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2巻
2-2
しおりを挟む町民たちによる自警団があるため、厳重に警戒する必要はないのかもしれないが、盗みを働く者がいないとも限らない、ということらしい。そしてこの辺には盗賊が出るとも聞いている。
エヴァンが馬車の近くに腰掛けると、セラフィナはその隣にちょこんと座った。周囲をざっと見回すと、馬車の近くにある松明の明かりは強いが、逆に遠方はよく見えない。それらは妙な不安を抱かせるものだったが、火に照らされて浮かび上がるセラフィナの姿はどこか幻想的で、陶酔しそうにもなる。
エヴァンが気持ちを切り替えるように空を見上げると、小さな無数の星々が輝いていた。あれらの一つ一つに名前なんかないのだろう。それでも懸命にきらきらと光る様は、見ていて心が動かされる。
そうしていると、冷えてきた体に、温かいものが触れた。視線を下に戻すと、エヴァンの手に触れる、セラフィナの手がある。重なり合ったところから、互いの温もりに染まっていく。
エヴァンは彼女を見る。いつもは明るいみかん色の髪は、闇夜に染められてどこか陰のある色になっていた。それは今この瞬間が夢なのではないかと、気を抜いた瞬間に消えてしまうのではないかと感じるほど、どこか儚さがあった。
「エヴァン様とこうして、夜を過ごすのは久しぶりですね」
セラフィナは遠方に視線を向けたまま、そう呟く。
これまでエヴァンは早くに寝ていたから、夜に何かをする、ということは滅多になかった。
けれど、一度だけ強い印象を残す出来事があった。セラフィナが、自身のことを語った晩のことだ。そのときも、満月がこんな風に強い光を放っていた。
「君との生活も、あのときから始まったのだったね」
「はい。今でもはっきりと思い出せます」
「ああ。君は泣いていたっけ」
「そのようなことまで覚えてなくともよいのです」
セラフィナは口を尖らせる。けれど、本気で不満に思っているわけでもない。
じんわりと、胸中に懐かしさが込み上げてくる。エヴァンは感情のままに、言葉を紡いだ。
「君の泣き顔も、大切な思い出の一つだから。もうあのときとは立場も状況も違うけれど、これからもこうして君と夜を過ごせればと思うんだ」
「いつでもお供しますよ」
セラフィナが微笑む。会話はそこまでで、後は余韻に浸るばかり。
ゆっくりと空気が流れていき――急に木立がざわめいた。風が変わった。静かな夜とはどこか違う鉄の匂いが運ばれてくる。
エヴァンはすっと立ち上がって剣を手にし、セラフィナもまた、すぐさま槍を構える。そして自身の体を侵食領域で覆っていく。
と同時に、影が動いた。
何かが飛来するのを感じ、エヴァンは咄嗟に体を捻る。闇夜に煌めいたのは刃。エヴァンはすぐさま声を上げた。
「敵襲!」
閑静な町中に声が響く。
集会所の方でがたがたと物音がし始めるも、応援が来るまではまだ時間がかかるはずだ。見張りに立つ他の冒険者は持ち場を離れるわけにはいかないため、それまでは二人で乗り切らねばならない。
盾と連弩に力場魔法を加え、制御魔法で空中に静止させる。そしてナイフの飛来した方向を探るも、この暗がりでは、敵の姿をはっきりと見つけることなどできはしない。
途端、急激に炎が燃え上がった。それはあまりにも激しく、周りが霞んでしまうほどのすさまじい光を放つ。
エヴァンが剣を構えた瞬間、炎とはまったく反対の方向から刃が現れた。炎に気を取られたことで、反応が遅れる。
しかし、魔法の発動に彼の意思は介在しない。自動制御により盾は素早く移動、斬撃を受け止め、甲高い金属音を立てる。
