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第三章

氷上の空転

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川下の船着き場も、すでにもぬけの空だった。
みな南都へ逃げ去ったのだろう。乗り捨てられた舟が散乱しているだけで、馬など当然、残されてはいなかった。
すでに日は暮れはじめていたが、ラウラとブリアードは足を止めなかった。
ほとんど走っているような速度だった。
身体は次第に熱を帯びたが、日が落ちると外気温はさらに下がり、零度を下回った。
エレヴァンの平野部は例え真冬でもここまで気温が落ちることはない。
氷雪に見舞われるのは標高二千メートルを超える山間部、欄干に限られ、平地ではまずありえないことだった。
ラウラとブリアードは身体に巻いた筵にしがみつき、寒風に耐えた。
鼻と耳は氷のやすりで削られているように、手足はそれそのものが氷になってしまったかのように痛んだが、止まることも暖をとることもなく、無我夢中で進んでいった。

山を迂回し、また街道に戻った二人は、やがてある宿場にたどり着いた。
街道を行き交う行商人や旅人を相手にする、宿屋と商店からなる中規模の集落だ。
二人は道を外れ、宿場に入った。
休息をとるためではない。
この宿場の中に、飛車が設置されているからだ。
街道に面した宿場は中央平原と南部山地の境に位置している。もし、この地の飛車が紛失、あるいは直せる見込みがないほど損傷していた場合、ここ以南の飛車も同じ状況である可能性が高い。
そうなるともう、状況は絶望的だ。
ラウラは祈るような気持ちで飛車のもとへ向かった。

