52 / 261
第二章
戌歴九九八年・初夏(四)
しおりを挟む
教室を出たラウラは、その足で教官室へと向かった。
中には誰もいなかった。
ラウラは自席に燭台を置き、今日の指導記録をつけた。
それぞれの候補生の評価を記す中で、カイの項目にさしかかると、ラウラの口からは思わずため息がこぼれた。
カイの成績は芳しくなかった。
シェルティは日進月歩だと励ましたが、実際のところそれは亀の歩みで、このままでは二年後の災嵐までに縮地術を会得するなど夢のまた夢だった。
どうにかしてカイの霊操能力を底上げしなければならない。
しかしその方法がラウラにはわからなかった。
実直に基礎霊操の修練を行っているものの、カイも、他の丙級の候補生も、能力が伸びているとは言い難い。
短期間で結果を出すためには、ラウラ自身が行ってきた正道とされる修練とは別の道を選ばなければならない。
ラウラは模索していたが、行き詰っていた。
候補生の指導は基本的に受け持ちの教官に一任されている。ラウラ以外の教官は皆熟練の技師で、多くの門下生を抱えている大家の者がほとんどだ。
そんな、指導者としての経験が長い彼らに、しかしラウラは助言を求めることができなかった。
助言を求めるということは、指導がうまくいっていないと公言するようなものだ。
ただでさえ見くびられている丙級である。伸びしろまで悪いと知られれば、その評判はいよいよ地の底に落ちるだろう。
自分の力不足だけならまだしも、必死に修練に取り組む彼らを貶めるような真似を、ラウラは避けたいと思っていた。
(でも、そうも言ってられないのかな……)
ラウラはカイの仕上げた刺繍を眺めながら、ため息をついた。
ラウラにとって一番大切ななことは、兄との約束を果たすこと、すなわち、災嵐を払い、世界を救うことだ。
しかしラウラは未だに覚悟が決まらずにいた。
災嵐を払うため、カイを犠牲にする覚悟が。
こちらの世界の人間は、すでに十分、カイの尊厳を踏みにじっている。
命以外のすべてを奪って、この世界を救うという役目を背負わせている。
ラウラはそんなカイに、これ以上の不遇を与えたくなかった。
「……!まだ残っていたのか」
燭台を手にしたノヴァが、廊下から教官室の中を覗き込み、驚嘆の声をあげる。
「ノヴァ?」
ラウラもまた予期せぬ人物の登場に驚き、思わず昔のように、ノヴァを呼び捨ててしまう。
「あっ――――失礼しました、殿下」
ラウラはすぐに失態に気づき、非礼を詫びる。
「いや……二人のときは、それでかまわない」
「ですが――――」
ノヴァはこれ以上の問答は不要、とでも言わんばかりに、ラウラの言葉を遮った。
「もう遅い、宿舎に戻って休みなさい」
「わかりました」
ラウラは素直に頷いたが、明日の課題の準備がまだ終わっていなかった。
彼女はそれを宿舎に持ち帰ろうと、使用する板版を胸に抱えた。
ノヴァはそれを見てため息を吐く。
「聞くところによると君はいつも一番遅くまで残っているようだが、丙級の指導にはそれだけ手がかかるということか?」
ラウラは大きくかぶりを振る。
「いいえ、彼らはよくやっています。課題への取り組みも熱心で、訓練態度も素晴らしいものです」
「……そうか」
「本当です」
「疑ってはいない。君が言うなら、その通りなんだろう」
ノヴァの言葉に、ラウラは胸をなでおろす。
ノヴァはラウラの机に重ねられた皮生地を手に取り、一枚ずつ子細に眺めていく。
「刺繍をさせているのか」
「はい。丙級の候補生は霊力は強いですが細かい霊操が不得手なものが多いので、繊細な作業に当たらせることが修練としてはもっとも効果的かと」
「基本を遵守しているんだな。皮を使う理由は?」
「布地に比べて一針ごとに力を使うので、それもまた修練になるかと」
「君らしいな。厳しい負荷をかけた状態で、基礎を固めさせるとは」
ノヴァはカイの仕上げた皮生地を眺め、眉をしかめる。
「ちなみに、彼の刺したものは?」
「……いま、殿下がお持ちのものです」
「そうか……。やはり異界人に霊操の習得は難しいようだな。君も手を焼くだろう」
「いいえ。むしろ、私がもっとうまく指導できていれば――――」
「君は十分よくやっている」
ノヴァの激励を受けて、ラウラは笑顔をつくるが、顔色は優れない。
「君は、もっと肩の力を抜いたほうがいい」
「……はい。――――ところで殿下は、なぜこちらに?」
「君を探していたんだ」
「私を?なにか御用でしたか?」
ノヴァはしばらく視線をさ迷わせたが、結局用件は告げなかった。
「日を改めよう。今日はもう休みなさい」
ノヴァはそう言ってラウラを先導し、宿舎の前まで送り届けた。
〇
数日後、ラウラはノヴァに呼び出され、異動命じられた。
「西堂学舎に、ですか?」
「人手が足りていないそうなんだ。新しい人員が派遣されるまでの間、子どもたちの面倒をみてやってほしい」
「しかし、こちらでの受け持ちがあります。それに閣下の補佐も……」
「別の者に代わりをさせる。彼には兄がついたことだし、このあたりで一息ついたらどうだろうか」
「一息……ですか」
「ああ。災嵐が近づけば、休みたくてもそうはいかない。今のうちに英気を養ってほしいんだ」
「でも……」
「僕も学舎にはしばらく顔を出していない。移転先にはきみだってまだ行っていないだろう?新しい場所に不足はないか、ぼくに変わって視察を兼ねて行ってほしいんだが、どうだ?」
「……わかりました」
そう呟いたラウラは深く沈んでいた。
ノヴァは心からの労わりでラウラに暇を与えようとしているのだが、ラウラは曲解して受け取ってしまったのだ。
自分の指導力不足故に、教官を外された、と。
しかし口には出さずに、ただ拱手して頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