エヴァンは距離を取るべく、咄嗟に後方へと跳躍する。だが、それよりも早く、腹部に蹴りが放たれた。
重く強力な一撃に、エヴァンは防御すらままならず、勢いのまま後じさる。
彼の命を奪うべく追撃が加えられようとした瞬間、セラフィナが飛び出した。正確な狙いと共に、突きを放つ。今は役に立たない視力ではなく、優れた聴力に頼ったからこそできる業だ。
襲撃者は辛うじて穂先を躱し、大きく退いた。
エヴァンは再び構え直し、敵の方を見やる。時間の経過と共に、強い光を浴びたことによる影響も薄れて、闇に慣れてくる。おぼろげだった敵の姿が次第にはっきりしてきた。
全身を覆う厚い灰色の毛皮、そして鋭い爪。それは二本の足で立つ狼の魔物、ワーウルフである。
上半身は筋肉で大きく膨れ上がり、襲った者たちから奪ったのか、体に見合わず窮屈そうな鎧と、武骨でとにかく重厚な両刃の剣を帯びている。
身体能力に秀でるのみならず、策を講ずる高い知能を持つ魔物。更に魔法まで使用できるときた。
純粋な身体能力において、エヴァンにはこの敵に比肩するだけの力を出すことはできない。たとえそうであっても、勝たねばならない。逃げ込む場所も、泣きつく相手もありはしないのだから。
これまでに磨いてきた剣技を信じ、エヴァンは剣を握る。額を撫でていく風の冷たさに、予想以上に汗をかいていることを実感する。
ワーウルフの襲撃に備えるも、聞こえてきたのは、別のところからの足音だった。地を駆ける無数の何か。こちらに真っ直ぐに向かってくる。
嫌な予感がして、待つのをやめ、エヴァンは力場魔法により連弩の引金を引く。射出された矢は、ワーウルフの胴体目がけて向かっていく。
だが、それはあっさりと回避され、敵はかえって勢いづいた。踏み込む狼の足はすさまじい初速度を叩き出す。
一瞬にして距離を詰められると、エヴァンは集中し、敵の一挙手一投足に気を配る。一瞬の油断が命取りになる。
剣が振り下ろされると、自動制御で盾が受け止める。掻い潜るように側面へと踏み込み、敵の胴体を切り上げた。
それはすんでのところで回避され、鎧の表面を浅く薙ぐだけに終わる。だが、それだけにとどまらない。連弩は既に次を放つ状態に移行しており、至近距離からの一撃を浴びせかける。
放たれた矢は致命傷にこそ至らないものの、敵の肩を射抜き、確かな損傷を与えた。一瞬意識が逸れたワーウルフを、更にセラフィナが追撃する。
彼女は大きく振りかぶった槍を打ち下ろす。ワーウルフはぎりぎりのところで剣を構え、防がんとする。
しかしセラフィナはそれにも構わずに、力任せに振り下ろした。槍は勢いよく敵の剣を打ち付け、それでもなお止まることなく、頭部へとぶち当たった。衝撃に怯んでいる隙に、更に槍を引き、突きを放つ。
喉元を狙った一撃は、逸らされて肩の上部に命中する。槍は勢いのまま肉と皮を抉り、毛を巻き上げながら、ワーウルフの重い肉体を突き飛ばした。
エヴァンは好機と見て、間合いを詰めていく。だが、ワーウルフはあえて無理な体勢から反撃に出ることはなく、その代わりに魔法を使用した。
敵の侵食領域内において高まる魔力。そして生成魔法により炎が生み出される。周囲には家屋があり、火の粉を撒き散らされてしまえば、甚大な被害が出るだろう。
防ぐには、相手の侵食領域を侵すか、物理的に阻害するほかない。だが、侵食領域が小さく生成魔法による攻撃がほとんど使えないエヴァンには、そのどちらもが難しかった。
剣を構えたまま敵から一歩距離を取り、敵に連弩を向け、矢を放つ。集中できずに魔法が途切れることを期待した一撃。
