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第二章
戌歴九九八年・夏(五)
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〇
ラウラはその晩、眠れぬ夜を過ごした。
明け方近くなって、ラウラはようやく寝台に身を横たえた。
しかし眠気は一向に訪れない。それどころか不安で手足が大きく震えてしまったので、仕方なく起き上がり、身支度を整え、部屋を出た。
ラウラは角灯を携え、教官室に向かった。
霊堂の中は暗く、人の気配はない。
ラウラは歩きながら、空腹を感じた。
昨晩夕食をとらなかったからだろう。当然まだ食堂は開いていない。空腹と寝不足はラウラの気分をさらに落ち込ませた。
ラウラの歩調は次第に遅くなる。
(わたし、いるのかな)
ラウラは昨日見た丙の候補生たちの成長を喜ばしく感じていた。
けれど同時に、自分の指導力不足を突きつけられているようでもあって、すっかり自信を失ってしまった。
(ブリアードさんの下で、みんなはあんなに成長した)
(このまま私が戻らない方が、みんなのためなるのかもしれない)
ラウラはカイが言った『戻ってきてほしい』という言葉を思い出す。
しかしそれさえも、今のラウラは素直に受け止めることができなくなっていた。
(あれは閣下の優しさだった。なのに私は勘違いして……)
ラウラは足を止めて、その場に蹲った。
(ぜんぜんダメだ、私……)
(なんの役にも立ててない)
(閣下を支えて、災嵐から世界を守らなくちゃいけないのに)
(これじゃ、ただのお荷物だ)
「おにいちゃん……」
ラウラは小さく呟いた。
兄がいなくなってから、ラウラはひたすら弱音を飲み込み続けていた。
それがいま、限界を迎えて、零れだした。
惨めさ、寂しさ、孤独。
そして大きな悲しみに、ラウラは襲われる。
「……っう」
ラウラは嗚咽と大粒の涙を溢れさせた。
「ううう……」
ラウラは声をあげないよう必死に歯を食いしばった。
みっともなく泣き喚く姿を、誰にも見られたくなかった。
唯一気兼ねなくその姿を見せられた兄も、もういない。
彼女は一人で耐えるしかなかった。
「……?」
ふいに、なにかがラウラの髪の毛を引っ張った。
ラウラは顔をあげた。
いつの間にか彼女の周りに、光る綿毛が浮遊していた。
「これ……おにいちゃんの……」
綿毛はラウラの髪を引き、どこかへ導こうとしている。
ラウラは立ち上がり、綿毛に従って歩く。
綿毛は霊堂の正面階段へと進んでいく。
長い廊下にはうっすらと陽光が指し込んでいる。
朝日はまだ顔を出していないが、空は夜明けの薄紫に色を変えている。
「――――っ!」
ラウラは階段の前に佇む人影を目にし、走り出す。
それまでラウラを入り口に向かって導いていた綿毛は、ここにきて突然方向を変え、廊下に並ぶ柱のひとつにラウラを引こうとする。
しかしラウラはそれを追い越し、まっすぐ人影に向かった。
「おにいちゃん!」
ラウラは涙でぬれた顔のまま叫んだ。
霊堂の外に広がる朝焼けを眺めていた人影は、その声に反応してラウラの方を振り返る。
「おにいちゃん……っ!」
ラウラはもう一度叫び、ふりかえった人物に倒れるように抱き付いた。
体勢を崩したその人は数歩後ずさる。
どうにか転倒することなくラウラを受け止めると、驚きで上ずった声をあげた。
「どうしたの!?」
ラウラは彼の胸元から顔をあげ、同じように上ずった声で言った。
「わたし、わたし――――」
ラウラは彼と目を合わせる。
自分を映すその人の瞳は、深い紫紺色をしている。
「あっ……」
ラウラは我に返る。
目の前にいる人物は兄の姿かたちをしている。
けれど兄ではない。
彼は、カイだった。
異界からやってきた渡来人だった。
ラウラの兄は、もうどこにもいない。
彼女が手放しで甘えられる唯一の存在は、もうこの世界のどこにも存在していないのだ。
「おにいちゃん……」
