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第二章
芙蓉
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芙蓉は標高二千メートルの高地に生える草本だった。
ラプソ族は古くからこれを秘薬の原料として重宝し、外部にその存在を明かすことなく利用していた。
芙蓉は葉を乾燥させ、吸引することで、さまざま効果を得ることができる。
まずは鎮静作用、あらゆる不安からの解放。
次に覚醒作用、眠気を晴らし意識が冴える。
最後に興奮作用、血圧の上昇を伴う活力の獲得。
他にも食欲の抑制や鎮痛などさまざまな効能がある。
芙蓉は山麓の厳しい環境で生活するラプソにとってなくてはならないものだった。
特に晩春と中秋の年二回行われる野営地と家畜の大移動は、頑健な若者ならまだしも、老人や傷病人には耐えがたいものだった。
一週間に及ぶ過酷な移動に、芙蓉は不可欠だった。
しかし芙蓉は万能薬ではない。
脳を麻痺させ、痛みや疲れを一時的に感じなくさせているだけだ。
薬が切れれば、それらはまたぶり返す。
それどころか一時的に抑えられていた反動で、何倍、何十倍にも膨れあがって襲いかかる。
芙蓉は得られる効果が強力な分、反作用も強かった。
内側から臓腑を引き裂かれるような、死んだ方がましだと思える痛み。
気を失うことはできず、ただ収まるのを待つしかない。
芙蓉を一日吸えば幻痛は翌日から一週間ほど続くが、耐えきれるものはラプソの一族の者でも百人に一人もいないだろう。
たいていは芙蓉を再吸引することで痛みを和らげる。
そして二度と芙蓉を手放すことができなくなる。
芙蓉は希少で、一年で限られた量しか採取することはできない。
その強烈な効果と副作用、そして希少性のために、ラプソはこれを一族の秘薬とした。
基本的には五十路を越えた者、もしくは回復の見込みがない傷病者のみが芙蓉の吸引を許される。
彼らは芙蓉を頼りに、厳しい遊牧生活に耐える。
しかし心身を消耗させる芙蓉に依存する彼らは、長く生きることができない。
芙蓉の接種を一年も続ければ、心身は機能を停止する。
発作を起こして死んでしまう。
それをわかっていながら、ラプソは扶養を容認していた。
貧しく、労働力となり得ぬ者は口減らしすることが暗黙の了解とされているこの地の遊牧民にとって、芙蓉による死は必要な淘汰だった。
「拷問や脅迫に使うこともあるがな」
レオンは湯を沸かしながら、芙蓉についてかいつまんだ説明をした。
カイはしばらく使い古された小鍋から立ち昇る湯気を睨んでいたが、やがて口を開いた。
「痛みに耐えきれなかったらどうなるんだ?」
「発狂するか舌を噛んで死ぬ」
「……そっか」
「おじけづいたか」
「いや、薬漬けにされるよりずっといい」
レオンは鼻をならし、二人にそれぞれ椀一杯分の薬茶を差し出した。
「飲め」
「これは?」
ラウラは鼻を近づけて薬茶の香りをかぎ、あっと、声を漏らした。
「これ、殿下が飲まされていた薬と同じものでは?」
「えっ?!」
いまにも口をつけようとしていたカイは、慌てて椀を遠ざける。
「びびんなよ。ただの睡薬だ」
「睡薬?」
「睡薬だったんですか?」
ラウラは驚きに目を見開き、改めて椀の中を覗き込んだ。
白く濁った茶だった。
ほんのりと百合に似た香りがする。
「ラウラ、知ってるのか?」
カイに問われて、ラウラは頷いた。
「飲んだら眠くなる薬のことです」
睡薬は薄雪草を原料とした薬品だった。
薄雪草の花弁から抽出した成分によって作られるが、抽出作業は困難で、膨大な時間がかかる。故に希少な薬品として一般に流通はしていない。
