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第二章

粛清

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日が沈んでから、空を雲が覆いはじめた。
雨雲ではない。月明りが透けて見えるほどの薄い雲だ。
雲は山の向こう、北からとめどなく流れてきた。
地上に風はないが、雲の流れる速度は速い。
それらはときにぶつかってひとつになり、ときに三重にも四重にも重なり合った。
薄い雲は混ざり重なり合うことで厚みを持ち、夜空を灰色に変えた。
月は満月に近かった。
小さいが、眩しいほどに光っている。
雲はそんな月の光を含み、その身の内で乱反射させ、夜空を広く淡い光で満たした。
しかし雲が放つ灰色の光は、あまりにも淡く、地上まで届かない。
空は真昼の曇天のような明るさだが、地上は深い闇に包まれている。
カイはその明かりと暗がりの間を、もてる最大速度でもって飛行した。
飛び立ってから、冬営地に降り立つまで、十分とかからなかっただろう。
それでも遅かった。
間に合わなかった。

冬営地の上空に出たカイとラウラが最初に目にしたのは、輪をなす人影だった。
人影はラプソの女たちのものではない。
燕支色の団服を身にまとった、朝廷技師団の技官たちだった。
「みんな!」
カイは輪の中心で倒れるラプソの青年たちを目にし、叫ぶ。
「なんだ!?」
師技官たちは自分たちに向けてまっすぐ向かってくる、空に浮かぶ人影に目をむいた。
「どいて!」
カイは勢いを落とさず、輪に突撃する。
砲弾のように、突風を起こし地をめくりあげ、カイとラウラは着地した。
技官たちはろくな受け身も取れず吹き飛ばされる。
カイはそちらには目もくれず、青年たちのもとへ駆け寄る。
倒れ伏していた青年たちは幸いにもカイの着地の衝撃に巻き込まれることはなかったが、誰一人として顔をあげるものはいなかった。
「みんな、どうしたんだよ!?」
カイはうつ伏せに倒れたまま、ぴくりとも動かないキースを抱き起した。
「キース!しっかり――――うわっ!?」
上を向かせたとたん、キースの首から血が噴き出した。
「……は?」
キースの目は開かれている。
虚ろな瞳に光はない。
眼前にあるカイの姿さえ、映すことはない。
ラウラは他三人の青年の安否を確かめたが、みな絶命していた。
キースと同じように、誰もがその身に深い刀傷を負っていた。
「そんな――――っ!?」
呆然とするラウラの肩を、鱗のようなこぶし大の平刃が掠める。
ラウラははっとして、肩を抑える。
刃は皮膚には達せず、肩口の袖を切り裂いただけだったが、切り口は濡れていた。
「……っ!」
ラウラは慌てて上衣を脱ぎ捨てた。
袖に付着したのは平刃に塗布されていた液体だ。
その液体が発する甘い臭いに、ラウラは覚えがあった。
パンッ、と乾いた破裂音が響く。
直後に、ラウラの脱ぎ捨てた上衣が着火し、炎に巻かれた。
ラウラの勘は正しかった。
平刃に塗られていたのはケタリングの体液からつくられた発火液、師団の中でもケタリングの討伐部隊にだけ使用が許可されているものだった。
「ラ、ラウラ……?」
カイはキースを抱えたまま、ほとんど放心状態で、突如あがった炎に目を見開いた。
「平気です……っ、カイさん!」
ラウラはカイに飛びついた。
カイはラウラともども、勢いよく横倒しになる。
間一髪のところだった。
ふたりの頭上を、ラウラの肩口をかすめたものと同じ平刃が通り過ぎる。
平刃はラウラとカイの後ろで倒れていた一人の少年に突き刺さった。ラウラはカイに覆いかぶさるようにして身を伏せる。
