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第三章
天と共に、希望は消える
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〇
カイを自室に残し、ノヴァとラウラは二人で鐘塔の長い螺旋階段を登った。
階段は狭く、暗い。
すれ違うためにはどちらかが壁に張り付かなければならない。おまけに手すりはなく、灯を手にしてもなお、足元は不確かだった。
しかし先を行くラウラの足取りは平然としていた。
彼女は恐れていなかった。
階段は必ず同じ高さ、同じ幅で続いている。歩調を乱すことさえなければ、踏み外してしまうようなことはないと信じているためだ。
ラウラのすぐうしろをついて歩くノヴァは、対象的に、ひどく慎重に足を進めていた。
壁に手をあて、一歩ずつ確実に。
どのような不測の事態が起こっても、体勢を崩すことがないように。
「あっ」
螺旋階段の中ほどまで差し掛かったところで、ラウラはふいに立ち止まり、足元からなにかを拾い上げた。
「エンジェルですよ」
ラウラの掌の上で、白い玉が転がる。
一見すると蒲公英の綿毛か、白兎の尾のようだが、それは意志を持ったようにラウラの手の中で跳ねまわった。
ラウラはそれを逃がさないようにそっと両手で包み、首を傾げた。
「どうしてこんなところに……」
ノヴァはラウラに近寄り、その顔をじっと覗き込んだ。
「――――大丈夫か?」
「えっ?」
突然距離を詰められたラウラは、驚いて一歩後ずさる。
しかしロットはラウラの腰を抱き寄せ、危ない、といっそう身体を密着させた。
「気を付けてくれ」
「す、すみません……」
ラウラは顔を赤くして俯いた。
ノヴァはひどく優しい声色で尋ねた。
「なにか、不安があるのか」
「いえ?とくには……」
「どこか不調が?」
「元気ですよ」
「昨日の晩は眠れたか?今朝食事はとったのか?」
「……?」
ラウラはノヴァがなにを心配しているのか、すぐにはわからなかった。
しかしノヴァの視線が両手に包むエンジェルに向かうのを見て、ああ、と笑った。
「これ、私のじゃないです」
「そうなのか?」
「はい。ふつうの、自然のエンジェルです」
ラウラは両手を広げた。
エンジェルはふわりと舞い上がり、階段の下へゆっくりと降りて行った。
ノヴァは小さく息を吐き、そうか、と呟いた。
「君のでなければ、いいんだ」
エンジェルはこの世界に存在する、虫とも植物ともつかない正体不明の生物だった。
自由に動き回る白い毛の塊は、どこからともなく、どこにでも現れる。触れると雪のように沈みこむ。重さはなく、つかまえておくことはできない。
あとを追っても、現れたときと同じように忽然と姿を消してしまう、不思議な生き物だった。
そんなエンジェルは人びとに縁起物として扱われていた。幸福をもたらす、あるいは幸福のもとへ導いてくれるものとして。
ラウラは暗闇へ沈み込んでいくエンジェルに小さく手を振ってから、また歩き出した。
「久しぶりに見ました」
「僕もだ」
「わたし、あのときの、お兄ちゃんとノヴァが連れてってくれたときに見たのが、最後だよ」
「あれはすごかったな。――――もっとも君が見られたのは、ひとつだけだったが」
「ひとつでも十分だよ」
「カーリーは残念がっていただろう」
「うん、すごく。しばらくその話ばっかりされたもん。野原一面にエンジェルが舞ってて、すごかったって。すぐわたしを呼びに行ったけど、そのたった五分の間に消えちゃったって。――――お兄ちゃんは本当に残念で、その話を繰り返したんだろうけど、わたしは、だんだんそれが自慢みたいに聞こえてきちゃって、拗ねたけどね」
「ああ。でも本当にきれいだったから」
「同じこと言ったお兄ちゃんに、じゃあ見せてよって、わたし、泣いて困らせたことがあるよ」
「よく覚えているよ。あのときのカーリーの狼狽といったら――――」
ノヴァは声を押し殺して笑った。
ラウラは自分の小さいころの癇癪をノヴァに記憶されていたことを恥ずかしく思う一方、ノヴァのもらした笑いに、胸が躍った。
「僕はあのころ彼に振り回されてばかりだったから、あれを見て日ごろの鬱憤がいかに晴れたことか」
「解決方法がひどかったけどね」
ラウラは自身のへそに手を当てた。
服越しの固い感触は、皮膚に刻まれた瘢痕分身と同じく、もはや慣れ親しんだ自身の一部だった。
「本来は君を守るためのものだったんだが」
「でもお兄ちゃんの作ってくれたほかの防具は、危なすぎて、使えないよ。ちょっとの衝撃で相手を吹き飛ばしちゃうんだもん。修練もまともにできないよ」
「それはわかるが、ラプソの件もあっただろう。朝廷を離れるときくらいは、僕も身に着けてほしいと思うよ」
「大丈夫。わたしの周りには、頼れる仲間がいるから。私はむしろその仲間を、防具で傷つけてしまう方が怖いよ」
「……そうか」
ノヴァは左手の薬指はまる指輪をそっと撫でながら訊いた。