ラウラがこれを知っていたのは、西方霊堂で薄雪草の栽培と加工が行われていたからだ。
しかしラウラの知っている睡薬は粉末状のもので、茶として煎じるものではなかった。
香りも百合というよりは菊に近かった。
「私の知っている睡薬とは、まるで別物ですが……」
ラウラの疑問に、レオンは煩わしそうに鼻を鳴らす。
「これはウルフの技法で作ったもんだからな」
「あなたが作ったんですか?」
「だからどうした。お前が知ってるモンと、効果に差はねえぞ」
ラウラは驚嘆した。
薄雪草の加工技術を持つ薬師は、エレヴァン全土を見ても、五人もいないはずだった。
(この人は、一体なにものなんだろう)
(ウルフ族って、一体……)
湧き出た疑問を、しかしラウラは飲み込んだ。
今はそれを訊いている場合ではない、と自分に言い聞かせ、レオンに鋭い視線を向けた。
「では、ラプソ族が殿下に飲ませていた睡薬は、あなたが作ったものなんですね」
「そうだ」
レオンの答えを聞いて、ラウラは再び薬茶に目を落とした。
それは確かに、シェルティが飲まされていたものと同じだった。
「え?あれ?じゃあ、シェルティはただ眠らされてるだけってことか?」
カイはまだ理解が追いついていない様子だった。
「そうなりますね」
そんなカイを安心させるために、ラウラは笑顔を繕った。
「――――よかった。カイさん、私たち、どうやらすっかり騙されていたみたいです」
「毒じゃなかったのか?」
カイは慌てふためきながらレオンに訊く。
「な、なあ、あんたさ、これってさ、なんか中毒になったりするか?飲み過ぎたらよくないとか」
「ああ?ねえよ、そんなもん。むしろ飲み過ぎりゃ効き目が弱くなるくらいだ」
「そうなんだ」
カイは目を閉じて、長く深く息を吐いた。
「よかった……」
「ですが、あの場にいた殿下も、芙蓉の中毒にはかかってしまっているんじゃ……」
ラウラの懸念は、レオンが即座に否定する。
「寝てるときに吸っても大した効果はねえ。だから副作用も軽く済む。ラサは悪知恵が働くからな。連中、芙蓉漬けにするより眠らせて黙らせておいた方がことがうまく進むと考えたんだろ」
「本当によかった」
カイは目をあけてほほ笑んだ。緊張がほぐれたためか、その瞳はかすかに潤んでいる。
「……ぬか喜びしやがって」
レオンは舌打ちをし、煩わしそうに手を振った。
「わかったら早く飲め。それを飲めば副作用の一番きついところを眠ってやりすごせる。もう少し量があれば、眠ってる間に薬が抜け切れたろうが、こいつは貴重品だ。あるだけマシと思って、残りの分はてめえらでどうにか耐えろ」
芙蓉の副作用である幻痛は、その摂取量や期間に関わらず、芙蓉が切れて最初の三日間に最も強く現れる。
対して、レオンの手元にある睡薬は三日分、二人で割れば一日半分しかない。
半分を昏睡状態でやり過ごすことができるとはいえ、残りの三十六時間は幻痛に耐えなければならない。
立っていられないほどの痛みを一日半、昏睡状態から回復した直後の疲弊した身体でやりすごさなければならないのだ。
特にまだ十五歳の、心身共に未発達なラウラの受ける被害は深刻なものになるだろう。
幻痛を乗り越えられたとしても、身体か心のどちらか、あるいは両方に後遺症が残る可能性は十分にある。
「かまいません」
それを聞いても、ラウラは怯まなかった。
「だからといって、芙蓉を吸い続けることはできませんから」
「……そうだな」
ラウラと同じように、覚悟を決めた瞳で、カイは頷いた。
なぜか二人とも、これが睡薬であることを確信していた。
レオンが自分たちを騙し、また毒を飲ませようとしているとは思わなかった。
