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第二章

戌歴九九八年・春(九)

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カイは、一度は隠し通そうとした春宿通いの真意を、ラウラに語った。
「春宿には、シェルティに会いに行ってたんだ」
「皇太子殿下に?」
「うん。侍女の噂話を聞いて、思うところがあってさ。本当はどうなのか、本人に聞きに行ってたんだ。はぐらかされまくって、五日も通うはめになったけど……今日やっとあいつの本音を聞けたよ」
「殿下は、なぜ春宿に?」
「噂通りのような、そうじゃないようなかんじだったな。――――結局のとこあいつは、廷内の対立を解消するために、ドラ息子演じてるんだ。あいつ酒飲めないし、どこにいたって女に不自由する顔じゃないから、朝廷から出るにしたって春宿に居座る必要はないんだけど……。自分が落ちるとこまで落ちれば、諦めの悪い連中も目を背けるだろうっていってさ」
「そうだったんですね……」
ラウラは納得したが、疑問は一向に解消されなかった。
「しかし、閣下はなぜ、殿下をそこまでお気になさるのですか?ほとんど噂話でしか知らないはずですよね……?」
「ははは、うん、自分でもなにやってんだって思うよ。散々世話になってる君に不義理を働いて、ノヴァの言いつけまで破ってさ……」
カイは燭台に灯された火を見つめる。
すぐ近くのものを見ているはずなのに、ラウラには、カイが果てしなく離れた場所に目をこらしているように見える。
「でも噂を聞いて、他人事じゃないようにかんじてさ。――――似てるんだ。おれと、あいつ」
「似てる?」
遠くを見つめたまま、カイは頷く。
「おれにもさ、弟がいるんだけど、すごい優秀な奴でさ。おれは会社……ここでいえば商家の跡取り息子みたいなもんだったんだけど、弟の方が優秀だから、すぐその席をとって変わられたんだ。まあ、あいつと違って派閥争いに巻き込まれることもなかったし、跡取りじゃなくなったからって排斥されるようなこともなかったから、比べもんになんないんだけどな。……でも、嫌だったんだ」
カイは視線を足元に落とす。
「あいつのとこに通って、話を聞くたびに、昔の自分を思い出した。……それまでは遠くにある旗を目指して歩けばよかった。大変だったけど、期待されるのは、嬉しいことでもあったから。でも突然、もうあれは目指さなくていい、自由にしていいって言われてさ……どうすればいいか、わかんなかったよ。子どもだったし。漠然とあった人生の目的がなくなって、途方にくれた。でもおれの周りには、いいやつがいっぱいいてさ。オタクばっかだったけど、その仲間たちのおかげで、おれはすぐにまた歩き出すことができた。どこを目指せばいいかわかんない不安は消えないけど、友だちと楽しく過ごすってことを第一に考えたら、自然と足は動いたんだ」
ラウラはなんと声をかけていいのかわからず、ただ俯くカイの背にそっと手を添えた。
「あいつがあの春宿にいるのは、外城で身を隠す場所を探していた時、たまたま男手が足りずに苦労してるとこを目にしたからってだけの理由なんだ。女の子たちみんな、あいつのこと好きだしさ、あのままあそこにいても、それなりに暮らしていけるだろうけど、でも長くは続かないだろ?現におれに見つかったわけだし、すぐ噂になるよな。まあ落ちぶれてるとこを朝廷に見せるっていうあいつの目的は、それこそ達成されるのかもしんないけど――――おれはそれが嫌だった」
「嫌、ですか?」
「うん。嫌だ。めちゃくちゃ嫌だ。すげえ腹立つよ。あいつのこと好き勝手に使って、噂して、捨てようとしてる周りのやつらはクソだし、なにもせず望まれたまま落ちぶれようとするあいつ自身はもっとクソだ」
カイは拳を握りしめる。
その怒りは、苛立ちは、なにより自分自身に向けられていた。
現在のシェルティの姿に、カイは過去の自分を重ねていた。
シェルティを助けることは、カイにとって、過去の自分を助けることでもあった。
「おれはあいつを助けたい。むかつくから。あのままになんて、絶対させない。落ちぶれさせてなんてやらないんだ。なにをしてでもひっぱりあげてやる」
カイはラウラを見つめる。真剣な表情で、先ほどのラウラと同じように、懇願する。
「頼む、ラウラ。手を貸してくれないか」
ラウラはカイの背をさすっていた手を自身の胸元に置き、力強く答えた。
「もちろんです」