すると、敵はあっさりと魔法の続行をやめ、後方に跳躍した。後退のための、威嚇に過ぎなかったらしい。
やがて冒険者たちの応援が辿り着くと、ワーウルフの呼んだ増援もまた明らかになった。それは無数の狼。魔物とはいえ魔力は少なく動物とほとんど変わらないが、元来の凶暴さも持ち続けている。
群れを成して迫ってくる様は、圧倒的な暴威とも取れる。冒険者たちは敵の数を見て慄いた。彼らが受けたのは、ただ隊商を護衛するだけの依頼だったのだから、こんな状況を想定していた者は少ないだろう。
エヴァンはほんの一瞬、生成魔法が使えれば、集団相手に有効であろうと思った。だが、すぐに、気持ちを切り替える。ないものはないのだから、その中でどうにかしていくしかない。
誰もが怖気づく中、一人、剣を掲げて前に出る。
「荷を守れ! ワーウルフを仕留めれば、敵は瓦解する!」
宣言する声は、よく響き渡った。それは夜のせいだけではないかもしれない。者どもを奮い立たせ先頭に立つ彼は、歴戦の武さえ感じさせる立ち姿を見せていた。
誰も動かなければどうしようか、とエヴァンが思うよりも早く、セラフィナがすっと横に来た。そして凛々しくも穏やかに微笑む。
エヴァンの中に生じた小さな不安の種は、もはや取り除かれていた。
ワーウルフは、十分仕留めることが可能な距離にある。敵の様子から、ワーウルフが集団をまとめている可能性が高い。頭を仕留めれば、敵は散り散りになるだろう。
だが、全員でそちらにかかりきりになっていては、狼たちの襲撃には耐えられるはずもない。その間に積荷はすべて奪われてしまう。
相反する二つの思いが、エヴァンを悩ませる。だが、決断は早かった。
「弓と魔法が使える者は、狼の群れを牽制! 残りで一気にワーウルフを仕留める!」
エヴァンは一歩を踏み出した。セラフィナだけが一瞬の遅れもなく追従する。少し遅れて冒険者たちも動き始めた。
誰もが嫌がる先駆け。だが、エヴァンは奇妙な昂揚感の中にあった。
集団を動かし、一つ一つの決断が戦の勝敗を分かつ。その中心にいるのが、不思議と自然なことのように感じられたのだ。そしていつも以上に冷静でありながらも、敵を倒さんと滾る闘志がある。
ワーウルフとの距離を詰めていくと、警戒が強まる。エヴァンはセラフィナと侵食領域の重なりを維持できる程度の距離を取りながら、左右から挟み撃ちを試みた。もし、敵が逃げるのであれば、そのまま狼の集団を仕留めればよいだけのこと。
だが、敵にも集団の長である誇りがあったのかもしれない。剣を構え相対し、他の冒険者たちに包囲されるよりも早く、地を蹴った。
一瞬にして距離を詰められると、エヴァンは迎撃態勢を取る。しかし、敵が剣を振るうことはなかった。誰よりも早く、セラフィナが側面から切り掛かっていたのだ。
薙ぐような一撃が、鮮やかな弧を描きながら、敵へと近づいていく。それを先ほど食らったワーウルフは、受け止めきれるものではないと学習したのか、咄嗟に跳躍、上体を仰け反らせて槍を回避する。
上体から一撃を叩き込めば確実に押し倒せる、バランスを欠いた体勢だ。エヴァンは連弩による追撃を加えながら、一気に飛び掛かった。
放たれた矢は、ワーウルフへと近づいていく。が、命中する直前、体を捻られ回避される。ますます状況は有利になった。この機会を逃す手はない。エヴァンは押しかかるようにして威圧しながら、剣を突き出した。
心臓を狙った一撃だ。しっかりと脇を引き締めて放たれた剣先は、正確な軌道を描く。
剣が敵の胸部へと突き刺さらんとしたとき、ワーウルフは地についた片手で体を支え、倒れ込むようにして突きを繰り出した。
エヴァンの手にした剣は狙いから逸れて、敵の鎧を掠めて金属音を立てた。浅く、敵を切り裂くには至らない。