二人は知らぬうちに、目の前の男を、レオンに対して、説明のつかない信頼を抱いていた。
この男は嘘をつかない。
目論見はあっても、道理を外れることはない。
なぜかそう思わせる雰囲気が、レオンにはあった。
二人は同時に椀に口をつけた。
ラウラはゆっくりと、一滴も残さず、中身を飲み干す。
温かい液体が喉を流れ落ちる。
かすかな苦味のあとで、花の香りが広がる。
ラウラが空になった腕を置くと、カイもまた腕を置いた。
ラウラの位置からはちょうど見えない位置に。
「どういうつもりだ?」
低い声で、レオンは言った。
「え?」
ラウラはなにか間違いを犯してしまったのだろうかと慌てたが、見るとレオンの視線はカイに向けられていた。
カイはただ黙って首を振った。
「てめえ――――」
カイの真剣な目つきから意図を読み取ったらしいレオンは、頭を乱暴にかきむしり、ぶっきらぼうに言った。
「バカが。知らねえぞ――――だが忘れんなよ。てめえが死ねば、この女にも価値はなくなるんだ。てめえが死んだらこいつは、身ぐるみはいで、春宿に売り飛ばしてやるからな」
脈絡のない暴言に驚き、説明を求めて、ラウラはカイを見た。
「そんなことさせないよ」
カイはラウラから目を逸らし、取り繕うように、話を変えた。
「それにしても、あんたとラプソの人たちって、いったいどういう関係なんだ?けっきょく敵なのか?味方なのか?」
「そんなこと知ってどうする」
「あんたらの目的がおれ……縮地なのはわかったけどさ。結局誰がおれたちの敵なのかよくわかんなくて、もやもやするんだよ」
カイは不自然に気安い態度で言った。
「教えてくれよ。そのへんすっきりさせとかないと、よく眠れそうになくてさ」
「……くそが」
レオンは飲みかけの酒瓶を傾けた。
何度か喉を鳴らし、酒瓶の中身を大きく減らしてから、吐き捨てる。
「――――敵でも味方でもねえよ。おれとあいつらは」
「でも最初は協力してたんだろ?」
「てめえらの拉致計画を持ち掛けてきたのはあいつらだ。連中は情報はあったが力はなかったからな。ケタリングが必要だったんだろ」
「あんたはそれに乗ったのか」
「利害は一致してたからな」
「でもラプソの人たちは、あんたが先走ったって言ってたけどな?おれたちを拉致するのは、まだ先の予定だったって――――あんたが計画を台無したって。自分たちを裏切って、縮地を独り占めしようとしたんじゃないのかって」
「なにが計画だ。あいつらの無茶な指示に従ってたんじゃ、拉致するより先におれが落とされる」
「自信がなかったのか」
カイ挑発するように笑った。
「あんた、結局おれらに逃げられたしな。おれたちが偶然ラプソのとこに行ったからこうなったけど、そうじゃなきゃ計画は大失敗だったわけだし、連中があんたに対してボロクソ言うのも当然だよな」
「いっとくがてめえ、あのときおれを振り切れたと思ってんなら、それは間違いだ。お前らが飛んだ方向がラプソの縄張りだったから、あえて泳がせたんだよ」
「そうじゃなきゃ捕まえられたって?」
「当たり前だ。お前らみてえな間抜け逃すわけねえだろ」
言葉の割に苛立った様子はなく、どこか気心の知れた相手に軽口を言うような調子でレオンは言った。
「自分から敵に助けを求めて、まんまと薬漬けにされて、それに一週間も気づかねえんだからな。救いようがねえ」
レオンは舌打ちをし、残り少なくなった酒瓶をあおった。
ラウラがゆっくりと船を漕ぎ始めたので、カイはラウラに横になるように言った。
「カイさんは……」
「おれはまだ眠くないから」
カイはそう言って微笑み、レオンとの話に戻った。