中には誰もいなかった。
ラウラは自席に燭台を置き、今日の指導記録をつけた。
それぞれの候補生の評価を記す中で、カイの項目にさしかかると、ラウラの口からは思わずため息がこぼれた。
カイの成績は芳しくなかった。
シェルティは日進月歩だと励ましたが、実際のところそれは亀の歩みで、このままでは二年後の災嵐までに縮地術を会得するなど夢のまた夢だった。
どうにかしてカイの霊操能力を底上げしなければならない。
しかしその方法がラウラにはわからなかった。
実直に基礎霊操の修練を行っているものの、カイも、他の丙級の候補生も、能力が伸びているとは言い難い。
短期間で結果を出すためには、ラウラ自身が行ってきた正道とされる修練とは別の道を選ばなければならない。
ラウラは模索していたが、行き詰っていた。
候補生の指導は基本的に受け持ちの教官に一任されている。ラウラ以外の教官は皆熟練の技師で、多くの門下生を抱えている大家の者がほとんどだ。
そんな、指導者としての経験が長い彼らに、しかしラウラは助言を求めることができなかった。
助言を求めるということは、指導がうまくいっていないと公言するようなものだ。
ただでさえ見くびられている丙級である。伸びしろまで悪いと知られれば、その評判はいよいよ地の底に落ちるだろう。
自分の力不足だけならまだしも、必死に修練に取り組む彼らを貶めるような真似を、ラウラは避けたいと思っていた。
(でも、そうも言ってられないのかな……)
ラウラはカイの仕上げた刺繍を眺めながら、ため息をついた。
ラウラにとって一番大切ななことは、兄との約束を果たすこと、すなわち、災嵐を払い、世界を救うことだ。
しかしラウラは未だに覚悟が決まらずにいた。
災嵐を払うため、カイを犠牲にする覚悟が。
こちらの世界の人間は、すでに十分、カイの尊厳を踏みにじっている。
命以外のすべてを奪って、この世界を救うという役目を背負わせている。
ラウラはそんなカイに、これ以上の不遇を与えたくなかった。
「……!まだ残っていたのか」
燭台を手にしたノヴァが、廊下から教官室の中を覗き込み、驚嘆の声をあげる。
「ノヴァ?」
ラウラもまた予期せぬ人物の登場に驚き、思わず昔のように、ノヴァを呼び捨ててしまう。
「あっ――――失礼しました、殿下」
ラウラはすぐに失態に気づき、非礼を詫びる。
「いや……二人のときは、それでかまわない」
「ですが――――」
ノヴァはこれ以上の問答は不要、とでも言わんばかりに、ラウラの言葉を遮った。
「もう遅い、宿舎に戻って休みなさい」
「わかりました」
ラウラは素直に頷いたが、明日の課題の準備がまだ終わっていなかった。
彼女はそれを宿舎に持ち帰ろうと、使用する板版を胸に抱えた。
ノヴァはそれを見てため息を吐く。
「聞くところによると君はいつも一番遅くまで残っているようだが、丙級の指導にはそれだけ手がかかるということか?」
ラウラは大きくかぶりを振る。
「いいえ、彼らはよくやっています。課題への取り組みも熱心で、訓練態度も素晴らしいものです」
「……そうか」
「本当です」
「疑ってはいない。君が言うなら、その通りなんだろう」
ノヴァの言葉に、ラウラは胸をなでおろす。
ノヴァはラウラの机に重ねられた皮生地を手に取り、一枚ずつ子細に眺めていく。
「刺繍をさせているのか」
「はい。丙級の候補生は霊力は強いですが細かい霊操が不得手なものが多いので、繊細な作業に当たらせることが修練としてはもっとも効果的かと」
「基本を遵守しているんだな。皮を使う理由は?」
「布地に比べて一針ごとに力を使うので、それもまた修練になるかと」
「君らしいな。厳しい負荷をかけた状態で、基礎を固めさせるとは」
ノヴァはカイの仕上げた皮生地を眺め、眉をしかめる。
「ちなみに、彼の刺したものは?」
「……いま、殿下がお持ちのものです」
「そうか……。やはり異界人に霊操の習得は難しいようだな。君も手を焼くだろう」
「いいえ。むしろ、私がもっとうまく指導できていれば――――」
「君は十分よくやっている」
ノヴァの激励を受けて、ラウラは笑顔をつくるが、顔色は優れない。
「君は、もっと肩の力を抜いたほうがいい」
「……はい。――――ところで殿下は、なぜこちらに?」
「君を探していたんだ」
「私を?なにか御用でしたか?」
ノヴァはしばらく視線をさ迷わせたが、結局用件は告げなかった。
「日を改めよう。今日はもう休みなさい」
ノヴァはそう言ってラウラを先導し、宿舎の前まで送り届けた。
〇
数日後、ラウラはノヴァに呼び出され、異動命じられた。
「西堂学舎に、ですか?」
「人手が足りていないそうなんだ。新しい人員が派遣されるまでの間、子どもたちの面倒をみてやってほしい」
「しかし、こちらでの受け持ちがあります。それに閣下の補佐も……」
「別の者に代わりをさせる。彼には兄がついたことだし、このあたりで一息ついたらどうだろうか」
「一息……ですか」
「ああ。災嵐が近づけば、休みたくてもそうはいかない。今のうちに英気を養ってほしいんだ」
「でも……」
「僕も学舎にはしばらく顔を出していない。移転先にはきみだってまだ行っていないだろう?新しい場所に不足はないか、ぼくに変わって視察を兼ねて行ってほしいんだが、どうだ?」
「……わかりました」
そう呟いたラウラは深く沈んでいた。
ノヴァは心からの労わりでラウラに暇を与えようとしているのだが、ラウラは曲解して受け取ってしまったのだ。
自分の指導力不足故に、教官を外された、と。
しかし口には出さずに、ただ拱手して頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説

