上 下
97 / 230
第二章

馴鹿

しおりを挟む
ラウラが異常を指摘した途端、馴鹿の群れの中からなにかが飛びあがった。
「ケタリング!?」
カイは馴鹿の体長と同じくらい大きな翼幅を見て、思わず声に出した。
しかしすぐにそれが思い違いであると気づく。
本物のケタリングであれば方翼だけで群れを覆うことができるだろう。
「ちがう……狗鷲だ……!」
ラウラの呟きを聞いて、カイはどこか照れたように、残念そうに小さく息を吐いた。
「鷲かあ。でもすごいな。じゃあ鷲が馴鹿襲ってるのか?あれ」
狗鷲は馴鹿の群れを追い立てるように、低く急な旋回を繰り返している。
ラウラは首を振る。
「狗鷲はあのように獲物を長く追い回すことはしません」
エレヴァンにおいて狗鷲は、作物や家畜、ときには人を襲う害獣とされていた。
そのため朝廷は定期的に、狗鷲の多く生息域である山間部へ技師を派遣し、霊術を用いた駆除を行っていた。
ラウラは駆除活動に参加したことはなかったが、狗鷲に関する知識は一通り備えていた。
「そもそも狗鷲は森林限界も近いこんな高地で狩りをしません。――――あの狗鷲、主人がいます」
「ラプソかい?」
「いえ、ラプソ族は狼狗を使役しているので……狼狗と狗鷲は相性が悪いので、同時に飼養されることはありません」
「しかしあの馴鹿はラプソの家畜だろう?」
ラウラは険しい表情で頷く。
「となると、考えられるのは家畜泥棒か」
シェルティは平静を保ったまま推測を立てる。
「ラプソが警戒心の強い、よそ者に対して容赦のない氏族であることは知られている。南部の山間の民はみなラプソ族を恐れている。盗賊連中も彼らには手を出さないはずだが――――もう先日の騒動を嗅ぎつけられたのかもしれないな」
レオンとラウラの強襲により、山間は揺れた。
轟音が響き、閃光が瞬き、白い影が暴れ回った。
極めつけには山火事まで起こった。
その後降り続いた雨により消し止められたものの、火災の跡は誤魔化しようがなかった。
同じ山に住む民、麓の住民が異変に気付かないはずがなかった。
「でも、まだ五日しか経っていないのに、それでもう家畜を盗りにかかるとは、早すぎませんか?」
「火事場泥棒という言葉があるだろう。こういうとき誰よりも先に駆け付けるのが盗賊という者たちさ」
「そうなんですか……」
ラウラは納得しかけたが、シェルティはでも、と続ける。
「それにしたって早いことは確かだけどね。見てごらん、地面がよく湿っているだろう?ぼくらのいた山頂と同じように、この辺りもしばらくは悪天候だったようだ。雨の山中でラプソの手が回っていない家畜の群れを見つけ出すことは困難だ。――――誰かに手引きでもされたかな」
シェルティはそこで考え込むように押し黙った。
ラウラもまた口を閉ざし、どう動くべきか思案した。
「様子を見に行こう」
迷いが無いのはカイだけだった。
もし本当に家畜が盗まれようとしているのであれば、放っておくことなどできない。
後先のない考えで、カイは馴鹿の群れへ向かって飛ぼうとしたが、すぐに思いとどまり、二人の顔を見た。
「あっ、ごめん……!」
カイは縮こまり、俯いた。
「はやく朝廷に戻らなきゃだもんな。道草食ってる場合じゃないよな……」
「行こう」
カイは顔を跳ね上げた。
「えっ、いいの?」
「だってそうしたいんだろう?」
シェルティは表情を緩めて、カイの手を握る力を強くした。
「それにきみがそう言うだろうってことは、最初からわかっていたしね」
「そうですね」
シェルティに同調し、ラウラもまたカイの手を強く握った。
「わたしも、殿下ほどではありませんが、カイさんの気持ちはわかっていました」
「え、おれってそんなわかりやすい?」
「ああ。顔にも態度にもすぐ現れる。こういうときやめさせようとしたら、その場では素直に言うことを聞くふりをして、あとでひとりで無茶をするってこともね」
「隠れてなにかされるよりは、一緒に飛び込んだ方がずっといいです」
ラウラとシェルティは頷き合い、カイにぴったりと身を寄せた。
「ぼくらは一心同体じゃないか」
「無茶をするときは一緒。それで痛い目をみるときも一緒です」
カイはひきつった笑顔で、乾いた笑い声をあげる。
「アハハ……」
「笑い事じゃないんだけどなあ」
「だって、なあ、その、わかってるんだよ?おれだって。こんな道草くってないで、すぐ帰らなきゃってことは。でもさあ――――」
「放っておけませんよね」
ラウラは一度緩めた表情をまた引き締めた。
「ラプソの一族がカイさんたちにしたことは、許せません。しかし彼らは……首謀者は罰を受けました。現在のあの馴鹿の持ち主は、我々の恩人です。恩人の家畜が野盗の手にかけられるのを黙って見逃すわけにはいきません」
「ぼくたちはキース・ラプソに借りを返さなくちゃいけない――――だろう?カイ」
二人の言葉に、カイもまた神妙な面持ちになって頷いた。