「とにかくあんたはおれたちを薬漬けにさせたくなかったわけだ。お互いのやり方が気に食わなくて、あんたたちは対立したわけだ」
カイは憮然として腕を組んだ。
「でもそれなら、もっとはやく連れ出してくれればよかったのに。そうしたらわざわざ薬を抜く必要もなかっただろ?」
「立場分かってんのか、お前」
空になった酒瓶を投げ捨て、レオンは言った。
「知ってりゃ当然そうしたに決まってんだろ」
「知らなかったのか?おれたちが芙蓉吸わされてたこと」
「ああ。――――あそこの若い連中が知らせにくるまではな」
「若い連中?」
「ラプソは一枚岩じゃねえ。特に老いぼれとガキどもで軋轢がある。正義漢ぶったガキどもは卑怯な手を使う老いぼれに業を煮やしたが、自分らじゃどうにもできねえっておれに匙を投げたんだ」
カイは自分たちを最初に幕屋から連れ出した若い男女のことを思い出し、得心がいった。
「お礼を言わなきゃな、あの人たちに」
カイの言葉に、ほとんど眠りかけていたラウラは、はっとして顔をあげた。
「そうですね、お礼を、しなければ……」
顔をあげても、目蓋を持ち上げることはできなかった。
気を抜けばすぐにでも眠りに落ちてしまいそうだった。
しかしあらゆる不安と恐怖が、ラウラの意識を留めていた。
薬は抜けるだろうか。痛みに耐えられるだろうか。
自分がもしこのまま目覚めなければ、縮地は、災嵐は、どうなるだろうか。
(おにいちゃんとの約束、守れなかったら、どうしよう……)
「大丈夫だよ」
まるで心の内を読んだかのように、カイはラウラの頭を撫でて、言った。
「ゆっくりおやすみ。起きたら、きっと痛みもなにもない。全部がおわってるから」
「……カイさん」
カイさんは眠くないのですか?ラウラはそう問おうとしたが、カイの手でそっと目元を覆われ、そのまま意識を手放してしまった。
芙蓉は標高二千メートルの高地に生える草本だった。
ラプソ族は古くからこれを秘薬の原料として重宝し、外部にその存在を明かすことなく利用していた。
芙蓉は葉を乾燥させ、吸引することで、さまざま効果を得ることができる。
まずは鎮静作用、あらゆる不安からの解放。
次に覚醒作用、眠気を晴らし意識が冴える。
最後に興奮作用、血圧の上昇を伴う活力の獲得。
他にも食欲の抑制や鎮痛などさまざまな効能がある。
芙蓉は山麓の厳しい環境で生活するラプソにとってなくてはならないものだった。
特に晩春と中秋の年二回行われる野営地と家畜の大移動は、頑健な若者ならまだしも、老人や傷病人には耐えがたいものだった。
一週間に及ぶ過酷な移動に、芙蓉は不可欠だった。
しかし芙蓉は万能薬ではない。
脳を麻痺させ、痛みや疲れを一時的に感じなくさせているだけだ。
薬が切れれば、それらはまたぶり返す。
それどころか一時的に抑えられていた反動で、何倍、何十倍にも膨れあがって襲いかかる。
芙蓉は得られる効果が強力な分、反作用も強かった。
内側から臓腑を引き裂かれるような、死んだ方がましだと思える痛み。
気を失うことはできず、ただ収まるのを待つしかない。
芙蓉を一日吸えば幻痛は翌日から一週間ほど続くが、耐えきれるものはラプソの一族の者でも百人に一人もいないだろう。
たいていは芙蓉を再吸引することで痛みを和らげる。
そして二度と芙蓉を手放すことができなくなる。
芙蓉は希少で、一年で限られた量しか採取することはできない。
その強烈な効果と副作用、そして希少性のために、ラプソはこれを一族の秘薬とした。
基本的には五十路を越えた者、もしくは回復の見込みがない傷病者のみが芙蓉の吸引を許される。
彼らは芙蓉を頼りに、厳しい遊牧生活に耐える。
しかし心身を消耗させる芙蓉に依存する彼らは、長く生きることができない。