次の瞬間、先ほどと同じ乾いた破裂音が響く。
音とともに少年の血肉が周囲に飛び散る。
そして少年の身体を炎が包む。
「やめてください!」
ラウラは伏せたまま叫ぶ。
「この方はカイ・ミワタリ様――――渡来大使閣下です!」
しかし技官たちは応じず、二人に向けて、また平刃を投擲する。
カイは倒れたまま地面を殴りつける。
地面がめくれ上がり、二人の前に壁ができる。
平刃は壁に刺さり、破裂する。
壁の上部が砕ける。
二人は残った壁、一メートル四方の小さな壁に張りつくようにして隠れる。
ラウラは再び呼びかける。
「話を聞いてください!私たちは敵ではありません!私はラウラ・カナリア!ノヴァ殿下直属の特別技官、渡来大使閣下の補佐官です!」
応じる声はない。
十数人の技官たちは無言で、それぞれ平刃を手に、距離をつめてくる。
「や……刃を納めてください!私たちに敵意はありません!大使閣下を傷つけることは誰であろうと許されないはずです!朝廷に対する反逆になりますよ!?」
そこではじめて、一人の技官が口を開いた。
「反逆者は貴様らだろう」
「えっ……?」
「我々は朝廷からの勅令を受けてここにいる。貴様らが辺境の蛮族どもと結託し、朝廷を貶めようと画策していることは、すでに知れている!」
ラウラは絶句する。
カイは狼狽して叫ぶ。
「ま、待ってくれ、誤解だよ、おれらはただ――――」
「黙れ!」
しかし技官たちは聞く耳をもたない。
「ケタリングを拳中に収め、朝廷の転覆を謀ったのだろう!」
「我々に下された命令は、ケタリング、蛮族ども、そして異界人の三者を討ち取ることだ」
「いまさらどのような弁明も通じると思うな!」
また平刃が投擲される。
平刃は壁をかすめ、また別の青年の遺体に突き刺さり、爆ぜた。
肉の焼けるおぞましい臭気に、カイは半狂乱になって叫ぶ。
「やめろ!!」
ラウラは立ち上がろうとするカイを必死に抑えこみ、同じように叫んだ。
「すべてなにかの間違いです!この方がいなければ、縮地は成立しない――――朝廷が彼を討ち取る命を出すなど、絶対にありえません!」
「そもそもそいつは本当に異界人なのか?」
ラウラはまたも絶句する。
「陛下も朝廷も、西方のお高く留まった学者どもに惑わされているのだ。異界など存在しない。縮地などという都合のいい霊術もない。すべては朝廷を覆すための策略なんだろう」
ラウラは反論をしようとするが、再び平刃が投擲され、両者の間にできた壁が崩れてしまう。
距離をつめてきていた技官たちは、この好機を逃さず、手にした獲物を向けて一斉に襲い掛かってくる。
ウォンッ!
そのとき一頭の狼狗が現れ、技官の腹に噛みついた。
「ぐっ!?」
狼狗は噛みついた勢いをそのままに突進する。
数名の師技官が将棋倒しになって倒れる。
「このっ!畜生がっ!」
噛みつかれた技官は腰に下げた鉄箱から平刃を取り出し、狼狗に突き立てる。
狼狗はそれでも技官を離さなかった。
乾いた破裂音が響き、狼狗は技官もろとも爆ぜた。
「ああ!」
ラウラの足元に頭が落ちる。
それはこの数日でラウラが最も親しんだ、若い狼狗のものだった。
「ラウラ!」
カイはラウラの身体の腕をとり、もつれた足に、飛翔のための霊力を込める。
ラウラははっとして、狼狗の頭に伸ばしかけた手を引っ込める。
感傷に浸っている暇はないと、状況の把握に目を走らせた。
「ダメです!いま飛べばいい的になります!」
ラウラの言葉通り、狼狗を避けた技官たちは平刃を投擲しようと構えをとっていた。
「壁を!」
ラウラに言われて、カイは地面を蹴りあげた。
足に溜めた霊力を、ありったけ叩きつけた。
ドオオオッ!