おっさんなのに異世界召喚されたらしいので適当に生きてみることにした
高鉢 健太
ファンタジー
ふと気づけば見知らぬ石造りの建物の中に居た。どうやら召喚によって異世界転移させられたらしかった。
ラノベでよくある展開に、俺は呆れたね。
もし、あと20年早ければ喜んだかもしれん。だが、アラフォーだぞ?こんなおっさんを召喚させて何をやらせる気だ。
とは思ったが、召喚した連中は俺に生贄の美少女を差し出してくれるらしいじゃないか、その役得を存分に味わいながら異世界の冒険を楽しんでやろう!

我が家に子犬がやって来た!
もも野はち助(旧ハチ助)
ファンタジー
【あらすじ】ラテール伯爵家の令嬢フィリアナは、仕事で帰宅できない父の状況に不満を抱きながら、自身の6歳の誕生日を迎えていた。すると、遅くに帰宅した父が白黒でフワフワな毛をした足の太い子犬を連れ帰る。子犬の飼い主はある高貴な人物らしいが、訳あってラテール家で面倒を見る事になったそうだ。その子犬を自身の誕生日プレゼントだと勘違いしたフィリアナは、兄ロアルドと取り合いながら、可愛がり始める。子犬はすでに名前が決まっており『アルス』といった。
アルスは当初かなり周囲の人間を警戒していたのだが、フィリアナとロアルドが甲斐甲斐しく世話をする事で、すぐに二人と打ち解ける。
だがそんな子犬のアルスには、ある重大な秘密があって……。
この話は、子犬と戯れながら巻き込まれ成長をしていく兄妹の物語。
※全102話で完結済。
★『小説家になろう』でも読めます★

