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第二章

欠史

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それはラサの一族の中でだけ語り継がれる歴史だった。

かつてウルフの一族は、この地に住まう唯一の人間だった。
エレヴァンのすべてはウルフのものであり、この肥沃で広大な盆地で、ウルフのものたちはのびのびと、自由に暮らしていた。
現在のように、辺境の山間で隠れるように住まうことはおろか、遊牧や畑作を行う必要もなかった。
平地の草原には狩り切れないほど多くの動物がいた。
果実や芋、穀物、食べられる野草もまた、いくらでもあった。
エレヴァンのどこでも、彼らは腹を満たすことができ、またどこでも、寝起きすることができた。
朝廷はもちろん、都市も街もなかった。
商売や行政、法令も、その概念さえ存在していなかった。
ウルフは自然の中で、自然とともに、生きていた。
当時から災嵐はあったが、ウルフがそれによって命を落とすことはほとんどなかった。
災嵐は地形を変え、動植物を、地形を破壊する。
けれどウルフの人びとは見えない力によって守られていた。
竜巻や隕石はウルフを避ける。洪水も火災もウルフの周囲には広がらない。地震があっても、ウルフの周りでは地割れも崩落も起こらない。
まるで災嵐が、ウルフを避けているかのようだった。
少なからず犠牲はあったが、それでもウルフにとって、災嵐はさほどの脅威ではなかった。
ウルフにとって、エレヴァンは真の楽園だった。

しかしそれは永遠には続かなかった。
どこからともなくやってきた人びとの手で、エレヴァンは変えられてしまった。

突然現れた移住者たちを、ウルフは心よく迎え入れた。
エレヴァンが自分たちの土地だとは思っていなかったからだ。
ウルフには所有の意識がない。
彼らがどこからきたのかはわからないが、いずれにせよエレヴァン以外の地で人は生きていけず、同じ人間であるならば、それだけで同胞になる。
同胞を受け入れるのは当然のことだと、ウルフは彼らを受け入れた。
最初に現れた移住者は、自身をラサの一族であると名乗った。
ウルフはこのとき、まだウルフという姓を持っていなかった。
エレヴァンに住まうのは自分たちだけだったので、一族の姓を必要としなかったのだ。
『ウルフ』という名を提案したのは、移住者、ラサだった。
かつてこの地を統べていたという、伝説の生物、『ウルフ』。
すべての生物の祖でもあるウルフの名は、エレヴァンの先住民たる彼らにふさわしいものだろうと、ラサは言った。

以後、エレヴァンにはさまざまな姓が現れた。
ラサの次に、ラプソという者がこの地にやってきた。
続いてサルクという者が。
人びとの流入は留まることを知らなかった。
移住者たちはエレヴァンで子を為し、加速度的にその数を増やしていった。
新たな姓が百を超えるころには、それまで千人に満たなかったエレヴァン内の人口は、二百万人にまで増えていた。
人びとがエレヴァンに持ち込んだのは新しい姓だけではない。
彼らはエレヴァンの中に社会を築いた。
農業と貨幣制度と文字がもたらされ、人民を統治する機関、朝廷が設置された。
エレヴァンに、社会革命が起こされた。

朝廷の長たる皇帝の座についたのは、もちろんウルフ族だった。
最も古くからこの地に住まう一族であることだけが、その理由ではない。
ウルフ族は移住者の子孫と比べて、頑強な肉体と優れた知性を持っていた。
彼らは百キロの道を休まず走り続けることができた。
百メートルの潜水が可能で、四千メートルを超える山を難なく登ることもできた。
頭の回転が速く、記憶力もよかった。
病気とは無縁で、目も鼻も耳も、常人の倍の鋭さを持っていた。
霊能力でさえ、ウルフに敵う者はいなかった。
なによりウルフが特別である証に、ケタリングがいた。
空を統べる者、ケタリング。
地上が人の者であるならば、天空はケタリングのものだった。
その空の王たるケタリングを従わせることができるのは、ウルフの一族の人間だけだった。
そのウルフが地上の王になることは、自明の理だった。
地上の玉座にふさわしい者は、ウルフをのぞいてほかにいなかった。