「最後に出たのは、いつだ?君のエンジェルが」
「西方霊堂にいたとき。――――そうだ、ずっと聞こうと思ってたんだ。これの仕組みって、ノヴァ、知ってる?」
ラウラは自身の右手首に刻まれた紋様をなで、霊力をこめる。
しかし紋様はなんの反応も示さない。
「うーん、やっぱりダメだ。これ、わたしの霊力で勝手に出てくるみたいなんだけど、でも発動条件がよくわからないんだよね。幸せが必要な時に出てくるって、お兄ちゃんそれしか説明してくれなくて。昔は眠れないときによくここからエンジェルもどきみたいなのが出てきたんだけど、すぐに消えちゃうし、でもこの前霊堂で出たときは、すぐには消えないで、どこかに行こうとしてたんだけど……ノヴァはなにか知ってる?」
ノヴァは少し間を空けてから、わからない、と答えた。
「でも、いいんじゃないか。最近出ていないということは、よく眠れているということだろう」
「うん。そうなんだけどね」
「エンジェルが出てこないということは、君はいま、満ち足りているんだ」
ラウラはまた足を止めて、振り返った。
階段はすでに半分を過ぎており、楼から漏れる光で、二人は明かりをかざさずとも互いの顔が見えるようになっていた。
ノヴァは微笑みながら、眩しそうにラウラを見つめていた。
「君はよく笑うようになった」
「そうかな」
「カイのおかげだろう」
「そうだね」
ラウラはまた歩き出した。
「わたし、カイさんのこと、大好き」
「そうか」
「ノヴァは?」
「……カーリーの身体に入ったのが、彼でよかったとは、思っているよ」
「うん、私も!」
ラウラは突然駆け出した。
ノヴァは制止を呼びかけたが、ラウラは止まらない。
「ねえ、ノヴァは、災嵐が終わったら、なにをしたい?」
ラウラは階段を一段飛ばしで駆け上りながら言った。
「私ね、今まで、未来って災嵐までのことしか考えられなかった。縮地を絶対成功させるつもりでいたのに、そのあとどうするかって、全然考えたことなかったの」
ノヴァはラウラのあとを追ったが、つかまえることはできなかった。
「カイさんに言われて、自分がこれからやりたいことを考えるようになって、いろんな人と、災嵐がおわったあとの約束をするようになって、私、それが、すごく嬉しかった。楽しみなの。はやく災嵐がおわらないかな、って、私も本当は思ってるの!」
ラウラは階段から展望楼へ飛び出した。
朝日の差し込む楼は、目が明けられないほどに眩しかった。ラウラはそれでも精一杯目を見開き、太陽を見た。
視界が真っ白になる。
目が光で焼かれる。
しかしそうでもしなければラウラは自分を抑えることができなかった。
そうでもしなければ、今すぐ大声で叫び、飛び跳ねて、ノヴァに抱きついてしまいそうだった。
ラウラに続いて駆けあがってきたノヴァは、あまりの光に目を覆った。
ラウラはそんなノヴァに、再び訊ねた。
「ねえ、ノヴァはどう?ノヴァは、災嵐がおわったあとになにをしたい?」
ノヴァはうっすらと目を開けて、深く息を吐いた。
「――――まずはカイに常識を叩きこむ」
「えっ」
「これまでは見過ごしてきたが、縮地が済めば、彼にも余裕が生まれるだろう。僕は一から、彼にこの世界の礼儀作法と常識を叩き込む」
ラウラは笑った。
「それがやりたいこと?」
「最優先事項だ。いまのままでは、君へ悪い影響を与えすぎる」
「悪い影響なんて、受けてないよ」
「そう思うなら、階段を走らないでくれ」
ノヴァはそう言って、めくれ返ったラウラの裾をなおしてやった。
「あ、ありがとう……」
ラウラは顔を赤くして俯いた。
ノヴァはそんなラウラをじっと見つめた。
「もうひとつある」
「なに?」
「僕は、君に、話したいことがある」
それを聞いて、ラウラは息を止めた。
(まさか)
(ありえない)
(でも、もしかしたら――――)
全身が心臓になったように、脈を打つ。
お似合いだ、というレオンの声が、応援している、というアフィ―の声が、彼も気がある、というシェルティの声が、走馬灯のように蘇る。
「ずっと話したかったんだ」
ノヴァはラウラに微笑みかけた。
ラウラの緊張は頂点を迎える。
周囲の景色がすべて遠くなり、正面に立つノヴァの姿だけが、ひどく鮮明に見える。
「僕と――――」
しかしノヴァの口から出た言葉は、予想を外れたものだった。
「パズルを解いてくれないか?」
ラウラはぽかんと口を開ける。
「えっ」
「ん?」
「パ、パズル?」
「ああ。カーリーが作ったものなんだけど、どうしても一人で解くことが出来なくて――――」
ラウラは糸が切れたようにその場にへたり込む。
「ど、どうした?」
ノヴァは慌ててラウラを助け起こした。
「大丈夫……」
ラウラは残念だがどこかほっとした気持ちで、ノヴァに笑いかけた。
「それが、ノヴァの一番したいこと?」
ノヴァは頬を赤らめ、頷いた。
