Quirky!

リヒト

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定期試験の中日の昼。

俺は1人、旧校舎へ続く渡り廊下を歩いていた。

別に後をつけるつもりは無かったんだが、さっきたまたまあの丸っこい後ろ頭がこっちへ曲がって行くのを見たと思ったら、無意識のうちに足が向いていたんだ。

今頃、野球部の連中が、教室から忽然と消えた俺を探してるに違いない。


さも途中にある図書館へ行くようなフリをしてその前を素通りし、今は文化系の部活棟として使われている旧校舎へと向かう。


この先には、学祭のとき以来足を踏み入れたことがなかった…… 何も用が無いからな。

考えてみたら俺の今までの高校での生活の大半は、野球部専用の球場と部室と教室で完結してる。

夏以降、敗退からの引退で、喪失感から高校生活なんか既に終わった感があったが、ここへ来てなんとなく新たなフェーズに入ったようで、ワクワクしている。

授業も受験対策の選択セミナーが増えて小学生みたいな時間に終わって帰れるから、自分のペースで勉強できるのも嬉しい。

自由だ。


日向臭い木造校舎の廊下を歩いていくと、引き戸にセロテープで貼り付けられたコピー用紙の『理科部』の表示が目に入る。

ウチの理科部は夏の研究発表会以外には特に活動の無い部で、幾つかある所謂帰宅部の内に数えられている。

その理科部に所属するヤツの生息地は、恐らくここだと目星を付けていたが……?


半信半疑で、日向臭い木枠の窓からガラス越しに中を覗く、と。


やっぱり居た、シマエナガ。


他には誰も居ない部室で、実験台の上のガスバーナーにビーカーをかけ、何やら雑誌を読み耽っている。


予想通り、こいつは一人飯か。


さりげなく……さりげなくだ。

キュルキュルと音を立てる引き戸を半分まで開け、上擦る声を抑えて、低めに問う。


「何してんだ」


戸口に立つ俺に気付いて、ハスミが振り返る。

キョトンとして小首を傾げる様は、正にシマエナガ。

でっかい黒目がちな目に、ちんまりした鼻と口がくちばしみたいに見える。

小鳥なら虫食うのも当たり前か、とか考えながら返答を待っていると、予期せぬ訪問者に戸惑っているのか少し間があって、ゆっくりと子どもみたいなサイズの人差し指がビーカーを指す。


「…… お湯を、」


いや沸かしてんのは分かるけど。

おまえの目の前にフタ開けられてスタンバってるカップ麺が解せないんだよ。


「実験に使ったヤツだろそれ」


「綺麗に洗ってあるよ?」


何の問題が?みたいな顔で俺を見ながら、すっかり沸き上がっていたことに気付き、雑巾を当ててビーカーを掴み湯を注いでいる。

流石に沸騰石は入れてないか。良かった。


パタンと閉じられた雑誌の表紙を見て、さもありなんと思う。

あ。これ、歯医者の待合室に置いてあるヤツだ。

第一線の研究者に取材した正確でわかりやすい記事に定評のある、理科系の最先端の話題を満載した科学雑誌。

幼い頃、古代文明の謎や宇宙の起源に関する特集なんかを興味津々で読んでいた覚えがある。

カラー写真やイラストが多いだけあって、小学生が月々の小遣いで買おうと思うとちょっと躊躇する値段だったから、いつも親父に買ってもらっていた。


「…… おまえのせいで、あの後しばらくカメムシの幻臭に悩まされたぞ」


「え」


ハスミが目をぱちくりする。


「実は…… 俺もアレに口の中に飛び込まれそうになった経験がある。

というか、ペットボトルに捕まえたのを忘れてついうっかり、だな……」


カメムシウォーターの風味を思い出して若干眉間を寄せている俺を見上げて、ハスミがプッと吹き出し、脇を向いてクックッと喉を鳴らす。

ウケを狙ったつもりは全く無かったんだが、笑っているところを見ると、何か可笑しかったらしい。

笑われてしまった恥ずかしさが漂うが、それ程気分は悪くない。


他にも、ランニングしてるときにモヤモヤと集団を形成して滞空している細かい虫を吸い込んでしまい酷い目に遭ったことがあると話すと、ハスミはちょっと鼻に皺を寄せて笑みを浮かべる。