二日後、カイの私室に、カイ、ラウラ、ノヴァ、そしてシェルティの四人が集まった。
四人が膝を突き合わせる座卓の空気はぎこちないものだった。
特にノヴァは、なぜ私室にシエルがいるのか、ひどく困惑している様子だった。
「突然お呼び立てしてすみません。本日はノヴァ様に、折り入ってご相談があります」
人払いを済ませたラウラは、神妙な面持ちで、口火を切った。
「その前に……なぜ兄上ががここに?」
「おれが連れてきたんです」
カイが答えると、ノヴァは頬を引きつらせる。
「貴君は僕の忠告を忘れたのか?」
「それに関しては……面目ない……」
ラウラはすかさず助け舟を出す。
「シェルティ様をこちらにお連れするよう提案したのは、私です」
「彼を庇う必要はない」
「いいえ。庇っていません。事実です」
ラウラのきっぱりとした物言いに、ノヴァは歯切れを悪くする。
「……いや、発案者はどうでもいいんだ。それで、兄上はなぜ、こちらに?」
ノヴァは質問の対象を、正面に座るシエルに移す。
穏やかな微笑を浮かべたまま黙っていたシェルティは、聞かれてはじめて口を開いた。
「ぼくを今日から彼の侍従にしてほしい」
ノヴァは面食らい、言葉を失う。
シェルティは構わずに畳み掛ける。
「いろいろ不都合が生じるだろうが、承知の上だ。なるべく表には出ない。目立つことは避ける。彼の身の周りの世話をすることに徹するよ」
「ご冗談を……」
「本気さ。必要なら名を伏せたっていい。顔を隠したっていい。いっそ身分を剥奪してもらってもかまわない」
「それじゃ意味がないだろ!」
カイの横やりに、シェルティは笑顔で首を傾げる。
「ぼくにとって最も優先すべきはきみだから、皇族の地位なんてものは二の次でいいんだよ」
「……シェルティ」
「怖い顔をしないでよ」
仕方ないな、とシェルティは肩を竦める。
「仰せの通りに」
シェルティは表情を引き締め、ノヴァに再び願い出る。
「ぼくは渡来大使閣下にお仕えしたい。皇太子という身分をそのままに」
ノヴァはしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。
「理由をお尋ねしても?」
「ぼくが彼に仕えたいと思ったからだ」
「答えになっていません……」
ノヴァは子どものような我がままを平然と口にする兄に、ついには呆れ果てる。
「経緯はわかりませんが……僕は賛成いたしかねます。兄上、ご自分の窮状は理解されているはずです。朝廷にお戻りになって下さるのであれば、別の、もっとふさわしい席を用意しますので――――」
そうじゃない、とシェルティは弟の提案を退ける。
「僕は朝廷に戻りたいんじゃない。彼に仕えたいんだ。叶わないのであれば、このまま朝廷を去るよ。もう二度と戻らない。目障りだろうから、外城からも出よう。どこか地方の都市にでも移り住んで、ひっそりと暮らすよ」
ノヴァは額をおさえ、首を振る。
「理解できません。一体どういう心変わりなんですか」
成り行きを見守ろうとしていたカイだったが、たまらず口を挟む。
「おれが頼んだんだよ」
ノヴァは眉間にしわを寄せ、カイを睨む。
「貴君は春宿で兄上に痛い目を見せられたのではなかったか?」
「それはそうなんだけど……」
「嘘をつかないでよ」
シェルティはわざとらしくカイにしなだれかかる。
「痛いことなんてなにもしてないだろう?むしろ――――」
カイはシェルティを乱暴に押しのける。
「ばかなの!?なんで自ら誤解を育もうとすんの!?っていうかこの状況でよくふざけられるね!?」
「必死なきみを見たら、なんだかバカらしくなっちゃって」
「バカらしく!?ふつう感動するところだろ!?」
「あははは、本当にきみはおもしろいなあ」
二人の親し気なやりとりを目にしたノヴァは狼狽する。
たった数日で、ここまで気を許し合えるものだろうか、と。
そもそも兄のくだけた態度を目にするのはこれが初めてだった。
カイはノヴァの視線に気づき、苦笑いをする。
「おかしいと思うよな。いや、いろいろあってさ、仲良くなったんだ、おれたち。そんでこいつ、朝廷に居づらいからって仕事サボってたわけだろ?だったらおれの世話役になってくれって、頼んだんだよ。ほらおれもうすぐ養成所入るし、ここで厄介事に巻き込まれることもないかな、と思ってさ」
「兄上は皇太子だぞ。そう簡単に居場所を変えられるわけがないだろう。それに、兄上はすでに多くの責務を放棄しているんだ。願い出たところで、ラサが……皇帝が認めるわけがない」
「彼らはなにも口を出さないさ」
シェルティはカイに対するものとは一変した、冷たい声で断言した。
ノヴァは反駁しようと口を開いたが、シェルティの瞳がすべてを悟っていることに気づき、ため息をこぼすことしかできなかった。

朝廷から姿を消したシェルティの所在をつかんだノヴァは、真っ先に皇帝である母に報告を行った。
ノヴァは自分に、兄を連れ戻すよう密命が下るだろうと予測していた。
しかし皇帝の指示は、それに反して、捨て置け、の一言だけだった。
合理主義者の皇帝に、派閥争いから身を引くことを選んだ息子を、庇い立てる気はなかった。
シェルティはノヴァと違い、朝廷内で重要な役職を担っていない。
慰問や視察、式典の取り仕切りなど、彼が任されていたのはお飾りの仕事だけだった。
シェルティの不在は朝廷にはなんの痛手にもならない。
むしろ派閥争いの火種となるため、外にあった方が廷内の調和が保たれた。
皇帝は息子が自ら汚名を被ることをよしとした。
むしろ皇族の汚点であることが、彼が朝廷にできる唯一の貢献であるとさえしていた。