「本当は君と二人で解くようにいわれていたものなんだ。二人がかりでないと解けないものだ、と。―――でも、君と二人でいる時間を作ることは難しくて―――君は多忙だから、こんな遊びに誘うのも気が引けて――――今日まできてしまった」
何処か後ろめたそうに、ノヴァは言った。
「けれどよく考えれば、膝を突き合わせてやる必要はないんだ。それぞれで解いて、行き詰ったら相手に渡せばいいんだから――――どうかな?災嵐が終われば、君も少しは、余暇ができるだろうし、付き合ってほしいんだけど……」
「もちろん!」
ラウラは快諾した。
ノヴァからの提案は、期待した甘いものではなかった。
しかしラウラにとって、それはともすれば、告白されるよりも胸が躍る誘いだった。
カーリーはよくパズルを作った。
絵合わせのような平面のものから、角柱を角錐に組み替えるといった立体パズルまで、種類はさまざまだったが、そのどれもが非常に難解で、皇帝直下の技官でさえ白旗を振るほどだった。
ラウラはこれを解くことに執着があった。
パズルが好きなのではない。
兄に褒められたかったからだ。
「どんなパズルなの?いま持ってる?」
ラウラは前のめりになって訊いた。
いまパズルを解いても、もう褒めてくれる兄はいない。
しかしカーリーに称賛され、頭を撫でられた記憶が、ラウラを駆り立てた。
「いまは僕の自室だ」
ノヴァはそう言って、ラウラの頭を撫でた。
「災嵐が終わったら、君に渡すよ」
「うん、一緒に解こう!」
「最高傑作といっていたからね。きっとすごく時間がかかる」
「がんばらなきゃだね」
「嬉しそうだね」
「楽しみは長く続く方がいいもん」
ラウラの心から楽しそうな様子に、つられてノヴァも、笑顔になる。
「ではパズルが解けなければ、君の楽しみは一生続くな」
「解くのに一生もかけるつもりないよ。それにそんなことしたら、お兄ちゃんに笑われる」
「……そうだな」
「嫌だよね。私たちが行き詰ったときに見せるあの、得意そうな、意地悪な顔!」
「いじわるというか、僕らの反応を楽しんでいたんだろう。純粋に」
「なおさらたちが悪いよ」
ラウラは呆れる。
「本当にノヴァは、お兄ちゃんに甘いね」
「そんなことはない」
「あるよ。お兄ちゃん、ノヴァがなんでも許してくれるから、つけあがってたよ」
「そうか?」
「……なんでちょっと嬉しそうなの」
「……そんなことはない。僕も言うときは言っていた」
「見たことないよ。ノヴァがお兄ちゃんに怒ってるとこ」
怒られるようなことたくさんしてたのに、とぼやくラウラに、ノヴァは苦笑する。
「これでも注意はしていたよ。たくさん」
「注意したくらいじゃ聞かなかったでしょ?」
「まあ、そうだな。最後まで、彼はろくに耳を傾けてくれなかった」
ノヴァは遠くを見て言った。
「彼はいつだって身勝手で、突拍子もなかった」
「言葉足らずだしね」
「そうだな。何事も一人で決めて、一人で行動してしまう人だった」
「相談するってことを知らないんだよ。振り回されるこっちの身にもなってほしい」
「君になにも言わなかったのは、心配させたくなかったからだろう」
「うん。わかってるよ。小さいころのわたしは、いまよりもっとなにもできなかったから。きっと力になろうとして、お兄ちゃんの足をひっぱってたと思う」
ラウラはノヴァと反対の方角、西を眺めた。
都市も、自然も、朝日を正面から受け、その背に長い影を伸ばしている。
「でもね、だからって、妹で霊術の実験する?」
ノヴァは苦笑して首を振った。
「あれは彼が悪い」
ラウラはその昔、カーリーの霊術の実験のために、枯れ井戸に閉じこめられたことがある。
カーリーはラウラに詳細を伝えなかった。
枯れ井戸は人気のない雑木林の中にあった。
十メートルほどの深さで、底には落ち葉が溜まっていた。
当時のラウラは優秀な兄の実験の手伝いができるとはりきり、なにも疑うことなく、指示されるがまま縄梯子伝って井戸の底に降りた。
そして井戸の蓋を絞められてしまった。
ラウラはわけがわからず、ここから出して、と泣き叫んだ。
けれどカーリーは応じなかった。
暗い、静まり返った倉庫で、ラウラはすぐに時間の感覚を失った。
ラウラは一日を十日にもひと月にも感じながら、孤独と空腹に苛まれた。
気付くと、ラウラの周囲は明るくなっていた。
エンジェルによく似た無数の光る綿毛が、ラウラの周囲を明るく照らし出していた。
ほどなくしてカーリーが井戸の蓋を開けた。
うまくいった!と、一切悪びれない、満面の笑顔で。
「わたしになにかあったときのために作ってくれた霊術だっていうこうとはわかるよ。でもなにも知らせずに人の身体をかってにいじって、倉庫に閉じ込めて、それで得意げな顔してるなんて、本当にどうかしてる」
「庇いようがない。彼はよかれと思っているんだろうが、された方はたまったものじゃないから――――僕も似たような経験があるから、わかるよ」
ノヴァは欄干によりかかり、薬指の指輪を、太陽にかざした。
「これの材料は、昔僕が飼っていた羊なんだ」
ラウラは同じように指輪を太陽にかざした。
