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第二章
戌歴九九八年・初夏(四)
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教室を出たラウラは、その足で教官室へと向かった。
中には誰もいなかった。
ラウラは自席に燭台を置き、今日の指導記録をつけた。
それぞれの候補生の評価を記す中で、カイの項目にさしかかると、ラウラの口からは思わずため息がこぼれた。
カイの成績は芳しくなかった。
シェルティは日進月歩だと励ましたが、実際のところそれは亀の歩みで、このままでは二年後の災嵐までに縮地術を会得するなど夢のまた夢だった。
どうにかしてカイの霊操能力を底上げしなければならない。
しかしその方法がラウラにはわからなかった。
実直に基礎霊操の修練を行っているものの、カイも、他の丙級の候補生も、能力が伸びているとは言い難い。
短期間で結果を出すためには、ラウラ自身が行ってきた正道とされる修練とは別の道を選ばなければならない。
ラウラは模索していたが、行き詰っていた。
候補生の指導は基本的に受け持ちの教官に一任されている。ラウラ以外の教官は皆熟練の技師で、多くの門下生を抱えている大家の者がほとんどだ。
そんな、指導者としての経験が長い彼らに、しかしラウラは助言を求めることができなかった。
助言を求めるということは、指導がうまくいっていないと公言するようなものだ。
ただでさえ見くびられている丙級である。伸びしろまで悪いと知られれば、その評判はいよいよ地の底に落ちるだろう。
自分の力不足だけならまだしも、必死に修練に取り組む彼らを貶めるような真似を、ラウラは避けたいと思っていた。
(でも、そうも言ってられないのかな……)
ラウラはカイの仕上げた刺繍を眺めながら、ため息をついた。
ラウラにとって一番大切ななことは、兄との約束を果たすこと、すなわち、災嵐を払い、世界を救うことだ。
しかしラウラは未だに覚悟が決まらずにいた。
災嵐を払うため、カイを犠牲にする覚悟が。
こちらの世界の人間は、すでに十分、カイの尊厳を踏みにじっている。
命以外のすべてを奪って、この世界を救うという役目を背負わせている。
ラウラはそんなカイに、これ以上の不遇を与えたくなかった。
「……!まだ残っていたのか」
燭台を手にしたノヴァが、廊下から教官室の中を覗き込み、驚嘆の声をあげる。
「ノヴァ?」
ラウラもまた予期せぬ人物の登場に驚き、思わず昔のように、ノヴァを呼び捨ててしまう。
「あっ――――失礼しました、殿下」
ラウラはすぐに失態に気づき、非礼を詫びる。
「いや……二人のときは、それでかまわない」
「ですが――――」
ノヴァはこれ以上の問答は不要、とでも言わんばかりに、ラウラの言葉を遮った。
「もう遅い、宿舎に戻って休みなさい」
「わかりました」
ラウラは素直に頷いたが、明日の課題の準備がまだ終わっていなかった。
彼女はそれを宿舎に持ち帰ろうと、使用する板版を胸に抱えた。
ノヴァはそれを見てため息を吐く。
「聞くところによると君はいつも一番遅くまで残っているようだが、丙級の指導にはそれだけ手がかかるということか?」
ラウラは大きくかぶりを振る。
「いいえ、彼らはよくやっています。課題への取り組みも熱心で、訓練態度も素晴らしいものです」
「……そうか」
「本当です」
「疑ってはいない。君が言うなら、その通りなんだろう」
ノヴァの言葉に、ラウラは胸をなでおろす。
ノヴァはラウラの机に重ねられた皮生地を手に取り、一枚ずつ子細に眺めていく。
「刺繍をさせているのか」
「はい。丙級の候補生は霊力は強いですが細かい霊操が不得手なものが多いので、繊細な作業に当たらせることが修練としてはもっとも効果的かと」
「基本を遵守しているんだな。皮を使う理由は?」
「布地に比べて一針ごとに力を使うので、それもまた修練になるかと」