三人は気付かれないようそっと岩陰に着地し、馴鹿の様子を観察した。
それまで散り散りになって草を食んでいた馴鹿は、狗鷲によって一か所に集められている。
群れの周りを低く旋回する狗鷲を警戒してはいるが、さほど慌てた様子はなく、群れ全体は落ち着いていた。
狗鷲も群れの輪から外れそうな馴鹿を追い立てる以外に、なにか攻撃を加えるような動きは見られない。
ラウラの予想通り、狗鷲は狩りや家畜の誘導を行うために躾けられた牧畜禽だった。
主人とその仲間と思われる数名の男が、狗鷲と一緒に群れを囲っている。
「なんか、おっかない人ばっかりだな」
カイが小さく零して、喉を鳴らした。
男たちはみな人相が悪く、とても堅気の遊牧民には見えなかった。
身体は皆屈強だが、一部が欠損している者、大きな傷跡が覗いている者もいる。
「この人たちもやっぱ遊牧民なのか?」
「いや、やはり彼らは野盗だろう」
シェルティは男たちの凶悪な人相に怯える素振りもなく、淡々と分析する。
「装いに共通点がない。同じ血族であれば、刺繍や毛皮、服飾の形式が揃うはずだから……麓のゴロツキが騒動を聞きつけて野盗に出た、とみて間違いないだろう」
カイはシェルティの肩に手を伸ばし、音を出さずに叩いた。
「さすが。やっぱ頼りになるな」
「……それほどでも」
シェルティはどこか苦しそうに微笑む。
そしてそれをカイから隠すために、あえて顔をカイの耳の傍におき、囁いた。
「惚れなおした?」
「っ……!」
カイは耳に息がかかったこそばゆさを、歯を食いしばって飲み込んだ。
「緊張感もってくれる!?」
「むしろカイは少し肩の力を抜いたほうがいいよ」
「むしろ力むっつーの!」
「お二人とも、しーっ!」
いつものじゃれ合いを始めた二人の間に割って入り、ラウラは人差し指を立てる。
「あっちまで聞こえちゃいますよ!」
「だ、だよな、ごめん……」
カイはラウラに、年下の女の子に窘められたことを恥入りながら、視線を馴鹿の群れに戻した。
群れは移動を始めていた。
斜面を北東の方向に向けてゆっくりと下っている。
先導するのは笠を被った男だ。
笠には垂れ布と飾り房が下げられ、顔はすっかり隠されている。
「殿下、あの人が身にまとっているのは……」
「ああ、ラプソの夏営地に掲げてあったものと同じだ」
笠の男は身体にボロ布を巻きつけている。
それはところどころ焦げているが、ラプソ族の紋が描かれたのぼりだった。
「火事場から盗ってきたんだろう。あれなら、他の一族や麓の住民に見られても自分はラプソの者であるという証になる」
追い立てられる馴鹿の角には、笠の男が纏うのぼりにあるものと同じ、ラプソの紋が焼きつけられている。
焼き印は馴鹿がラプソの家畜であると示すためのものだった。
例えば麓の市場でラプソ以外の人間がこの馴鹿を売ろうとしても、買い手はつかない。
盗人はもちろん、その売却に手を貸した商人にも、ラプソは恐ろしい報復を与えるからだ。