「ラウラ先生!ブリアード先生も!」
飛車は、あった。
そして傘のもとには、かつて西方霊堂で丙級に所属し、ラウラのもとで学んだ青年、ベルナールがいた。
「いったいなにが起こってるんですか!?天回は!?この寒さは、やっぱり災嵐なんですか!?」
ラウラはベルナールの質問に応じる余裕もなく、飛車の状態を調べた。
飛車は一見するとなんの異常も見られない。
しかしカイの霊力を受け取る受け皿の中心に、大きさの違う茶碗を重ねたような、陶磁器がはめこまれていた。
「これは――――まさか、碍子!?」
ラウラは驚愕し、陶磁器に手をかけた。
陶磁器は簡単に飛車から取り外すことができたが、今度はそれを見たベルナールが驚き、慌てて言った。
「なにしてるんですか!?」
「なぜ飛車に碍子が!?」
「が、碍子……?」
「碍子とは?」
ベルナールだけでなく、ブリアードも、陶磁器の正体を知らなかった。
ラウラは陶磁器を握りしめ、震えながら言った。
「これは……碍子です。絶縁体です。これを霊具につけると、霊力を通さないようになるんです」
「え……?じゃあ……」
「これがついている飛車は、カイさんの霊力を受け取ることができなくなります。縮地が届かなくなるんです!」
ラウラは昂る感情のままに、碍子を地面に叩きつけた。
ゴンッ。
渾身の力をこめたが、鈍い音を立てるだけで、碍子にはヒビひとつ入らなかった。
「なぜ飛車に碍子が!?」
ラウラはベルナールに詰め寄った。
ベルナールはその剣幕に慄き、たどたどしく答える。
「ちょ、勅令です。何日か前に、技官が回ってきたんです。勅令を持ってて、それで、飛車の精度をあげるためにって、これをつけていったんです……」
「そんな勅令があるわけ――――」
既視感が、ラウラを襲う。
(そうだ、あの時も、『勅令』だった)
ラプソの冬営地で、ケトリングを捕らえ、キースたちを殺害した技官。
我々は勅令を受けている、彼らはそういって譲らなかった。
(まただ)
(また、誰かが、偽の勅令を出したんだ)
ラウラはゆっくりと路肩に転がっていく碍子を見た。
それはラウラには見慣れた代物だった。
特に霊術の研究や開発が盛んだった西方霊堂では、日常的に実験に用いられていたからだ。
しかし、研究実験に携わりのない技官には、まず縁のない代物だ。
ましてや飛車の見張り役を務める補助技官では、見慣れぬどころか、目にしたことのない者がほとんどだろう。
勅令を持った技官によって持ち込まれたとあれば、疑いようもない。
「なんだかよくわかりませんが、結局、飛車は、使えるんですか?」
ブリアードはおそるおそる訊いた。
ラウラははっとして、傘に飛びつく。
(誰がやったか、考えている場合じゃない)
(もし碍子だけが原因なら……)
ラウラは飛車に霊力をこめた。
飛車は、弾かれたように回転した。
地中深くに芯を埋められているにも関わらず、まるで独楽のように。
「使えます」
ラウラは脱力して、その場にへたりこんだ。
霊力の供給を断たれた独楽は、徐々に回転数を落とし、やがて停止した。
飛車にはなんら問題が無かった。
碍子さえ外せば、正常に機能することがわかった。
「使えます」
ラウラはしかし安堵することなく、険しい表情ですぐにまた立ち上がった。
「技官が回ってきたということは、碍子がつけられているのは、ここだけじゃないですよね?」
「は、はい」
「確かですか?」
「はい。そもそもおれ、本当の受け持ちはここじゃないんです。もうすこし南都に近い、採掘場のあるとこで……そこにも技官はきて、これをつけていったんで……」
ラウラはブリアードと視線を交えた。
「伝えなければ」
二人の瞳には、同じ、強い一点の光が差した。
それは希望だった。
ようやく見つけたひとつの答えが、濃霧を抜け出すための手がかりが、二人を奮起させた。
「伝えなければ」
ブリアードは新たな足を得るため、宿場内の厩へ向かった。
ラウラはブリアードの戻りを待つ間、今後の段取りを考えた。
(碍子を外すだけなら、誰にでもできる)
(私たちのあとにくる部隊は、ここまであと数時間、長くて半日はかかる)
(待っている時間はない)
(言付けだけ残して、私たちは先に進もう)
(部隊は二十人以上いるはず。南部の飛車は全部で五十本弱。ひとり二本だとして、間に合うか……)
飛車は少なくとも二キロ以上の距離を置いておかれている。
近場ならまだしも、山間までいくとなれば、相当な時間を要する。
ラウラは自らの頬を叩いた。
(ちがう)
(間に合わせるんだ、絶対に)
この異常な寒さを、もし災嵐だと皇帝が判断すれば、縮地はすぐに発動されてしまう。
猶予はもう残されていなかった。
ラウラは間に合うと信じて、行動するしかなかった。
炉端に転がした碍子を拾い上げ、ラウラはそれをベルナールに手渡した。
「半日もしないうちに、朝廷から師官部隊がやってきます。事情を説明して、すぐに南部中の飛車を回るよう伝えてください」
ベルナールは頷いたが、落ち着かない様子だった。
「大丈夫ですよ。ここはもう確実に、縮地の範囲に含まれました」
「でも、ほかはまだなんですよね?」
ベルナールは南西の方角に目をやって、あいつのとこは、と呟いた。
「あいつ?」
「バーナードです」
それはベルナールの双子の弟だった。
兄と同じく丙級に属していた彼のことは、ラウラもよく知っていた。
よく似た双子だった。
ヤクートと三人で仲が良く、丙級時代はそこにカイを交えた四人でよくつるんでいた。
ラウラは冬営地でつい先日、災嵐後は技官を辞し二人と共に商売を始めるのだと言っていたヤクートの言葉を思い出した。
「そういえば、どうしてベルナールさんは持ち場を離れてここに?」
ラウラはそこでふと、疑問を抱いた。
「もともとここの担当である技官はどうしたんですか?」
「それが……逃げたんです」
「逃げた!?」
驚愕するラウラに、ベルナールは事情を話した。

