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第二章

屠畜

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夏の長い日がようやく姿を消した宵の口に、一行は目的地にたどり着いた。
森林帯の中にぽっかりと現れた、初夏だというのに新芽のような短い青草ばかりが生える見渡す限りの牧草地。
その場所に足を踏み入れるやいなや、馴鹿たちは一斉に駆け出し、斜面を駆けおりていった。
下方にある、森林帯との境目を流れる小川に殺到すると、競って水を飲み始めた。
あぶれたものは足元の青草を口いっぱいに頬張った。
半日間飲まず食わずで山道を歩き通しだった馴鹿たちは、渇きと飢えを満たすことに夢中で、春に旅立ったばかりのこの地、冬の餌場に戻されたことに疑問を感じる暇さえないようだった。
それはカイたち三人も同じで、周囲にラプソの野営地は見えなかったが、レオンが馴鹿を解放したのだからここが目的地なのだろうと息を吐き、地面に降り立った。
「つ、疲れた……」
二人の手を離したカイは、すぐ地面に仰向けになって倒れた。
「修練以外ではじめてこんなに長い時間霊操をしました……」
ラウラはカイの隣でへたり込んだ。それと同時にラウラの操っていた硝子の狗鷲は崩壊し、わずかに発光してはいるものの、本来の姿であるただの硝子片に戻った。
「二人とも本当にお疲れ様。ちょっと待ってて、今水を汲んでくるから」
そう言ってシェルティが立ち上がると、水が満杯に入った皮水筒を、レオンが投げてよこした。
「……酒じゃないだろうね」
「酒だったらお前にはやらねえよ」
シェルティはそう言われてもすぐには信用せず、匂いと味を確かめてからラウラに渡した。
「だいじょうぶ。本当にただの水だった」
「だからそう言ってんだろうが」
舌打ちするレオンに、ラウラとカイは苦笑いを浮かべながら礼を言った。
「それで、ラプソはどこだ?上から見ても、近くには火の手の一つ見えなかったが」
「あいつらはいま冬営地にいる」
「とうえいち?」
首を捻るカイに、シェルティは解説を加える。
「遊牧民の冬の住まいのことだよ」
家畜に新鮮な草を食べさせるために、山間部の遊牧民は、春から秋にかけて移動生活をする。
家畜は冬の間に痩せ細った身体を、繁殖期までに回復させなければならない。
またその後、冬を越すためにたっぷりと肥え太らなければならない。
牧草の不足は家畜の健康、つまり己が財産の価値を大きく左右することとなる。
しかし山間部は平地と異なり、一か所で家畜を養うに足るだけの広大な牧草地が存在しない。
点在する僅かな牧草地を渡り歩く移牧は、この地の遊牧民にとって不可欠であった。
「だが冬季になると、家畜も人もひとつどころに集まる。冬営地、つまり定住地に戻るんだ。餌の確保が難しくなるし、人の生活も困難になるから、集まった方が冬は暮らしやすいんだよ」
カイはなるほどなあ、と頷いた。
「じゃあこいつらはその冬営地まで連れてかなきゃなんなんじゃないのか?」
「いや、ここでいい」
背負っていた荷と笠の棺を地面に降ろしながら、レオンは答えた。
「冬営地はもっと下った森の中だ。ここから下なら冬でも川が凍らねえし、雪も積もらないからな。だが家畜を置いとく場所も、餌もない。ここは家畜の冬の餌場だ。馴鹿たちもそれをわかってるから、ここにおいときゃ、逃げることはねえよ」
それだけ言って、レオンは森の中に入った。
しばらくすると、両脇に枯れ枝を抱えて戻ってきた。
それを組み上げ、携帯していた着火用の霊具で手早く火をつけた。
手際いいな、とカイは感服する。
「なにからなにまでありがとうな。歩き通しで、レオンが一番疲れてるはずなのに」