「蚊柱だね。あるある」


「なんだってあいつらああやって道端に群れてんだ…… 頭の上にしつこく付いて来たりさ」


カみたいな形はしてるけど血は吸わない。

なのにヒトと見ればウザ絡みしてくるあの細かい虫の、存在する意義が分からない。

更に寄る俺の眉間に、ハスミはまた笑いながら、


「ユスリカはね、ほとんどがオスなんだって。

単独行動する数少ないメスを呼び寄せる為に、オスが群れて羽音でアピールしてるらしいよ。

一匹一匹が極小さいから、単独じゃ羽音も小さい。

集団行動することでメスと結ばれる確率を上げてるんだね」


集団でマッチング待ちしてるとこに突っ込んだようなもんか。

迷惑極まりないな…… 俺が。

人間主体の考え方を、ちょっとだけ改めさせられる。


「オオユスリカやアカユスリカの幼虫は…… ほら、アカムシって見たことない?」


「釣りに使うやつか?」


「そうそう。ペットコーナーでエサとしても売ってたりするよね。

あれは水底土壌の有機物を大量に食べてくれるから、水質改善に一役買っているんだよ」


「…… ふぅん」


虫を擁護する発言は、こいつは生き物全般が大好きなんであるということを証明している。

やっぱり俺とは真逆の人種だな。


話が途切れると、途端に気まずい雰囲気になる。

話題が無い。


「…… 食えよ。伸びるぞ」


俺が顎でハスミのカップ麺を示すと、


「う、うん」


ハスミが慌てて小さな指でフタを開ける。

割り箸で麺をほぐし始めるのをちょっとだけ眺めて、俺は旧理科室を後にした。

他人に見られながら食うのは嫌だろうからな。


渡り廊下を教室のある校舎へと戻りながら、何故かしら顔がニヤけるのを感じて、表情筋を意識的に抑える。


あいつ、ほんっと変わってるよな。

でも、しっかりと自分を持っていて、やりたいことに熱中してるのは理解出来る。

他の女共と違って、群れない。

かと言って友達が居ない訳でもなさそうだ。

普通科の眼鏡女子やギャル系の派手な女なんかとも(恐らくマニアックな話題には違いないが)分け隔てなく楽し気に話しているところを見かける。

孤立してるというよりは、独立してるんだよな。


つーか…… 俺は一体ここへ何をしに来たんだ。

何にもならないことに時間を割いていることが信じられない。

わざわざ自分から出向いて女に声掛けるなんて、野球部の連中からは“天変地異の前触れか⁈”とか言われそうだ。

…… あいつも多分、同じこと思ったよな。



翌日は俺の行いを反映するかのような大荒れの天気で、学食は学生達で溢れていた。

苦手な人混みを避け、購買で勝ち取ったスペシャルステーキ弁当を手に、旧校舎の理科部へ向かう。

昼くらいはヒトが作った飯が食べたい。

自分で作った飯は、作ってる過程で大体の味が分かるから、食う前に飽きてしまう。


予想に違わず今日も居た、シマエナガ顔の虫愛ずる女。

声を掛けあぐねて無言で戸口に立つ俺に気付いて、はみ出したタマゴサンドの中身を下から啜っていた口を離し、目を瞬く。


「…… 何か?」


どう切り出そうか迷いながら、チョークの粉が固着した古い黒板のガサガサした表面に指をつく。


「それ、購買で買ったやつか?」


馬鹿。そうじゃないことは見れば分かるだろ。

第一こいつ、購買に一番乗りした俺より先にここに居たじゃないか。


ごくん。

細い喉が動くのを見て、考えていた話題が全部吹っ飛び、一瞬頭が真っ白になる。


「私が作ったやつだけど?」


「そ、そうか」