「君らしいな。厳しい負荷をかけた状態で、基礎を固めさせるとは」
ノヴァはカイの仕上げた皮生地を眺め、眉をしかめる。
「ちなみに、彼の刺したものは?」
「……いま、殿下がお持ちのものです」
「そうか……。やはり異界人に霊操の習得は難しいようだな。君も手を焼くだろう」
「いいえ。むしろ、私がもっとうまく指導できていれば――――」
「君は十分よくやっている」
ノヴァの激励を受けて、ラウラは笑顔をつくるが、顔色は優れない。
「君は、もっと肩の力を抜いたほうがいい」
「……はい。――――ところで殿下は、なぜこちらに?」
「君を探していたんだ」
「私を?なにか御用でしたか?」
ノヴァはしばらく視線をさ迷わせたが、結局用件は告げなかった。
「日を改めよう。今日はもう休みなさい」
ノヴァはそう言ってラウラを先導し、宿舎の前まで送り届けた。
〇
数日後、ラウラはノヴァに呼び出され、異動命じられた。
「西堂学舎に、ですか?」
「人手が足りていないそうなんだ。新しい人員が派遣されるまでの間、子どもたちの面倒をみてやってほしい」
「しかし、こちらでの受け持ちがあります。それに閣下の補佐も……」
「別の者に代わりをさせる。彼には兄がついたことだし、このあたりで一息ついたらどうだろうか」
「一息……ですか」
「ああ。災嵐が近づけば、休みたくてもそうはいかない。今のうちに英気を養ってほしいんだ」
「でも……」
「僕も学舎にはしばらく顔を出していない。移転先にはきみだってまだ行っていないだろう?新しい場所に不足はないか、ぼくに変わって視察を兼ねて行ってほしいんだが、どうだ?」
「……わかりました」
そう呟いたラウラは深く沈んでいた。
ノヴァは心からの労わりでラウラに暇を与えようとしているのだが、ラウラは曲解して受け取ってしまったのだ。
自分の指導力不足故に、教官を外された、と。
しかし口には出さずに、ただ拱手して頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
中には誰もいなかった。
ラウラは自席に燭台を置き、今日の指導記録をつけた。
それぞれの候補生の評価を記す中で、カイの項目にさしかかると、ラウラの口からは思わずため息がこぼれた。
カイの成績は芳しくなかった。
シェルティは日進月歩だと励ましたが、実際のところそれは亀の歩みで、このままでは二年後の災嵐までに縮地術を会得するなど夢のまた夢だった。
どうにかしてカイの霊操能力を底上げしなければならない。
しかしその方法がラウラにはわからなかった。
実直に基礎霊操の修練を行っているものの、カイも、他の丙級の候補生も、能力が伸びているとは言い難い。
短期間で結果を出すためには、ラウラ自身が行ってきた正道とされる修練とは別の道を選ばなければならない。
ラウラは模索していたが、行き詰っていた。
候補生の指導は基本的に受け持ちの教官に一任されている。ラウラ以外の教官は皆熟練の技師で、多くの門下生を抱えている大家の者がほとんどだ。
そんな、指導者としての経験が長い彼らに、しかしラウラは助言を求めることができなかった。
助言を求めるということは、指導がうまくいっていないと公言するようなものだ。
ただでさえ見くびられている丙級である。伸びしろまで悪いと知られれば、その評判はいよいよ地の底に落ちるだろう。
自分の力不足だけならまだしも、必死に修練に取り組む彼らを貶めるような真似を、ラウラは避けたいと思っていた。
(でも、そうも言ってられないのかな……)
ラウラはカイの仕上げた刺繍を眺めながら、ため息をついた。
ラウラにとって一番大切ななことは、兄との約束を果たすこと、すなわち、災嵐を払い、世界を救うことだ。
しかしラウラは未だに覚悟が決まらずにいた。
災嵐を払うため、カイを犠牲にする覚悟が。
こちらの世界の人間は、すでに十分、カイの尊厳を踏みにじっている。