太陽はまるで宝石のように指輪の上で輝いた。
「ノヴァが羊を飼っていたなんて、全然覚えてない」
「無理はない。本当に短い期間だったから」
それはノヴァが十一歳のときの話だった。
学舎の近くにある農家から、彼の叔母、現皇帝の姉が一頭の子羊を引き取ってきた。
子羊は見るからに虚弱で、明日にでも死んでしまいそうな様子だった。
当時ノヴァの教育係を務めていた叔母は、命じた。
この羊をできるだけ長く生かしなさい、と。
ノヴァは羊を捌いたことはあれど、育てたことなどなかった。
羊どころか、これまでどのような動物も飼育したことはなかった。
自身の馬でさえ、その世話は馬丁に任せきりで、ましてや死にかけの子羊など、何から手をつけていいかもわからなかった。
ノヴァは農家から話を聞き、乳を与え、寝床を整え、懸命に世話をした。
そのかいあってか、子羊は、一日、また一日と命を繋いでいった。
しかしひと月も経つと、羊の調子は再び悪化してしまう。
羊はある日突然餌を食わなくなり、やがて立つこともできなくなった。
ノヴァは羊を医者に見せようと、叔母に交渉した。
叔母はそれを許すどころか、ノヴァに新しく命じた。
羊はお前の手で殺しなさい、と。
それはラサの一族としての試練だった。
ノヴァはこれまでラサの命令に歯向かったことはなかったが、羊を殺すことはどうしてもできなかった。
ノヴァは横たわり、こちらをじっと見つめてくる羊に何度も刃を振り下ろそうとしたが、腕は動かなかった。
カーリーは、そんなノヴァの手をとった。
共にに刃を握ると、カーリーは躊躇いなく羊の喉元に刃を突き刺した。
どうして、とノヴァが問うと、カーリーは骨が欲しいから、と答えた。
ある霊具を作るために羊の骨が必要だったから、手を貸したのだ、と。
「ひどい……」
ラウラは指輪を胸に抱いて嘆いた。
「それは笑えないよ。お兄ちゃん、ひどすぎるよ……」
「君に対する実験の方がよほどひどいけどね」
ノヴァは愛おしそうに指輪を見つめた。
「けれどこれも、いまとなっては、彼なりの気遣いだったんじゃないかって思うんだ。決断できなかった僕の背を、彼は押してくれたんだよ」
「でも、結局霊具にしちゃったんでしょ?」
ラウラは腕を組んで、空を睨みつける。
「気遣いもあったかもしれないけど、欲しかったのもきっとほんとだよ。お兄ちゃん、やっぱり最低だ!」
ノヴァは肩を震わせて笑い、そうだな、と頷いた。
「彼はもっと、人の気持ちを考えなければいけなかったな」
「そうだよ。研究研究ってひきこもってばっかりいるからあんなふうになっちゃったんだ」
「まったくだ」
ノヴァは大きく深呼吸した。
欄干に手をかけ、楼から身を乗り出し、朝日を一身に浴びた。
「でも、不思議だ。僕は一度として彼を憎んだことが無い」
「わたしも。お兄ちゃんのこと、嫌いになったことない」
「どうしてだろうな」
「ね。……お兄ちゃんは、ずるい」
東から西へ、風が吹き抜けていく。
ノヴァの赤毛とラウラの三つ編みは軽やかになびいた。
二人は風の去っていた西方を、幼き日を共に過ごした西の地を眺めた。
ラウラはそっとノヴァの手を握った。
ノヴァは驚いてラウラに目をやったが、ラウラは遠くを見つめたままだった。
ラウラは無意識に手を取ったのだ。
悲しみと苦しみばかりだった過去に、けれど確かに幸福もあった過去に、思いを馳せながら。
「ラウラ?」
「うん」
「……ラウラ」
「なあに、ノヴァ?」
ラウラは額にかかる髪を耳にかけ、うっすらと口を開いて、微笑んだ。
朝日を吸いこんだ琥珀色の瞳は、穏やかな春の湖のような光を放ってる。
ノヴァははっとして息を飲んだ。
カーリーそっくりのその瞳に、先ほどまでとはうってかわった大人びた表情に、目を奪われて動くことができなくなった。
「ノヴァ様!」
そのために、螺旋階段を駆け上がってくる足音にも、自分を呼んだ声にも、咄嗟に反応することができなかった。
「……あっ」
転がるように楼に飛び出してきたブリアードは、手を繋ぎ見つめあう二人を見て、顔を青くした。
「す、す、すみません!!火急だったんです、知らなかったんです、ラウラさんもいらっしゃるとは……邪魔をするつもりでは、決して……」
ブリアードは明後日の方向に顔を背けながら、裏返った声で必死に言葉を並べた。
ラウラとノヴァはそこでようやくはっとして、慌てて手を離し、距離をとった。
「ち、違うんです、ブリアードさん、誤解しないでください!」
「ええ、だいじょうぶです。死んでも誰にも言いません」
「そうではなく!」
顔を真っ赤にするラウラを隠すように、ノヴァは前に出て、咳ばらいをした。
「要件は?」
急ぐのだろう、と、ノヴァは言い訳も疑問も挟まず、単刀直入に訊いた。
「そうだ。そうでした」
ブリアードは震えながら空を指差した。
「ないんです」
ラウラとノヴァは欄干から身を乗り出し、ハーリーの指さす上空を見上げた。
「……あ」