ラウラはとっくに受け入れたはずのその事実に、いま再び心を深く抉られる。
「ああ……」
ラウラは泣き崩れる。
これまでラウラは、兄との約束を支えに生きてきた。
孤独も、苦労も、カーリーとの約束を頼りにやり過ごしてきた。
しかしその約束を果たせないかもしれないと思った途端、足場を失い、自分を支えるどころか、立ち上がることさえままならなくなってしまった。
「どうしたの!?どっか痛むの!?」
カイは地面に膝をつき、ラウラの背をさする。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ラウラは泣きじゃくりながら、ただ、謝り続ける。
自分が支えなければならないはずの人に膝をつかせている。それがラウラをまた苦しめる。
「なんで謝るんだよ、悪いことなんてなにもしてないだろ」
カイの言葉に、ラウラは強く言い返す。
「わたしはっ!わたしがっ、もっと、しっかりしなくちゃいけなかったのに!」
「――――は?」
カイはラウラが漏らした本音に唖然とする。
「約束したのに、ぜんぜんダメで、なんの役にも立てなくてっ――――」
ラウラは叫ぶ。
自責の念を、心の底に溜まっていたわだかまりを吐き出す。
「――――そうか」
カイはそれを、否定も肯定もしなかった。
ただ静かに相槌を打って、耳を傾けた。
「災嵐からみんなを守らなきゃいけないのに、おにいちゃんはそのために犠牲になったのに、わたしはっ、わたしだけ、なんにもできないままで……!」
「うん」
「これなら、おにいちゃんじゃなくて、わたしが犠牲になるべきだった!おにいちゃんならなんでもできた。わたしなんかよりずっとみんなの役に立った。たくさんの人を助けられた。わたしは……だれも……なにも守れない……」
カイはラウラの背中をさすり続ける。
ラウラの声はだんだんと小さくなっていく。
「……会いたいよ。……おにいちゃんのところに、いきたい……」
カイはラウラを強く抱きしめ、怒鳴った。
「ダメだ!」
ラウラはまた泣きじゃくる。カイはラウラを離さず、共に涙を流す。
「ごめん……。でもそれだけはダメだ。絶対……」
ラウラはその晩、眠れぬ夜を過ごした。
明け方近くなって、ラウラはようやく寝台に身を横たえた。
しかし眠気は一向に訪れない。それどころか不安で手足が大きく震えてしまったので、仕方なく起き上がり、身支度を整え、部屋を出た。
ラウラは角灯を携え、教官室に向かった。
霊堂の中は暗く、人の気配はない。
ラウラは歩きながら、空腹を感じた。
昨晩夕食をとらなかったからだろう。当然まだ食堂は開いていない。空腹と寝不足はラウラの気分をさらに落ち込ませた。
ラウラの歩調は次第に遅くなる。
(わたし、いるのかな)
ラウラは昨日見た丙の候補生たちの成長を喜ばしく感じていた。
けれど同時に、自分の指導力不足を突きつけられているようでもあって、すっかり自信を失ってしまった。
(ブリアードさんの下で、みんなはあんなに成長した)
(このまま私が戻らない方が、みんなのためなるのかもしれない)
ラウラはカイが言った『戻ってきてほしい』という言葉を思い出す。
しかしそれさえも、今のラウラは素直に受け止めることができなくなっていた。
(あれは閣下の優しさだった。なのに私は勘違いして……)
ラウラは足を止めて、その場に蹲った。
(ぜんぜんダメだ、私……)
(なんの役にも立ててない)
(閣下を支えて、災嵐から世界を守らなくちゃいけないのに)
(これじゃ、ただのお荷物だ)
「おにいちゃん……」
ラウラは小さく呟いた。
兄がいなくなってから、ラウラはひたすら弱音を飲み込み続けていた。
それがいま、限界を迎えて、零れだした。
惨めさ、寂しさ、孤独。
そして大きな悲しみに、ラウラは襲われる。
「……っう」
ラウラは嗚咽と大粒の涙を溢れさせた。
「ううう……」
ラウラは声をあげないよう必死に歯を食いしばった。
みっともなく泣き喚く姿を、誰にも見られたくなかった。
唯一気兼ねなくその姿を見せられた兄も、もういない。
