災嵐回記 ―世界を救わなかった救世主は、すべてを忘れて繰りかえす―

牛飼山羊

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第三章

冬営地にて(六)

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西方霊堂を離れてから冬営地で再会するまで、ラウラとアフィーは文通を交わしていた。
二人はそこでさまざまな話をした。
互いの近況、霊堂での思い出、身近な人の恋の噂。
そして出会う以前の、故郷の話。



東北の峡谷にある小さな村が、アフィーの故郷だった。
険しい峡谷にへばりつくようにして、二十世帯が軒を連ねている、閉鎖的な村だった。
外から村に続く道は急勾配の細道が一本あるだけで、旅人も行商人もめったに訪れなかった。
村人はみな養蚕業を営んでいるが、蚕の餌である桑は峡谷の中には生えない。
村人は毎日、数時間かけて細道を登り、桑畑まで葉の収穫に向かわなければならなかった。
なぜ峡谷の上ではなく、不便な谷底に村があるのか、アフィーは知らなかった。
転がり落ちてできたようなその村で、厳しい生活を苦とも思わず、アフィーは日々を過ごしてきた。

村でのアフィーの仕事は、毎日籠一杯の桑の葉を収穫することだった。
雨の日や風の強い日は、行き帰りだけで日が沈んでしまうこともあった。
けれどその仕事さえ終えれば、あとの時間、アフィーがなにをしていても咎められることはなかった。干渉されることはなかった。
アフィーは空き時間、ひとりで刺繍をして過ごした。
売り物にならないくず糸を拾い集めて、ぼろ布に刺繍をした。
手ぬぐいの柄、柱の模様、蚕の羽、草花と果実。
すべて見よう見まねだった。
日の差す時間帯は、日当たりのいい場所で。日が傾いてからは、谷間に湧き出る温泉に足を浸けて、アフィーは一人で針を刺し続けた。
刺繍に飽きたら、踊りを踊った。
記憶に残る母の踊りだ。
音楽はなかったが、峡谷を流れる川のせせらぎはいつも一定だったので、リズムには困らなかった。
踊りに疲れたら、大木の根元に空いた穴、誰も知らないアフィーだけの隠れ家で眠った。

その理由を、家が嫌いだからと、アフィ―は手紙に書いた。
なぜ嫌いなのか、詳細は書かれなかった。
代わりにアフィーはー等気に入っている場所について綴っていた。
峡谷を登る細道。それを少し外れたところに、ぽつりと一本、桃の木が生えている。
突き出した岩で隠されているため、細道からその木は見えない。
村から見上げても、また別の岩に遮られ、目にすることはできない。
村でその桃の木の存在を知っているのは、アフィーだけだった。

ある夏の日の午後、桑の葉の収穫を終え、細道を下っていたアフィーは、珍しい柄の蝶を見かけた。
それを追いかけた先で、アフィーは桃の木を見つけたのだ。
木には小ぶりだがよく熟れた桃がたっぷりと実っていた。
アフィーは迷わずかぶりついた。
桃は今まで口にしたことのある中で最も甘く、美味だった。
夢中になっていくつもの桃を頬張り、喉をすっかり潤したアフィーは、桃の木を囲う岩の上に立った。
そこからは峡谷が一望できた。
夏の日差しで輝く川は、底がはっきりと見えるほど澄み切っている。
清流を縁取る岩肌もまた、夏の日差しに白く輝いている。
川辺で水を飲む野生の鹿の角や、軒先に干された洗濯物も日の光を受け、眩く光っている。
アフィ―はこのとき、はじめて村の全体を眺めた。
細道は村からまっすぐ上に伸びているので、村を見下ろすことはできなかったのだ。
アフィーは粗末な木の家と、外を歩く人びとの姿を見て、まるで小人だ、と思った。
遠くから見た村人は指先でつまめないほどに小さい。
川は雄大で、峡谷は深く、空には果てがなかったが、そこにある村は本当にちっぽけだった。

それから桃の木は、アフィ―の秘密の場所になった。
暇があればここに通い、桃をつまみ、刺繍をして、飽きたら踊って、疲れたら眠って、暗くなるまで村を眺めた。
誰にも教えたことがない、秘密の場所。
いつかラウラに案内したい。
故郷について語られた手紙は、そう締めくくられていた。