攻撃が外れた今、すぐさま敵の剣を何とかしなければならない。
盾は自動制御により敵の剣を阻害する。しかし強く打ち付けられて弾き飛ばされ、暫くは使い物にならなくなった。
時間が経てば、再び自動制御で防がれることを学んだのだろう、ワーウルフは急に起き上がり切り掛かってくる。いかに体のバネを生かしたとしても、通常では無理がある動きだった。それを支えるのは、強靭な肉体、そして地面に突き刺さるほどに強く押しつけられた、太く長い狼の尻尾であった。
もはや迫ってくる刃を遮るものは何もない。剣で防ぐには一旦剣を引く必要がある。エヴァンは一瞬の思考の後、決断をする。
自動制御を盾ではなく、連弩に使用。そして敵の剣が描く軌道を塞ぐようにして位置させる。木製の連弩は鋭い剣の一撃を浴びて砕け散り、矢の断片が舞った。
木端に視界が遮られる中、エヴァンは攻勢に出た。勢いが落ちた敵の剣を恐れることなく、力強く踏み込み、剣を持つ手に力を込める。
連弩で防ぎきれなかった敵の剣は、肩を撫でるようにして切り裂いていく。だが、エヴァンは焼けるような痛みさえも気にならなかった。好機、またとない機会なのだ。やらねばならないことがある。
剣を敵の首に添えるよう持ち上げ、一気に引き切る。勢いがついていないため、首を捩じ切るには到底力が足りない。が、剣の刃は鋭く、外側から四分の一程度を切り裂き、真っ赤な液体をぶちまけさせた。刃は血管まで至ったのだろう、とめどなく血が流れ続けている。
ワーウルフは獰猛な瞳をかっと見開き、鋭い牙を剥き出しにした。接近していたエヴァンに僅かな初動で浅く蹴りを入れて突き飛ばし、震える手で剣を握る。
エヴァンは痛みをこらえながら、敵を見る。連弩が破壊された今、もはや遠距離攻撃を行う術はない。
だが、既に冒険者たちによる包囲が完成していた。ワーウルフが逃げる隙間は存在しない。そして狼たちの群れはまだ到着してはいなかった。まだ、間に合う。
エヴァンはセラフィナと共に、敵との距離を詰めていく。そして切り掛かろうとした瞬間、一人の冒険者がワーウルフの背後から切り付けた。背中から鮮血を撒き散らし、敵は倒れ込む。そこに他の冒険者たちも便乗するかのように、剣を掲げて飛び込んだ。
だが、それは悪手だった。バラバラに動いたことで、包囲網に穴が生じる。ワーウルフは障害となる男の首に牙を立てて引きちぎり、そのまま駆け抜けていく。
数度、傷は与えたものの、脚部には何のダメージも与えていなかったのが仇となった。狼たちの中には、既に弓兵に飛び付いたものもいる。ここで敵の頭を逃すわけにはいかなかった。
「セラ、これを!」
エヴァンは生成魔法により、片手で持てるサイズの石を生み出す。そしてそれをセラフィナに手渡した。
彼女は受け取るなり、大きく振りかぶる。狙いは逃亡するワーウルフ。そして目にもとまらぬ速さで、岩石が放たれた。
狙いを一分たりとも違わずに、脚部へと命中した。敵は倒れ込み、それでもなお体を引きずるようにして動き続ける。
「手の空いている者は弓兵たちの援護に向かえ! ワーウルフはもう虫の息だ!」
二つ目の岩石をセラフィナに渡すと、彼女はワーウルフのもう片方の足にそれを見事に命中させる。
エヴァンは動けずにいるワーウルフの元へ駆けつけ、地べたを這いつくばっている敵に、躊躇することなく剣を振り下ろした。
ひと太刀で、首が飛んだ。真っ赤な血を辺りにまき散らしながら、胴体と頭が離れる。エヴァンはその頭を掴み取るなり、狼の集団の方へと急いで戻った。
