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第四章
シェルティ・ラサ(一)
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****
この世に生まれてくる前から、シェルティ・ラサの人生の筋書きは決められていた。
次代の皇帝になること。
ラサを継ぐこと。
そして終生、エレヴァンと人びとのために尽くすこと。
本人の意思は関係なかった。
それが彼に与えられていた役割だった。
シェルティは生まれ落ちた瞬間から、皇太子という役をこなさなければならなかった。
シェルティは聡く、従順な子どもだった。
物心ついたときから、ろくに遊ぶ暇もなく教養と作法を叩きこまれた。
言動から立ち振る舞いまで厳しく躾けられた。
窮屈で不自由な日々だった。
けれどシェルティが不満をもらすことはなかった。
投げ出すことはおろか、弱音のひとつ吐かなかった。
シェルティはすべてを受け入れていた。
それが皇太子に、ラサに生まれた自分の宿命だと知っていたからだ。
同じ年ごろこの子供が冒険物語に夢中になっているころ、シェルティはラサの持つ長い歴史と向き合わなければならなかった。
シェルティは毎朝、起きて一番に皇帝のもとへ赴いた。
皇帝はそこで語った。
ラサの持つ長い歴史の物語を。
●
本来、エレヴァンはウルフのためだけの場所だった。
エレヴァンの中で、ウルフは互いに争うことなく、生態系の頂点として繁栄していた。
それは進化のない繁栄だった。
災嵐による自然淘汰により、その数は一定を保たれる。
増えることも、減ることもない。
新たな文明が生まれることも、革命が起こることもない。
代わりに衰退も滅亡もない。
エレヴァンは過不足のない、完全な状態にあった。
一定の速度で循環を続ける、ひとつの永久機関であった。
――――ラサという異物が現れるまでは。
●
ラサの祖先は、エレヴァンにさまざまなものをもたらした。
技術を。文化を。より高度な人間社会を。
すべては人類の繁栄のためだった。
ラサはたったひとつの願い、一途な思いから、自身が持つ知識の全てをウルフに分け与えた。
その願いとは、ウルフを解放することだった。
強制された不変の世界を打ちこわし、人類に進化をもたらすことだった。
永久などは存在しない。どこかで必ず綻びが現れる。
淘汰を免れる個体数を増やすこと。環境に適応し、進化していくこと。
それこそが生物としての正しいあり方である。
そして人間には、ウルフには進化するだけの力が十二分に備わっている。
しかし彼らは数千年の間、変わらない生活を続けている。
エレヴァン内の環境には一切の変化がない。気温から降水量、日照時間にいたるまで寸分の変化もない。
エレヴァン内の動植物は一種として増えることがなく、また減ることもない。
そしてそれはエレヴァン内に住むウルフ族も同様だった。
環境が変わらないように、彼らも変化しない。
生活様式から、狩猟の方法に至るまで、数千年の中でなにひとつ新しいものは生まれなかった。
微細な変化はもちろんある。
災嵐の年には少なくない数のものが死に、次の災嵐までには増えていく。
彼らの歌う歌は年ごとに変わる。詩も、韻律も、同じものを口ずさみ続けるわけではない。
けれどその変化さえも、数千年という長い時間から見れば、繰り返しに過ぎなかった。
彼らが今歌う歌は、百年前にも歌われていたものだ。
その歌はやがて別のものにとって代わられるだろうが、百年後には、また同じように、新しい歌として歌われる。
新しく編みだされる狩猟方法は、百年前に廃れたもので、今日廃れた狩猟方法は、百年後に新しい試みとして編み出されるだろう。
ウルフは文字を持たない。
歴史を持たない。
そのため気づくことがない。
自分たちが繰り返し続けているということに。
時計は進み続けるが、それは同じ輪の中を回り続けているに過ぎないのだということに。
その一見正しく美しい循環は、ウルフから進化を奪うことによって成り立っている。
