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第二章

身代

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ラウラは目を覚ます。
不完全な覚醒だ。
身体は重く、ひどい頭痛がする。
目を開けているつもりだが、視界はぼやけて、膜でもかかっているかのように白んでいる。
「……カイさん?」
返事は無なかった。
ラウラは目を強くこすってから周囲を見渡す。
鳥の巣のような小屋の中には自分一人しかいない。
開け放たれた出入口から、昇ったばかりの朝日が差し込んでいる。
小屋の中に溢れる硝子類は、その朝日に反射してキラキラと輝いている。
ラウラは硝子の水瓶に目を止め、倦怠感を押し殺し、寝台から起き上がった。
硝子と同じように朝日に照りかえる水をすくいあげ、喉を潤す。
水瓶はあっという間に空になる。
ラウラの乾ききった身体には、いくら水をやっても足りなかった。
「起きたか」
いつの間にか扉の外に現れたレオンは、ラウラの足元に袋を投げてよこした。
中には胡桃や山葡萄といった木の実が入っている。
「食え」
「あ……ありがとうございます」
ラウラはまだどこかぼんやりとした意識のまま、レオンに訊ねる。
「あの、カイさんは……?」
「外だ」
「そうですか……」
先に起きて、外の空気を浴びにいったのだろうか。
ラウラはそう思って、レオン越しに、小屋の外を覗き込んだ。
しかし太陽光を反射する雪があまりにも眩しく直視することはできなかった。
ラウラは目を細め、レオンに視線を移した。
光を背にするレオンの表情は、至近距離でもよく見ることができなかった。
「あの……?」
レオンは戸口を塞ぐように、仁王立ちしたまま動かない。
「カイさんは、外なんですよね?」
「ああ」
「ご無事なんですよね?」
「死んじゃいねえ」
それを聞いて、ラウラは血相を変える。
「なにかあったんですか!?」
ラウラはほとんど叫ぶようにして言った。
しかし起き抜けの喉はその大声に耐えきれず、ラウラは咳き込み、弱弱しく膝をついた。
「なにもねえよ。あいつももうあらかた抜けた」
光の粒のような氷雪が、冷たい風と共に小屋の中に吹き込んでくる。
ラウラの火照った顔は、みるみるうちに冷やされていく。
「あいつは外に張った幕屋にいる」
レオンはラウラを見下ろしながら、低い声で言った。
「それを食ったら、湯を、あいつに持ってってやれ」
「どうして外に……」
「ここじゃ二人を寝かすには手狭だからだ」
「でも……」
ラウラは寝台を振り返った。
確かに二人で横になるには手狭だった。
「でもそれなら、私が外に出たのに……」
ラウラは声を震わせた。
「あの、カイさんは、本当に大丈夫なんですか……?」
「それを知りたきゃはやく食え」
食うまでは外に出さない、と、レオンは頑な態度で言った。
ラウラは慌てて木の実を頬張った。
木の実は茹でてあった。柔らかく、口に入れると溶けるように崩れた。
ラウラは何度も咳き込みながら、必死になって喉の奥に押し込んだ。
味はしなかった。
芳ばしい香りも、感じることはできなかった。