「『秘密を教えてくれてありがとう。桃がどれだけおいしいのか、いまから楽しみでなりません。お礼に、私も、秘密の場所を教えるね』」
ラウラはゆっくりと目を開けて、小さく笑った。
「――――そう返事を書こうと思ったんですけど、その前にたて穴を出ることになってしまって、書けずじまいでした」
「……教えてくれるの?」
ラウラは頷いて、アフィ―の手を握った。
「アフィ―みたいに、自分だけの場所でも、私だけが知っている秘密でもないんですが……。西方霊堂の地下に、演習場がありますよね。実はあそこ、もうひとつ、さらに地下があるんですよ」
「知らなかった」
「秘密の場所ですから」
「どうやって見つけたの?」
「私はお兄ちゃんに教えてもらいました。お兄ちゃんは、お父さんとお母さんに教えてもらったって言っていましたが、私たち以外に知ってそうな人はいなかったので、もしかしたら我が家だけに伝わる秘密の場所なのかもしれません。うちは代々、西方霊堂所属の技師でしたから」
「そこになにがあるの?」
「薄雪草です」
「薄雪草?」
「地下なのに、と思うかもしれませんが、不思議なことに生えているんです。それもひとつじゃないんですよ。地下いっぱいに、生えているんです。灯なんて必要ないくらい光ってて、きれいで――――いつかみんなで見た花畑にも負けないくらいきれいで、それで――――」
ラウラは、兄に案内され、はじめて地下の薄雪草を目にした時の感動を、よく覚えていた。けれどそれを言葉で表現することができなかった。
「――――それで?」
「それで……えっと、とにかくすごかったんです。ああ、だめですね。アフィーみたいに、上手に伝えられたらよかったんですけど」
「……わたし、伝えるの、下手」
「そんなことないですよ。アフィ―の手紙、いつもとても読みやすかったですよ」
「手紙は、手伝ってもらったから。わたしは、文章も、下手」
アフィーは西方霊堂に入るまで、自分の名前しか書くことができなかった。
谷底の村で、教育をろくに受けずに育ったアフィーは、読み書きがほとんどできなかった。
そんな彼女に読み書きを教えたのは、丙級の青年たちだった。
「みんなのおかげで、いろいろ、読めるようになった。字も、すこし、書けるようになった」
「懐かしいですね。最初はカイさんがみんなに教わってたのに、アフィーが輪に加わってから、みんなカイさんをおざなりにして……ふふ、カイさん、自分がいつまでも字を覚えられないのは、アフィーのせいだって、言い訳してましたよ」
ラウラとアフィーは額を突き合わせて笑った。
「手紙は、マリー様と、師匠と、ヤクートに手伝ってもらって、書いてた」
「そうだったんですね。……ダルマチアの人は、本当にいい人ばかりですね」
「うん。みんな、すごくやさしい」
アフィーは起き上がり、マリーから受け取った飴細工を手に取った。
「マリー様、怖いけど、いろんなこと、たくさん教えてくれる。師匠、話長いけど、すごく優しい。たまにこっそり、飴をくれる。この飴も、たぶん、マリー様じゃなくて、師匠が買ってくれたんだと思う」
「殿下からもありますよ」
ラウラはシェルティから託された飴細工を、アフィーに渡した。
「ふうん」
アフィーはそっけない態度で受け取ったが、口もとは緩んでいた。
「もう、素直に喜んだらいいのに」
アフィーは何も言わずにシェルからもらった飴を含んだ。
「ラウラも、食べて」
「いただきます。どれにしようかな。いっぱいあって迷うなあ」
「これが、一番おいしい」
アフィーは棒付きの飴細工をさした。
飴は薄いはちみつ色で、翼を広げたケタリングの形をしていた。
「見た目も、一番、きれい」
「いいんですか?アフィーが食べなくて」
「わたしはもう何回も食べたから、ラウラが、食べて」
「それじゃあ、いただきます」
ラウラは飴をひと舐めし、おいしい、とこぼした。
「でもきれいすぎて、食べるのがもったいないです」
「うん。食べづらい」
二人はしばらく無言で、夢中になって、飴に舌鼓を打った。
あっという間に一つ目の飴を舐め終わったアフィーは、二つ目の飴を、ブリアードからもらった飴玉を口に含み、呟いた。
「みんな、やさしい」
「うん?」
「村にいるとき、誰かに、やさしくしてもらったこと、なかった。でも、カイとラウラに会ってから、たくさん、やさしくしてもらった。二人に。いろんな人に」
出し抜けに、アフィ―はラウラを抱きしめた。
「ありがとう」
アフィーはラウラを抱きしめたまま、言った。
「わたし、二人に会えて、本当に、よかった」
「……私も、アフィ―に出会えて、友達になれて、本当によかったです」
ラウラはアフィーの背に手を回し、その肩に、頭をあずけた。
「カイさんおかげですね」
「うん」
「殿下とレオンさんと会えたことも、すごくよかったと思ってます、わたし」
「うん。わたしも」
「ヤクートさんも、アリエージュさんも……ぜんぶカイさんが結んでくれた縁です。私、今になってようやく気付きました。カイさんと会うまで、ずっと寂しかったんです。お兄ちゃんがいなくなってから、カイさんと会うまでの間、ずっと」
アフィーはラウラを抱きしめる腕に力をこめた。
ラウラの頬を涙が伝う。
痛いくらいの抱擁で、不器用な友人から送られる労りで、優しさで、ラウラの胸はいっぱいになった。
「学舎ではお姉ちゃんでいなきゃいけなかったし、技官としては腫物扱いされてたし、ノヴァとも距離ができちゃって、私、いつもひとりだった。でもカイさんに会ってから、毎日賑やかで、楽しくって、夜に眠れないようなことも、急に手が冷たくなって動けなくなることもなくなって……。それはきっと、もう寂しくなくなったから。ひとりじゃないって思えるようになったから」
「うん」
「カイさんのおかげ。カイさんが、ぜんぶのきっかけをくれた」
「うん」
「私、カイさんに出会えて、本当によかった」
「わたしも、カイに出会えて、よかった」
ラウラはアフィーの肩に顔をうずめて涙を拭った。
アフィーは抱擁を解いて、ラウラの背をゆっくりとさすった。
「いまの気持ち、カイに、伝えたい」
「私も、お礼を言いたいな。でも急に言ったら、びっくりされるかな?」
「手紙を、書こう」
アフィーの提案に、ラウラはぱっと顔をあげる。
「名案ですね!」
そうして二人は、手紙を書き始めた。
小さな蝋燭の灯ひとつを頼りに、身を寄せ合って、思いのたけを書き綴った。
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