天回が消失し、みるみる気温が下がると、人びとは災嵐がやってきたのだと思い込み、我先にと南都へ避難していった。
ベルナールが受け持ちを務める飛車は、陶土や珪砂の採掘場にある。
街道は採掘場を迂回して南都に向かっているため、逃げ惑う人びとの多くは、この採掘場を近道として通って行った。
その中には一般民衆だけでなく、飛車を受け持っていたはずの技官の姿もあった。
見知ったその技官が、この宿場の担当者だったのだ。
「おれらとは違う等級でしたけど、西方霊堂で一緒だったんで、覚えてたんです、そいつらの顔。それで、ここが心配になって、二人で話し合って、おれがこっちにくることにしたんです」
「務めを投げ出す技官がいるなんて……」
「信じられないですよね。しかもあいつら、霊堂じゃずっとおれらのことバカにしてた、甲級のやつですからね」
憤るベルナールを見て、ラウラは胸が熱くなった。
「なぜ、お二人は逃げなかったんですか?」
「正直迷いましたけどね」
採掘場を通る人びとの焦燥はすさまじいものだった。
ベルナールとバーナードたちもそれに充てられ、何度も逃げ出そうとした。
けれど、踏みとどまった。
「おれら、カイのこと、裏切りたくなかったんで」
「……!」
「ここで逃げたら、おれ、カイを信じてないってことになるじゃないですか。だってカイは、必ず縮地を成功させるって言ったし。じゃあおれも、最後まで傘守らなきゃなって。いやおれだけじゃなくて、否級のみんな、そう思ってますよ。否級で逃げ出してるやつ、絶対誰もいませんよ」
「みなさんは――――」
ラウラは涙ぐみ、言葉に詰まった。
ベルナールは感じ入るラウラを見て、誇らしげに胸をはった。
「仲間を信じるのは、当然のことですよ」



ラウラとブリアードは再び馬に乗り、夜の街道を駆けた
馬はダルマチア家のものではなかったが、全速力で、止まることなく走り続けた。
馬は明らかに正気を失っている。
異様な前傾姿勢で、眼球は飛び出し、口から泡まじりの唾液を漏らしていた。
馬はブリアードに霊力を与えられていた。
手綱を通して、ブリアードは馬に霊力を送り続ける。
馬の血肉は過剰な霊力に沸騰し、限界を超えた走りが可能となった。
それは馬の首を絞めて走らせるようなものだった。
このまま走り続ければ、馬は朝を迎えることなくこと切れるだろう。
しかしラウラもブリアードも、なりふり構ってはいられなかった。
二人は南都へまっすぐ向かった。
途中、近道として通った採掘場で、そこに設置された飛車の碍子を取り外し、瞬きの休息をとったあとは、立ち止まることもなかった。
ラウラはブリアードが手綱をとる馬に相乗りしていた。
ブリアードに後ろから抱えられるような体勢であったため、ラウラは激しい振動の中、ほとんど気絶するようではあったが、眠ることができた。
「私はおそらく南都に到着したあと、霊切れで役に立ちません」
ブリアードは採掘場を発つ前、ラウラに言った。
「その後は、ラウラさんに任せます。ですから到着までは、できるだけ休んでください」
ラウラはその言葉に甘え、馬上では気絶するような短い眠りを繰り返し、それが終わると、吹きつける寒風にあえて素手をさらし、霊摂を行った。
両手は凍え切り、指をまっすぐ伸ばすこともできなかった。
日付を跨ぐと、外気温は霊度を下回った。
強風のため、体感温度はそれ以下だろう。
薄手の官服に筵一枚巻き付けただけの恰好で、とても耐えきれるものではない。
エレヴァンは常に温暖な気候の中にあるため、山間に住むラプソのようなごく一部の遊牧民を除いたほとんどの人にとって、これは体感したことのない寒さであった。
宿場でも採掘場でも、二人は新しい衣服を求めたが、筵よりましなものは手に入らなかった。
衣類は凍える人びとに簒奪されたあとで、二人はぼろをまとっただけの姿でいるほかなかったのだ。
しかしラウラは、四肢の末端に寒さによる痺れと痛みを感じてはいたが、身体の内側には煮えたぎるような熱を持っていた。
馬とブリアードと密着しているためだけではない。
彼女の胸が、心が、燃え滾っていたのだ。
そしてそれは、舟上で自らを鼓舞するために灯した怒りの炎ではなく、使命に燃える希望の炎だった。
(丙級のみんなは、カイさんを信じてる)
(仲間のために、命をはってる)
採掘場で飛車を守っていたバーナードもまた、ほかの誰がいなくなっても自分と否級の仲間は最後まで飛車のもとを離れない、とラウラに誓った。
彼らの覚悟は、ラウラに勇気を与えた。
勇気は、熱となって、全身に力を漲らせる。
どれだけの寒風が吹きつけても、ものともしないほどに。
(絶対間に合わせる)
ラウラもまた、彼らに誓った。
(必ず救う。一人残らず)
(世界を救うんだ。みんなで!)
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