どちらかと言えば豪胆さからくるものだろう。こそこそと策を巡らして万全の態勢が整うのを待ち、一気に畳み込むのを好むエヴァンとは正反対とも言える。
彼はその性格ゆえ、ベッドの中でもひたすらに、現在考え得る可能性を並べていく。
半年ほど前、ダグラス領はホワイトオーガの襲撃を受けたばかりであり、ハンフリーの東の方では盟主が出現している。
ダグラス領は豊かではないが、魔物の被害も少ないのが特徴だった。その地に、こうも魔物が蔓延ると、何かあるのではないかと勘繰ってしまうのも無理はない。
そうして思い出していくも、濃密なここ半年強の歳月は、他愛もない日々を押し流していくのに十分なもので、彼にとっての重大な事項――セラフィナとの思い出を除き、多くが忘却の彼方へと置き去りにされていた。
何かが引っかかるように思いつつも、その理由が思い出せない。
明日になれば近くの領主たちからの援軍がくるだろうから、戦力的な問題は解決される。そう焦ることもないはずだ。
自身を納得させているうちに、いつしか眠りについていた。
やがて朝日が昇りはじめた頃、エヴァンは押し流されるような感覚を覚えて、跳び上がった。そのときにはセラフィナも目を覚ましており、その感覚が錯覚でも夢でもないことが窺える。
「エヴァン様、盟主が動いたようです」
こうした感覚については、セラフィナの方が遥かに優れている。というよりも、あらゆる感覚において、彼女は非常に鋭敏であった。
流されていると感じたのは、盟主の侵食領域の影響が強くなってきたことが理由だろう。それは、こちらに向かってきているということでもある。
近隣の領土からは、今朝がた兵が送られてくることになっていたが、それも今ではどうだか怪しい。自身の領地に大きな影響が出るとなればそちらに向かうだろうし、何より兵もただではないのだから、むざむざ盟主に当てて死なせることもしないだろう。
エヴァンは悩むよりも早く、鎧を身に着け剣を佩く。それで何ができるというわけでもないが、何もしないよりはましである。
離れを出ると、曇り空が彼らを迎えてくれる。屋敷の見張りに声をかけると、何となく違和感を覚えてはいたようだったが、盟主の接近をはっきりと知覚してはいなかったらしい。慌ててバリーに報告しに行った。
「どうなさいますか?」
セラフィナが尋ねてくる。みかん色の髪が風に弄ばれてはためき、やや眼を細めている美しく気高いその立ち姿に、エヴァンは息を呑んだ。
「来れば迎え撃つ。とはいえ、ここでは兵も兵器も十分ではないから、できることなど限られているけれど。生半可な策を講じたところで、盟主相手に有効とは思えないし」
エヴァンは暫し頭を悩ませる。正直なところ、従士たちを総動員して突撃させたところで、盟主相手には物の数にもなりやしないだろう。それなら、遠くから弓でも引いた方がましかもしれない。エヴァンは近くにいた従士を捕まえて、こう提案する。
「そういえば、うちにも弩砲があったよね。あれを使おう」
「はい。確かにありました。ですがあれは旧式のもので、移動には向きませんが」
「それでいいよ。いざとなれば町民を全て収容できるだろうし、この屋敷を最後の防衛線とする」
そうは言うものの、ダグラスの屋敷は敵に備えた作りになってはいない。申し訳程度の壁はあるが、大して高くもなく、門は常に開けっ放しになっている。
