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第一章

そしてはじまりへ至る

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(どこに向かってるんだ、これ……!)
抵抗する術も、体力もないカイは、綿毛の翼に身を任せるほかなかった。
川を越え、荒野を抜け、遠くに見えていた木立の中に入る。
それはまだ新しい植林地だった。
等間隔で植えられた苗木は、小さいものでカイの膝丈ほどしかない。
とても肥沃とは思えない土地だが、木々はしっかりと根を張り、瑞々しい葉を広げていた。
カイから見て左手、北に向かうほど木は大きい。カイはかろうじて足がつかない、高さ四メートルほどの若木の列の上を進む。
しばらくすると苗木は途切れ、夥しい倒木が折り重なる、雑木林を踏みつぶしたような場所に出た。
植林地と雑木林との境目に、明かりが灯されていた。
そこにはいくつかの天幕が張られており、行き交う人と、繋がれた馬の姿が見えた。
(誰かいる……!)
カイは身構える。
天幕はどれも簡易的なもので、雑木林を背に、半円状に設置されていた。
その中心にあるひとつの天幕に灯る明りは一際大きく、松明を焚いた数人の官吏が見張るように周囲を固めていた。
「おい、あれ……!」
翼はまっすぐ天幕に向かってカイを運んだ。
カイに気がついた官吏たちは、慌てて天幕の中に声をかける。
「ノヴァ様!ラウラ様が……」
それを聞いたノヴァは、天幕を飛び出し、官吏が松明を掲げる方向を見上げる。
(なんで、また、この人のところに……)
カイの全身から血の気が引く。しかしどうすることもできない。
「それは――――」
ノヴァはカイの身体を浮かす翼を見て、顔を歪める。
「――――お前にも、反応するのか、それは……!」
ノヴァは両手の拳を強く握りしめる。
翼は吸い寄せられるように、ノヴァの元へカイを導く。
ノヴァは官吏の手から松明を奪い、強く息を吹きかける。火は松明から離れ、二つの火球となり、カイの元へ飛んでいった。
「うわっ!」
カイは咄嗟に両腕で顔を覆う。火球はカイの身体ではなく、その背に生えた翼に直撃する。直後に翼は霧散する。浮力を失ったカイは落下する。カイは咄嗟に、近づいてくる地面に向けて、霊力を放った。
「くっ……!」
カイは地面に叩きつけられる。
霊力によって衝撃は軽減されたものの、すぐに起き上がることはできない。
近づいてきたノヴァは、カイの胸倉をつかみあげる。
「使いを出したのが無駄になったな。――――自分から殺されに来るとは、少しは記憶を取り戻したのか?」
カイは憔悴のにじむ顔で首を振った。
ノヴァはカイをつかむ手に霊力をこめる。
「この……!」
「ノヴァ様!?」
ノヴァに続いて天幕から飛び出してきた補佐官が、上ずった叫び声をあげる。
「な、な、なにをなさっているんですか!?よく見てください!その人はラウラ様ですよ!?」
「黙れ」
ノヴァは自身の補佐官を、忠臣を、親の仇でも見るように睨み付ける。
「え……!?」
補佐官は絶句する。
災嵐以降ずっとノヴァに付き従ってきた補佐官だったが、このような乱暴な言葉を向けられたのは初めてだったのだ。
狼狽する補佐官を無視して、ノヴァは視線をカイに戻す。
「すぐにでも嬲り殺してやろうと思ったが、足りないな。忘れたままで……楽なままでは、死ぬことも許されないんだ、お前は」
ノヴァはカイを天幕の中に引きずっていく。
「望み通りすべて思い出させてやる。そのうえで、考えうる限りもっとも残酷な方法で、殺してやる」
「あの……あの、ノヴァ様?いったい何がどうなってるんですか?その……ラウラ様になにをなさるおつもりで……?」
しどろもどろとしながらも、補佐官は尋常でない様子のノヴァをどうにか引き留めようとする。
しかしノヴァは振り返りもせず、吐き捨てるように言った。
「中にはいってくるな。なにがあっても」

乱暴に幕が降ろされると、補佐官はその場で頭を抱え、唸った。
「なになになになに……?なんですかこれ?いったいなにが起こっているんですか!?」
周りに集まる他の官吏たちは、顔を見合わせるだけで、誰も答えなかった。
当然だろう。彼らも、補佐官と同じように状況をなにひとつ理解していなかったのだから。
主君の豹変の理由を、彼がなにより大切にしていたはずの少女の中身を、彼らはまだ、知らなかったのだから。
「どうしましょうこれ、どうしたらいいんですかあ……?」
補佐官は今にも泣き出しそうだった。
「なんであんなにノヴァ様キレてるんですか?止めた方がいいんですか?いいですよね?だってラウラさん相手にあんな――――っていうかなんでラウラさんここにいるんですか?ケタリングに連れ去られてましたよね?しかも空飛んでたし……。人が生身で空飛ぶのなんて、大使様の他に見たことありませんよ……」
補佐官ははっとして、慌てて口を閉じる。
周りの官吏たちは、補佐官の口から出た「大使様」の一言で、顔色を変える。
軽蔑、憎悪、怒り、人によって色は違うが、総じて、途方もない憤りであった。
補佐官は不安を紛らわすためにいつまでも愚痴をこぼしていたかったが、つい口をついた失言のために、黙らざるを得なかった。
もとより返事を期待して喋っていたわけではないが、今また余計なことを口走れば、五年前に行き場を失った彼らの憤りのはけ口にされてしまうと思ったのだ。
補佐官は口を固く閉じ合わせ、ノヴァと少女の入った天幕を見つめた。
どうか何事もありませんように、と心中で深く祈りながら。



