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第三章

手探りでつかんだ糸は、すでに切られた後だった

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災嵐を二日後に控えた、九月十日の早朝の空は、一部の隙もなく晴れ渡っていた。
一見すると、清々しい秋晴れの空だ。
しかしそれは、本来この世界ではありえないことだった。
なぜならばこの世界には天回がある。
エレヴァンの上空に、常時浮かぶ二重の黒円。
曇天であろうが、真夜中であろうが、決して姿を消すことなく、空の中心に、ぴたりとはりついている、天回。
日が必ず昇るように、空が落ちるはずがないように、天回が消えることは本来ありえないことだった。
けれどこの日の朝、その天回は空から姿を消してしまった。
なんの予兆もなく、忽然と。

「原因に心当たりは?」
皇帝はまだ朝の身支度の途中だった。
髪を結い、目元を隠す面布をつけただけで、他はまだ寝衣のままだったが、構わず寝室にノヴァとラウラを招き入れ、前置きなく言った。
「なにか思い当たる節があれば、述べなさい」
「ありません」
ノヴァは即答した。ラウラも同意して頭を下げた。
皇帝はため息をつき、ラウラに言った。
「すまないが、着替えを手伝ってくれ」
困惑した表情を浮かべたラウラに、皇帝は帯をきつく締めあげながら繰り返した。
「手を煩わせて悪いが、今は一刻が惜しい。対策についてこのままここで話し合いをする。ことがことだからな、侍従は下がらせたのだが、一人では着替えに時間がかかりすぎる――――そこの羽織をとってくれ」
ラウラはすぐに応じ、皇帝の身支度に手を貸した。
皇帝は着替えながら、側に控えていた二人の側近とノヴァ相手に、事態の整理を始めた。
「天回の消失が確認されたのは夜明け、日の出とほぼ同時刻。天回の消失以外の異常は現段階ではわかっていない。市井も今のところ静かだ。が、これは時間の問題だろう。まだ気づいている人間が少ないだけだ。日が高くなれば、次第に騒ぎは大きくなる」
皇帝は側近に目配せをした。
「どう対処する」
まず側近の一人、ラサの一族で、皇帝の叔父にあたる壮年の男が答える。
「天回の消失で、今後どのような異常が発生するかわかりません。これが災嵐の前兆、という可能性もあります。まず縮地の発動に問題がないか確かめましょう。そして可能であれば、縮地の発動をさらに二日はやめる検討もすべきかと」
次にもう一人の側近、ラサの一族で、皇帝の叔母にあたる中年の女が答える。
「いずれにしても民には混乱が広がるでしょう。暴動を防がなければ」
「策はあるか」
「天回の消失は、朝廷の手で行われたものであると触れ回るのです」
「……奇策だな」
「ですが最も効果的です。民衆が朝廷に置く信頼はことのほか厚い。我々が白だと言えば、多くの者はそれを信じるでしょう」
「根拠は」
「先日、ノヴァ殿下が証明した通りでございます」
一同の視線が、ノヴァに集められる。
「光雨の件ですか」
ノヴァは苦々しい表情でかぶりを振った。
「あれは、私が意図したものではありません。偶然の産物です」



エレヴァンの人びとが、なぜこれまで懐疑的だったカイという異界人の存在を受け入れ、崇めるようになったのか。
それはカイが、エレヴァン全土に光の雨をもたらしたからだ。

災嵐の七日が終わると、決まって雨が、エレヴァン全土に降り注ぐ。
それもただの雨ではない。
降り注ぐのでは水ではなく細かい光の粒で、それに触れたものは奇跡に見舞われるという。
動植物の傷口がふさがり、水は浄化され、火は消し止められる。
苦難の七日がおわると、光の雨が一晩降り続き、そして翌朝には、エレヴァンは豊穣の地としての顔色を取り戻す。
災嵐の終わりと、新しい安寧の百年を告げる、光の奇跡。
それが、今年の七月の末、突如として降り注いだのだ。

人びとは困惑した。
災嵐はまだはじまってもいない。
なぜ終わりを告げる光雨が、先に降り注ぐのか。

その日の晩、空一面は薄い雲で埋め尽くされていた。
薄い雲は月の光を受けて広く、淡く、光っていた。しかしその光は弱く、地上まで降りてくることはない。
暗い夜だった。
人びとの心に立ち込める暗雲も、一段と濃く、厚かった。
人のいなくなった農村は寂れ、人の集まる都市は苛立ちと恐怖が蔓延していた。
人びとは疲弊していた。
災嵐まであとひと月以上もある。しかし、この状況にもう一日たりとも耐えることができない、と誰もが思っていた。
朝には一文にも満たなかった林檎が、午後にはその倍を出しても買うことができない。
昨日の寝床が今日は肥溜めと化している。
自分の村が、野盗の根城になってしまったという噂話を耳にする。
それでもなお、災嵐への恐怖が勝り、多くの人びとは、足がすくんで都市から出ることができない。
すべてを諦め、災嵐で霊魂ごと消え去るよりはいいと、自ら命を絶つ者もさえでた。
災嵐まで日が浅くなれば、人びとはあと少しの我慢だと、耐えることができただろう。
災嵐までふた月近くある七月の末には、誰もが限界にあった。
これから夏を迎え、人の密集する都市内の衛生環境はさらに悪化していくだろう。
目の前の苦渋と先にある災嵐への恐怖で、もはや八方ふさがりだった。
助けてくれ。
解放してくれ。
救ってくれ。
誰か……。
そんな人びとの願いに答えるように、光雨は、降り注いだ。