「カイの侍従になれば、ぼくの外聞は春宿にいたときよりもマシなものになるだろう。当然皇太子としての権威は地に落ちるけどね。人前で平然と傅く皇子を皇帝にしようなどとは誰も思わない。そもそもカイに付くということは、彼の監督役である君の配下になるということでもある。ぼくを置いて君と並び立つ次期皇帝候補はいなしし、立てる者がいなくなったぼく方の派閥は弱体化せざるを得ないだろう」
まるで他人事のように、淡々とシェルティは言い切った。
否定の余地がなく、ノヴァは苦虫を噛んだような表情を浮かべる。
「カイの世話役は、すでにラウラ・カナリアに任せています」
「彼女とは領分が違う。ぼくはカイの身の周りの世話をするんだよ」
「そんな、侍女のような真似を……」
「必要な役割だろう。カイはひとりでは着替えもできないんだから」
「彼は数日前、僕と廊下で偶然鉢合わせたときに、自分の身の回りのことは自分でできるから、侍女を外してくれと、むしろ頼んできましたが」
「あー……それは……」
カイは視線をさ迷わせる。
「ちょっと、強がったといいますか、かっこつけたといいますか……」
「煮え切らないな、はっきり言ってくれ」
ノヴァの催促に、笑いをこらえるように目を細めたシェルティも乗る。
「そうだよ、カイ。言い辛いなら、ぼくが代りに言ってあげようか?『女の人に世話をされるのは緊張する』って」
「おい!」
カイは顔を真っ赤にしてシェルティの背を叩く。
「ばか、お前、もうちょっとマシな言い方あんだろ!二人とも、信じないでね!嘘だから!」
ラウラは困ったような笑顔を見せる。
ノヴァは眉間のしわを深くする。
「嘘なのか?」
「う……いや……」
カイは自棄になって大声を出す。
「ああ、もうそうだよ!そうです!それでいいです!おれはあの人たちに着替えとか風呂
とか手伝ってもらうのが恥ずかしくてしょうがないんです!」
「親子ほど齢が離れているんだぞ。いまはまだ多少の緊張があっても、すぐに慣れるだろう」
皇子であるノヴァは他人に身支度の世話をされることに慣れているため、カイが抱いているという羞恥を軽んじる。
しかしシェルティがそこに畳み掛け、ノヴァの言い分を退ける。
「ノヴァ、年齢の問題じゃないんだ。カイは今までろくな女性経験を持ったことがない。だからどんな相手でも、女性というだけで意識してしまうんだ」
「……そうなのか?」
ノヴァは憐みの目をカイに向ける。
カイはその目を避け、シェルティをひと睨みすると、さらに声を大きくした。
「はいはい、そうです、おっしゃるっとおりです!もうなんでもいいから!とにかくおれはあの人たちの代りをシェルティにお願いしたい!」
「だが、やはり、兄上に侍女と同じ仕事ができるとは……」
「できるさ。ぼくは春宿でただ油を売っていたわけじゃない。食事と宿代くらいの働きはしなくちゃいけないと思ってね。娼妓の身支度から食事の世話、洗濯に繕い物、床の準備に至るまで、下男になりきって、なんだってやったよ」
「そうそう。それにほら、シェルティなら、今回みたいにおれがなにかやらかしてもすぐフォローしてくれるだろうし、ラウラの負担だって減るはずだ」
その言葉を聞いた途端、ノヴァの表情がかすかに動く。
「こいつはムカツクほど人を言いくるめるのがうまいからさ。今まではおれに取り入ろうとしてくるやつらの相手はラウラにまかせっきりだったけど、シェルティならうまくさばいてくれると思うんだよ」
「僕は兄上が貴君のそばにいることで、むしろ彼女の負担が増えるのではないかと思うが」
ただでさえ最年少官吏のラウラと異界人のカイの組み合わせは目立つというのに、皇太子であるシェルティまで加われば、衆目を集めることは必須。旗を振って歩くようなものだ。
それだけでなく、三人は間違いなく孤立するだろう。
カイとシェルティはまだしも、そこにラウラが含まれることが、ノヴァにとって最大の懸念だった。
「そうならないように取り計らうのも、ぼくの仕事だ」
「兄上……しかし……」
ノヴァはあと一押しで了承するだろう。
そう踏んだカイとシェルティは、ラウラに目配せをする。
その合図を待っていたラウラは、二人に力強く笑いかけた。
「私なら、大丈夫です」
ラウラはノヴァをまっすぐ見つめる。
「だから、ノヴァ様。私からもどうか、お願いします」
ラウラに頭を下げられて、ノヴァはようやく音をあげた。
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