命以外のすべてを奪って、この世界を救うという役目を背負わせている。
ラウラはそんなカイに、これ以上の不遇を与えたくなかった。
「……!まだ残っていたのか」
燭台を手にしたノヴァが、廊下から教官室の中を覗き込み、驚嘆の声をあげる。
「ノヴァ?」
ラウラもまた予期せぬ人物の登場に驚き、思わず昔のように、ノヴァを呼び捨ててしまう。
「あっ――――失礼しました、殿下」
ラウラはすぐに失態に気づき、非礼を詫びる。
「いや……二人のときは、それでかまわない」
「ですが――――」
ノヴァはこれ以上の問答は不要、とでも言わんばかりに、ラウラの言葉を遮った。
「もう遅い、宿舎に戻って休みなさい」
「わかりました」
ラウラは素直に頷いたが、明日の課題の準備がまだ終わっていなかった。
彼女はそれを宿舎に持ち帰ろうと、使用する板版を胸に抱えた。
ノヴァはそれを見てため息を吐く。
「聞くところによると君はいつも一番遅くまで残っているようだが、丙級の指導にはそれだけ手がかかるということか?」
ラウラは大きくかぶりを振る。
「いいえ、彼らはよくやっています。課題への取り組みも熱心で、訓練態度も素晴らしいものです」
「……そうか」
「本当です」
「疑ってはいない。君が言うなら、その通りなんだろう」
ノヴァの言葉に、ラウラは胸をなでおろす。
ノヴァはラウラの机に重ねられた皮生地を手に取り、一枚ずつ子細に眺めていく。
「刺繍をさせているのか」
「はい。丙級の候補生は霊力は強いですが細かい霊操が不得手なものが多いので、繊細な作業に当たらせることが修練としてはもっとも効果的かと」
「基本を遵守しているんだな。皮を使う理由は?」
「布地に比べて一針ごとに力を使うので、それもまた修練になるかと」
「君らしいな。厳しい負荷をかけた状態で、基礎を固めさせるとは」
ノヴァはカイの仕上げた皮生地を眺め、眉をしかめる。
「ちなみに、彼の刺したものは?」
「……いま、殿下がお持ちのものです」
「そうか……。やはり異界人に霊操の習得は難しいようだな。君も手を焼くだろう」
「いいえ。むしろ、私がもっとうまく指導できていれば――――」
「君は十分よくやっている」
ノヴァの激励を受けて、ラウラは笑顔をつくるが、顔色は優れない。
「君は、もっと肩の力を抜いたほうがいい」
「……はい。――――ところで殿下は、なぜこちらに?」
「君を探していたんだ」
「私を?なにか御用でしたか?」
ノヴァはしばらく視線をさ迷わせたが、結局用件は告げなかった。
「日を改めよう。今日はもう休みなさい」
ノヴァはそう言ってラウラを先導し、宿舎の前まで送り届けた。
〇
数日後、ラウラはノヴァに呼び出され、異動命じられた。
「西堂学舎に、ですか?」
「人手が足りていないそうなんだ。新しい人員が派遣されるまでの間、子どもたちの面倒をみてやってほしい」
「しかし、こちらでの受け持ちがあります。それに閣下の補佐も……」
「別の者に代わりをさせる。彼には兄がついたことだし、このあたりで一息ついたらどうだろうか」
「一息……ですか」
「ああ。災嵐が近づけば、休みたくてもそうはいかない。今のうちに英気を養ってほしいんだ」
「でも……」
「僕も学舎にはしばらく顔を出していない。移転先にはきみだってまだ行っていないだろう?新しい場所に不足はないか、ぼくに変わって視察を兼ねて行ってほしいんだが、どうだ?」
「……わかりました」
そう呟いたラウラは深く沈んでいた。
ノヴァは心からの労わりでラウラに暇を与えようとしているのだが、ラウラは曲解して受け取ってしまったのだ。
自分の指導力不足故に、教官を外された、と。
しかし口には出さずに、ただ拱手して頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
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