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第三章

矢は虚空に放たれる

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会議場の空気はひどく張りつめていた。
円卓に座るのは、皇帝、皇帝の側近、各省の長といった、朝廷の中枢を担う十二人だ。
またその周りを皇帝直属の技官、縮地術の技術監督官たちが取り囲んでいた。
ラウラはノヴァの傍らに控えながら、円卓の対面に腰を下ろすカイを不安げに見つめた。
「――――南部の飛車です」
カイはゆっくりと立ち上がり、憔悴した顔をあげて発言した。
「昨日まで届いた場所に、霊力が届きませんでした。たぶん、飛車そのものが壊れたか、なくなってるんだと思います。南部一帯の……」
円卓はしんと静まり返った。
ここに揃った者たちはみな、カイの口から改めて言われるまでもなく、一切を承知していた。
天回の消失と飛車の欠損。
混乱を起こさないために、皇帝が独断で民を欺く布告がなされたこと。
それだけでなく、人びとがカイに寄せる信仰がすべて偽りだということも理解していた。
カイは光雨を降らせた救世主ではなく、縮地の発動に必要な道具に過ぎない。
偶然担ぎあげられただけの、ただの無力な人間であることを、誰もがわかっていた。
だからこそ、カイを問い詰める者はいなかった。
カイでは打開策の提案はおろか、詳細を説明することさえままならないことを、彼らは承知していた。
一同が口を噤んだのは、皇帝の言葉を待つためだった。
会議場において、皇帝の発言は極めて少ない。
無駄を嫌う彼女は、いつも明瞭で簡潔な決定を下す。
慎重だが大胆な彼女の決断は、時として多くの反感を買うが、誰もが窮するこの非常時においては、待望されていた。
非情な、けれど絶対の指針となる決断が、皇帝には求められていた。
「縮地は予定通り敢行する」
皇帝は静かな、けれどよく通る声で言った。
「ただ天回の消失による影響は考慮しなければならない。場合によっては縮地を前倒しにする可能性もある。みな念頭においておけ」
皇帝はカイに顔を向けた。
「縮地は最大でどのくらい引き延ばすことができる」
「……」
カイは唖然とした表情を浮かべたまま動かない。
見かねたノヴァが、代わりに答えた。
「三日です。エレヴァン全土で、最大十日先へ飛ぶことができます」
「十日か……」
「それ以上は傘が持たないでしょう」
「よろしい。ではもしなにか異常があった場合には、今日にでも縮地を実施する。着地日はいかなる場合でも変わらず、九月十九日とする」
「ちょっ――――待ってください!」
カイは円卓から身を乗り出し、信じられない、と大声を出した。
「それじゃあ、南部は――――縮地がいま届かないところは、どうするんですか!?」
「部隊を送る」
皇帝は淡々と言った。
「私の直属部隊だ。他にも、できるかぎりの人数を南に送る。可能であれば飛車をはりなおし、対処が困難な場合は南部全域に避難勧告を出す」
「でも――――」
皇帝はつい先ほど、今日にも縮地を実施すると口にした。
今から部隊が言って、果たして間に合うのか。
もし縮地を発動させなければならない状況に陥った場合、南部ともども、その部隊まで犠牲になってしまうのではないか。
そもそもなぜ飛車が、天回が……。
カイと同じ疑問を、ラウラも抱いていた。
けれどそれを口にする前に、皇帝はこれ以上の問答は無用だと、勢いよく立ち上がった。
「――――困りますね」
場を締めようとした皇帝に横やりをいれたのは、品の良い、洒脱な身なりをした中年の男だった。
「それは困りますよ、陛下。貴方の抱える部隊は朝廷の守りの要じゃありませんか。朝廷の宝である、選りすぐりの武官と技官じゃないですか。彼らがいなくなって、ここの防壁は誰が張るんです?もし縮地が失敗したとき、災嵐からこの朝廷を守るものがなくなってしまっては、どうしようもないでしょう?」
おっしゃる通りだ、と、彼の両隣に座る老齢の官吏が同意する。
「ただでさえ朝廷は手薄だというのに、これ以上技官を減らしてもらっては困りますな」
「それにもし南部と同じ異常がここでも起こったらどうされるおつもりで?誰が対応するのですか?」
「まあまあ、お二人とも、落ち着いてください」
中年の男は芝居がかった大げさな身振りで胸に手をあてた。
「陛下も本当はわかっておられますよ。南部に人を送るべきではない、ということを。しかしそう言わざるを得ないのです。なぜならいま、南都にはシェルティがいますからね」
皇帝はかすかに肩を震わせ、男を窘めた。
「憶測はよせ」
「息子がいるのは事実じゃありませんか」
「シェルティがどこにいようが、私の決断は変わらない。都市一つを災嵐に残していけば、被害と損失は計り知れないだろう。故に、できるかぎりのことをしなければならない」