彼女は一人で耐えるしかなかった。
「……?」
ふいに、なにかがラウラの髪の毛を引っ張った。
ラウラは顔をあげた。
いつの間にか彼女の周りに、光る綿毛が浮遊していた。
「これ……おにいちゃんの……」
綿毛はラウラの髪を引き、どこかへ導こうとしている。
ラウラは立ち上がり、綿毛に従って歩く。
綿毛は霊堂の正面階段へと進んでいく。
長い廊下にはうっすらと陽光が指し込んでいる。
朝日はまだ顔を出していないが、空は夜明けの薄紫に色を変えている。
「――――っ!」
ラウラは階段の前に佇む人影を目にし、走り出す。
それまでラウラを入り口に向かって導いていた綿毛は、ここにきて突然方向を変え、廊下に並ぶ柱のひとつにラウラを引こうとする。
しかしラウラはそれを追い越し、まっすぐ人影に向かった。
「おにいちゃん!」
ラウラは涙でぬれた顔のまま叫んだ。
霊堂の外に広がる朝焼けを眺めていた人影は、その声に反応してラウラの方を振り返る。
「おにいちゃん……っ!」
ラウラはもう一度叫び、ふりかえった人物に倒れるように抱き付いた。
体勢を崩したその人は数歩後ずさる。
どうにか転倒することなくラウラを受け止めると、驚きで上ずった声をあげた。
「どうしたの!?」
ラウラは彼の胸元から顔をあげ、同じように上ずった声で言った。
「わたし、わたし――――」
ラウラは彼と目を合わせる。
自分を映すその人の瞳は、深い紫紺色をしている。
「あっ……」
ラウラは我に返る。
目の前にいる人物は兄の姿かたちをしている。
けれど兄ではない。
彼は、カイだった。
異界からやってきた渡来人だった。
ラウラの兄は、もうどこにもいない。
彼女が手放しで甘えられる唯一の存在は、もうこの世界のどこにも存在していないのだ。
「おにいちゃん……」
ラウラはとっくに受け入れたはずのその事実に、いま再び心を深く抉られる。
「ああ……」
ラウラは泣き崩れる。
これまでラウラは、兄との約束を支えに生きてきた。
孤独も、苦労も、カーリーとの約束を頼りにやり過ごしてきた。
しかしその約束を果たせないかもしれないと思った途端、足場を失い、自分を支えるどころか、立ち上がることさえままならなくなってしまった。
「どうしたの!?どっか痛むの!?」
カイは地面に膝をつき、ラウラの背をさする。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ラウラは泣きじゃくりながら、ただ、謝り続ける。
自分が支えなければならないはずの人に膝をつかせている。それがラウラをまた苦しめる。
「なんで謝るんだよ、悪いことなんてなにもしてないだろ」
カイの言葉に、ラウラは強く言い返す。
「わたしはっ!わたしがっ、もっと、しっかりしなくちゃいけなかったのに!」
「――――は?」
カイはラウラが漏らした本音に唖然とする。
「約束したのに、ぜんぜんダメで、なんの役にも立てなくてっ――――」
ラウラは叫ぶ。
自責の念を、心の底に溜まっていたわだかまりを吐き出す。
「――――そうか」
カイはそれを、否定も肯定もしなかった。
ただ静かに相槌を打って、耳を傾けた。
「災嵐からみんなを守らなきゃいけないのに、おにいちゃんはそのために犠牲になったのに、わたしはっ、わたしだけ、なんにもできないままで……!」
「うん」
「これなら、おにいちゃんじゃなくて、わたしが犠牲になるべきだった!おにいちゃんならなんでもできた。わたしなんかよりずっとみんなの役に立った。たくさんの人を助けられた。わたしは……だれも……なにも守れない……」
カイはラウラの背中をさすり続ける。
ラウラの声はだんだんと小さくなっていく。
「……会いたいよ。……おにいちゃんのところに、いきたい……」
カイはラウラを強く抱きしめ、怒鳴った。
「ダメだ!」
ラウラはまた泣きじゃくる。カイはラウラを離さず、共に涙を流す。
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