ヤバい。手汗が凄い。

指の形が黒々と黒板に残ってる。


背後にある黒板の前でどう切り出そうか逡巡する俺を、ハスミは指先に付いたタマゴフィリングを舐めながら背中で窺っているようだ。


「その…… おまえに、折り入って相談がある」


「?」


パックの野菜ジュースのストローを咥えながらちょっとだけ振り返って訝し気に俺を見上げているのが分かって、黒板に突いた指先に力が籠る。


「生き物苦手なのを、克服したい。

…… 触れるようになりたいんだ」


「ほう?」


何を突拍子もないことを、と自分でも思う。

この時期にこんなこと言い出すなんて、受験を前に現実逃避してるとしか思えない。

けど、ハスミは引くでもなくバカにするでもなく迷惑そうにするでもなくすんなりと受け入れて、俺の打ち出した目標について真剣に考えてくれているようだ。

話をしても良さそうな雰囲気に、実験台の斜め向かいに回ると、ハスミの目が俺の行動を追っているのが分かって、緊張する。

台の下から重たい鉄製のスツールを引っ張り出して木の座面に腰を下ろし、買って来た弁当を前に置いた途端、理由の分からない溜め息が出る。

…… 何やってんだ、俺は。


「そもそもアキくんは、なんで生き物が苦手なんだろう?」


う…… こいつ今俺のこと、仲間内の呼び名で呼んだ?

あまり他人に興味無さそうだし、今まで口きいたこともなかったから、俺の下の名前なんか知らないかと思ってたけど……。


「なんでだろうな」


生き物嫌いが何故なのか、いつからだったかなんて、考えたこともない。

聞かれて初めて、記憶を遡る。


子どもの頃はそこまで苦手じゃなかった。

いや、むしろ好きで、夏には田舎の爺ちゃんの家へ泊まりに行って、従兄弟と一緒に雑木林でカブトムシを捕ったり川へ釣りに行ったりしてたな。

なのに、いつの頃からか生き物全般が苦手になり、全く触れなくなっていた。


「…… 触るだろ?

動きとか体温感じて“生きてる”って思った瞬間、ゾワッとして“無理!”ってなる」


「それが良く分からない」


ハスミが小さな頭を傾げると、ツヤのある黒髪がサラリと頬に掛かる。

このアタマ、ショートボブと言うらしい。

というのは、仲間が雑誌を見ながら話してるのを聞いて、つい最近知った。

物心ついたときから野球の為にボーズ頭にしてたから、髪型なんて…… ましてや、星の数ほどある女の子のヘアスタイルなんか、その一つひとつに呼び名や派生型があることすら知らなかったな。


「そうなったきっかけに心当たりはないの?」


「あ、あぁ……」


完全に逸脱していた思考を戻されて、記憶を辿る。

ショートボブの耳掛けの破壊力に気付いたのは極最近のことだが……、


「虫が苦手になったのは、多分……」


小学校中学年くらいだったと思う。

野球の練習帰りに一人でグラウンドの端にある遊具で遊んでいたとき、砂場の隅、誰かが作って崩れかけた砂山の陰に、見たこともないくらいでっかいトノサマバッタが居るのを発見した。


「身体が大きいのはメスだね」


「うん。当時の俺の手のひらくらいある、立派なメスだった」


近付いても逃げようとしないのをいいことに、捕まえてやろうと胸部を摘んで持ち上げると、


「すげぇ腹が伸びてて……」


マジであり得ないくらい伸びていた。

身体の2倍……いや、3倍くらいに長々と伸びた腹を砂中深くに差し込んでいたのを、ズルーッと引っこ抜いてしまって、困惑した。

しかも、暴れもせずに大人しく捕まえられているとは……?