やさしい異世界転移
みなと
ファンタジー
妹の誕生日ケーキを買いに行く最中 謎の声に導かれて異世界へと転移してしまった主人公
神洞 優斗。
彼が転移した世界は魔法が発達しているファンタジーの世界だった!
元の世界に帰るまでの間優斗は学園に通い平穏に過ごす事にしたのだが……?
この時の優斗は気付いていなかったのだ。
己の……いや"ユウト"としての逃れられない定めがすぐ近くまで来ている事に。
この物語は 優斗がこの世界で仲間と出会い、共に様々な困難に立ち向かい希望 絶望 別れ 後悔しながらも進み続けて、英雄になって誰かに希望を託すストーリーである。

【一話完結】断罪が予定されている卒業パーティーに欠席したら、みんな死んでしまいました
ツカノ
ファンタジー
とある国の王太子が、卒業パーティーの日に最愛のスワロー・アーチェリー男爵令嬢を虐げた婚約者のロビン・クック公爵令嬢を断罪し婚約破棄をしようとしたが、何故か公爵令嬢は現れない。これでは断罪どころか婚約破棄ができないと王太子が焦り始めた時、招かれざる客が現れる。そして、招かれざる客の登場により、彼らの運命は転がる石のように急転直下し、恐怖が始まったのだった。さて彼らの運命は、如何。

ユーヤのお気楽異世界転移
暇野無学
ファンタジー
死因は神様の当て逃げです! 地震による事故で死亡したのだが、原因は神社の扁額が当たっての即死。問題の神様は気まずさから俺を輪廻の輪から外し、異世界の神に俺をゆだねた。異世界への移住を渋る俺に、神様特典付きで異世界へ招待されたが・・・ この神様が超適当な健忘症タイプときた。

クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
ひっそり静かに生きていきたい 神様に同情されて異世界へ。頼みの綱はアイテムボックス
於田縫紀
ファンタジー
雨宿りで立ち寄った神社の神様に境遇を同情され、私は異世界へと転移。
場所は山の中で周囲に村等の気配はない。あるのは木と草と崖、土と空気だけ。でもこれでいい。私は他人が怖いから。

家族で突然異世界転移!?パパは家族を守るのに必死です。
3匹の子猫
ファンタジー
社智也とその家族はある日気がつけば家ごと見知らぬ場所に転移されていた。
そこは俺の持ちうる知識からおそらく異世界だ!確かに若い頃は異世界転移や転生を願ったことはあったけど、それは守るべき家族を持った今ではない!!
こんな世界でまだ幼い子供たちを守りながら生き残るのは酷だろ…だが、俺は家族を必ず守り抜いてみせる!!
感想やご意見楽しみにしております!
尚、作中の登場人物、国名はあくまでもフィクションです。実在する国とは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる