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1巻

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 復讐には力が要る。少し離れた砂地のところに行き、エヴァンは早速魔法の練習を行う。セラフィナがその様子をじっと見守る。
 この世界の魔法は大きく四つに分けられる。まず、わかりやすいのが物質を生み出す生成魔法。炎や水、岩など自然界にあるものをどこからともなく生じさせることができる。
 そして方向性を持った力を与える力場魔法。これは直接触れるわけではないということを除けば、手で押すのと何ら変わらない。
 三つ目は時空魔法だ。空間をゆがめたり、時間の進み方を変えることができる。ほとんどの場合、自分の時間を速く進める、すなわち高速で動くという目的で使われる。
 最後に、制御魔法だ。これは観測と制御という二つの特徴を持つのだが、他の魔法とは異なって、世界に変化をもたらすことはない。観測は付近の光を取り込んで映像として捉えることができる。そして制御は複数の魔法を使用する際に発動する条件設定ができる、といったものだ。
 しかし制御魔法はほとんど使われていない。その理由としては、あまり使える者がいないということ、制御理論が発達していないこと、直接的に威力に影響しないことなどが挙げられる。
 だがこれが今後、力を付けるにあたってのカギになるだろう。
 魔法を発動させる際に、理解すべきことが一つある。それはこの世界が、肉体の存在している現実世界と、エネルギーの存在する魔力世界で構成されているということだ。
 魔力世界のエネルギーを持ってくることで、様々な現象を現実世界にもたらすことができる。初めに二つの世界が結び付けられ、次に望んだ魔法が発動するという流れだ。
 エヴァンはファーストステップとして、周囲一メートルほどに侵食領域を生成する。現実世界と魔力世界が結び付けられたこの範囲内においてのみ、魔力世界の影響をこちらの世界に持ってくることができるのである。
 セカンドステップとして、用いる魔法を定める。とりあえず今は生成魔法の要素である『燃焼ねんしょう』だけを発動させる。
 すると処理が行われ、暫くして魔法が発動する。
 エヴァンの前方五十センチほどのところにマッチ程度の炎が灯り、すぐに落下し消えていった。
 ここまでは何ら難しい技術ではない。『燃焼』など生成魔法の要素でメジャーなものは、一部の例外を除いて、魔法を学んだほぼ全ての者が使える技術だ。
 エヴァンは侵食領域を維持したまま、次の魔法を構成する。生成魔法の『燃焼』を呼び出し、次に力場魔法によって力を加えるというものだ。二つの別々の魔法は、制御魔法によって一つの連続した動作となる。
 したがって生成魔法により炎が生み出されると、後は何もせずとも自動で力を与えられて動き始める。
 炎は数十センチ向こうまで押し出され、侵食領域の外に出た途端、あらゆる外力を失って、そのまま放物線を描いて落ちていく。
 魔法を発動させるための処理を直線的に繋ぐだけなので、ここまでは訓練を受ければほとんどの者ができることだ。これくらいできなければ、魔法が使えるとは言えないだろう。
 生成魔法で何かを生み出したところで、戦いではそれを敵に当てることができなければ何の役にも立たないのだから。
 そしてエヴァンは暫し考えを働かせる。まずは簡単なオンオフ制御から始めることにする。これは一定基準に達すればオン、達しなければオフとなる制御であり、制御という概念の理解には非常に有用である。

(さて、どうするか……)

 何もしなければ落下していく炎を一定の位置にとどまらせるためには、ある高さを下回ったときには上向きの力を加え、そうでないときは加えないとすればいい。
 基準となる位置を知るセンサーが必要になるが、それは制御魔法による観測を用いればいいだろう。さほど難しいものではないので、まずは試してみることにした。
 初めに生成魔法『燃焼』を発動させて炎を生み出す。後は基準となる位置の下ならば力場魔法を用い、一定基準以上ならば何もしない、という条件を制御魔法によって設定するだけだ。


 生み出された炎は予想通り、ちょうど目の前の高さで上下に行ったり来たりを繰り返している。これなら揺れている、と言った方が近い。

「まあこんなところかな」
「エヴァン様、すごいです! このような魔法、初めて見ました!」

 炎は目標位置にとどまることなく、上下に大きくオーバーシュートしてしまっている。これでは使い物にはならない。
 とはいえ、第一日目の成果としては上々といったところだろう。
 エヴァンは侵食領域を解除する。彼は蓄積しておくことができる魔力の量が少なく、今ちょっと魔法を使っただけで底を突いてしまった。

「セラ、そろそろ夕食にしよう」
「はい! すぐにご用意します!」

 まだ日は暮れておらずいささか早いような気はしないでもないが、今日は朝から何も食べていない。腹はすっからかんになっている。
 エヴァンはセラフィナと共に、離れに戻ることにした。



 3 


 エヴァンはセラフィナと二人で離れに住んでいる。それだけはっきり遠ざけられたならば、兄たちも自分に関わってこなければいいのに、と思わないでもない。
 しかし髪の恨みは重い。いずれ奴らをスキンヘッドにしてやる、と心の中でちかう。
 そんなことを考えていてもらちが明かないので、セラフィナが食事を運んでくるまで、とりあえず今後の方針を考えることにする。
 まず、魔力は魔力世界から取り入れる他、回復するすべがない。吸収するための魔法を用いて素早く回復することも可能だが、まだ最大量が少ないので、高威力の魔法をバンバン使っていくのは難しい。
 そしてその魔力量の上限は、魔物や人を殺して奪うこと、あるいは魔力の保有量が多い物質から奪うことなどで強化されていく、と一般的には言われている。エヴァンは多様な魔法を使うことができるものの、最大値は非常に低かった。それが彼が魔法の才無しとなる最大の理由だった。
 それゆえに、自分の魔力のみを用いて魔法を使っていくという手段は、たとえ魔力の最大値が多少増えたとしても難しいだろう。
 ならばどうするか。
 答えは簡単だ。人の魔力を用いるか、あるいは魔法を物理的に跳ね返せばいい。例えば、敵から炎が撃ち出されたとしても、力場魔法を用いれば触れることなく動かすことができるのだから。
 ひと通りの方針が立った頃、セラフィナが夕食を持ってきた。

「エヴァン様、今日の夕食は雑炊ぞうすいです」
「俺の体調に気を使ってくれたのかな? でも何ともないから普通の食事で構わないよ」
「いえ……食費がそろそろ尽きそうでしたので、適当な野草を煮込みました」
「そうか、いや、悪かった」
「エヴァン様は謝る必要はありません。この上なく良くしてくださっています」

 一応、生活費としてある程度の金は渡されているものの、到底貴族が暮らしていけるような額ではない。節制、倹約を心掛けなければならないのだった。
 そうしてエヴァンはセラフィナと共に食事を取ることにした。
 料理人は屋敷での地位が高い方だそうだが、彼らであっても、通常は主人と食事を共にすることはない。
 しかしここでは、食事は二人で一緒に、というのがずっと続く習慣だ。
 何から何まで家事はセラフィナが一人でこなす。そしてエヴァンもまた、親愛の情をもって彼女に接してきた。
 もっとも彼は幼かったから、そこまで高尚なものではなく、話し相手、親友、といったところが妥当かもしれない。
 質素な雑炊は、薄い味付けであるものの、いくつかの香辛料が見事に調和しており、腕の良さが窺える。

「うん、セラ。今日の料理も美味おいしいよ」
「ありがとうございます」

 セラフィナは嬉しそうに破顔する。それは見ているだけで明るい気分になれるものだった。彼女がいたからこそ、エヴァンもここまで腐らずにやってこれたのかもしれない。
 質素な食事を終えると、セラフィナが食器を片付けに行く間、エヴァンは再び思案を巡らせる。このあたりの魔物は弱いものが多いから、もう少し体が大きくなれば剣などで物理的に倒すことができるだろう。そうして力を付けていけば、いずれはそこそこ魔法が使えるようになる、かもしれない。
 あるいは、セラフィナに手伝ってもらう、という手も考えられる。専属メイドは、ある程度主人の護衛ができるような人材が求められ、セラフィナも多少は武術をたしなんでいる。
 彼女は時空魔法に優れ、空間を伸ばしたり縮めたり、時間を速めたり遅くしたりできる。直接的な攻撃力はないものの、接近戦においては無類の強さを発揮する。とはいえ、彼女は生成魔法や制御魔法がほとんど使えないため、壁を生み出したり付近の魔力を観測したりといった魔法そのものへの対抗手段をほとんど持ち合わせていない。
 そして遠距離からの生成魔法による攻撃が、やはりなにより安全かつ高威力である。彼女の魔法も決して万能というわけではない。それゆえに、彼女をも危険にさらすのは少々気が引ける。
 そんなことを考えていると、セラフィナが戻ってくる。

「エヴァン様、お風呂の支度が整いました」
「よし、じゃあ行こうか」
「はい。お供いたします」

 一階の突き当たりに、風呂場がある。平民であれば、火を起こして温めて、という手間や薪のコストなどから、毎日入ることはない。しかしエヴァンは比較的きれい好きであり、毎日入らずにはいられなかった。
 浴室の扉を開けると、温かな湯気が漏れてくる。追いきなどという立派な機能はないから、早く入らなければぬるくなってしまう。
 早速湯船の湯とかめに溜めてある水を混ぜて、程よい温度の湯をおけに入れる。そしてそれをゆっくりと頭から浴びた。
 一気に熱が伝わってきて、じわじわと広がっていく。風呂はいつでも心地好い。
 セラフィナも布を手に、裸で浴室に入ってくる。羞恥心というものがまだないのか、あるいはエヴァン相手だからこそ気にしていないのか、彼女は前を隠しはしない。
 まだくびれもなく女性らしさとは無縁の体つきであるものの、真っ直ぐな手足や瑞々みずみずしい肌は、将来きっときれいになるだろうと思わせる。

「お体洗いますね」
「いつもありがとう、セラ」

 エヴァンが身をゆだねると、セラフィナの指が丁寧に彼の頭を洗っていく。
 別に自分で洗ってもいいのだが、彼女が自分の仕事として責任を抱いているのか積極的なので、これが習慣になった。
 それから体を洗い始める。さすがに前の方はどうかと思うので、こちらは自分で洗うことにしている。
 いつも、エヴァンが先に湯船にかる。そうすると、自分の体を洗い始めるセラフィナの姿が見える。
 気になるのは、臀部でんぶから生えているみかん色の尻尾。毛の部分が多いのか、水に濡れるとそれはしっとりとして、体積が小さくなった。
 獣っぽい毛で覆われたそれをつい眺めていると、体を洗い終えたセラフィナが首をかしげる。

「エヴァン様? どうかしました?」
「何でもない」
「そうですか」

 彼女はゆっくりと湯船に入って来て、エヴァンの隣に腰かける。少しだけセラフィナの方が小さいため、エヴァンがゆったりと体を傾けたところで、視線が丁度交わる。
 セラフィナは微笑む。
 湯の温かさが染み込んできて、いやに心地好い。それは、一人で入っているだけでは感じられないものなのかもしれない。
 エヴァンは幸せにひたっていた。


 彼はまだ子供であるため、夜は早く寝ることにしている。少しでも体を大きくしたい、というのが理由であった。魔法の才能がなくとも、剣技では少しでも上に行けるように、と。
 一人で寝室にいると、妙な物足りなさを覚える。それは前世の記憶が蘇ったからこそ気付いた、セラフィナの存在の大きさが理由なのかもしれない。
 エヴァンはこれまで彼女との関係を強く意識したことはない。二人だけの屋敷だからこそ、仲良くやっていきたいと思ったくらいだ。
 そうしていると、コンコン、とドアがノックされる。

「どうぞ」
「お邪魔します……」

 可愛らしい寝衣に身を包んだセラフィナが、おずおずと入ってくる。
 彼女とはいつからか一緒に寝ることになっていた。使用人と主人の関係としては、あまりに親しすぎるかもしれない。
 つけあがるから絶対にメイドに主人と同格の生活などさせない、というのが一般的だろうが、セラフィナに限ってそんなことはないだろうし、何より彼女はもっと望んでもいいくらい働いてくれている。
 おいで、と手招きすると彼女はちょこちょこと歩いてきて、エヴァンのベッドに入ってくる。
 エヴァンはセラフィナが来た日のことを思い出す。買われてきた奴隷だということで、完全に怯えきった様子だった。打ち解けてくれるまでは、随分ずいぶんかかったものだ。
 思えば、兄たちが周囲に住んでいる子供たちを取り仕切っているため、エヴァンには友達ができなかった。それもエヴァンが彼女と仲良くしようとした理由なのかもしれない。
 これまでずっと一緒に暮らしてきた少女をちらりと見る。

(……たとえ俺がエヴァン・ダグラスではなかったとしても)

 彼女はきっと、受け入れてくれる。それは心地好い安心感をもたらす。
 そしてエヴァンは安心と共に、前世の記憶を掘り返し、使えるものを探っていく。不安はなかった。



 4 


 翌朝、エヴァンは早くから木剣を振る。ぶんぶん、と軽快な音を立てながら振る姿は、中々さまになっている。
 離れに移ってからは毎日続けているこの訓練。これを始めたのは、剣術や魔法を教えてくれる家庭教師が面倒を見てくれなくなったのがきっかけである。
 そのため、誰に教えられるでもなく、それまでの知識をもとに我流で磨いてきたともいえる。しかしそれでも筋力は付くし、技術を学んでいくという経験は馬鹿にできない。何もしていない子供と比べれば、全然違うだろう。
 そうしていると、家事を終えたセラフィナが水と汗を拭くための布を持ってきてくれる。

「エヴァン様、どうぞ」
「ありがとう、セラ」

 彼女は動きやすそうな貫頭衣かんとうい状の衣服をまとっていた。それはエヴァンと似た格好であり、どちらも貴族やその屋敷に仕える者たちの格好とは程遠い。
 兄のレスターやウォーレンはきちんとした稽古用の衣服を与えられているが、エヴァンはそうではない。そもそも訓練させる必要もないと判断されたのだろう。
 それゆえに、安い布で当面の間使える物を自分でこしらえたのだ。どうせ成長するにつれてサイズが変わるのだから、さほど立派な物が必要なわけでもない。古くなれば、雑巾にでもしてしまえばよい。
 エヴァンは水筒を受け取って中身を飲み干すと、セラフィナにもう一本の木剣を手渡す。

「それじゃあ、今日もお願いしていいかな」
「はい! お相手させていただきます!」

 対峙して、木剣を構える。切っ先は丸めてあるため危険性はあまりない。どちらにしても、あまり関係のないことだったかもしれないが。
 エヴァンは踏み込み、一気に距離を詰める。そして上段からの一撃を放つ。しかしそれは容易たやすく受け止められた。セラフィナは力を込めている様子もない。
 彼女の周囲には球体状の侵食領域が形成されている。それは彼女の魔法の支配下にある領域。
 力場魔法が彼女の木剣に施されることで、彼女自身は一切力を込めることなく受け止めることが可能になる。
 エヴァンは咄嗟とっさに距離を取る。相手の侵食領域にあるというのは、危険の中にあることと同義。
 しかしセラフィナはその隙を逃さず、すぐさま距離を詰めてくる。
 それは到底子供のものとは思えない勢いで、歩幅と移動距離は一致せず、空間が歪んで見える。時空魔法で自身の周囲の時間を速め、更に空間を歪めることで距離を縮めたのだった。
 相乗効果により一層強められた高速移動。到底反応できるものではない。
 エヴァンは侵食領域を展開する。半径一メートルほどの領域。
 二人の侵食領域が交わり、互いに影響を及ぼし合う。そこからは侵食速度に優れる方が相手の領域を侵していくことになる。
 セラフィナは木剣を小さく振りかぶり、エヴァンへと打ち込んだ。
 木剣は彼女の侵食領域を抜けて、エヴァンの侵食領域に入る。
 途端、エヴァンは木剣に向けて力場魔法を用いる。思い描いた方向へ向きを変えるように、制御魔法で調節されているものだ。
 通常の力場魔法ならば、初めに定めた力が加わるだけなので、その分大きな力を加えれば修正は容易だ。しかし制御魔法の効果によって、セラフィナが木剣に込める力を変えるたびに、力場魔法の向きや大きさも自動で変わる。
 したがって、どのような力を込めようと、エヴァンの狙った方向へと曲げられてしまうのだ。セラフィナは思わず、正中線から木剣を外した。
 エヴァンはその隙に懐に入り込む。そして木剣を手放した。
 木剣で切り掛かっていれば、当たる直前に彼女の侵食領域に入り込んでしまうため、力場魔法を用いて受け止められてしまっただろう。だが、エヴァンは手刀を放った。
 他人の体を侵食領域で呑み込んで魔法をかけることはできないとされている。そのためセラフィナの魔法が入り込む余地はない。
 彼女は木剣での防御も、魔法による阻止もできなかった。

「ひゃん! ……エヴァン様、先ほどの魔法は?」
「君が込めた力に対して、力場魔法の向きと大きさを変えてみたんだけど……うまくいったみたいだ」

 それほど強く打ったわけではないのであまり痛くはないだろうが、セラフィナの頭を撫でる。
 彼女は目を細め、されるがままになっている。

「あのさ、セラ」
「はい、なんでしょうか?」
「耳、触ってみてもいい?」
「え、あの、その……どうぞ。優しくしてくださいね」

 ぺたん、と倒れる狐耳。彼女とは数年生活してきたが、不思議と耳に触れたことはなかった。子供なのだから、好奇心に任せて、ということが一度くらいあってもおかしくはなかったはずだが。
 ふわふわの耳は、あまり野性味が感じられないものの、触り心地はこの上ない。
 ふにふに、といじっていると、上目遣いでセラフィナが見上げてくる。

「あのぉ、エヴァン様? そろそろ……」

 エヴァンはぽん、とセラフィナの頭を軽く叩いて、彼女を解放する。
 それから再び訓練を開始して、終わったのは昼ごろだった。


 汗をかいたので、いつもするように風呂で水浴びをする。衣服を洗濯かごに放り投げて、浴室へ。
 汗でべたついた衣服を取り去ると、解放感で満たされる。もうずっとこのままでいたいくらいだが、まだ春だから少し寒い。もっとも、貴族の子がするようなことではないが。
 セラフィナと水を掛けあったりと、そこらの子供と変わらないような時間を過ごす。

「エヴァン様! 冷たいですよぅ!」

 それから石鹸せっけんを付けて体を洗っていく。セラフィナが背中を流してくれる。
 エヴァンは、そういえばいつも洗ってもらってばかりだなあ、と思う。

「セラ、今度は俺が洗ってあげるよ」
「え? そ、そんなことをしていただくわけには」

 エヴァンはさっと身を翻して、彼女の背中側に回る。そして石鹸で泡立てた布で軽く背中をこすっていく。
 肩から腰。そして臀部。
 先ほどから気になっていたのだが、尻尾がふりふりと目の前で揺れている。これも洗うべきだよなあ、などと思いながら、そっと布で包むようにする。

「あのぉ、エヴァン様。できればそこは、その、手で」

 差し出がましいことを、と申し訳なさそうにするセラフィナ。布はそれほど高品質なものではないから、れて痛いのだろうか。
 エヴァンは素手で泡を尻尾に付けていった。尻尾は耳よりも毛の割合が多く、触り心地が更によい。
 上から下まで洗っていく。付け根はお尻にも近い。そこに触れた途端――セラフィナは身をよじった。

「そろそろ上がろうか」
「……はい!」

 しかしすぐに、彼女はいつもの笑顔に戻った。
 風呂から上がると、少し休憩してから昼食にする。
 昼はパンに野草を挟んだもの。ドレッシングが掛かっているため美味しく食べられるが、肉がない。これまであまり気にしてはこなかったが、日本にいたときの知識が、このままでは大きく成長できないのだと告げている。

「セラ、明日は山に狩りに行ってみようと思うんだ」
「狩りですか? ……魔物がいるので危険がありますが」
「あまり山奥には行かないようにするよ。野ウサギやハト、リスくらいなら危険はないだろう?」
「はい。では私もお手伝いさせていただきます!」
「ありがとう。美味しい料理、期待してるよ」

 エヴァンは料理が得意なわけではないので、セラフィナに任せることになるだろう。彼女には動物を殺すことへの忌避感きひかんのようなものは特になく、食べるため、生きるためと心得ているため、すんなりと処理してくれるはず。
 そうして食事を終えると、山に向かうための準備を始める。
 ナイフに手斧ておの、弓、かご、縄、それに袋があれば十分だろう。剣を持って行ってもいいかもしれないが、二、三キロもあるようなものを振り回す膂力りょりょくなどはない。
 セラフィナは手製の槍を用意していた。彼女の魔法は接近戦に有効ということもあって、エヴァンよりも戦力としては優秀だろう。
 エヴァンは明日のことを想像する。魔物は極力避け、止むを得ない場合のみ戦闘する、という方針だ。
 それなら何とかなりそうな気がする。
 明日の夕飯は、少し豪華になるといい。

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