災嵐は自然災害にみせかけた作為的な淘汰だ。
個体として弱い者、遺伝的異常、疾患を持つ者、あるいは突出した頭脳を持つ者。どのような形にせよ、人類に変化をもたらす可能性を持つ者は、災嵐によって淘汰された。
エレヴァンは庭園だった。
その中で生きることを許された、選別された人びとにとっては、そこは楽園だっただろう。
しかし外からやってきたラサの祖先の目には、それはひどく歪なものとして映った。
不自然な、誤った世界だった。
彼はこれを正さなければならないと思った。
ウルフは変わらなければならない。
なにものかによって管理されているかのような、誰かの理想を押し付けられているかのような現状を打破しなければならない。
ラサの祖先はそれを自らの使命とした。
なぜならば彼は知っていたからだ。
ウルフを管理するなにものかの存在に、覚えがあったからだ。
●
うら若きウルフの少年として、ある日この世界で目を覚ました彼には、どのような制約も与えられていなかった。
自由に動くことができる。
膨大な霊力を用いることができる。
この地に生きる人びとと、意志の疎通を交わすことができる。
彼は悟った。
自分はこの原始的な人類、ウルフたちを正しい進化へと導くために使わされたのだと。
この世界を管理する、かつての同胞。
それらの支配から、この強く美しい生き物を解放してやること。
設定された規格から外れるというだけで淘汰される人びとを救うこと。
この楽園を、本当の自由と自然の中に戻すこと。
彼はそれを、自らの果たすべき使命とした。
●
一人の男が抱いた理想は、数世代を経て実を結んだ。
エレヴァンは彼が望んだとおりの繁栄を迎えた。
人口は増え、社会は日ごとに進化していった。
彼の子孫と、彼と同じように過去からこの地に舞い降りたいくつかの魂によって、ウルフは変化していった。
ラサの信じる、よりよい方向へ。
ラサの信じる、進化の道を、駆けていった。
もっとも大きな変化は人口の増加とそれに伴う部族の細分化だ。
それまでエレヴァンに住むのはウルフという単一の部族、同じ容姿、生活様式を持つ者たちだけだったが、人口の増加に伴いそれに変化が現れた。
淘汰を免れた人びとによって、ラプソ、サルク、といった、新たな部族が形作られた。
はじめはウルフと大差なかったそれらの一族だが、時と共にそれぞれ特色を持つようになっていった。
肌の色は薄くなり、狩猟生活を好まない、農耕や遊牧に馴染む穏やかで勤勉な性質な者が増えていった。
爆発的といっていい速さで。
災嵐を防ぐ手立て、防御霊術が完成してからはなおのことだ。
気づけばウルフはすっかり少数派となっていた。
確かに人類は繁栄したが、その祖であるはずのウルフは、むしろ絶滅の危機に陥っていた。
●
ラサの祖が掲げた理想は、一方では果たされ、一方では破れ去った
人びとはたしかに進化の過程を歩み始めた。
霊術を、農耕を、遊牧を、より高度な社会を作り上げられるまでに進歩した。
しかしその結果、少数派となったウルフを排斥しなければならなくなった。
ケタリングと生きる彼らは、社会から弾かれ、淘汰された。
ラサの祖は人類を不自然な淘汰から救うために行動を起こした。
けれど気づけば彼の子孫は、淘汰をする側に立ってしまっていた。
進化できなかったもの、適応できなかったものとして、ウルフから尊厳と自由を奪ってしまった。
果てはウルフという存在そのものを、滅ぼしてしまった。
●
どこで誤ってしまったのか。
なにが間違っていたのか。
どうすればよかったのか。
答えはなかった。
見つけたところで、結果は変わらないだろう。
ウルフを滅ぼした当時の皇帝は、せめてもの償いとして、自身の子どもたちに言い聞かせた。
自分たちは犯しえぬ罪を犯した。
祖の崇高な志を捻じ曲げてしまった。
我々は末代までその償いをしなければならない。
それは二度とおなじ過ちを犯さないことだ。災嵐による淘汰はもとより、我われ自身の手による差別、排斥から、人びとを守らなければならない。
民に尽くすこと。
忠実な社会の奴隷であること。