「見上げたお心だ」
男は天を仰いだ。
「愚息にも聞かせてやりたいですよ。哀れなあの子に、君の母親は万民に挺身する皇帝の鑑だということを、教えてやりたいです。我々も、伴侶に、母に顧みてもらえないことを、嘆いてはいけないと。万民のための皇帝が、誰かを特別扱いすることは決してないということを――――」
男はノヴァを一瞥し、皮肉に歪んだ笑みを浮かべた。
「――――いや、そうとも言い切れないんだったか」
「……チャーリー」
「おや、久しぶりに名前を呼んでくれましたね、陛下」
チャーリーは顔から皮肉を打ち消し、恭しく頭を垂れた。
「麗しのわが君。実に二十日ぶりの接見ですね。前もってお会いできることがわかっていれば、貴方によく似合う花を用意したのですが」
「慎め、チャーリー。いまがどういう状況かわからない貴方ではないだろう」
「お許しください。浮足立っているのですよ。なにしろ私は心を捧げた伴侶に、年にたったの数度しか会えないものですから。――――しかし残念です。どうやらあなたはそうではないようだ。ああ……どうか睨まないでください。心が張り裂けそうです」
皇帝、マルキーシェは小さくため息をついて、首を振った。
しかしチャーリーは飄々と続ける。
「しかしそんな君さえも、美しい。どんな瞬間を切り取っても、それがたとえため息をつく姿でさえ、君に勝る絵画は存在しないよ。惜しむらくは君に見合う額縁もまた存在しないということだ。紅も、宝玉も、絹地も、君に見合うものなんてこの世界には存在しない。――――君は素顔が、ありのままの姿でいるときが一番きれいだ」
チャーリーの両隣に座る官吏が失笑を漏らした。
皇帝の後方に立つ護衛の武官が顔を憤怒に染める。
しかし相手は皇帝の伴侶、第一皇子の父親であるチャーリー・サルクだ。
おいそれと噛みつくことはできない。
「茶番はよせ」
当事者であるマルキーシェとチャーリーは揃って顔色一つ変えず、互いをまっすぐ見据えていた。
「手厳しいですね。まあいいでしょう。時間がないことくらいは私にもわかります」
チャーリーは目を細め、しかし、と続けた。
「これだけは譲れません。南部に人をやるべきではありません。やったとしても、貴方の技官、守護霊術を担う予定の者たちは動かしてはいけません」
「守護霊術は代わりの者が実行する」
「信頼なりません。どうせ若手の技官でしょう?この数年でつけ焼き刃に育てた未熟者に、我々の命を、エレヴァンの心臓たる朝廷を預けることなどできません」
チャーリーの発言には、円卓から賛成の声が上がった。
「万が一でも朝廷が災嵐に見舞われることがあれば、それこそエレヴァンはおしまいだ」
「そうです、二度と復興など望めないでしょう」
「南都にだって鐘塔があるんだ。南部は例年通りの方法で災嵐を迎えればいいだけの話じゃないか」
「そもそも優秀な技官をこの異常時に朝廷の外へ出すなど、それこそ損失ではないですか?」
これには、円卓を取り囲む技官も頷いた。
南部がどんな状態にあるのかも、いつ縮地が実施されるかもわからない。
南部へ赴くということは、進んで災嵐に向かって行くようなものだ。
望むものなど、いるはずもなかった。
「では南部はどうなる!そこにいる民は!」
円卓を囲む中で最も若い官吏がいきり立った。
「我々は民に、縮地による災嵐の克服を誓ってしまっているのだぞ!多くの民はすでに都市から離れている。このまま見捨てるおつもりか?我々を信じた、無辜の民を!」
叩き上げや新任の官吏たち、いわゆる皇帝派の人間が、そうだ、と次々に賛同の声をあげる。
「民の命をなんだと思っている。まだ救える命を!」
「官職にありながらまず己の保身とは、恥を知れ。可能な限りの救済措置をまっさきに選ぶべきだろう!」
「それに、チャーリー殿、貴殿は南都の出ではありませんか。南部に広く土地もお持ちで、なによりいま南都にいるシェルティ殿下は、ご子息じゃありませんか。なぜやすやすと見限ることができるのです?」
人びとの視線が、一斉にチャーリーに集まった。
「やすやすと、ですって?まったく思い違いも甚だしい」
チャーリーはまた誇張した身振りで目元を拭ってみせた。
「皆さん、私が何の苦も無く、部隊の派遣に反対しているとお思いのようですね。ありえません。今すぐ腹を裂いて、私の苦しみをお見せしたいくらいだ。――――私の心は常に陛下とともにあります。彼女が無私の精神を貫くのであれば、私もそれに倣うまで。資産も、故郷も、愛息子も、万人のための犠牲だと、受け入れたまでです」
素晴らしい、と、チャーリーに賛同していた者たちは拍手を送った。
「……なに言ってんですか?」
カイはよろよろと立ち上がり、言った。
「シェルに、犠牲になれって……?」
「うん?――――ああ、君には彼のことでいろいろ世話をかけたね。しかし彼も皇太子だ。このぐらいの覚悟は――――」
バンッ!
