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第三章

南都にて(三)

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〇〇〇



都市の防壁が崩れたのは、発動から七日と半日後のことだった。
小雨の降る、肌寒い朝だった。
秋の到来を予感させる天気につられ、都市にいる人々の顔は浮かなかった。
防壁が崩れれば、この七日間、外がどうであったか、つまびらかになる。
縮地が本当に成功したのか明らかになるのだ。
人びとは不安に満ちた顔で、環濠の中に崩れた水が収まっていくのを見守った。
しかし彼らの不安は、郊外で待ち構えていた人びとによる歓声で、一片にかき消された。
「待ちわびたぞ!」
環濠の外、郊外の人びとも、壁が崩れる日を今かと待ち構えていた。
その顔は、都市にいた人びとは対照的に、希望に満ち溢れていた。
「成功したのか?」
都市の人びとの顔も次第に明るくなる。
やがて水がすべて元どおり収まると、すぐに都市と郊外を結ぶはね橋が降ろされた。
待ち切れず、渡し船を下ろすものもあった。
「成功したのか?!」
首長ははね橋を真っ先に渡り、対岸から押し寄せてくる人びとに尋ねたが、それに応える者いなかった。
大衆は首長を押し返すように殺到し、はね橋を渡った先にある、カイの銅像を取り囲んだ。

「渡来大使閣下、万歳!」

「本物だった!大使閣下こそ救世主だ!」
「災嵐がなくなるぞ!新しい時代が幕を上げるんだ!」
「私たちはなにも失わずに次の百年を迎えることができる!」
「万歳!」
「万歳!!」
人びとは銅像を取り囲み、歓喜して踊り回った。
縮地の外にいた観測者の証言により、郊外にいた人びとは、すでに縮地の成功を確信していた。
歓喜は都市にいた人びとにもあっという間に伝染し、縮地への疑いは瞬く間に払拭された。