足跡の天幕の中には、薄い茣蓙が敷かれ、その上に火鉢と茶器が置かれていた。
カイはその茣蓙の上に押し倒された。
「っ!」
ノヴァの手つきは乱暴ではなく、むしろ気遣いさえ感じられるものだったが、落下の衝撃が残る背中を抑えられ、カイは悶えた。
ノヴァは無抵抗のカイに馬乗りになり、身動きを封じる。
「腹が減って動けないんだろう。抵抗されたら手足を捥ぐつもりだったが、手間が省けた」
ノヴァは手元に火鉢を引き寄せ、その中に左手を差し入れた。
自らの手を炙るような行為だったが、ノヴァは顔色ひとつ変えない。
ノヴァは火鉢の熱から霊摂していた。
体内を霊力で漲らせ、自身の左手に刻まれた術式を、発動させようとしていた。
失われたカイの記憶を、復元するための術を。
「すみませんでした……」
ノヴァの思いを知らず、カイはかすれた声で、ただ謝った。
「おれは、世界を救ったんだと思ってました。そう、聞いていたから。災嵐を払った、救世主だって……。本当に、すみませんでした」
「どういうつもりだ」
「え……?」
「お前は誰に、なにを謝っているんだ」
「それは――――あなたに、なにも知らずに、無神経なことを言ったことを――――」
「その発言がなによりも無神経だ!」
ノヴァは怒りで霊操を乱す。火鉢から炎が立ち昇り、熱風が幕内に吹き荒れる。
「……くそ」
ノヴァは深く長く息を吐き、どうにか火を抑え込み、再び霊操に集中する。
「おれを殺すんですか?」
カイの問いに、ノヴァは答えない。
「もし、それしかおれに償う方法がないなら、受け入れます。――――でも、シェルたちに罪はない。あの三人はおれを助けてくれただけだから……どうか、許してあげてください」
「黙れ」
カイは涙をあふれさせる。
彼は自分が捕まることで、周囲に正体を暴かれることで、あの三人を危険に晒すということに、今更気がついたのだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい……。シェルたちはなにも悪くないんです」
「被害者ぶるな!」
再び、火鉢から炎があふれる。
「お前のそれは口先だけだ。周囲を慮っているようで、結局は我が身だけが大事だったんじゃないか。嘘つきめ。人殺しめ。お前のそういうところが、僕は……」
熱風にあてられたノヴァの顔が、悲痛に歪む。
「――――ぜんぶお前のせいだ。だがやつらも――――そうだ、ラウラを唆して、お前に身体を捧げさせたのは、きっと、やつらだ――――そうに違いない。それ以外に考えられない――――」
「あいつらはそんなことしない。誰かに犠牲を強いたりなんか――――」
「やつらはお前のためならなんでもする」
ノヴァは火鉢から左手を取りだす。
火はいつの間にか、完全に消え去っている。
「お前が、やつらのためになんでもしたようにな」
「……!」
「あのときだって、ラウラだけじゃない、あの場にやつらがいるとわかっていたから、お前は行ったんだろう。役目を放棄して、世界を捨てて、やつらだけを――――お前は最初から、僕との約束なんて――――」
「ちょ、ちょっと待って」
カイはたまらず、口を挟んだ。
聞き捨てならなかった。
それは、カイが最も知りたかったことだった。
「おれは――――おれの意志で、世界を救わなかったのか?シェルに、利用されたんじゃなくて……?」
「笑わせるな」
そう答えたノヴァの顔に、しかし笑顔はなかった。
怒りで充血した瞳が、霊術の込められた左手とともに不気味に光り輝いていた。
「あの男がお前を利用するなんてあり得ない。それも自分の命を守るため?あいつにとって自分の命の価値など家畜以下だろう。そんな男が他人を利用してまで生き延びようとするなど――――」
ノヴァの左手の光が強くなる。
「お前は本当に幸せ者だな。どんな苦痛も知らず、血を浴びることも他者の悲鳴を聞くこともなく、今日までのうのうと生きてこられたなんて」
こんな不条理はない、と、ノヴァは吐き捨てる。
「なぜお前ひとりがそうしていられる?いまこの世界で生きている人間は、誰もが癒えない傷を負っているというのに。なぜお前ひとり無傷で笑っていられるんだ!?」
ノヴァはカイの額に左手を押し当てる。
頭の中でなにかが弾ける。
血がのぼり、脳が沸き立つ。
視界が激しく明滅する。
天幕の中にいるはずなのに、陽の光を浴び、風を全身に受けているような感覚を覚える。
どこかもの寂しい、秋の空気を吸い込む。
「傷が消えたなら、また同じものを刻んでやるだけだ。より深く」
カイの視界はもはや現実を映していない。見えるのは記憶の中の、過去の光景だ。
「思い出せ、自分がなにをしたのか。なにを捨て、だれを殺したかのか!」
その叫びを最後に、ノヴァの声も聞こえなくなる。
そうして、カイは過去へと至る。

それは、ノヴァの思惑とは違う過去への遡行だった。
ノヴァはこの再現術を、カイ自身の記憶を開くために用いた。
しかし彼は、この術を転魂者に試したことはない。
本来であれば霊術によって消された記憶を取り戻すための術だが、他者の身体を器とするカイの記憶は戻らなかった。
記憶には身体に刻まれるものと魂に刻まれるものの二種類がある。
カイがシェルティによって消されたのは後者で、前者の身体の記憶は、本来の身体を失っているカイはそもそも持ちえないものだった。
そしてノヴァの術は前者の、身体の記憶のみを復元するものだ。

カイは過去へ遡行する。
この身体の本来の持ち主である、少女の人生を追体験する。


それは世界を救わなかった男と、彼を救った、一人の少女の物語だった。
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