それはこの屋敷に魔物が襲ってくる事態など、いまだかつてなかったからだ。しかし今はいかにして盟主を相手にするかを考えねばならない。
慌てて準備に取り掛かる従士たちを横目で見ながら、エヴァンは聞こえないように嘆息した。
彼らはつい先日、マハヴィルにおいて戦闘を経験したが、それでも優れた兵とは言い難い。
セラフィナと二人だけで盟主を倒せるのか。その疑問に続き、次々と問題が浮かび上がってくる。
(倒せなかったとき、籠城するのか? かえって逃げ道がなくなるのだから、二人で逃げた方がいいのではないか。いや、ハンフリー王国は盟主討伐の経験があるし、数で押し切ることもできるだろう。だが、果たして増援が間に合うのか? 見捨てる可能性だってあるし、むしろ、それを時間稼ぎとして万全の準備で仕留める方が確実だ)
いくつもの可能性を考えていると、そこでダグラス家の従士も減っていることに思い至る。
この現状はここ暫くの平和が生んだ、当然の結末なのかもしれない。だが、それを受け入れて死ぬなど御免である。
(二人ならば、何とかなるだろう)
結局、エヴァンはその考えに行き着いた。セラフィナのためならば、英雄の名に何の価値があろう。
エヴァンは一旦離れに戻ると、荷物を整理する。貨幣の入った袋を手に取ると、かつて会った王太子を思い出した。彼が完全なる善人であるのか、それとも智謀に富んだ人物なのかはいまだはっきりしないが、後者ならばこれを機にダグラスへの影響力――国内における支配力を高めようとするに違いない。
何となく面白くない思いを抱きつつも、エヴァンは袋を懐に仕舞い込んだ。
2
盟主が近づくと、多くの町民がダグラスの屋敷へと逃げ込んだ。エヴァンは数名の従士たちと町中にいたが、すでに逃げる準備は終わらせている。こっそり、離れから馬を持ってきているのだ。
それはマハヴィルの決戦の後、徒歩で英雄が凱旋するのはよくなかろうと、王太子から譲られたものだ。大した名馬でもないが、ダグラスの地で馬はほとんど飼育されていないため、こういった機会でもなければ得ることはない。
ともあれ、いかなる内心であろうと、こうして最前線に立っている瞬間、彼は確かに英雄なのだろう。兄のレスターは屋敷に引きこもったきり、出てこない。自信の実力を認めた上での合理的な判断だ。
風がますます強くなってくる。エヴァンは剣を抜いた。
町から離れた山林から、光り輝かんばかりの銀色が現れた。未踏の初雪のような汚れない姿は、周囲の茶色い木々の風景から切り取られているかのように、ぽっかりと浮かび上がっている。
それは狼。すらりと伸びた胴体に、力強い四肢。わずかに開いた口には、鋭い牙が覗いている。通常の個体の倍以上の体高があり、人など軽くかみ殺すこともできよう。そして何より特徴的な灰色の瞳は、暴力が支配する野生の世界を象徴しているかのようで、獲物を捉えて離さない。
「お前は……」
エヴァンは思わず呟いた。その姿には見覚えがあったから。
かつてこの地でレスターと冬山に取り残されたとき、木陰から飛び出していく狼を見ていた。あのとき見られていると感じたのは、思い過ごしではなかったということだ。
ならば、おそらくはこの敵は、自身を狙ってきたものであろう。その理由など知る由もないが、どこまでも逃げ続けるか、迎え撃つか、二つに一つだ。
(俺の運命が戦火の中にあるというのならば、全てこの剣で叩き斬ってみせる!)