小屋を少し下ったところに、一本の柱と四本のロープで固定された、簡易的な幕屋が立てられていた。
中には筵が一枚敷かれているだけだった。
カイはその上で、ぐったりと横たわっていた。
「ん……」
ラウラの姿を目にしたカイは、口に含んでいた布を吐き出し、言った。
「よかった……目、覚めた、か……身体は、平気?辛い、とこ、ない……か?」
ラウラは手にしていた桶を落とした。
外気で冷やされ、人肌になった湯が、ラウラの足元に広がった。
空になった桶は転がり、カイの額の腕に触れて止まった。
「うっ……」
カイは小さく呻いた。
「ああ、ほら、起き抜けに、動くから……」
そう言って笑うカイの声は、枯れ果てていた。
まるで喉に穴が空いているように、ひゅうひゅうと、空気の漏れる音が絶え間なく口から漏れている。
ラウラはその場に膝をついた。
震える手をカイにのばし、そっと、両手で顔を包み込んだ。
カイの顔は、冷たかった。
頬は土色で、目は落ちくぼみ、唇は裂けて血がにじんでいる。
それは今にも息を引き取りそうな、あるいは息をひきとったばかりの死人のような顔だった。
さらにカイは手足を荒縄で縛られていた。
身動きのとれないその身体は、汗と吐しゃ物と排泄物にまみれ、ひどい悪臭を放っていた。
「ごめん、おれ、今、臭いから、あんまり近づかないで……」
カイは首をふってラウラの手を払おうとするが、その力はあまりにも弱い。
「臭いなんて……!」
ラウラは嗚咽に喉を引きつらせながら、汚れも悪臭も気に留めず、カイを縛る荒縄を解こうとした。
「ダメだ、ラウラ」
カイは苦しそうな声で言った。
「まだ解いちゃだめだ。一時よりは落ち着いたけど、また痛み始めるかもしれないから……」
カイに言われても、ラウラは手を止めなかった。
大粒の涙をこぼしながら、懸命に荒縄を引っ掻く。
しかし固く結ばれた荒縄は、ラウラの非力な手では解くことができない。
ラウラはあきらめず、荒縄に嚙みついた。
「ラウラ……やめて……怪我するよ……」
「怪我をしているのはカイさんです!」
ラウラは荒縄に歯を立てながら、涙をあふれさせた。
「なんで……私と一緒に眠ったのではなかったんですか?どうしてそんな……ボロボロになって……なにがあったんですか……あの人にやられたんですか……!?」
「違う。レオンはなにもしてない」
カイはレオンへの疑いをきっぱり否定すると、情けない笑いを漏らした。
「かっこつかなかったな。心配かけたくなったのに、ばれないようにしようと思ったのに、だめだったな。――――ださいなあ、おれ」
「いや、お前はよくやった」
小刀を手にしたレオンが、幕屋の中に入ってきた。
「賭けはお前の勝ちだ、カイ」
レオンは小刀の切っ先をカイに向けた。
ラウラは咄嗟にその間に割って入り、両手を広げてカイをかばった。
「なにをするんですか!?」
「うるせえな」
レオンはラウラを片手で押しのける。
そして小刀でカイを縛る荒縄を断ち切った。
「えっ――――おれ、まだ――――」
「もう充分だ」
レオンは懐から酒瓶を取り出し、自分で一口飲んでから、カイに差し出した。
「ああ……」
カイは手を出して受け取ろうとするが、握力がなく、瓶をつかむことができない。
「しょうがねえな」
レオンは瓶を直接カイの口元に運んでやる。
カイは微笑み、中身を一口飲む。
「んんっ……!」
カイは激しく咳き込むと、絞り出すように言った。
「のどが……焼ける……」
「もう枯れ切ってるんだ。一回焼き払っちまった方が治りが早い」
「めちゃくちゃだな、あんた……。でもやっぱすげえな。あんたは……レオンはひとりでこれ、耐えたんだもんな。おれには絶対無理だ。……すげえな、ほんと、かっけーよ……」
「ばかが。お前、おれになにをされたのか忘れんなよ」
もう一口飲め、とレオンは瓶を押し付けたが、カイは首を振って、そのまま項垂れるように崩れ落ちた。
「カイさん!」
ラウラはカイを抱きかかえる。
「――――ラウラ」
カイは震える手をラウラに伸ばし、その頬にそっと触れる。
「ごめんな。あのとき――――」
カイはなにかを言いかけたが、ふいに糸が切れたように目を閉じ、動かなくなる。
「カイさん!」
ラウラは必死になって揺り動かし、呼びかけるが、カイは反応を示さない。
「あわてんな。寝ただけだ」
「ねっ、ね、寝た……?」
ラウラは泣きじゃくりながらカイの顔に耳を近づける。
呼吸音は苦しげだが規則的で、レオンの言う通り寝息のそれだった。
レオンはラウラの手からカイを奪い、担ぎ上げる。
「眠れたっつうことは、幻痛がなくなったってことだ。――――芙蓉はおおかた抜けた」
「わたっ、私は、でも、なんで、平気なんですか」
「……」
「い、痛みを越えなければいけないんですよね?私、幻痛、すこしも感じてません。なんでですか。薬は途中で切れるはずじゃ――――」
「こいつが自分の分を飲ませたんだ」
「えっ――――」
ラウラは絶句する。
「お前は三日間昏睡できた。だから幻痛もその間になくなった」
「じゃ、じゃあ、カイさんは――――」
「当然、こいつはもろにくらった」
ラウラは暗やみの底に突き落とされる。
体温が一瞬で失われる。
とめどなく流れる涙さえ、氷の滴のように感じる。
しかし心臓は跳ね上がり、激しく全身を打ち付ける。
「なんで――――そんなことを、し、したんですか……?」
「それはこいつに直接訊け」
レオンはつき放すように答えると、ラウラが落とした桶を顎で指した。
「雪を汲んでこい。もう一度湯を沸かす」
レオンはそれだけ言うと、カイを抱えて小屋に戻っていった。
ラウラはほとんど過呼吸を起こしていたが、歯を食いしばって立ち上がると、急いで雪を汲み、二人のあとを追った。