人びとはそれが最初なにかわからなかった。
当然だろう。百年前の災嵐を生き残った者はもうみな死に絶えている。
今いる人びとは、言い伝えでしか、光雨のことを知らないのだ。
人びとは突如として空で弾け、降り注いだ光に、驚き、怯え、放心した。
そして目を奪われた。
光雨が降り注ぐ様子はあまりにも美しく、また肌に触れる光は温かだった。
やがて人びとはそれが光雨だと気づいた。
光を浴びると、立ちどころに空腹がおさまり、身体の不調が消え、まるで春を迎えたように晴れ晴れとした気分になった。
道端の汚物は日の匂いがする土くれへと変わり、蠅のたかっていた生ぬるい井戸は清く冷たい水で満たされ、都市の淀んだ空気は一新された。
人びとは涙を流した。
そして多くの人びとは、喜びに沸き立つ間もなく、光雨をその身に受けながら、眠りについた。
路肩で、木陰で、あるいは道の真ん中で。
寝具どころか屋根もない眠りだった。
しかしそれは彼らが久しく巡りえなかった、安眠だった。
その晩は、誰もが心から安らぎ、そして眠りに落ちることができたのだった。

眠りから目覚め、心身ともに回復した人びとは、はじめて疑問を口にした。
あの光の雨はなんだったのか?
さまざまな憶測が飛び交った。そんな騒ぎの中、ノヴァ率いるカイの捜索隊が、ラプソの冬営地から南都へ戻った。
人びとは皇子を取り囲み、問いただした。
光の雨の正体を。
ノヴァはもちろん、それを知っていた。
カイとレオンの手によって空葬されたケタリング。
空に散ったケタリングが、その光雨の正体だった。
なぜ災嵐後に降る光雨と同じものが空葬によって降り注いだのか。その理由はわからなかったが、答えを求める民衆に対し、ノヴァは一部の事実だけを伝えた。
光雨は意図して降らされたものである。
異界人、渡来大使の手によって。
ノヴァがそう吹聴したのは、都市の騒ぎを落ち着かせるため、またカイの身の安全を守るためでもあった。
南都はケタリングの空葬が行われたラプソの冬営地に最も近く、山中から響く轟音と、  たれる閃光を目にした住民も多かった。
沸き立つ人びとは山に向かおうとしていた。光雨の正体を突き止めようとしていた。
ノヴァはそれを抑えなければならなかった。
山域を牛耳っていたラプソの一族が壊滅したことを広く知られるべきではないと、遺された女たちのことを考えてのことだった。
また、そこでたったいま弔宴に興じているであろうカイの存在を、明らかにするべきではないと判断してのことでもあった。
彼は雨を降らせた。しかし彼はいま朝廷にいる。
光がすぐ近くの山から放たれたように見えたのは、術具が山に設置されていたからだ。
縮地がここまで届くかどうかの遠隔実験の一環だ。
実験は成功した。
我々は術具を回収し、朝廷に戻るところだ。
ノヴァはそう言って、人びとの関心を山から逸らした。
人びとはノヴァの言葉を信じた。
聡明な人格者と名高いノヴァの発言を疑うものはいなかった。
しかしそれに故に、噂はたちまち全土に広がった。
ノヴァが考えてもみなかったほど、壮大な尾ひれとともに。

渡来大使は、救世主である。
災嵐はもはや手中にあるも等しく、それを示すために、光雨を降らせてみせたのだ。
恐れる者はなにもない。故郷の村を捨てる必要も、狭い都市でみじめに暮らす必要もない。
我々は渡来大使の庇護下にある。
我々はもう、なにも奪われることはないのだ。

そうして、カイは瞬く間に信仰の対象となった。
朝廷は噂も、信仰されたカイも、否定しなかった。
むしろすべてが事実であると保証した。
朝廷は利用したのだ。そして目論見通り、カイの存在は人びとに余裕を与えた。緊張の糸を解し、恐怖と焦りを和らげた。
そして市井は、平時ほどではないが、落ち着きを取り戻した。
故郷に戻る人が増え、都市の混雑は緩和された。
流言飛語は変わらぬ調子で行き交っているが、暴動や、物価の変動はぴたりと止んだ。
災嵐を目前に、これほどまでの平和は、かつてないことであった。
すべての事情を知る一部の人間は、これはカイよりもむしろノヴァが成した偉業であると賞賛した。
しかしノヴァは、謙遜ではなく本心として、そのようなつもりはない、とかぶりを振った。
彼はむしろ悔いていた。
不用意に、カイを祀り上げてしまったことを。