エヴァンはいつしか、口の端に笑みを浮かべている。覚悟は決まった。まだ遠い狼へと、剣を突きつける。運命がもたらした災厄ならば、その運命がもたらした剣で斬れぬはずはない。
銀の狼は微動だにせずエヴァンの方を見つめていたが、不意に面を上げて、遠吠えをした。それは山々に反響し、遥か遠くまでその意を伝えていく。
その直後のことだ。まるで山そのものが動いているかのように、振動と騒音が伝わってくる。エヴァンはそれを知るなり、声を張り上げた。
「撤退だ! 今すぐ屋敷まで戻れ!」
従士たちはすぐさま声に従った。まだ家々に隠れていた者たちも騒ぎが気になって家から顔を覗かせ、そしていよいよ怖くなったのか、慌ててダグラスの屋敷の方へ飛び出していく。
早めに避難すればいいものを、とエヴァンは思うも、今さらそんなことを詰問している暇などない。遅れた者から魔物たちの餌食になるのだから。
エヴァンとセラフィナは連れてきた馬にそれぞれ騎乗すると、ダグラスの屋敷に駆けていく。従士たちは馬がいたことに驚きつつも、置いていかれまいと必死で足を動かす。
そして町と屋敷の中程まで来たとき、後方に黒の一群が見えた。それは狼の群れである。おそらく魔物であろう。
盟主の位置を確認してまだ距離があることを確認すると、エヴァンは下馬してそこらの道端にある手頃な石を拾い上げ、同じく地に降り立ったセラフィナに手渡した。
「後ろから二番目に大きな個体がいるだろ? あれを狙えるかな?」
「はい。エヴァン様がお望みならば」
セラフィナはすぐさま振りかぶると、全力でそれを放った。敵の移動も考慮して正確に撃ち出された石は、まだ距離があるにもかかわらず目標を貫いた。
それにて、狼の群れは突如瓦解した。そのまま向かってくるものもいれば、倒れた狼のところに残るものもいる。
エヴァンはその様子を見てから、再び騎乗して馬を走らせた。
「エヴァン様、今のはいったい?」
「何となくだよ。体格が良くて、一番安全なところにいて、他の狼が様子を気にするようなしぐさをしていたから、群れを率いるリーダーなんじゃないかなって。盟主は色も違うし、群れを乗っ取っただけかと思ってさ」
とりあえず、それが時間稼ぎになって、領民たちも全て屋敷へと逃げ込むことができていた。まずまずの成果と言えよう。だが、根本的に何かが解決したというわけではない。
最後の一人が中に入ると、門が閉められる。また開かれたとき、すぐさま迎え撃てるように、その前には弩砲が数台置かれている。重量の関係で、壁の上に持っていくのも面倒だと、そのまま配備したものだ。屋敷は丘の上に立っているため、門の方は下り坂になっていて、狙い撃つのは楽である。
エヴァンは壁の上によじ登ると、向かってくる狼の群れを眺める。その数およそ五十。それらが駆けてくるのは、エヴァンがかつて離れを抜け出して狩りに出かけたときセラフィナと通った畦道。従士たちが仕事のないときに耕していた畑。取り立てて言うほどではないが、少なくはない思い出があるその道を、今は狼の群れが蹂躙していた。
「できるだけ数を減らす。最悪、油でも撒いて火をつけたらいい。中に入ってきてかみ殺されるよりは、火あぶりの方がましだろう?」
エヴァンが平然と生死を分かつ状況に対応するようになっていることに、従士たちは息を呑んだ。かつて離れで過ごしていたときには考えられなかったことである。
やがて狼の群れが間近に迫ってくる。そして号令と共に、矢が放たれた。それは一部は当たるも、ほとんどが回避される。セラフィナは近くにある矢の束から一本を手に取ると、弓も使わずに、そのまま手で投擲した。風を切る音と共に、敵が射抜かれる。
それでも狼は門に達しつつあり、男たちに緊張が走ったとき、別の方角から悲鳴が聞こえてきた。悲鳴の発生源を見れば、壁の上に銀の狼の姿がある。尋常の魔物ではないのだから、壁を乗り越えることが可能であってもおかしくはない。
(くそ……! 雑魚の群れよりあいつを見張るべきだった!)