芙蓉の接種を一年も続ければ、心身は機能を停止する。
発作を起こして死んでしまう。
それをわかっていながら、ラプソは扶養を容認していた。
貧しく、労働力となり得ぬ者は口減らしすることが暗黙の了解とされているこの地の遊牧民にとって、芙蓉による死は必要な淘汰だった。
「拷問や脅迫に使うこともあるがな」
レオンは湯を沸かしながら、芙蓉についてかいつまんだ説明をした。
カイはしばらく使い古された小鍋から立ち昇る湯気を睨んでいたが、やがて口を開いた。
「痛みに耐えきれなかったらどうなるんだ?」
「発狂するか舌を噛んで死ぬ」
「……そっか」
「おじけづいたか」
「いや、薬漬けにされるよりずっといい」
レオンは鼻をならし、二人にそれぞれ椀一杯分の薬茶を差し出した。
「飲め」
「これは?」
ラウラは鼻を近づけて薬茶の香りをかぎ、あっと、声を漏らした。
「これ、殿下が飲まされていた薬と同じものでは?」
「えっ?!」
いまにも口をつけようとしていたカイは、慌てて椀を遠ざける。
「びびんなよ。ただの睡薬だ」
「睡薬?」
「睡薬だったんですか?」
ラウラは驚きに目を見開き、改めて椀の中を覗き込んだ。
白く濁った茶だった。
ほんのりと百合に似た香りがする。
「ラウラ、知ってるのか?」
カイに問われて、ラウラは頷いた。
「飲んだら眠くなる薬のことです」
睡薬は薄雪草を原料とした薬品だった。
薄雪草の花弁から抽出した成分によって作られるが、抽出作業は困難で、膨大な時間がかかる。故に希少な薬品として一般に流通はしていない。
ラウラがこれを知っていたのは、西方霊堂で薄雪草の栽培と加工が行われていたからだ。
しかしラウラの知っている睡薬は粉末状のもので、茶として煎じるものではなかった。
香りも百合というよりは菊に近かった。
「私の知っている睡薬とは、まるで別物ですが……」
ラウラの疑問に、レオンは煩わしそうに鼻を鳴らす。
「これはウルフの技法で作ったもんだからな」
「あなたが作ったんですか?」
「だからどうした。お前が知ってるモンと、効果に差はねえぞ」
ラウラは驚嘆した。
薄雪草の加工技術を持つ薬師は、エレヴァン全土を見ても、五人もいないはずだった。
(この人は、一体なにものなんだろう)
(ウルフ族って、一体……)
湧き出た疑問を、しかしラウラは飲み込んだ。
今はそれを訊いている場合ではない、と自分に言い聞かせ、レオンに鋭い視線を向けた。
「では、ラプソ族が殿下に飲ませていた睡薬は、あなたが作ったものなんですね」
「そうだ」
レオンの答えを聞いて、ラウラは再び薬茶に目を落とした。
それは確かに、シェルティが飲まされていたものと同じだった。
「え?あれ?じゃあ、シェルティはただ眠らされてるだけってことか?」
カイはまだ理解が追いついていない様子だった。
「そうなりますね」
そんなカイを安心させるために、ラウラは笑顔を繕った。
「――――よかった。カイさん、私たち、どうやらすっかり騙されていたみたいです」
「毒じゃなかったのか?」
カイは慌てふためきながらレオンに訊く。
「な、なあ、あんたさ、これってさ、なんか中毒になったりするか?飲み過ぎたらよくないとか」
「ああ?ねえよ、そんなもん。むしろ飲み過ぎりゃ効き目が弱くなるくらいだ」
「そうなんだ」
カイは目を閉じて、長く深く息を吐いた。
「よかった……」
「ですが、あの場にいた殿下も、芙蓉の中毒にはかかってしまっているんじゃ……」
ラウラの懸念は、レオンが即座に否定する。
「寝てるときに吸っても大した効果はねえ。だから副作用も軽く済む。ラサは悪知恵が働くからな。連中、芙蓉漬けにするより眠らせて黙らせておいた方がことがうまく進むと考えたんだろ」