土砂崩れのような地響きが起こり、先ほどとは比較にならない、巨大な土壁が技官たちの前に立ちはだかる。
「これなら……!」
「二人とも、無事!?」
カイは飛び立とうとしたが、幕屋から現れたアリエージュの姿を見て、踏みとどまる。
駆け寄ってきたアリエージュは、カイとラウラの無事を見てとるや、ほっと肩をなでおろした。
「よかった……。師団のやつら、まさか貴方たちにまで剣をむけるなんて――――もうダメかと思ったわ」
「一体なにがあったんですか?」
「問答無用よ。突然現れたと思ったら、狼狗をぜんぶ切り捨てて……貴方たちのところに向かわせたのが最後の一頭だった……」
アリエージュはそこでカイに目を止め、硬直した。
暗がりに隠されていた、カイの半身にべったりとついた血に気づいたのだ。
「カイ、貴方、ひどい血が……!」
「あ、いや、これはおれのじゃない。キースの――――」
カイは言いかけて、口を噤んだ。
人の身が焼ける臭気がぶり返し、今にも吐き出しそうになるが、どうにかこらえる。
ラウラはカイの背をさすりながら、震える声を絞り出した。
「キースさんが……みなさんが……!」
「見ていたわ」
アリエージュは目を伏せ、平静を保ったまま言った。
「幕屋の中から、見てた。いずれ朝廷がやってくることはわかっていたし、みなそれぞれ覚悟はできていたわ。――――本当は、私も行くべきだったけど、私は、まだ、死ぬわけにはいかなかったから。まだ多くの女たちが残されているし、それに――――」
アリエージュの声は徐々に震えだす。
アリエージュは両の手をそっと自らの腹に当て、短く深呼吸すると、まっすぐ二人を見つめて言った。
「逃げなさい」
「アリエージュさんたちは――――」
「私たちは、行けない」
アリエージュは明りの消えた幕屋に目配せをする。
幕屋からは赤子の泣き声が漏れている。
「私たちがいたんじゃ、逃げきれない」
「ですが――――」
「私たちはいい。貴方は自分と彼の心配をしなさい」
アリエージュは痛ましそうにカイを眺める。
はじめて人の死を目の当たりにしたカイは、気が動転してしまっていた。
焦点の定まらない目で、両の手にこびり付いた血を凝視している。
燃え滾るようだった鮮血は、瞬く間に固まり、カイの手を軋ませた。
「これは――――キースの――――」
カイはうわ言のように繰り返すばかりだった。
ラウラは拳を握りしめ、首を振った。
「カイさんがこの状態では、私も逃げられません」
一呼吸置いて、ラウラは決意の眼差しをアリエージュに向けた。
「戦います」
アリエージュは怒鳴る。
「馬鹿なこと言わないで!貴方一人になにができるっていうの!?」
「馬鹿はアリエージュさんの方です!」
ラウラは有無を言わさぬ強い口調で言い切った。
「このままむざむざ殺されるつもりですか?」
「それは――――」
「生きるために、戦うんです」
ラウラはアリエージュの腕をつかむ。
厚手の袖で誤魔化されていたが、存外に細腕だった。
しかしそれをつかむラウラの手はもっと細く、小さかった。
「死ねない理由があるんですよね?」
ラウラはその小さな手に、めいっぱい力をこめた。
「生き続けなきゃいけない理由があるんですよね?それなら戦うしかありません」
アリエージュは刮目する。
十五歳とは思えないラウラの気迫に、自分の腕をつかむ力の強さに、気圧される。
「武器が必要です。なんでもいいです、なにか霊具はありませんか?霊具であればどんなものでもいいのです」
アリエージュはラウラの剣幕に押され、呻くように答える。
「ないわ」
「なにかひとつくらいあるでしょう?」
「ないのよ。本当に。――――私たちは、ラプソはみんな霊操が苦手なの。だから霊具なんて持ってないのよ」
ラウラは諦めず、周囲を見回す。
(なにか、なんでもいい、使えるものは――――)
ふいに、ラウラはなにかに足をとられ、躓いた。
「っ!」
それは人の手のような形をした、奇妙なほど黒光りしている金属だった。
ラウラはその金属に飛びつき、霊力を流しこむ。
「これなら――――」
ラウラは顔を跳ね上げ、カイを呼んだ。
しかしカイは掌を凝視したまま、動くことができない。
混乱が収まり、恐怖が追いついてきたのだ。
カイは怯えていた。
血に。死に。この状況に。
「カイさん!」
ラウラは震えるカイの両手をつかんだ。
「ラ、ラウラ……?」
「しっかりして下さい!今ここで私たちが堪えなければ、また誰かが死んでしまいます!」
カイははっとした。
ラウラの口調は確かだが、その手はカイと同じように冷え切って、震えていた。
「私たちが、守らなければ」
カイはラウラの手を握り返す。
「そうだ――――ビビってる場合じゃないよな」
二人は視線を交わし、それぞれ覚悟を決めた。
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