「どこの遊牧民も、旗紋の入ったのぼり旗は自分たちの顔として大切に扱っている。それを持っているのであれば、その一族の者であるとして容易に取引ができるだろう。――――連中、相当手慣れているな」
「かなり厄介な相手ですね」
シェルティとラウラは揃ってカイを見た。
「それでも、やろう。キースはおれたちのために命をはってくれたんだから」
カイは迷いなく言った。
しかしすぐに頼りない苦笑いを浮かべて、頬を搔いた。
「その……危ないからおれ一人でやる、って言っても、ダメですよね……?」
シェルティとラウラは口を揃える。
「ダメです」
二人は無茶をさせるまいというように、カイの肩を強くつかんだ。
カイは笑顔を引きつらせながら、観念して頭を下げた。
「じゃあ、どうしたら穏便に、やつらを追い払えるかな?」
「派手な脅しをかけて立ち去ってもらうのが一番いいんでしょうけど‥…」
「それだと馴鹿まで逃げてしまうんじゃないか?」
「はい。もし傷つけてしまうようなことがあれば、本末転倒です」
「多少の犠牲は仕方ないと、ぼくは思うけどね」
「ですが脅しでは、馴鹿は逃げ、泥棒だけ残る、なんて可能性も十分考えられるので……」
「うまいことをあいつらだけを捕まえられないもんかなあ」
「ラウラ、きみの霊操でどうにかならないか?」
シェルティの問いに、ラウラは力なく首を振った。
「なにか捕り物用の霊具があればよかったんですけど、今はレオンさんのところから拝借したこれしかありませんから……」
そう言って、ラウラは外套のポケットから小粒の硝子球を取りだした。
「これでめくらましするっていうのはどう?」
「たしかにカイさんの霊力で一度に全て爆発させれば、強い光を焚くことができますが――――」
「泥棒が怯んで逃げるとは限らない。一方で馴鹿たちは、間違いなくが逃げてしまうだろうね」
「はい……」
カイはそっか、と小さくため息をついて、ラウラの手から硝子球をとり、太陽光に透かした。
朝焼けはいつの間にか深い青色の晴天へと様変わりしていた。
薄い鼈甲色の硝子球は、日光をよく吸収し、四方に反射させた。
形は丸いが、それは切り込まれた金剛石が放つ光のようだった。
「あっ」
カイは硝子球越しに、空高く飛ぶ一羽の鳥を見て、言った。
「なあこれ、どんくらいある?」
「硝子玉ですか?えっと――――両手にいっぱいくらいでしょうか」
「割れると、どんくらい細かくなる?」
「たぶん、砂粒くらいにはできると思いますが……」
「いいこと思いついた」
カイが目を輝かせるのと同時に、狗鷲の甲高い鳴き声が遠くから響いた。
三人が話し込んでいる間に、群れは下方の森林帯に向かって追い立てられていた。
「まずい、森に入られる前にやんないと」
立ち上がったカイに、ラウラは問う。
「どうするんですか?」
カイは目を輝かせたまま狗鷲を指差した。
「あれをつくろう。めちゃくちゃ怖い見た目のやつを!」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