希望と幸福に浮かされていた二人は、瞬きの間に、冷たい地へと叩きつけられていった。
「天回が、ない」
カイを自室に残し、ノヴァとラウラは二人で鐘塔の長い螺旋階段を登った。
階段は狭く、暗い。
すれ違うためにはどちらかが壁に張り付かなければならない。おまけに手すりはなく、灯を手にしてもなお、足元は不確かだった。
しかし先を行くラウラの足取りは平然としていた。
彼女は恐れていなかった。
階段は必ず同じ高さ、同じ幅で続いている。歩調を乱すことさえなければ、踏み外してしまうようなことはないと信じているためだ。
ラウラのすぐうしろをついて歩くノヴァは、対象的に、ひどく慎重に足を進めていた。
壁に手をあて、一歩ずつ確実に。
どのような不測の事態が起こっても、体勢を崩すことがないように。
「あっ」
螺旋階段の中ほどまで差し掛かったところで、ラウラはふいに立ち止まり、足元からなにかを拾い上げた。
「エンジェルですよ」
ラウラの掌の上で、白い玉が転がる。
一見すると蒲公英の綿毛か、白兎の尾のようだが、それは意志を持ったようにラウラの手の中で跳ねまわった。
ラウラはそれを逃がさないようにそっと両手で包み、首を傾げた。
「どうしてこんなところに……」
ノヴァはラウラに近寄り、その顔をじっと覗き込んだ。
「――――大丈夫か?」
「えっ?」
突然距離を詰められたラウラは、驚いて一歩後ずさる。
しかしロットはラウラの腰を抱き寄せ、危ない、といっそう身体を密着させた。
「気を付けてくれ」
「す、すみません……」
ラウラは顔を赤くして俯いた。
ノヴァはひどく優しい声色で尋ねた。
「なにか、不安があるのか」
「いえ?とくには……」
「どこか不調が?」
「元気ですよ」
「昨日の晩は眠れたか?今朝食事はとったのか?」
「……?」
ラウラはノヴァがなにを心配しているのか、すぐにはわからなかった。
しかしノヴァの視線が両手に包むエンジェルに向かうのを見て、ああ、と笑った。
「これ、私のじゃないです」
「そうなのか?」
「はい。ふつうの、自然のエンジェルです」
ラウラは両手を広げた。
エンジェルはふわりと舞い上がり、階段の下へゆっくりと降りて行った。
ノヴァは小さく息を吐き、そうか、と呟いた。
「君のでなければ、いいんだ」
エンジェルはこの世界に存在する、虫とも植物ともつかない正体不明の生物だった。
自由に動き回る白い毛の塊は、どこからともなく、どこにでも現れる。触れると雪のように沈みこむ。重さはなく、つかまえておくことはできない。
あとを追っても、現れたときと同じように忽然と姿を消してしまう、不思議な生き物だった。
そんなエンジェルは人びとに縁起物として扱われていた。幸福をもたらす、あるいは幸福のもとへ導いてくれるものとして。
ラウラは暗闇へ沈み込んでいくエンジェルに小さく手を振ってから、また歩き出した。
「久しぶりに見ました」
「僕もだ」
「わたし、あのときの、お兄ちゃんとノヴァが連れてってくれたときに見たのが、最後だよ」
「あれはすごかったな。――――もっとも君が見られたのは、ひとつだけだったが」
「ひとつでも十分だよ」
「カーリーは残念がっていただろう」
「うん、すごく。しばらくその話ばっかりされたもん。野原一面にエンジェルが舞ってて、すごかったって。すぐわたしを呼びに行ったけど、そのたった五分の間に消えちゃったって。――――お兄ちゃんは本当に残念で、その話を繰り返したんだろうけど、わたしは、だんだんそれが自慢みたいに聞こえてきちゃって、拗ねたけどね」
「ああ。でも本当にきれいだったから」
「同じこと言ったお兄ちゃんに、じゃあ見せてよって、わたし、泣いて困らせたことがあるよ」
「よく覚えているよ。あのときのカーリーの狼狽といったら――――」
ノヴァは声を押し殺して笑った。
ラウラは自分の小さいころの癇癪をノヴァに記憶されていたことを恥ずかしく思う一方、ノヴァのもらした笑いに、胸が躍った。
「僕はあのころ彼に振り回されてばかりだったから、あれを見て日ごろの鬱憤がいかに晴れたことか」
「解決方法がひどかったけどね」
ラウラは自身のへそに手を当てた。
服越しの固い感触は、皮膚に刻まれた瘢痕分身と同じく、もはや慣れ親しんだ自身の一部だった。
「本来は君を守るためのものだったんだが」
「でもお兄ちゃんの作ってくれたほかの防具は、危なすぎて、使えないよ。ちょっとの衝撃で相手を吹き飛ばしちゃうんだもん。修練もまともにできないよ」
「それはわかるが、ラプソの件もあっただろう。朝廷を離れるときくらいは、僕も身に着けてほしいと思うよ」
「大丈夫。わたしの周りには、頼れる仲間がいるから。私はむしろその仲間を、防具で傷つけてしまう方が怖いよ」
「……そうか」
ノヴァは左手の薬指はまる指輪をそっと撫でながら訊いた。
「最後に出たのは、いつだ?君のエンジェルが」
「西方霊堂にいたとき。――――そうだ、ずっと聞こうと思ってたんだ。これの仕組みって、ノヴァ、知ってる?」