「別にお前らのためじゃねえよ」
レオンはそう言って鼻をならすと、今度は腰に下げた小刀を抜き、群れから外れて一頭だけで座り込む馴鹿の元へ向かって行った。
その馴鹿は春に生まれたばかりの、まだ乳離れもしていない子どもだった。
馴鹿は明らかに衰弱していた。
他の子どものように親について乳を求めることもなく、横臥して荒い呼吸を繰り返している。
レオンはその馴鹿に小刀を向けた。
「ちょっ――――まって!何する気?!」
カイは慌ててレオンのもとに駆け寄った。
「見りゃわかんだろ」
「わかんねえよ!」
レオンは舌打ちし、一旦小刀を降ろす。
「お前ら、食いもんもってんのか」
レオンの問いに、カイのあとを追ってきたラウラとシェルティが答える。
「小屋から持ってきた豆が、少しだけ……」
「四人で分ければ、一人分は片手に収まるほどにしかならないな」
「ならこいつがいるだろ」
そう言ってレオンはまた小刀を馴鹿に向ける。
カイはその手をつかんで、首を振る。
「いやいやいや、ダメだろ!」
「なにがだよ」
「だって、こいつらラプソの家畜だろ」
「遊牧地に放っておかれてたもんをここまで連れてきてやったんだ。弱った一頭くらい、盗んだことにはならねえよ」
「でも……まだ子どもなのに……」
「子どもだからだよ。食えるとこは少ないが四人分なら十分だ。大人より肉も柔らけえし、血抜きも捌きもすぐ済む」
「そういうことじゃなくて……か、かわいそうだろ……?」
「ああ?」
レオンはカイの手を振りほどき、足を払った。
カイは崩れるように膝をつく。
「カイ!」
シェルティは間に割って入ろうとするが、レオンに小刀の切っ先を突きつけられ、動きをとめる。
「……っ!」
「おれは哀れみが嫌いだ」
レオンは膝をついたカイを足蹴にし、仰向けに蹴り倒す。
「手荒な真似をするな!」
「手荒い?この程度で?温室育ちが」
レオンはそう吐き捨てると、カイの胸を足で押さえつけた。
「ぐっ……!」
カイは両手で足をつかんだが、レオンはものともしなかった。
「おいそれで全力か?こっちは少しも力なんていれてねえぞ」
「うう……」
「よくもそれでかわいそうだなんて言えたもんだ。弱い奴はなにも救えねえ。救えないくせに同情を口にするな。二度と!」
カイは返す言葉もなく、唇を嚙みしめた。
レオンはカイの上から足をどかすと、胸ぐらをつかみ、立ち上がらせた。
「今日はここで休むが、明日はまた別の群れを移動させに行く」
「別の群れ?」
「ラプソの家畜はこれだけじゃねえ。馴鹿の群れはあと二つ、羊はさらにその倍いる。数は少ねえが馬もいる。そいつらを全部ここに集めるんだ。せっかく集めた人手も、狗鷲も、お前らのせいでなくしたんだからな。代わりになってもらうぞ」
「わかった」
カイは胸ぐらをつかまれたままで即答した。
レオンは手を離し、カイの額を軽く小突いた。
「じゃあ、つべこべ言わねえで、黙って休んでろ。飯くわなきゃ動けねえだろ」
「うん。――――レオン」
「なんだよ」
「ごめんな。ありがとう」
レオンはもう一度カイを小突いた。
「謝るな。礼を言うな。こっちはなにをしてやってるつもりもねえんだよ」
カイは小さく笑いをこぼすと、ラウラとシェルティに戻ろう、と促した。
それに対して、ラウラは頷いたが、シェルティは首を振った。
「先に戻ってて」
「え、でも――――」
「ぼくはまだなんの仕事もしていないからね」
シェルティはそう言って、レオンに手を差し向けた。
「刀を貸してくれ。それはぼくがやる」
レオンは剣呑な目つきをその手に向ける。
「お前、やったことあんのか?」
「ない。だから教えてほしい」
シェルティは頭を下げた。
「貴方も疲れているだろう。口で指示だけしてくれれば、あとはぼくがやる。――――ぼくにやらせてほしい」