「よく見たら、尻のギザギザした先端がぽっかり開いてて……、」


「…… て?」


「死んでた」


「産卵中に絶命したんだなぁ。気の毒に。…… で?」


「…… 穴に戻そうとしたけど戻せなくて…… 怖くなって、放っぽって逃げた」


「…………。」


もう大分寒くなりかけてた頃だった。

見たこともない形状に変化したトノサマバッタが産卵中だったことは想像に難くなかったが、そんな状況で死を迎えたということに激しくショックを受けた。


「凄絶過ぎるだろ」


あの、硬直した死骸の感触と重みが今だに指先にあるように感じて、身震いする。


「寒さにやられたか…… 時期が遅過ぎたんだね。

でもオスはその前に死んでたと思うよ」


「えっ」


「交尾が終わるとすぐに死んじゃうから。

トノサマバッタのオスは、メスに精子を届ける為だけに生まれて生きて死んでいく一生なんだよ。

一生に一度きりの交尾に命を賭けてる訳。

そうじゃない種類もあるけど…… オンブバッタって見たことない?」


「あぁ、あのとんがった形のヤツだろ」


「あれは他のオスの授精を阻止する為にずっとメスにオンブし続けてるんだって。執着すごいよね。

いずれ卵を遺せたのなら、その個体は生命を全う出来たと考えていい」


「そこなんだよな」


虫が苦手なのには他にも数え切れない程の理由があるが、その“種の存続”ということだけを目的とした生殖の行程を知れば知る程、不可解で近寄り難い印象は濃くなる。

ある種のカマキリのメスが交尾しに来たオスを喰うってのは有名な話だが、なんだってそんな仕組みになってるんだ。

生命を繋ぐ為の栄養を確実に得られるという意味合いでは確かに合理的には違いないが、契り交わした相手を共喰いとは……なんておぞましき世界だろう。

そして、オスの存在意義とは……。

来世があるのなら虫にだけは生まれ変わりたくないと思う。


「虫には痛感が無いっていうのが通説になってるね」


うっ…… 痛覚無いって、どんな感覚なんだろ。

痛いのはもちろん嫌だけど、気付かない内に身体喰われて死ぬとか、怖過ぎる。


「どうせ鳥や蟻の餌になっちゃうなら、妻の糧となって我が子の栄養に成れた方が幸せってもんじゃない?」


「いや、だからってな…… 行為の最中に生きながら食われてしまうオスの身にもなってみろよ?」


そんな虫にとって、交尾ってどう感じるものなんだろうな。

快感があるんだろうか?

って、童貞の俺にはセックスの快感など想像も付かないが。


「スプリングボックスカマキリのメスは、元々単為生殖可能だからオスなんか要らないの。

なのに、オスに押さえ付けられて無理矢理交尾させられるんだよ?

傷付けられて殺されそうになることだってあるから、…… そりゃ返り討ちに遭っても仕方ない。

正当防衛だ」


「命賭けて遺伝子遺してやるから、代わりに命寄越せ、ってか?

…… 冗談じゃない。

つーか単為生殖での繁殖にはリスクもあるんだろ?

一つの病気で、それに弱い個体が全滅しちゃうとかさ。

遺伝情報の交換で多様性を持つことが、種の継続にとってどれだけ有意義か。

子ども作ったら後は用無しなんて…… オスの立場ないだろ…… 」


「ま、虫は本能だけで行動してるので、愛情とか無いと思うよ」


「寂しいこと言うなぁ」


ハスミが意外そうに目を瞬く。


「はぁ…… アキくんて、意外に……」


「ん?」


「んーん、なんでもない。

苦手なのは、虫だけ?」


「いや…… 爬虫類もダメだ」


蛇は言わずもがな。

手足が無く長々とした形がダメだし、まず鱗がダメ。

顔のとこが一番ダメだ。

口元の、大きめの鱗がびっしりある中にブツブツ孔が開いてるのが気持ち悪い…… うぅっ、思い出すとゾワっとする!