しかし彼らは、ほどなくしてその玉座から引きずり降ろされてしまう。

それはおよそ三百年前、五つ目の鐘塔が完成した時の出来事だった。
鐘塔は移住者がもたらした革新技術のひとつだった。
災嵐を逸らす防衛霊術の心臓にあたる装置。
巨大なその霊具は、移住者がもたらした知識と、ウルフの操るケタリングの力によって建てられた。
両者のどちらが欠けても、この巨大な建造物を完成させることはできなかっただろう。
鐘塔が完成したことによって、人びとは災嵐に見舞われることのない土地を手に入れた。
安全が保障されたその地に、人びとは集い、やがてそこは都市となった。
都市はみるみるうちに発展していった。
しかしその栄華の裏では、ウルフとラサの対立が深刻化していた。

都市ができたことで人間社会は複雑化していく。
多くの人が同じ土地に定住するためには、秩序がなくてはならない。
人間同士の争いを防ぐためにも、規則と義務を課さなければならない。
また人びとの上に立つウルフは、その模範でなければならない。
秩序の象徴でなければならない。
それが、ウルフに次ぐ権威者である、ラサの一族の主張だった。
けれどウルフはこれに反発した。
これまで一族だけで暮らしてきた彼らにとって、その不自由は耐えがたいものだった。
ウルフとラサの間には『皇帝』というものに対して大きな認識の差があった。
ラサにとってそれは偶像だった。
機能性は必要ない。人びとの心を奪う御旗であればよかった。
ウルフにとってそれは文字通りの王だった。
群れを牽引する先導者であり、行き先を決める主人でなければならなかった。
両者の考え方の違いはそれだけに留まらなかった。
秩序を重んじるラサと、自由を重んじるウルフ。
両者の溝が埋まることはなく、やがて都市は二分していく。

個を重んじ、競争さえも自由とするウルフ派にはラプソやサルクといった一族が属した。
中でもラプソは筆頭で、ウルフとラサに次ぐ古い移住者の一族であったが、ラサとは異なりウルフに迎合することを選んだ。
移住者の生き方に先住民を巻き込んではならない。
むしろ変わるべきは移住者である。
ウルフはエレヴァンの中で、緩やかだが長い繁栄にあった。
それはウルフの生き方があったからだ。
ラプソは自分たちも同じようにこの地に根付くことを望んでいた。
そのためにはウルフに沿わなければならない、と考えていた。
ウルフはそんなラプソを受け入れた。
両一族間では多くの血縁が結ばれ、兄弟氏族のような関係を築いていった。
しかし派閥としての勢力はラサ派の足元にも及ばなかった。
ウルフは一部の特権的階級にあった有力氏族に支持されていたが、ラサは市民や新興の有力者、数だけでいえばウルフなど足元にも及ばないほど多くの人びとをその勢力下においていた。
平穏の中にあるエレヴァンでは、指導力よりも協調性が求められる。
ウルフは次第に朝廷内で力を失っていった。
朝廷内での発言力は下がり、特権もひとつまたひとつと失っていった。
ラサが望んだとおりの、お飾りの皇帝へと成り下がっていった。
けれどそれらはウルフにとって大きな問題ではなかった。
彼らはもともと野を生きるものだった。
皇帝という、群れの長の名を冠しながらも、実際になにものも率いてはいないという矛盾を不快に感じてはいたが、権力に執着のない彼らは、清々しくも思っていた。
お飾りの存在であれば、煩わしい政務に関わる必要もない。
暇を得たウルフは、存分に羽をのばした。
以前のように、気ままにケタリングを呼び寄せ、その背にのって空をかけ、獣を狩った。
彼らは思い知る。
長い時の中で、本来自分たちがどのような生き物であったか忘れていたのだ。
しかしその身に流れる血には、霊魂には、しっかりと刻み込まれていた。
エレヴァンの地と、広大な空。
ケタリングで飛び回る自由。
胸躍る狩猟と採集。
家族とのささやかな営み。
それだけで十分だったのだ。
それ以外にはなにもいらなかったのだ。
ウルフの一族はそれを思い出し、決意する。
皇帝の座をラサに明け渡すことを。
移住者たちが作った人間社会からは距離をおき、もとあった、ウルフの暮らしに戻ることを。