それがラサに語り継がれる歴史の教訓だった。
エレヴァンを治める者としての心構えだった。
この世に生まれてくる前から、シェルティ・ラサの人生の筋書きは決められていた。
次代の皇帝になること。
ラサを継ぐこと。
そして終生、エレヴァンと人びとのために尽くすこと。
本人の意思は関係なかった。
それが彼に与えられていた役割だった。
シェルティは生まれ落ちた瞬間から、皇太子という役をこなさなければならなかった。
シェルティは聡く、従順な子どもだった。
物心ついたときから、ろくに遊ぶ暇もなく教養と作法を叩きこまれた。
言動から立ち振る舞いまで厳しく躾けられた。
窮屈で不自由な日々だった。
けれどシェルティが不満をもらすことはなかった。
投げ出すことはおろか、弱音のひとつ吐かなかった。
シェルティはすべてを受け入れていた。
それが皇太子に、ラサに生まれた自分の宿命だと知っていたからだ。
同じ年ごろこの子供が冒険物語に夢中になっているころ、シェルティはラサの持つ長い歴史と向き合わなければならなかった。
シェルティは毎朝、起きて一番に皇帝のもとへ赴いた。
皇帝はそこで語った。
ラサの持つ長い歴史の物語を。
●
本来、エレヴァンはウルフのためだけの場所だった。
エレヴァンの中で、ウルフは互いに争うことなく、生態系の頂点として繁栄していた。
それは進化のない繁栄だった。
災嵐による自然淘汰により、その数は一定を保たれる。
増えることも、減ることもない。
新たな文明が生まれることも、革命が起こることもない。
代わりに衰退も滅亡もない。
エレヴァンは過不足のない、完全な状態にあった。
一定の速度で循環を続ける、ひとつの永久機関であった。
――――ラサという異物が現れるまでは。
●
ラサの祖先は、エレヴァンにさまざまなものをもたらした。
技術を。文化を。より高度な人間社会を。
すべては人類の繁栄のためだった。
ラサはたったひとつの願い、一途な思いから、自身が持つ知識の全てをウルフに分け与えた。
その願いとは、ウルフを解放することだった。
強制された不変の世界を打ちこわし、人類に進化をもたらすことだった。
永久などは存在しない。どこかで必ず綻びが現れる。
淘汰を免れる個体数を増やすこと。環境に適応し、進化していくこと。
それこそが生物としての正しいあり方である。
そして人間には、ウルフには進化するだけの力が十二分に備わっている。
しかし彼らは数千年の間、変わらない生活を続けている。
エレヴァン内の環境には一切の変化がない。気温から降水量、日照時間にいたるまで寸分の変化もない。
エレヴァン内の動植物は一種として増えることがなく、また減ることもない。
そしてそれはエレヴァン内に住むウルフ族も同様だった。
環境が変わらないように、彼らも変化しない。
生活様式から、狩猟の方法に至るまで、数千年の中でなにひとつ新しいものは生まれなかった。
微細な変化はもちろんある。
災嵐の年には少なくない数のものが死に、次の災嵐までには増えていく。
彼らの歌う歌は年ごとに変わる。詩も、韻律も、同じものを口ずさみ続けるわけではない。
けれどその変化さえも、数千年という長い時間から見れば、繰り返しに過ぎなかった。
彼らが今歌う歌は、百年前にも歌われていたものだ。
その歌はやがて別のものにとって代わられるだろうが、百年後には、また同じように、新しい歌として歌われる。
新しく編みだされる狩猟方法は、百年前に廃れたもので、今日廃れた狩猟方法は、百年後に新しい試みとして編み出されるだろう。
ウルフは文字を持たない。
歴史を持たない。
そのため気づくことがない。
自分たちが繰り返し続けているということに。
時計は進み続けるが、それは同じ輪の中を回り続けているに過ぎないのだということに。
その一見正しく美しい循環は、ウルフから進化を奪うことによって成り立っている。
災嵐は自然災害にみせかけた作為的な淘汰だ。
個体として弱い者、遺伝的異常、疾患を持つ者、あるいは突出した頭脳を持つ者。どのような形にせよ、人類に変化をもたらす可能性を持つ者は、災嵐によって淘汰された。