そちらでは、既に何人かがこと切れていた。狼に喉を噛み切られ、大量の血を流す有様は悲惨のひと言に尽きる。だが、それはこちらとて、同じことなのだろう。命の奪い合いの中、頭を叩き切ったのだから。
エヴァンは高らかに、ワーウルフの頭を掲げた。そうして怯んだ狼の群れの中に、それを投げ入れる。周囲に血が撒き散らされ、狼のボスの首はあまりにあっけなく、無残にも地に打ち付けられた。
いよいよ狼の群れに動揺が走る。いくつかは逃亡を試み、いくつかは逆上して向かってくる。エヴァンは迎撃しようとするも、既に連弩はなく、先ほどたった一度用いた生成魔法により魔力は尽きつつある。
制御魔法の使用をやめ、盾を片手で持ち、もう一方の手で剣を握る。今や手数の多さで圧倒することはできなくなり、もはや魔力込みの身体能力では並の者にも劣るかもしれない。
そうしていると、エヴァンの方に狼が飛んでくる。盾を構え、その衝撃に備えるも、ぶつかることはなかった。
狼はすぐ眼前で、胴体を槍に串刺しにされていた。そして柄が軽く振られると穂先から外れて、敵の群れの方に投げ飛ばされていく。
セラフィナは至って平気そうな顔で、槍を振るい、敵を狩る。それは魔力量の多寡による身体能力の差がもたらした違いだった。エヴァンはそんな彼女が羨ましくもあり、そして何より、自慢でもあった。
やがて、まだ生きている狼たちは勝ち目がないと見てか、この場を去り始めた。ちらりと馬車の方を見ると、かけてあった布が食い破られ、いくつかの物が持ち去られている。
「被害なし、というわけにはいかなかったね……これは、減給かな」
「何もないといいのですが」
そんな会話をしているのはエヴァンたち二人だけであり、他の者たちは助かったことを安堵するばかりだった。
うっすらとした魔力になり、空中に散っていくワーウルフの頭を見ながら、胴体のあった方へ戻ると、そこには倒れたままの胴体があった。
上位の魔物は高度な知能を持ち、死後も肉体を構成する魔力に戻らずに骸が残るという。もしかすると、それは人に近いという事実の表れではないか。
ならば魔物と獣人、どこが違うのだろうか。狼の獣人は人に近い性質を持ち、ワーウルフと呼ばれる人型の狼は魔物、あるいは獣に近い習性を持つという、程度の違いに過ぎないのかもしれない。
そんなことを考えていると、残っていた胴体も魔力に還っていき、後には小さな魔石だけが残った。
それをさっと拾い上げ、懐に仕舞う。金に関しては、他人に情けなどかけないのが冒険者なのだと、ブルーノたちから学んだ。早速教訓を生かすことにする。
そして残ったワーウルフの剣と鎧を手にして、何食わぬ顔で、集会所の荷物のあるところに戻った。そのどちらも、二束三文にしかならないようなものなのだが、こうした積み重ねがあってこそ、それなりの暮らしができるのだ。
「エヴァン様、傷を見せてください」
セラフィナは応急処置キットを取り出して、エヴァンに患部を見せるように告げる。エヴァンは革鎧を脱ぐと、腰のあたりで結んだ上衣の紐をするすると解き、肩を出した。
切られた大部分は鎧であったため、皮下組織まで切り裂かれているものの、骨には到達していない。赤くにじんで、まだしっかりと固まっていない傷口に、セラフィナは消毒液を染み込ませた布を当てる。
傷口は泡立ち、ひりひりとした、染みるような痛みがやってくる。切られたときに感じたものとは、また違っている。しかし消毒はすぐに済み、セラフィナが器用に包帯を巻いて処置は終わった。
エヴァンは先ほどまで着ていた上衣を引っ掴む。
せっかく綺麗にしたところに、血で汚れた物を着るのは些か心地好いものではない。しかし、衣類は馬車の積荷の中にあるため、今は仕方がないだろう。