「本当によかった」
カイは目をあけてほほ笑んだ。緊張がほぐれたためか、その瞳はかすかに潤んでいる。
「……ぬか喜びしやがって」
レオンは舌打ちをし、煩わしそうに手を振った。
「わかったら早く飲め。それを飲めば副作用の一番きついところを眠ってやりすごせる。もう少し量があれば、眠ってる間に薬が抜け切れたろうが、こいつは貴重品だ。あるだけマシと思って、残りの分はてめえらでどうにか耐えろ」
芙蓉の副作用である幻痛は、その摂取量や期間に関わらず、芙蓉が切れて最初の三日間に最も強く現れる。
対して、レオンの手元にある睡薬は三日分、二人で割れば一日半分しかない。
半分を昏睡状態でやり過ごすことができるとはいえ、残りの三十六時間は幻痛に耐えなければならない。
立っていられないほどの痛みを一日半、昏睡状態から回復した直後の疲弊した身体でやりすごさなければならないのだ。
特にまだ十五歳の、心身共に未発達なラウラの受ける被害は深刻なものになるだろう。
幻痛を乗り越えられたとしても、身体か心のどちらか、あるいは両方に後遺症が残る可能性は十分にある。
「かまいません」
それを聞いても、ラウラは怯まなかった。
「だからといって、芙蓉を吸い続けることはできませんから」
「……そうだな」
ラウラと同じように、覚悟を決めた瞳で、カイは頷いた。
なぜか二人とも、これが睡薬であることを確信していた。
レオンが自分たちを騙し、また毒を飲ませようとしているとは思わなかった。
二人は知らぬうちに、目の前の男を、レオンに対して、説明のつかない信頼を抱いていた。
この男は嘘をつかない。
目論見はあっても、道理を外れることはない。
なぜかそう思わせる雰囲気が、レオンにはあった。
二人は同時に椀に口をつけた。
ラウラはゆっくりと、一滴も残さず、中身を飲み干す。
温かい液体が喉を流れ落ちる。
かすかな苦味のあとで、花の香りが広がる。
ラウラが空になった腕を置くと、カイもまた腕を置いた。
ラウラの位置からはちょうど見えない位置に。
「どういうつもりだ?」
低い声で、レオンは言った。
「え?」
ラウラはなにか間違いを犯してしまったのだろうかと慌てたが、見るとレオンの視線はカイに向けられていた。
カイはただ黙って首を振った。
「てめえ――――」
カイの真剣な目つきから意図を読み取ったらしいレオンは、頭を乱暴にかきむしり、ぶっきらぼうに言った。
「バカが。知らねえぞ――――だが忘れんなよ。てめえが死ねば、この女にも価値はなくなるんだ。てめえが死んだらこいつは、身ぐるみはいで、春宿に売り飛ばしてやるからな」
脈絡のない暴言に驚き、説明を求めて、ラウラはカイを見た。
「そんなことさせないよ」
カイはラウラから目を逸らし、取り繕うように、話を変えた。
「それにしても、あんたとラプソの人たちって、いったいどういう関係なんだ?けっきょく敵なのか?味方なのか?」
「そんなこと知ってどうする」
「あんたらの目的がおれ……縮地なのはわかったけどさ。結局誰がおれたちの敵なのかよくわかんなくて、もやもやするんだよ」
カイは不自然に気安い態度で言った。
「教えてくれよ。そのへんすっきりさせとかないと、よく眠れそうになくてさ」
「……くそが」
レオンは飲みかけの酒瓶を傾けた。
何度か喉を鳴らし、酒瓶の中身を大きく減らしてから、吐き捨てる。
「――――敵でも味方でもねえよ。おれとあいつらは」
「でも最初は協力してたんだろ?」
「てめえらの拉致計画を持ち掛けてきたのはあいつらだ。連中は情報はあったが力はなかったからな。ケタリングが必要だったんだろ」