はね橋から少し離れた環濠の縁で、その様子を眺めていたラウラは、唖然として言葉も出なかった。
しばらくすると人込みをかき分け、ブリアードが駆け寄ってきた。
「いやあ、当面渡れそうにありません」
ブリアードは乱れた服と髪をならしながら言った。
「もみくちゃにされましたよ。外ではこの七日――――いや山にいた人が戻ってきてからだから、五日ですか?もうずっとこの騒ぎで、毎年の七日式なんてめじゃないお祭り騒ぎだそうですよ。昼夜問わず飲めや歌えやで……それで都市が開いてまた大騒ぎしてるんですから、南の人たちは元気ですねえ。まあ多分、どこの都市も同じようなものでしょうけど、この歳になるとなにが起ころうともそこまで熱狂する気力は――――」
くだを巻こうとするブリアードを遮って、ラウラは尋ねる。
「縮地は、成功したんですか?」
「ええ、ご覧の通り」
平静を装いつつ、やはりどこか熱に浮かされた様子で、ブリアードは続けた。
「山に行った人たち――――この七日間外側にいた人たちみんな、ちゃんと証言しましたよ。たしかに縮地の外では七日が経過していました。縮地はしっかり全土を包んでいましたし、外から内に干渉することは、人どころかケタリングでも敵わなかったと」
「ケタリング?」
「はい。いえこれはまた聞きなので誇張があると思いますが、縮地が発動して何日目かに、えらい興奮したケタリングが縮地の中に入ろうとしたとか。それも一頭じゃないんです。まあ縮地はそれをものともしなかったわけですが」
「それは――――」
「あ、でも、本当に、真偽の不確かな話なんで、あまり真に受けないでください。いやほら、偉い騒ぎじゃないですか。誰に何を聞いても、興奮していてろくな答えが返ってこなかったんですよ。都市の人たちも緊張の糸が切れたからか、手のひら返しの大騒ぎで。縮地が成功したらしいということは確かなんですが、他は、例えば――――」
「やあ、探したよ」
話し込んでいた二人の横に、いつの間にか渡し舟が一艘つけられていた。
「殿下!」
「急ぐだろう?足に困ると思ってね、舟を持ってきたんだ」
舟にはシェルティの他に、南都で彼の補佐を務める官吏と漕ぎ手、そして大量の荷が乗っていた。
シェルティは、補佐官に荷車と人手を集めるよう、漕ぎ手には荷を舟から降ろすよう言いつけた。
「お手伝いしますよ」
ブリアードが荷下ろしに手を貸したので、ラウラも袖をまくったが、シェルティに止められてしまう。
「ラウラ」
「なんでしょう」
「なにかあったのかい?」
「えっ」
ラウラは目をぱちくりとさせる。
シェルティはラウラの顔をじっと見つめて、顔が暗い、と言った。
「君は誰よりも縮地の成功を喜んでいると思っていたんだけど」
「も、もちろん。とても嬉しかったです。カイさんの努力が実って。ただ――――」
ラウラは声を潜めて、胸のわだかまりを、一抹の不安を吐露した。
「この七日、外ではお祭りだったかもしれませんが、中はずっと、お葬式のような雰囲気で、みんな、本当に縮地が成功したのかずっと不安がっていました。私も、万が一を考えてしまって……」
「それならもう不安はないだろう。縮地は確かに成功したんだから」
ラウラはシェルティの言う通りだと思った。
けれどすぐには、気持ちを切り替えることができなかった。
シェルティは舟を降りて傘を差した。
中にラウラを招き入れると、傘で人目を遮りながら、片手をラウラに突き出した。
「ハイタッチしよう」
「え?」
「カイがよくやるあれだよ」
カイは誰かと喜びを共有する際、相手と手を叩き合わせる。
ラウラはおずおずとシェルティの手に自分の手を重ねた。
「それじゃあカイはがっかりするよ」
シェルティは勢いよくラウラの手を叩いた。
「っ!」
「ハイタッチは、喜びの分だけ、相手の手を強く叩くものなんだって、ぼくはそう教わったよ」
「喜びの分だけ……」
シェルティは傘を肩にかけ、今度は両手をラウラの目の前に突き出した。
「し、失礼します……!」
ラウラは今度は勢いをつけて、シェルティと両手を合わせた。
パンッ!
二人の手は大きな音を立てて弾けた。
互いに痛みはなく、軽い痺れと熱が共有された。
周囲の視線が、ラウラとシェルティに集まる。二人は思いがけず響き渡った音に、顔を見合わせ、ほとんど同時に噴き出した。
「あははは、言い出したのはぼくだが、やはり少し控えたほうがよかったね」
「ふふふ、そうですね、すこしやりすぎました」
二人はしばらく声をあげて笑いあった。
「私、縮地が成功した直後は、大喜びしていたんです」
「へえ?」
「もう、飛び跳ねたいくらいで。でも、周りはそうではなかったので、気持ちのやり場をなくしてました。浮かれてる場合じゃないな、って」
「真面目だね、君は。――――でも気持ちはよくわかるよ。ぼくも立場があるからね、手放しで喜んでいる暇はなかったし、ハイタッチできる相手も、側にいなかったから……ラウラに会えるのが待ち遠しかったよ。君となら、縮地の成功を、心置きなく分かち合えるからね」
シェルティはわざとらしく大きなため息をついた。
「でも、どうだい。いざ会ってみたら君は浮かない顔で、心配に胸を割いている。ちっとも嬉しそうじゃないんだ。まあ仕方ないね。たしかに、カイはよくつまらないドジを踏むし、おかしな思い付きで周りを振り回す。ぼくらはそれで散々な目にあってきているからね、心配するのも頷ける」
「えっ、いえ、そんなつもりは……」
「次にぼくがカイに会えるのは、災嵐が過ぎてからだろうけど、そのときちゃんと伝えるよ。カイの日ごろのドジや、行き当たりばったりの行動のせいで、ラウラは心労が絶えなかったって」
「ち、ちがいますよ。決してカイさんを信頼してないわけではないんです!」
ラウラが慌てて訂正すると、シェルティはしたり顔で片目を閉じた。
「それなら、もう浮かない顔は無しだ」
シェルティは雨で額にはりついたラウラの前髪を、そっと耳にかけてやった。
「早くまた三人で会いたいな」