エヴァンは自身に時空魔法を用いつつ、壁の上を敵目がけて駆けていく。そして数歩進んだ途端、一気に後ろへと飛び退いた。直後、その眼前で炎が爆ぜた。すさまじい熱量が一瞬にして生まれ、彼の表皮を軽く焼く。直撃していれば、無事では済まなかっただろう。
エヴァンとセラフィナは侵食領域を広げる。あまりにも広大すぎて失念していたが、盟主の侵食領域内にいるのだから、どこに魔法を使われたとておかしくはない。それから身を守る方法は、自身の侵食領域を広げることだけ。
しかし彼らのものはさほど広くはないため、比較的至近距離からの攻撃を浴びる可能性がある。エヴァンはセラフィナを後ろにしつつ、ゆっくりと敵へと向かっていく。
慌てふためく兵に構う暇はない。奴がその気になれば、この周囲一帯を焼き尽くすことだってできよう。野放しにしておくわけにはいかないのだ。
銀狼の付近には喉を食い千切られた兵が転がっているが、それ以上中を荒らそうという気はないらしい。エヴァンに狙いを定めるなり、動き回る気配は見せなくなった。
ゆっくりと距離が縮まってくると、エヴァンは一層警戒を強める。敵の瞬発力がどの程度のものなのか、まだ読みかねていた。
そして壁の曲がり角を過ぎて敵と相対すると、おもむろに剣を抜く。敵を斬れるかどうかの不安はない。この剣はあらゆる悪鬼を打ち倒してくれるだろうから。
逸る気持ちを抑え、呼吸を整える。敵を前にして、汗が流れ出す。セラフィナと二人きりで盟主に挑むのは初めてだが、彼女がいるならば、なんだってできるはず。
間合いを詰めると同時、生成魔法により侵食領域内のあらゆるところに生み出された礫は力場魔法で打ち出され、制御魔法に操られただ一点目がけて飛んでいく。
が、銀狼はさっと飛び退くことで回避。さらにセラフィナが敵目がけて矢を投げつけるも、それを避けるように駆け出した。
狼の巨躯は圧倒的な力強さを感じさせる。だが、引くわけにはいかない。後じさりするわけにはいかない。負けるわけにはいかないのだ。
エヴァンは礫を撃ち出しながら、今度は踏み込んだ。敵はそのうちのいくつかを受けながらも、真っ直ぐに向かってくる。
エヴァンは腕を畳むようにして、小さく振り被った。とにかく少しでも敵の力を削ぐための一撃。それは吸い込まれるように、盟主の頭へと近づいていった。
その直後、エヴァンは手に確かな抵抗を覚えたが、鋭い龍牙の剣は敵に届く前に受け止められていた。狼の牙はしかと剣を咥えている。一瞬でもタイミングがまずければ顎と頭が離れていたはず。それを平気で行うとは、恐怖などないのかもしれないと錯覚させられる。
敵の行動はただ防御のみならず、逆にエヴァンを振り回し始める。ぐいと力を受けると、エヴァンは壁の下に向かって投げ出される。そこで抵抗をしなかったのは、敵が剣をそのまま放すだろうと踏んでのことだった。
だが、狼は剣を咥えたまま共に落下し、さらに力場魔法を用いる。対象はエヴァンの剣だ。
(叩き付ける気か……!)
このままエヴァンが剣を握り続ければ、加速して地面にぶつかるだろう。逆に手を離せば、剣は敵の手に落ち、刺し殺される可能性が高い。セラフィナは壁から飛び降りたばかりで、援護は期待できない。自力で何とかしなければならなかった。
エヴァンは片手を剣から放し、残った手にすさまじい力を受けつつも、空いた手で短剣を手に取った。解体に使う小型のものであるが、狼目がけて思い切り振り下ろす。
奴は剣を放すか、短剣を体で受け止めるか。エヴァンの期待はどちらも裏切られた。短剣は敵の体近くまで迫ると、急激に力を受けてそれ以上進まなくなる。短剣の切っ先はエヴァンの侵食領域を出て、敵の侵食領域に収まっていた。
そうしているうちに地上が近づき、もはや猶予は残されていない。敵は魔法が得意だと仮定するなり、エヴァンは短剣から手を離した。そして流れるような一連の動作で、拳を握り、狼の瞳目がけて打ち付ける。
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