「あんたはそれに乗ったのか」
「利害は一致してたからな」
「でもラプソの人たちは、あんたが先走ったって言ってたけどな?おれたちを拉致するのは、まだ先の予定だったって――――あんたが計画を台無したって。自分たちを裏切って、縮地を独り占めしようとしたんじゃないのかって」
「なにが計画だ。あいつらの無茶な指示に従ってたんじゃ、拉致するより先におれが落とされる」
「自信がなかったのか」
カイ挑発するように笑った。
「あんた、結局おれらに逃げられたしな。おれたちが偶然ラプソのとこに行ったからこうなったけど、そうじゃなきゃ計画は大失敗だったわけだし、連中があんたに対してボロクソ言うのも当然だよな」
「いっとくがてめえ、あのときおれを振り切れたと思ってんなら、それは間違いだ。お前らが飛んだ方向がラプソの縄張りだったから、あえて泳がせたんだよ」
「そうじゃなきゃ捕まえられたって?」
「当たり前だ。お前らみてえな間抜け逃すわけねえだろ」
言葉の割に苛立った様子はなく、どこか気心の知れた相手に軽口を言うような調子でレオンは言った。
「自分から敵に助けを求めて、まんまと薬漬けにされて、それに一週間も気づかねえんだからな。救いようがねえ」
レオンは舌打ちをし、残り少なくなった酒瓶をあおった。
ラウラがゆっくりと船を漕ぎ始めたので、カイはラウラに横になるように言った。
「カイさんは……」
「おれはまだ眠くないから」
カイはそう言って微笑み、レオンとの話に戻った。
「とにかくあんたはおれたちを薬漬けにさせたくなかったわけだ。お互いのやり方が気に食わなくて、あんたたちは対立したわけだ」
カイは憮然として腕を組んだ。
「でもそれなら、もっとはやく連れ出してくれればよかったのに。そうしたらわざわざ薬を抜く必要もなかっただろ?」
「立場分かってんのか、お前」
空になった酒瓶を投げ捨て、レオンは言った。
「知ってりゃ当然そうしたに決まってんだろ」
「知らなかったのか?おれたちが芙蓉吸わされてたこと」
「ああ。――――あそこの若い連中が知らせにくるまではな」
「若い連中?」
「ラプソは一枚岩じゃねえ。特に老いぼれとガキどもで軋轢がある。正義漢ぶったガキどもは卑怯な手を使う老いぼれに業を煮やしたが、自分らじゃどうにもできねえっておれに匙を投げたんだ」
カイは自分たちを最初に幕屋から連れ出した若い男女のことを思い出し、得心がいった。
「お礼を言わなきゃな、あの人たちに」
カイの言葉に、ほとんど眠りかけていたラウラは、はっとして顔をあげた。
「そうですね、お礼を、しなければ……」
顔をあげても、目蓋を持ち上げることはできなかった。
気を抜けばすぐにでも眠りに落ちてしまいそうだった。
しかしあらゆる不安と恐怖が、ラウラの意識を留めていた。
薬は抜けるだろうか。痛みに耐えられるだろうか。
自分がもしこのまま目覚めなければ、縮地は、災嵐は、どうなるだろうか。
(おにいちゃんとの約束、守れなかったら、どうしよう……)
「大丈夫だよ」
まるで心の内を読んだかのように、カイはラウラの頭を撫でて、言った。
「ゆっくりおやすみ。起きたら、きっと痛みもなにもない。全部がおわってるから」
「……カイさん」
カイさんは眠くないのですか?ラウラはそう問おうとしたが、カイの手でそっと目元を覆われ、そのまま意識を手放してしまった。
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作者の暇つぶし、気分転換中の自己満足で公開する作品です。
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