しかしそれは叶わぬ夢だった。
なぜならばウルフがそれを決めたとき、ラサもまた、ある決意を固めていたからだ。

ラサは玉座を放棄したいというウルフの要求を飲んだ。
けれど条件を出した。
それは玉座と共に、ケタリングを手放すことだった。

ケタリングの存在はエレヴァンの平和を脅かす。
人の手に扱える力ではない。
ラサは以前からケタリングの放棄をウルフに請願していた。
使い方次第では、便利な重機にも、大型輸送機にも、大量破壊兵器にもなりうる。
鐘塔の建設など大規模な開発工事にはかかせない存在だったが、その強大な力がウルフの一手に握られているという現状は、容認できるものではなかった。
ウルフの一族が移住者たちを同じ人間だとみなしたように、移住者であるラサもまた先住者のウルフを同じ人間だとみなしていた。
どれだけ優れていようとも、聡明であろうとも、必ず過ちを犯す。
それが人間であると、ラサの一族は考えていた。
人間を信じてはならない。
人の手に余る力は、必ず、人以外のものが管理しなければならない。
ラサはずっとケタリングの存在を危惧していた。ケタリングが『兵器』として扱われる前に封じ込めなければならないと、ずっと試案を巡らせていた。
一族の中で練られ続けてきたその方策は、五つ目の鐘塔が完成したことで、実行されることとなる。
五つの鐘塔を建立するのに五百年の時がかかった。
その五百年の間に、ウルフとラサの間にできた溝は埋められないものとなってしまった。
次の鐘塔が完成するまでに、この溝が埋まることはない。
それどころか、エレヴァンではじめて、人間同士による大きな争いが起こる。
そう予見したラサは、それ以上の鐘塔の建立を諦め、ウルフを放逐する決断を下した。

ラサは周到だった。
自分たちから手は出さなかった。
ウルフが反発するとわかっていて、ケタリングの放棄を提案したのだ。
皇帝の座を退き、野山に戻るのであれば、ケタリングを手放し、二度と従えてはならない。
また皇帝としてあり続けるのであっても、ケタリングの管理権限は、以降朝廷のものとする。
この条件を、ウルフが飲むはずはなかった。
なぜなら彼らはケタリングとともに生きてきたのだ。
自らの半身といってもいいその存在を、手放すことはおろか、朝廷に管理を委ねるなど、容認できるはずがない。
しかしラサもまた一歩も引かなかった。
彼らはケタリングを災嵐に次ぐ人類の脅威だと考えていた。
ウルフがいくら人間社会とは関りを断つと言っても、同じエレヴァンにある以上、不可侵ではいられない。決して広くないこの土地で、交わらずに生活していくことなどできない。
ラサは危険を排除しなければならなかった。
より多くの人命を、人びとの生活を守るために。
ウルフの尊厳を奪い取ってしまわなければならなかった。
ラサにはその責任があった。
エレヴァンに人口が増えたのは、五つの鐘塔と厳密な社会的秩序が不可欠となったのは、ラサが原因だったからだ。
鐘塔をつくり、都市をつくった。
エレヴァンに本来なかった、大規模な人間社会をつくってしまった。
災嵐で死ぬはずだった命を、ラサは救った。
一人を救い、その一人が残した子らを救い、さらにその子孫たちを救った。
生かした責任を、ラサはとらなければならなかった。

ラサはケタリングの所有を決して認めなかった。
ウルフもまた決してケタリングを手放そうとはしなかった。
そしてついにウルフは武力行使に出る。
ラプソをはじめとしたウルフ派の氏族を味方につけ、朝廷からラサを追い出そうとする。
けれどこれは失敗に終わる。
すべてはラサの思惑通りだった。
ウルフの操るケタリングはラサの手で瞬く間に無力化され、最大の武器を失ったウルフ派はあえなく朝廷を追われることとなった。

ラサは長い時間をかけて計画を練っていた。
ウルフが自らケタリングを手放すことは絶対にない。
であれば、ケタリングそのものを無力化するほかない。
ラサは内密に研究を進め、ケタリング専用の捕縛霊術を開発、また可燃性の非常に高いケタリングを安全に解体する方法を編み出し、ウルフの持つケタリングを完全に無力化した。
血の一滴も流れることなく、ウルフとラサの戦いは幕を下ろした。
全てのケタリングを捕縛、解体され、かつケタリング以外の武装も解除されてしまったウルフ派は、あえなく南部の山奥に敗走した。
ウルフがいくら突出した能力を有していても、多勢に無勢は覆しようがなかった。
数、技術、そして計画性の三点でもって、ラサはウルフを圧倒した。

こうしてウルフの時代は終わり、ラサという新たな皇帝のもと、新しい時代がはじまった。

それが今から約三百年前の話だった。
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