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第一章

奈落の慟哭

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カイは青ざめた顔で、痙攣するように激しく震える。
(どういうことだ)
(こいつはなんの話をしてるんだ)
(どうしておれを、と呼ぶんだ)
ノヴァはカイの異常に気付き、慌てて側に駆け寄る。
「どうしたんだ?気分が悪いのか?」
「ち、違う……おれは……」
カイの言葉を遮るように、太陽から雲が退き、一面に木漏れ日の輝きが戻る。
カイの大きな瞳にも、陽の光は反射する。
その、アメシストのように輝く葡萄色の瞳を目にした瞬間、ノヴァはひゅっと息を飲んだ。

「カイ……?」

震える指で、ノヴァはカイを指さす。
「お前、カイか?お、お、お前は――――」
カイは激しく震えたまま、しかしノヴァから目を逸らさずに言った。
「なんで、おれを、ラウラと呼ぶんだ?」
「なぜ、だと……?」
「おれは、おれは、カイだ。だよ。救世主として、この世界にきた――――」
「黙れ……」
「おれは、救世主なんじゃないのか?世界を救った英雄なんじゃなかったのか?!」
「黙れ!」
ノヴァは激昂し、懐から短剣を取りだすと、カイに向けて放った。
「っ!」
短剣はカイを逸れ、背後にある木に突き刺さった。直後に爆炎があがり、カイの後方一帯が、吹き飛ばされる。
カイは声も出せずに、その場にへたり込む。
「ふざけるな……」
深い憎悪を滲ませた、別人のような顔つきになって、ノヴァはカイに詰めよる。
「世界どころか……お前はなにも――――!」
「そんな……」
「ラウラのために世界を捨てたんじゃなかったのか!?」
ノヴァはカイの胸倉をつかみ、持ち上げる。
「お前はラウラのためにすべてを放棄したんじゃないか!災嵐から世界を守れるのはお前だけだったのに、それでもお前はラウラを選んだ!」
絶叫が、植林地にこだまする。
「だから世界は滅びたというのに!なぜそうまでして守ったラウラの身体に、お前が入っているんだ!?」
ノヴァは拳を振り上げる。しかしカイに向けて振り下ろすことはできず、代わりに自分の顔を殴った。
ゴッ、と、鈍い音が響く。
一度のみならず、何度も。
頬が赤く腫れても、口の端が切れても、ノヴァは手を止めることができなかった。
カイは涙を流しながら呟く。
「や、やめろよ……」
ノヴァは欠けた歯を、口から吐き出した。
「おれ……おれは……わからないんだ……こっちにきてからの記憶がなくて……」
「……記憶が、ない?」
「目が覚めたら、この身体で、シェルがおれは世界を救ったって……。でもおれ知らないんだ。こっちの世界にきて、眠る前のこと、なにも、覚えてないんだ」
「――――そうか、だからか」
「え……?」
「記憶を消したのは事実だったというわけか。兄上にまんまと騙されたな」
ノヴァは血の滴る拳でカイの前髪を掴み上げる。
「理解した。あいつらがお前を朝廷から遠ざけるわけだ。お前に全部忘れさせて、自分たちで囲って、生かすつもりだったのか。――――ふざけるなよ。絶対に許さない。自分の犯した罪を、殺した人間の悲鳴を忘れて生きていくなど。その身体でお前が生きていくなど、絶対に、許されない!」
ノヴァは霊力で手元に短剣を引き寄せる。
「待ってくれ!頼む、教えてくれ!本当はなにが起こったんだ?おれは、おれはなにをしたんだ!?」
ノヴァは瞳孔の開ききった、真っ赤に充血した目で、カイを射貫く。
「いいだろう、教えてやる!――――八年前、お前に与えられたのは別の身体だった。お前は災嵐から世界を守る役目を負っていた。だがお前はそれを放棄したんだ。たった四人のために、八百万人に犠牲を強い、世界を滅ぼしたんだ!」
「……は?」
「全土が災嵐に見舞われた。八百万人いた人口はいまではたったの二千人だ。都市は瓦礫の荒野と化し、野は焼け山は崩れ川の水は死者の血肉で汚された。川底には未だ無数の骨が沈んでいる。――――社会は完全に崩壊した。壊滅した。生き残った者たちも飢えや傷病に長く苦しんだ。――――小さな子どもが、自分だけ生き延びてしまった、なんて言葉を五年たったいまでも口にする。――――世界は、人びとは、叩き潰された。奈落の底に落とされて、今も這い上がれずにいる。――――お前のせいで」
それは地の底から響くような慟哭だった。
「なにもかもすべて、!」
カイは耳を塞ぎたかった。
けれど、できなかった。
「お前があのとき縮地を実行できていれば、こんなことにはならなかった。お前自身も、裏切り者として殺されることはなかった……!」
「殺され……?」
「死んだと思っていた。たしかにあれはお前の死体だった。それが――――八百万人を見殺しにしておきながら、すべての罪を忘れただと?今日までのうのうと生きていただと?それも彼女の身体で――――」
ノヴァはカイに短剣の切っ先を向けた。
「許せない」
殺される、とカイは思った。

バチッーーーー!

その時、閃光が弾けた。
ノヴァは手にした短剣ごと、数メートル後方へ吹き飛ばされる。
「ぐっ……!」
木に背を打ち付け、ノヴァは倒れる。
恐怖と混乱で錯乱状態に陥ったカイもまた、その場で昏倒してしまう。

植林地の中は、水を打ったように静まり返る。
鳥の羽ばたき、葉擦れのひとつ聞こえない。
気絶した二人のかすかな鼓動だけが、そこに残される。





やがて林の合間を縫って、官服を身につけた騎馬集団が駆けつけてくる。
彼らは吹き飛ばされた数本の若木とえぐれた地面、血まみれの主君、そして西方霊堂で療養中であるはずの少女を目にし、騒然とする。
「陛下!?それにラウラさん!?こ、これは、いったい……」
騎馬隊の先頭を走っていたのは、以前カイのもとへ見舞いにやってきた朝廷からの使者、皇帝の補佐官を務める官吏だった。
補佐官は信じられない光景を前に一瞬我を忘れたが、すぐに主君のもとへ駆け寄り、その安否を確かめた。
「陛下!……ああ、よかった、ご無事だ……」
同行していた他の官吏たちも、ノヴァを取り囲み、口々に叫ぶ。
「なんてことだ」
「はやく処置をしなければ!」
「下手に動かすべきではない!」
「いったい誰が……」
「まさか、異界人の一派では……」
「――――ああっ!また、ケタリングが!!」
喧騒をかき消すように、木々をなぎ倒しながら、ケタリングが接近してくる。
官吏たちは慌ててノヴァに被さる。
ケタリングは官吏たちのわずか数メートル上空をかすめる。
すさまじい衝撃によって、木々も馬も、等しくなぎ倒される。
官吏たちは飛び散る枝葉をその背に受けながらも、どうにか踏ん張り、主君の盾となる。
「――――無事か?」
「なんとか……」
「ああ!」
「どうした?」
「ラウラ・カナリアがいない……」
「な、なんですって!?」
補佐官は枝葉をかぶったままの格好で立ち上がり、周囲を見回した。
ノヴァと共に倒れていたはずのカイは、たしかに、影も形もなくなっていた。
「やられた……」
補佐官はこめかみを押さえ、全身の空気を抜くような、深いため息をつく。
「――――ああ、最悪だ。これ絶対、めちゃくちゃ面倒なこと起きてますよね」
嘆く補佐官は、まだ知る由もなかった。
五年前から続く悲劇の第二幕が、ついにはじまったのだということを。
しかしすでに予感している。
これから起こる動乱を、考えうる中で最悪の事態として。
「ここしばらくの平穏は嵐の前触れだったということなんでしょうか。このまま何事もなく日々が過ぎていくと思ったのに……どうしてこう――――」
ぼやきながらも、補佐官は他の官吏たちと共に、すぐ次の行動に移った。
嘆いている暇はないのだ。
事が起こったら、感情を押さえなければならない。
水をかぶってでも冷静にならなければならない。
迅速かつ的確に対応しなければならない。
それが災嵐を生き延び、今日まで社会を存続させてきた彼らの身に染みついた、官人としての心構えだった。
彼らは立ち向かう。
なにがあろうとも、現実から目を背けてはならない。
立ち向かわなければならない。
生き続けなければならない。
それが、災嵐を生き残った彼らの責務だった。
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