「そうですね」
できれば朝廷の外で、とラウラが小声で付け足すと、シェルティはくすぐったそうに表情を緩めた。
「じゃあまずはカイを外に出してやって、それからお祝いをしよう。人目を気にしなくていい場所で、縮地の成功を喜び合おう」
「一晩中、飲んで、歌って、踊り明かしたいです」
「一晩ですめばいいけど。カイのことだから、ほっておいたらいつまでもやるよ、きっと」
シェルは傘を閉じた。
雨はまだ降っていたが、雲間から日差しが覗いていた。
「――――そうだ。これを、やつらに持って行ってくれないか」
シェルティはそう言って、ラウラに荷袋を渡した。
中には高価な酒と、精巧な飴細工が、無造作に押し込まれていた。
ラウラはそれが、アフィーとレオンへの品だとすぐに理解した。
「きっと喜びますよ」
ラウラは嬉しそうに笑ったが、シェルティは誤解してはいけない、と戒めた。
「これはあくまで餌付けだから」
「え、餌付けですか?」
「きちんと餌をやっておかないとなにをしでかすかわからないだろう?」
「そんな……猫じゃないんですから」
ラウラは冗談だと思い苦笑を返したが、シェルティは神妙な面持ちで頷いた。
「うん。――――猫なんてものじゃない。熊だよ、あいつらは」
シェルティは一度閉じた傘をまた差して、ラウラに肩を寄せた。
「定期的にラプソの様子を見に行っているんだが、あいつら、会うたびにつっかかってきて、たまったものじゃないんだ」
「え、アフィ―もですか?」
「どちらかといえば彼女の方がたちが悪い」
「想像もつきませんが……」
「最初はね、カイの将来の伴侶候補、と思って、ぼくから声をかけていたんだ。これまであまり話したこともないし、改めて人となりを知っておきたいと思ってね。それで、ぼくらの共通点なんてカイくらいなものだから、自然とカイの話が中心になるわけだけど――――彼女は自分からぼくにあれやこれや質問を投げかけておいて、相槌はないし、態度もぞんざいで、ここまで聞き下手な人間がいるのかと面食らったよ」
「……えっと、ちなみに、具体的にはなにを話されたんですか?」
「君とぼくとカイと三人で、たて穴にいるときはよく盤双六や札遊びをしただろう?その話とか、カイは物語が好きだけどいつまでも字が覚えられなくて、今でも自分の名前の読み書きくらいしかできないこととか、そんなぼくがカイに変わって物語を毎晩読み聞かせてやっていること。それと、カイは寝相はいいけど寝言がひどい、とか。あとまあこれは、君のお兄さんの髪質だから悪く言いたくないけど、毎朝頑固で愉快な寝癖をいかにして直すか、とか」
「それは……お二人の仲がいいことに、拗ねているんじゃないですか、アフィーは」
「この程度で拗ねていたらカイの伴侶なんて務めらないよ。それとも彼女は、ぼくよりカイと親しくなれるとでも思っているのかな?おこがましいものだね、まったく」
ラウラは乾いた笑い声を出した。
(アフィー……カイさんを振り向かせることより、シェルティさんと折り合いをつけることの方がよっぽど大変かもしれないよ……)
ラウラは友人の恋路が困難であることを、改めて思い知った。
「あの、でも、レオンさんとは、前よりも仲良くなったんじゃないですか?」
「……どうしてそう思うんだい」
「だって、これ、すごく高いお酒ですよね」
「ああ。見立ての通り、値の張る品だよ。でもどうしてそんなに値が張るのか知っているかい?」
「美味しいから、ではないのですか?」
「度数が高いんだ」
シェルティは鼻をならし、ラウラの手にする酒を忌々しそうに睨みつけた。
「やつはぼくが酒を届けるたびに、安物だの量が少ないなどと文句をつけて、しまいにはぼくに酒の相手をしろと強要してくる始末だ。ぼくが得意ではないと知っていながら、一人酒が嫌という理由だけで押し付けてくるんだ。まったく、あんな飲んだくれと暮らしたりしたらカイは間違いなく寿命を縮めてしまうよ」
だから策を講じたんだ、とシェルティは口角を吊り上げた。
「カイより先にやつの寿命を縮めてしまえばいい」
シェルティの浮かべた冷笑に、ラウラは身震いした。
「ま、まさか、毒を……?」
「そこまではしないよ。いやでも、遠からず、かな。その酒は匂いだけで人を酩酊させる、身体の内側から人を焼く珠玉の一品だそうだ。いくらやつでもそんなものを飲み続ければ、身体がおかしくなるに決まっている」
「それは……さすがのレオンさんでも、そもそも飲まないのでは……」
「ところがね、ぼくはここ最近それしか届けていないんだけど、やつは強がって飲み続けているんだ。悪くない、とか何とか言ってね。けどぼくは知っている。他の酒を飲んでいるときとやつの表情はあきらかに違うんだ。これを飲んでいるときはひどく渋い顔をしている」
シェルティはカイを相手にした時だけ見せる晴れやかな笑顔で、酒瓶を撫でた。
「あれを見ているときほど胸のすくものはないね。災嵐が過ぎ去るころには、きっとやつの喉から焼け落ちているはずだ。ぼくにはいま心待ちにしていることがふたつあるんだけど、そのうちのひとつがそれだよ」
ラウラは笑顔を引きつらせながら訊ねた。
「……ちなみに、その、あともうひとつというのは?」
「カイを模した銅像があるだろう?」
「はい。あの、似ても似つかない……」
「あれはぼくがここにきてから作られたものなんだ。最初はあんまり似てないから、やめさせようと思ったんだけど、途中で考えを改めて、許可を出したんだよ。――――君はさ、カイがあれを見たら、いったいどんな反応をすると思う?」
ラウラにはすぐ想像がついた。
いくらなんでもこれはひどいだろ!と喚き散らすカイの姿が。
「……ふふ」
つい笑ってしまったラウラに、シェルティはほらね、と言った。
「君も楽しみだろう?そのときがきたら、二人でカイをからかっ――――慰めてあげようね」
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