異世界の片隅で引き篭りたい少女。

月芝
ファンタジー
玄関開けたら一分で異世界!  見知らぬオッサンに雑に扱われただけでも腹立たしいのに 初っ端から詰んでいる状況下に放り出されて、 さすがにこれは無理じゃないかな? という出オチ感漂う能力で過ごす新生活。 生態系の最下層から成り上がらずに、こっそりと世界の片隅で心穏やかに過ごしたい。 世界が私を見捨てるのならば、私も世界を見捨ててやろうと森の奥に引き篭った少女。 なのに世界が私を放っておいてくれない。 自分にかまうな、近寄るな、勝手に幻想を押しつけるな。 それから私を聖女と呼ぶんじゃねぇ! 己の平穏のために、ふざけた能力でわりと真面目に頑張る少女の物語。 ※本作主人公は極端に他者との関わりを避けます。あとトキメキLOVEもハーレムもありません。 ですので濃厚なヒューマンドラマとか、心の葛藤とか、胸の成長なんかは期待しないで下さい。  

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

他国から来た王妃ですが、冷遇? 私にとっては厚遇すぎます!

七辻ゆゆ
ファンタジー
人質同然でやってきたというのに、出されるご飯は母国より美味しいし、嫌味な上司もいないから掃除洗濯毎日楽しいのですが!?

愛されない皇妃~最強の母になります!~

椿蛍
ファンタジー
愛されない皇妃『ユリアナ』 やがて、皇帝に愛される寵妃『クリスティナ』にすべてを奪われる運命にある。 夫も子どもも――そして、皇妃の地位。 最後は嫉妬に狂いクリスティナを殺そうとした罪によって処刑されてしまう。 けれど、そこからが問題だ。 皇帝一家は人々を虐げ、『悪逆皇帝一家』と呼ばれるようになる。 そして、最後は大魔女に悪い皇帝一家が討伐されて終わるのだけど…… 皇帝一家を倒した大魔女。 大魔女の私が、皇妃になるなんて、どういうこと!? ※表紙は作成者様からお借りしてます。 ※他サイト様に掲載しております。

無能なので辞めさせていただきます!

サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。 マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。 えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって? 残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、 無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって? はいはいわかりました。 辞めますよ。 退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。 自分無能なんで、なんにもわかりませんから。 カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。

どうも、死んだはずの悪役令嬢です。

西藤島 みや
ファンタジー
ある夏の夜。公爵令嬢のアシュレイは王宮殿の舞踏会で、婚約者のルディ皇子にいつも通り罵声を浴びせられていた。 皇子の罵声のせいで、男にだらしなく浪費家と思われて王宮殿の使用人どころか通っている学園でも遠巻きにされているアシュレイ。 アシュレイの誕生日だというのに、エスコートすら放棄して、皇子づきのメイドのミュシャに気を遣うよう求めてくる皇子と取り巻き達に、呆れるばかり。 「幼馴染みだかなんだかしらないけれど、もう限界だわ。あの人達に罰があたればいいのに」 こっそり呟いた瞬間、 《願いを聞き届けてあげるよ!》 何故か全くの別人になってしまっていたアシュレイ。目の前で、アシュレイが倒れて意識不明になるのを見ることになる。 「よくも、義妹にこんなことを!皇子、婚約はなかったことにしてもらいます!」 義父と義兄はアシュレイが状況を理解する前に、アシュレイの体を持ち去ってしまう。 今までミュシャを崇めてアシュレイを冷遇してきた取り巻き達は、次々と不幸に巻き込まれてゆき…ついには、ミュシャや皇子まで… ひたすら一人づつざまあされていくのを、呆然と見守ることになってしまった公爵令嬢と、怒り心頭の義父と義兄の物語。 はたしてアシュレイは元に戻れるのか? 剣と魔法と妖精の住む世界の、まあまあよくあるざまあメインの物語です。 ざまあが書きたかった。それだけです。

(完結)もふもふと幼女の異世界まったり旅

あかる
ファンタジー
死ぬ予定ではなかったのに、死神さんにうっかり魂を狩られてしまった!しかも証拠隠滅の為に捨てられて…捨てる神あれば拾う神あり? 異世界に飛ばされた魂を拾ってもらい、便利なスキルも貰えました! 完結しました。ところで、何位だったのでしょう?途中覗いた時は150~160位くらいでした。応援、ありがとうございました。そのうち新しい物も出す予定です。その時はよろしくお願いします。

【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?

みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。 ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる 色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く

処理中です...