カイは円卓の上に王笏を叩きつける。
会議場は凍り付く。
技官らは身構え、ノヴァはカイを抑えるために腰を浮かす。
「おれ、やりませんよ」
カイは震える声で言った。
「南部には、シェルティが、みんながいる。たくさんの人が。それを外して縮地なんて、おれ、絶対、やりません」
「かまわないよ」
カイの渾身の脅しをチャーリーは軽くいなした。
「君が縮地を行わないというのであれば、我々は例年通り、都市の防壁の中で災嵐をやり過ごすだけだからね。そもそもこういってはなんだが、私はあまり君を、縮地という霊術を、信用していないんだ。なにしろ長らく縮地と異界人の決議は陛下とごく一部の人間だけで行われていたからね。外されていた者たちの代表として言わせてもらうが、君が我々の土地を、財産を、民を預けるに値する者なのか、測りかねているんだ。いまとなっては見極める時間もないし、であれば、多少の犠牲はあろうとも、慣れ親しんだ守護霊術の方が、よほど頼りになる」
チャーリーは笑顔をカイに向けた。
シェルティによく似た、四十とは思えない、若々しい容貌だった。しかし笑顔を浮かべた際に目元によるしわは傷跡のように深く、見る者をどこか不安にさせた。
「そもそも、霊力が届かなかったと言ったが、それが君の気のせいだという可能性は?」
カイは青ざめて首をふった。
「気のせいなんかじゃ……。感触が、明らかに、昨日と違ったんです」
「感触、ね」
チャーリーの笑顔がさらに深くなる。さらに不気味になる。
カイは喉を鳴らし、傍から見ていたラウラも鳥肌を立てた。
「彼の証言以外に、飛車の消失を証明するものがないというのであれば、ますます南部への派遣は控えるべきでしょう。我々はエレヴァンの頭脳であり心臓です。一人の勘違いに振り回されるなど、あってはならない。常に悠然と構え、ちょっとやそっとのことで取り乱してはいけません」
チャーリーはカイのもとへゆっくりと歩み寄り、その肩を叩いた。
「安心したまえ。南都にも防壁はある。君の縮地がなくとも、彼が災嵐に遭うことはない」
「でも……都市の外にいる人は……」
「矛盾しているな。その人たちの心配をしたいなら、君は縮地をやめるなどと、軽率に発言するべきではなかった。なぜなら君が縮地をやめれば被害は何倍にも膨れ上がるのだから」
カイは倒れるように膝をつく。
「じゃあ……どうすれば……」
それまでずっと堪えていたラウラは、ついに我慢ならず、カイのもとへ駆け寄ろうと足を踏み出した。
しかしそれを制すようにノヴァが立ち上がり、言った。
「彼に揺すぶりをかけないでいただきたい」
チャーリーはそれまでの不気味な笑顔を打ち消し、無表情で、深い憎しみのこもった目で、ノヴァを見据えた。
しかしノヴァは怯むことなく、まっすぐチャーリーを見つめ、続けた。
「縮地を行うか否か、彼に決定権はありません。彼は縮地に不可欠な存在、縮地そのものといってもいいでしょう。そのため同席させましたが、彼の言葉に耳を貸す必要はありません。――――なにがあっても縮地は実行されます。そのとき彼の心身が乱れていては、影響は必須でしょう」
「そんな不安定なものにエレヴァンの命運を託すことが、そもそもの誤りでは?聞きましたよ。当初の予定では、彼を人間として扱うつもりはなかった、と。動力源として機能すればいいんですから、なんなら今からでも――――」
「チャーリー!」
「チャーリー殿!」
皇帝とノヴァは、同時に怒鳴った。
「……本当によく似た親子ですね。中身だけですが」
「もうよい。これ以上の議論は無駄だ」
皇帝は円卓を見渡し、決定を下した。
「縮地は定刻を持って実行する。南部には私の直属部隊を半数と、朝廷に残る予備人員を半数、向かわせる」
それは折衷案だった。
対立していた双方とも、この決定に不服を申し立てたが、皇帝は受け付けなかった。