ラウラは自身の右手首に刻まれた紋様をなで、霊力をこめる。
しかし紋様はなんの反応も示さない。
「うーん、やっぱりダメだ。これ、わたしの霊力で勝手に出てくるみたいなんだけど、でも発動条件がよくわからないんだよね。幸せが必要な時に出てくるって、お兄ちゃんそれしか説明してくれなくて。昔は眠れないときによくここからエンジェルもどきみたいなのが出てきたんだけど、すぐに消えちゃうし、でもこの前霊堂で出たときは、すぐには消えないで、どこかに行こうとしてたんだけど……ノヴァはなにか知ってる?」
ノヴァは少し間を空けてから、わからない、と答えた。
「でも、いいんじゃないか。最近出ていないということは、よく眠れているということだろう」
「うん。そうなんだけどね」
「エンジェルが出てこないということは、君はいま、満ち足りているんだ」
ラウラはまた足を止めて、振り返った。
階段はすでに半分を過ぎており、楼から漏れる光で、二人は明かりをかざさずとも互いの顔が見えるようになっていた。
ノヴァは微笑みながら、眩しそうにラウラを見つめていた。
「君はよく笑うようになった」
「そうかな」
「カイのおかげだろう」
「そうだね」
ラウラはまた歩き出した。
「わたし、カイさんのこと、大好き」
「そうか」
「ノヴァは?」
「……カーリーの身体に入ったのが、彼でよかったとは、思っているよ」
「うん、私も!」
ラウラは突然駆け出した。
ノヴァは制止を呼びかけたが、ラウラは止まらない。
「ねえ、ノヴァは、災嵐が終わったら、なにをしたい?」
ラウラは階段を一段飛ばしで駆け上りながら言った。
「私ね、今まで、未来って災嵐までのことしか考えられなかった。縮地を絶対成功させるつもりでいたのに、そのあとどうするかって、全然考えたことなかったの」
ノヴァはラウラのあとを追ったが、つかまえることはできなかった。
「カイさんに言われて、自分がこれからやりたいことを考えるようになって、いろんな人と、災嵐がおわったあとの約束をするようになって、私、それが、すごく嬉しかった。楽しみなの。はやく災嵐がおわらないかな、って、私も本当は思ってるの!」
ラウラは階段から展望楼へ飛び出した。
朝日の差し込む楼は、目が明けられないほどに眩しかった。ラウラはそれでも精一杯目を見開き、太陽を見た。
視界が真っ白になる。
目が光で焼かれる。
しかしそうでもしなければラウラは自分を抑えることができなかった。
そうでもしなければ、今すぐ大声で叫び、飛び跳ねて、ノヴァに抱きついてしまいそうだった。
ラウラに続いて駆けあがってきたノヴァは、あまりの光に目を覆った。
ラウラはそんなノヴァに、再び訊ねた。
「ねえ、ノヴァはどう?ノヴァは、災嵐がおわったあとになにをしたい?」
ノヴァはうっすらと目を開けて、深く息を吐いた。
「――――まずはカイに常識を叩きこむ」
「えっ」
「これまでは見過ごしてきたが、縮地が済めば、彼にも余裕が生まれるだろう。僕は一から、彼にこの世界の礼儀作法と常識を叩き込む」
ラウラは笑った。
「それがやりたいこと?」
「最優先事項だ。いまのままでは、君へ悪い影響を与えすぎる」
「悪い影響なんて、受けてないよ」
「そう思うなら、階段を走らないでくれ」
ノヴァはそう言って、めくれ返ったラウラの裾をなおしてやった。
「あ、ありがとう……」
ラウラは顔を赤くして俯いた。
ノヴァはそんなラウラをじっと見つめた。
「もうひとつある」
「なに?」
「僕は、君に、話したいことがある」
それを聞いて、ラウラは息を止めた。
(まさか)
(ありえない)
(でも、もしかしたら――――)
全身が心臓になったように、脈を打つ。
お似合いだ、というレオンの声が、応援している、というアフィ―の声が、彼も気がある、というシェルティの声が、走馬灯のように蘇る。
「ずっと話したかったんだ」
ノヴァはラウラに微笑みかけた。
ラウラの緊張は頂点を迎える。
周囲の景色がすべて遠くなり、正面に立つノヴァの姿だけが、ひどく鮮明に見える。
「僕と――――」
しかしノヴァの口から出た言葉は、予想を外れたものだった。
「パズルを解いてくれないか?」
ラウラはぽかんと口を開ける。
「えっ」
「ん?」
「パ、パズル?」
「ああ。カーリーが作ったものなんだけど、どうしても一人で解くことが出来なくて――――」
ラウラは糸が切れたようにその場にへたり込む。
「ど、どうした?」
ノヴァは慌ててラウラを助け起こした。
「大丈夫……」
ラウラは残念だがどこかほっとした気持ちで、ノヴァに笑いかけた。
「それが、ノヴァの一番したいこと?」
ノヴァは頬を赤らめ、頷いた。
「本当は君と二人で解くようにいわれていたものなんだ。二人がかりでないと解けないものだ、と。―――でも、君と二人でいる時間を作ることは難しくて―――君は多忙だから、こんな遊びに誘うのも気が引けて――――今日まできてしまった」
何処か後ろめたそうに、ノヴァは言った。