エレヴァンは庭園だった。
その中で生きることを許された、選別された人びとにとっては、そこは楽園だっただろう。
しかし外からやってきたラサの祖先の目には、それはひどく歪なものとして映った。
不自然な、誤った世界だった。
彼はこれを正さなければならないと思った。
ウルフは変わらなければならない。
なにものかによって管理されているかのような、誰かの理想を押し付けられているかのような現状を打破しなければならない。
ラサの祖先はそれを自らの使命とした。
なぜならば彼は知っていたからだ。
ウルフを管理するなにものかの存在に、覚えがあったからだ。
●
うら若きウルフの少年として、ある日この世界で目を覚ました彼には、どのような制約も与えられていなかった。
自由に動くことができる。
膨大な霊力を用いることができる。
この地に生きる人びとと、意志の疎通を交わすことができる。
彼は悟った。
自分はこの原始的な人類、ウルフたちを正しい進化へと導くために使わされたのだと。
この世界を管理する、かつての同胞。
それらの支配から、この強く美しい生き物を解放してやること。
設定された規格から外れるというだけで淘汰される人びとを救うこと。
この楽園を、本当の自由と自然の中に戻すこと。
彼はそれを、自らの果たすべき使命とした。
●
一人の男が抱いた理想は、数世代を経て実を結んだ。
エレヴァンは彼が望んだとおりの繁栄を迎えた。
人口は増え、社会は日ごとに進化していった。
彼の子孫と、彼と同じように過去からこの地に舞い降りたいくつかの魂によって、ウルフは変化していった。
ラサの信じる、よりよい方向へ。
ラサの信じる、進化の道を、駆けていった。
もっとも大きな変化は人口の増加とそれに伴う部族の細分化だ。
それまでエレヴァンに住むのはウルフという単一の部族、同じ容姿、生活様式を持つ者たちだけだったが、人口の増加に伴いそれに変化が現れた。
淘汰を免れた人びとによって、ラプソ、サルク、といった、新たな部族が形作られた。
はじめはウルフと大差なかったそれらの一族だが、時と共にそれぞれ特色を持つようになっていった。
肌の色は薄くなり、狩猟生活を好まない、農耕や遊牧に馴染む穏やかで勤勉な性質な者が増えていった。
爆発的といっていい速さで。
災嵐を防ぐ手立て、防御霊術が完成してからはなおのことだ。
気づけばウルフはすっかり少数派となっていた。
確かに人類は繁栄したが、その祖であるはずのウルフは、むしろ絶滅の危機に陥っていた。
●
ラサの祖が掲げた理想は、一方では果たされ、一方では破れ去った
人びとはたしかに進化の過程を歩み始めた。
霊術を、農耕を、遊牧を、より高度な社会を作り上げられるまでに進歩した。
しかしその結果、少数派となったウルフを排斥しなければならなくなった。
ケタリングと生きる彼らは、社会から弾かれ、淘汰された。
ラサの祖は人類を不自然な淘汰から救うために行動を起こした。
けれど気づけば彼の子孫は、淘汰をする側に立ってしまっていた。
進化できなかったもの、適応できなかったものとして、ウルフから尊厳と自由を奪ってしまった。
果てはウルフという存在そのものを、滅ぼしてしまった。
●
どこで誤ってしまったのか。
なにが間違っていたのか。
どうすればよかったのか。
答えはなかった。
見つけたところで、結果は変わらないだろう。
ウルフを滅ぼした当時の皇帝は、せめてもの償いとして、自身の子どもたちに言い聞かせた。
自分たちは犯しえぬ罪を犯した。
祖の崇高な志を捻じ曲げてしまった。
我々は末代までその償いをしなければならない。
それは二度とおなじ過ちを犯さないことだ。災嵐による淘汰はもとより、我われ自身の手による差別、排斥から、人びとを守らなければならない。
民に尽くすこと。
忠実な社会の奴隷であること。
それがラサに語り継がれる歴史の教訓だった。
エレヴァンを治める者としての心構えだった。
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