小屋に戻ったレオンはカイの汚れた衣服を脱がせ、身体を清めてやった。
カイの身体は、頭の首つけ根から手足の首の先まで、瘢痕文身が刻まれていた。
全身をくまなく覆う緻密な紋様。
それを目にしたレオンは、一瞬だけ手を止めたが、構わずに清拭を続けた。
カイの全身には瘢痕文身だけでなく、他にも無数の擦過傷や打撲痕があった。
新しい傷跡は瘢痕文身に紛れて目立たなかったが、それでも一目で重症であることが窺えた。
ラウラは羞恥心も忘れ、痛本来自分が負うべき傷あとを、唇をきつく噛みながら、凝視した。
「服を洗ってやれ」
レオンはラウラにカイの衣服が沈められた水桶を押し付けた。
ラウラは言われた通りに洗濯をはじめた。
唇にはうっすらと血が滲んでいたが、ラウラは舐めとることもせず、一心不乱に手を動かした。
水桶につけた衣服からは、際限なく汚れが滲み出た。
血と汗と排泄物。カイ受けた苦痛の残滓。
ラウラは涙をとめることができなかった。
せめて自分の涙が洗濯する桶の中に落ちないよう、袖で何度も顔を拭った。
カイがなぜ薬を飲まなかったのか。
眠らずに正面から幻痛を乗り越えようとしたのか。
理由は明白だった。
すべてはラウラを守るためだった。

舌を噛まないために轡をつけ、錯乱して自傷に走ることがないよう身体を縛る。
それでもなお、身体は動いた。
それだけ苦痛はすさまじいものだった。
耐えがたいものだった。
暴れ、傷つき、その傷は幻痛と合わさってよけいにカイを苦しめる。
瞬きの合間も意識を失うことは叶わない。
夏とはいえ雪の残る山頂の岩場で、氷のように冷たく固い筵の上で、一年より長い一晩を過ごす。
半分の一日半でも、ラウラにその苦を背負わせないために、カイは自らを犠牲にした。
相手がシェルティでも、カイは同じ選択をしただろう。
自らの犠牲をいとわない。
まっさきに盾になる。
いつでも重たい方の荷を背負う。
それがカイという人間だった。
ラウラはそんなカイを尊敬していた。
渡来人だからではない。
縮地の漕手だからではない。
ラウラはカイという一個人を、敬愛し、慕っていた。
そして同時に、放っておいてはいけない、と思っていた。
彼を守るのだと。自分が彼の助けになるんだ、と。
(それなのにまた、助けられた)
ラウラは自身の無力を憎んだ。
(私はいつまでたっても役立たずのままだ)
(私は……)
涙が一滴、桶の中に落ちる。
桶の中にかすかな波紋が広がる。
ラウラははっとして、両手で頬をぴしゃりとはたいた。
(しっかりしろ、ラウラ・カナリア!)
ラウラは自身に言い聞かせる。
(まだ終わってないんだ)
(今からでもできることがある)
(ここで腐ってたら、またおなじだ。なにも進歩がない、本当の役立たずになってしまう)ラウラは何度も水を入れ替え、少しの色も出なくなるまで、洗濯を続けた。
(カイさんは私をかばってくれた)
(身代わりになってくれた)
(それなら、私も、カイさんに代わろう)
(カイさんに代わって、カイさんの大切なものを取り戻そう)
日が傾きはじめたころに、ようやくラウラは洗濯を終えた。
ラウラの手は真っ赤に腫れあがっていたが、カイの服には染みのひとつ残っていなかった。
ラウラは顔を洗い、湯をたっぷり飲んだ。
レオンに与えられた両手いっぱい分の木の実を、詰め込むようにして食べた。
身体の倦怠感は以前強く、頭痛も治まっていない。
無理やり食物をいれたので吐き気もある。
しかしラウラは拳を握りしめた。
(戦うんだ)
決意を胸に、ラウラは靴と下衣を脱ぎ捨て、雪渓の中に分け入った。
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