「けれどよく考えれば、膝を突き合わせてやる必要はないんだ。それぞれで解いて、行き詰ったら相手に渡せばいいんだから――――どうかな?災嵐が終われば、君も少しは、余暇ができるだろうし、付き合ってほしいんだけど……」
「もちろん!」
ラウラは快諾した。
ノヴァからの提案は、期待した甘いものではなかった。
しかしラウラにとって、それはともすれば、告白されるよりも胸が躍る誘いだった。
カーリーはよくパズルを作った。
絵合わせのような平面のものから、角柱を角錐に組み替えるといった立体パズルまで、種類はさまざまだったが、そのどれもが非常に難解で、皇帝直下の技官でさえ白旗を振るほどだった。
ラウラはこれを解くことに執着があった。
パズルが好きなのではない。
兄に褒められたかったからだ。
「どんなパズルなの?いま持ってる?」
ラウラは前のめりになって訊いた。
いまパズルを解いても、もう褒めてくれる兄はいない。
しかしカーリーに称賛され、頭を撫でられた記憶が、ラウラを駆り立てた。
「いまは僕の自室だ」
ノヴァはそう言って、ラウラの頭を撫でた。
「災嵐が終わったら、君に渡すよ」
「うん、一緒に解こう!」
「最高傑作といっていたからね。きっとすごく時間がかかる」
「がんばらなきゃだね」
「嬉しそうだね」
「楽しみは長く続く方がいいもん」
ラウラの心から楽しそうな様子に、つられてノヴァも、笑顔になる。
「ではパズルが解けなければ、君の楽しみは一生続くな」
「解くのに一生もかけるつもりないよ。それにそんなことしたら、お兄ちゃんに笑われる」
「……そうだな」
「嫌だよね。私たちが行き詰ったときに見せるあの、得意そうな、意地悪な顔!」
「いじわるというか、僕らの反応を楽しんでいたんだろう。純粋に」
「なおさらたちが悪いよ」
ラウラは呆れる。
「本当にノヴァは、お兄ちゃんに甘いね」
「そんなことはない」
「あるよ。お兄ちゃん、ノヴァがなんでも許してくれるから、つけあがってたよ」
「そうか?」
「……なんでちょっと嬉しそうなの」
「……そんなことはない。僕も言うときは言っていた」
「見たことないよ。ノヴァがお兄ちゃんに怒ってるとこ」
怒られるようなことたくさんしてたのに、とぼやくラウラに、ノヴァは苦笑する。
「これでも注意はしていたよ。たくさん」
「注意したくらいじゃ聞かなかったでしょ?」
「まあ、そうだな。最後まで、彼はろくに耳を傾けてくれなかった」
ノヴァは遠くを見て言った。
「彼はいつだって身勝手で、突拍子もなかった」
「言葉足らずだしね」
「そうだな。何事も一人で決めて、一人で行動してしまう人だった」
「相談するってことを知らないんだよ。振り回されるこっちの身にもなってほしい」
「君になにも言わなかったのは、心配させたくなかったからだろう」
「うん。わかってるよ。小さいころのわたしは、いまよりもっとなにもできなかったから。きっと力になろうとして、お兄ちゃんの足をひっぱってたと思う」
ラウラはノヴァと反対の方角、西を眺めた。
都市も、自然も、朝日を正面から受け、その背に長い影を伸ばしている。
「でもね、だからって、妹で霊術の実験する?」
ノヴァは苦笑して首を振った。
「あれは彼が悪い」
ラウラはその昔、カーリーの霊術の実験のために、枯れ井戸に閉じこめられたことがある。
カーリーはラウラに詳細を伝えなかった。
枯れ井戸は人気のない雑木林の中にあった。
十メートルほどの深さで、底には落ち葉が溜まっていた。
当時のラウラは優秀な兄の実験の手伝いができるとはりきり、なにも疑うことなく、指示されるがまま縄梯子伝って井戸の底に降りた。
そして井戸の蓋を絞められてしまった。
ラウラはわけがわからず、ここから出して、と泣き叫んだ。
けれどカーリーは応じなかった。
暗い、静まり返った倉庫で、ラウラはすぐに時間の感覚を失った。
ラウラは一日を十日にもひと月にも感じながら、孤独と空腹に苛まれた。
気付くと、ラウラの周囲は明るくなっていた。
エンジェルによく似た無数の光る綿毛が、ラウラの周囲を明るく照らし出していた。
ほどなくしてカーリーが井戸の蓋を開けた。
うまくいった!と、一切悪びれない、満面の笑顔で。
「わたしになにかあったときのために作ってくれた霊術だっていうこうとはわかるよ。でもなにも知らせずに人の身体をかってにいじって、倉庫に閉じ込めて、それで得意げな顔してるなんて、本当にどうかしてる」
「庇いようがない。彼はよかれと思っているんだろうが、された方はたまったものじゃないから――――僕も似たような経験があるから、わかるよ」
ノヴァは欄干によりかかり、薬指の指輪を、太陽にかざした。
「これの材料は、昔僕が飼っていた羊なんだ」
ラウラは同じように指輪を太陽にかざした。
太陽はまるで宝石のように指輪の上で輝いた。
「ノヴァが羊を飼っていたなんて、全然覚えてない」
「無理はない。本当に短い期間だったから」
それはノヴァが十一歳のときの話だった。