カイとラウラはもちろん、レオンも、驚きに目を瞠った。
「お願いします」
シェルティが頭を下げたまま重ねて言うと、レオンは我に返り、小さく鼻を鳴らした。
「本当にできんのかよ」
「やる」
レオンはシェルティに小刀を渡し、横臥したまま立ち上がろうとしない馴鹿の首の根元の一点を指差した。
「一発で済ませろ」
シェルティは頷き、レオンが指した一点に、小刀を深く突き刺した。
馴鹿は大きく痙攣したが、暴れることはなかった。
シェルティが小刀を抜くと、一呼吸おいて血が噴き出した。
首からの放血は切れ切れに、長く続いた。
まるで吐しゃ物を吐き出しているかのようだった。
やがて馴鹿は身体を横に倒し、硬くなった。
痙攣と放血はなおも続いていたが、馴鹿がすでにこと切れたことは、素人のカイの目にも明らかだった。
他の馴鹿たちは血の匂いを嗅いで俄かに色めき立ったが、疲労が勝るのか、ほとんどのものは横臥したまま動かなかった。
近寄ってくるものは誰もいない。しかしその視線は捌かれる同胞へ釘付けになっている。
シェルティはその後もレオンの指示に従って、内臓を取り除き、皮を剥ぎ、汗と返り血で全身を汚しながら解体を続けた。
ラウラとカイはたき火のそばに戻り、他の馴鹿たちと同じように、その様子を遠くから眺めた。
「大丈夫でしょうか」
ラウラは不安げに言った。
「殿下にあんなことをさせてしまって、やはり、私がいったほうが――――」
「ダメだよ」
カイはそれを優しく制した。
「気持ちはわかるけど、あれは任せておこう」
「でも、殿下も、お疲れのはずです。それに――――再会してからどこか、気が塞いでいるようでしたし……」
「気づいてたんだ」
カイは苦笑する。
「ラウラまで心配させるなんて、しょうがねえやつだなあ」
「やはりどこか悪いんでしょうか?」
「身体は大丈夫だと思うよ。それよりもさ、あいつがずっと気にしてんのは、自分だけ役に立ってないんじゃないかってことだよ」
「役に……?」
「ラウラみたいになんでも霊操できたり、おれみたいにチート霊力で空飛んだりできるわけじゃないからな、あいつは。おれたちのお荷物になってるんじゃないかって、焦りがあったんだよ、たぶん」
「そんな――――ありえません!」
「だよなあ」
カイは笑って肩をすくめた。
「頭の回転はやいし、口も回るし、ムードメーカーだし、あいつがいてくれるだけで、どんなに心強いかわかんないのにな。……でも本人は、それだけじゃ、足りないんだろうなあ」
カイは自分の掌を見つめて、呟いた。
「あいつの気持ちは、わかるよ。おれも同じ立場だったら――――いや、いまでも、そうだ。弱いとなにもできないんだ。なにも救えないんだ。今のままじゃ、なにを救うか選ぶことさえできない……」
「カイさん……」
ラウラは不安げに瞳を揺らした。
カイはそれを見てはっとし、取り繕うように笑って、その場に寝転がった。
「まあ、だからさ、飯はシェルに任せようぜ。おれたちはあいつの捌いた肉をおいしく食べる。それで明日からまたがんばる。それでいいじゃん」
「……はい」
ラウラは返事をしたものの、カイの呟きが頭から離れず、不安を払拭することが出来なかった。

強ければ、守ることができる。救うことができる。
強ければ強いほど、たくさんのものを。
ラウラは自分のことをもう弱いとは思っていなかった。
しかしすべてを守り切れるほど強いとも思えなかった。
ぼんやりとたき火を眺めながら、ラウラはカイと同じことを考えた。
自分は、なにを守ることができるだろうか。
守るべきものが限られている自分は、窮地に陥ったとき、なにを選ばなければならないのだろうか。
ラウラはその自問に答えを出すことができなかった。
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