「天回の消失もまた、カイの御業であるとするおつもりか」
ノヴァは厳しい口調と視線に、側近の女は少しも怯むことなく言い返した。
「それが最も迅速に、確実に民を納得させる方法です。誰が信じるのですか?――――展開が消えた理由も、今後どのような影響があるかもわからない。だが取り乱すな――――そう言われて、平常心を保てる民がどれだけいますか?」
「それではすべての責任をカイに……渡来大使に押し付けることになる」
「彼が責任を問われるような状況を、我々がつくらなければよいのです」
「それでも手に負えない事態が起こったらどうする」
「不測の事態はすでに起こっています」
側近の女は、異界人への配慮を話し合っている暇はない、とでもいうかのように、視線をノヴァから皇帝に移した。
「もしこれを触れ回ることで朝廷への、陛下への信頼が失墜しようとも、暴動によって各地の統制が乱れるよりはずっと、被害は少なく済みます」
側近の男もこれに同意した。
二人の側近の意見に、皇帝もまた賛同を示した。
「私の評判が落ちて納まるなら、それに越したことはない」
皇帝はそう言って、自らの口もとにきつく紅を引いた。
皇帝は四五歳の、素朴で地味な容貌の女だった。
それを取り繕い、皇帝としてすこしでも威厳のある姿を見せるため、日ごろから派手な化粧と衣装、十センチを超える高底靴を身につけていた。
身支度を終えた皇帝は、堂々と胸をはって命じた。
「天回の消失はカイ・ミワタリの手によって行われたものである。急ぎ、各地に伝令を。そしてこの触れ込みは朝廷ではなく私自身が発したものとして伝えよ」





展望楼の中心で、カイは王笏を突き立てた。
カーン、と、大理石の床が鐘のような音を響かせる。
それを合図に、天井に設置された、十二枚の銀の羽が回転する。
王笏伝いに送られるカイの霊力で、その回転は徐々に速度を増していく。
高速回転する羽は、光沢のある円盤へと姿を変える。巨大な扇風機のようでもあるが、しかしわずかな風も生み出さない。
カーンッ
カイは再び王笏を大理石に叩きつける。
光沢する円盤となった羽が波打つ。
円盤の内から外へ波紋が広がっていく。
とめどなく、繰り返し、何度も。
光る波紋は、円盤の外へ出ると、見えなくなってしまう。しかし消えたわけではない。波紋は円盤を出ても、楼を出ても、止まることを知らず、広がっていく。
やがて波紋は各地に置かれた術具、飛車のもとへ届く。
波紋はカイの指先であり、飛車は目印だった。
カイは巨人となり、エレヴァンを両手で包み込む。
そして両手に包んだエレヴァンごと、時を飛び越える。
そんな感覚でもって、カイは縮地の展開を行っていた。
三百を超す飛車のひとつひとつを、その在りかを、いまのカイは霊力を通じて感じ取ることができた。

「――――ない」
カイは突如、縮地の展開を中断し、その場に崩れ落ちた。
「なくなってる」
カイは繰り返し呟くと、項垂れた。
(うそ)
ラウラは言葉を失い、呆然と立ち尽くす。
ノヴァはかすれた喉を振り絞り、訊ねた。
「なにが、ないんだ」
カイはすぐには答えなかった。
それが天回でないことは、ラウラもノヴァもわかっていた。
鐘塔の楼の上にいる三人は、すでに天回の消失を承知している。
皇帝の命を受けて、ラウラとノヴァは急ぎカイを連れ、縮地の確認を行った。
天回が消えようと、縮地さえ敢行できるのであれば、なんの問題もない。
二人はそう信じ切っていた。
「飛車が、足りない」
しかし現実は二人を裏切るばかりだった。
「届かない……」
カイはふらふらと立ち上がり、欄干に手をかけた。
眼下の朝廷では、多くの人びとが上空を、そして楼にいるカイを見上げていた。
天回の消失も、それをカイが縮地のために行ったというでっちあげも、すでに知れ渡っていた。
カイは人びとの視線を避けるように後ずさり、もう一度、塔に霊力を注ぎ込んだ。
「――――やっぱり、足りない」
カイは王笏を握りしめ、俯いたまま言った。
「昨日より、おれの霊力が届く範囲が、狭まってる。――――南部だ。南部地方だけ、飛車の数が減ってるんだ」
それが意味することを、三人はよく理解していた。

「このままじゃ災嵐の中に、南部地方だけ取り残されることになる」
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