学舎の近くにある農家から、彼の叔母、現皇帝の姉が一頭の子羊を引き取ってきた。
子羊は見るからに虚弱で、明日にでも死んでしまいそうな様子だった。
当時ノヴァの教育係を務めていた叔母は、命じた。
この羊をできるだけ長く生かしなさい、と。
ノヴァは羊を捌いたことはあれど、育てたことなどなかった。
羊どころか、これまでどのような動物も飼育したことはなかった。
自身の馬でさえ、その世話は馬丁に任せきりで、ましてや死にかけの子羊など、何から手をつけていいかもわからなかった。
ノヴァは農家から話を聞き、乳を与え、寝床を整え、懸命に世話をした。
そのかいあってか、子羊は、一日、また一日と命を繋いでいった。
しかしひと月も経つと、羊の調子は再び悪化してしまう。
羊はある日突然餌を食わなくなり、やがて立つこともできなくなった。
ノヴァは羊を医者に見せようと、叔母に交渉した。
叔母はそれを許すどころか、ノヴァに新しく命じた。
羊はお前の手で殺しなさい、と。
それはラサの一族としての試練だった。
ノヴァはこれまでラサの命令に歯向かったことはなかったが、羊を殺すことはどうしてもできなかった。
ノヴァは横たわり、こちらをじっと見つめてくる羊に何度も刃を振り下ろそうとしたが、腕は動かなかった。
カーリーは、そんなノヴァの手をとった。
共にに刃を握ると、カーリーは躊躇いなく羊の喉元に刃を突き刺した。
どうして、とノヴァが問うと、カーリーは骨が欲しいから、と答えた。
ある霊具を作るために羊の骨が必要だったから、手を貸したのだ、と。
「ひどい……」
ラウラは指輪を胸に抱いて嘆いた。
「それは笑えないよ。お兄ちゃん、ひどすぎるよ……」
「君に対する実験の方がよほどひどいけどね」
ノヴァは愛おしそうに指輪を見つめた。
「けれどこれも、いまとなっては、彼なりの気遣いだったんじゃないかって思うんだ。決断できなかった僕の背を、彼は押してくれたんだよ」
「でも、結局霊具にしちゃったんでしょ?」
ラウラは腕を組んで、空を睨みつける。
「気遣いもあったかもしれないけど、欲しかったのもきっとほんとだよ。お兄ちゃん、やっぱり最低だ!」
ノヴァは肩を震わせて笑い、そうだな、と頷いた。
「彼はもっと、人の気持ちを考えなければいけなかったな」
「そうだよ。研究研究ってひきこもってばっかりいるからあんなふうになっちゃったんだ」
「まったくだ」
ノヴァは大きく深呼吸した。
欄干に手をかけ、楼から身を乗り出し、朝日を一身に浴びた。
「でも、不思議だ。僕は一度として彼を憎んだことが無い」
「わたしも。お兄ちゃんのこと、嫌いになったことない」
「どうしてだろうな」
「ね。……お兄ちゃんは、ずるい」
東から西へ、風が吹き抜けていく。
ノヴァの赤毛とラウラの三つ編みは軽やかになびいた。
二人は風の去っていた西方を、幼き日を共に過ごした西の地を眺めた。
ラウラはそっとノヴァの手を握った。
ノヴァは驚いてラウラに目をやったが、ラウラは遠くを見つめたままだった。
ラウラは無意識に手を取ったのだ。
悲しみと苦しみばかりだった過去に、けれど確かに幸福もあった過去に、思いを馳せながら。
「ラウラ?」
「うん」
「……ラウラ」
「なあに、ノヴァ?」
ラウラは額にかかる髪を耳にかけ、うっすらと口を開いて、微笑んだ。
朝日を吸いこんだ琥珀色の瞳は、穏やかな春の湖のような光を放ってる。
ノヴァははっとして息を飲んだ。
カーリーそっくりのその瞳に、先ほどまでとはうってかわった大人びた表情に、目を奪われて動くことができなくなった。
「ノヴァ様!」
そのために、螺旋階段を駆け上がってくる足音にも、自分を呼んだ声にも、咄嗟に反応することができなかった。
「……あっ」
転がるように楼に飛び出してきたブリアードは、手を繋ぎ見つめあう二人を見て、顔を青くした。
「す、す、すみません!!火急だったんです、知らなかったんです、ラウラさんもいらっしゃるとは……邪魔をするつもりでは、決して……」
ブリアードは明後日の方向に顔を背けながら、裏返った声で必死に言葉を並べた。
ラウラとノヴァはそこでようやくはっとして、慌てて手を離し、距離をとった。
「ち、違うんです、ブリアードさん、誤解しないでください!」
「ええ、だいじょうぶです。死んでも誰にも言いません」
「そうではなく!」
顔を真っ赤にするラウラを隠すように、ノヴァは前に出て、咳ばらいをした。
「要件は?」
急ぐのだろう、と、ノヴァは言い訳も疑問も挟まず、単刀直入に訊いた。
「そうだ。そうでした」
ブリアードは震えながら空を指差した。
「ないんです」
ラウラとノヴァは欄干から身を乗り出し、ハーリーの指さす上空を見上げた。
「……あ」
希望と幸福に浮かされていた二人は、瞬きの間に、冷たい地へと叩きつけられていった。
「天回が、ない」
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