こうして、御前会議は幕を閉じた。



時を置かずして、ラウラは皇帝に呼びつけられた。
「急ぎ整えさせてはいるが、部隊がここを出るまでにあと一時間はかかるだろう。お前はブリアード・ダルマチアとともに、先遣として南都へ向かってくれ」
「はい」
躊躇いのないラウラの返事に、皇帝は肩を震わせた。
ラウラはもとより、部隊への加入を申し出るつもりでいたのだ。
それが皇帝直々に指名され、手間が省けたと感謝しているほどだった。
南都にはシェルティがいる。
飛車が失われたという南部には、アフィ―が、レオンが、ラプソの女たちや丙級の仲間たちがいる。
なにもせずにいられるはずがない。
皇帝はそんなラウラにかける言葉が、すぐには見つけられないようだった。
両親も兄も、世界のために犠牲になった。
それでもなお、一点の曇りなき眼で、強い正義感でもって誰かを救おうとするこの少女に、皇帝はなにを言う資格も持っていなかった。
「……ブリアード・ダルマチアは誰よりも早く馬を駆ることができる。その早馬に乗ることは、常人にはできない。が、君なら合わせられるだろう」
皇帝はラウラを選んだ理由を釈明するように言った後、声を潜めて付け足した。
「いいか、できる限り飛車を元通りにするんだ。できなければ、南都ではなく、どこか飛車のある別の場所まで移動するんだ」
縮地を信じろ。
皇帝はそう伝えたいのだろうとラウラは解釈し、頷いた。



(……頭が、沸騰しそうだ)
ラウラはブリアードの待つ厩舎へ駆けだした。
(天回がなくなって、南部に縮地が届かなくなって、それを救おうとする人と……見捨てようとする人がいて)
ラウラは走りながら自らの頬を叩いた。
(そんなの絶対にだめだ)
(見捨てたりなんかしない)
(なにがあっても、全員、絶対助ける)
ラウラは人目も憚らず、鐘塔から環濠の橋へと繋がる階段を、数段飛ばしで、転がり落ちるように下った。
「……っ!」
ラウラは最後の一段を踏み外し、バランスを崩す。
「ラウラ!」
間一髪のところで、カイがラウラの腕をつかみ、それを止めた。
「あぶねえ……!」
「カイさん、なぜここに?」
「南に行くつもりだろ」
ラウラの腕をつかむカイの手に力がはいる。
「おれも行く」
「いけません」
「おれなら一日もかからず南都まで行ける!災嵐までにここに戻れば――――」
「いけません!」
「じゃあここでおれ一人待ってろっていうのかよ!」
「そうです」
ラウラはカイの手を振り払った。
「信じてください」
ラウラは深呼吸し、カイに明るく笑いかけた。
「きっとどうにかしてみせます。それに私は一人じゃありません。南都にはシェルティさんも、アフィ―も、レオンさんもいます。みんなが力を合わせれば、できないことなんてありません」
カイを探すノヴァの声が、塔から響いてくる。
「ノヴァ!カイさんはここにいます!」
ラウラはそう叫んでから、カイに小指を出した。
「約束したじゃないですか。カイさん」
「ラウラ……」
「私は私にできることをやります。だからカイさんも、役目を全うしてください。――――縮地を、必ず、成功させてください」
ラウラはカイの手をとり、自身の小指と無理やり絡ませた。
「カイ!すぐに戻れ!」
階段の上から、ようやくカイの姿を見つけたノヴァが駆け下りてくる。
「――――ラウラ?」
ノヴァはそこにいるのがカイだけではないことに気づき、足を止める。
「なぜ君も外に――――まさか――――」
ラウラはノヴァに深く頭を下げ、逃げるように駆けだした。
「待て―――行くな、ラウラ!」
ノヴァの声に後ろ髪をひかれながらも、ラウラは決して振り返らなかった。
決して、立ち止まりはしなかった。
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