衣服を着終えると、エヴァンはふと、ワーウルフの使っていた鎧が気になって、装着してみる。サイズはぴったりだ。けれど結構な重量があるため、長期戦には向きそうもなかった。
「エヴァン様、お似合いです」
「格好だけね……これじゃあ中身が伴っていないや」
そう言いつつも、エヴァンは鎧を身に着けて戦う自身の姿を思い浮かべた。
持ち歩くよりも目立たないだろうということで、装着したままにしておく。鎧の重さに慣れておくのも悪くない。そのうち、金が貯まってくれば、軽い金属で作られた鎧を買ってみたいとも思う。
それに、セラフィナにも何か武器を買った方がいいだろう。彼女は生成魔法がほとんど使えないため、投擲するにしても何かを持ち歩く必要があるのだから。
そんなことを思いながらも、自らの狩ったワーウルフを思い出す。正々堂々、とは程遠い戦いだったかもしれない。それでも生き残った者が勝者なのだ。死さえ逃れれば、後はどうにでもなろう。
エヴァンはそう踏ん切りをつけると、歩き始めた。あまりに長いこと現場を離れていると、不審に思われる可能性もある。
そうしてセラフィナと共に、集会所を出た。
馬車のところに戻ると、商人たちだけでなく、町民たちも集まってきていた。何やら面倒なことになったのだろうか。
エヴァンはそうした話し合いの経験に疎いため、集団の外から様子を眺める。
「最近はここらでも増えていまして……畑を荒らされていたので、助かりましたよ」
「アーベライン領全体でもそうですね」
魔物の被害が増えている。それは至って珍しくもないのかもしれない。エヴァンは大して気にせず、ただ成り行きを眺めた。他の冒険者たちも同じ気持ちだっただろう。願いは一つ。報酬を減らさないでくれ、ということだ。
この場合、依頼内容は魔物討伐ではないが、不測の事態まで事細かに規定することはできないため、契約自体には何ら不備はないことになるだろう。運が悪かったと片付けられてしまうのだ。むしろ積荷に被害を出した責任を問われかねない。
そうしていると、向こうからもその話は出ず、とりあえずその場はお開きになった。もしかすると、ここで減給の話をしてやる気をそぐのは得策ではない、と考えたのかもしれない。
冒険者たちはすっかり血に塗れた町を洗い流したり、疫病を防ぐべく死骸を焼いたり埋葬したりと、夜にもかかわらず慌ただしく動き回っている。本来の業務とは関係ないことだが、これが冒険者になったときにギルドの職員に言われた、愛想をよくする、ということなのかとエヴァンは思った。雇い主の機嫌がよくなれば、報酬だって上乗せしてくれる可能性もある。
それから暫くして、何事もなかったように静けさが戻ってくると、本来の持ち時間とは少し予定を変えて、交代で見張りについた。襲撃により人数が減ったことを、誰一人、口にはしなかったが、暗黙の了解によって全員で分担することになったのだ。
戦いの中で死ぬのはよくあることだ。いちいち気にしていては、精神が持たないだろう。しかしだからといって、軽く取り扱えることでもなかった。したがって、できるだけ意識しない、というのが無難な選択だった。
エヴァンはセラフィナと共に集会所で横になるも、中々寝つけずにいた。妙な昂揚感が、まだ消えずに体の内で燻っている。それは戦いに身を置く者たちが誰しも抱くものなのかもしれないし、あるいは内なる闘争心が呼び起こされたからなのかもしれない。
しかし、すやすやと眠っているセラフィナを見ていると、持て余すほど苛烈な感情はいつしか消えていた。
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