「嫌いな割に観察力すごいね。

嫌いだから見ちゃうとこもあるんだろうね…… 否、見えちゃうから嫌なのかな?」


「……とにかく、あの並んで穴開いてんのが嫌なんだ」


「あれはピット器官って言って、赤外線を感知するサーモセンサーなんだよ。

目はあるけどあまり良くないから、獲物の体温を知覚する為に発達した器官で……サメとかにもあるね」


ヘビが嫌いな理由の一つには、エサを生きたまま丸呑みする習性がある。

友達が草むらでトノサマガエルを呑みかけているヘビを見つけて、逃れようともがくカエルを助けてやろうと棒でつついて無理矢理引き離したことがあったが、結局カエルは死んでしまい、近くに埋めて墓を立ててやったことがあった。

ヘビの口の中にあったトノサマガエルの下半身は黄色く変色して、足の先の方は溶けかけていた…… いつからその状態で居たのかは分からないが、生きながら消化されてた訳だ。


「カエルは脊椎動物だから、痛覚はあるだろ」


食欲を失う話題に、弁当など食べる気がしない。

ハスミは俺の顔をチラチラ伺いながら、野菜ジュースのパックにストローを挿し、チュウっと吸う。


「ヘビにとっては迷惑な話だね、折角食事にありつけたのに。

ってか、ピット器官のあるヘビなんかどこで見たの?

そういうのは、カエルは食べないと思うな」


「うん。カエル食おうとしてたのとは別のだけど…… あの川原で見た。

2mくらいはある、デカいのだった」


それを聞いたハスミが急に表情を険しくする。


「ピット器官が並んではっきり見えるようなタイプのヘビは、日本には居ないよ。

ニシキヘビ系統…… ボールパイソンとか…… 飼ってたのが逃げたのか、飼えなくなって捨てたか…… 2mなんてまだほんの小さい方だ。

ああいうのは鳥や小動物を捉えて絞め殺して丸呑みするんだけど、大きくなれば4、5mにもなって家畜や人を襲うこともある。

本来ならそこら辺の草むらに居てはいけない外国産のヘビだね」


次に見かけたら即刻区役所か保健所に通報するようにと釘を刺され、黙って頷く。


そんな危ないもんだったのか、あのヘビ。


「まあ…… ここら辺は寒いし人目も多いから、そんなに大きくなるまで見つからずに生存できる確率は低いと思うけど。

近年は温暖化してるし、生活排水のお陰で川の水温が上がってるから、何とも言えないな。

ミシシッピアカミミガメ…… 俗に言うミドリガメも繁殖出来てるくらいだから」


「う…… やっぱあれ増えてんのか……」


同じく、あの川原で見かけたことがある。

ヘビと同じ爬虫類に分類されてはいるが手足があって甲羅があるからいくらかマシと思っていた。

でも、何かの病気なのか、顔が腐って嘴みたいなのが取れかかっているのを見てしまってからは、名前を口にすることも憚られる。

生きながら顔が腐っていくって、どんな感覚なんだ。

しかもそいつは、俺の見ている前で、自らの前脚の爪で嘴を削ぎ落とした…… 俺の中に、どんなホラー映画よりも強烈な一生もののトラウマを残して。


「カエルは大丈夫なのに亀はダメなんだ?」


「どっちにしろ大丈夫じゃない!

カエルは墓の穴掘りを手伝ったってだけで、俺は一切触ってない…… ほんとは見たくもなかった。

カ、…… メはほんとやめてくれ、あの甲羅は鱗と同じく角質が変化したものなんだろ?

なのに、なんで背骨とくっついちゃってるんだ?

割れたら…… 剥がれでもしたらどうすんだよ⁈

 首と手足の骨変な風に曲げて引っ込めて隠れてる場合じゃないだろ⁈ だあぁっ、もうっ…… !」


「分かった分かった、落ち着きたまえ。

大丈夫、カメはあの甲羅のお陰で絶滅せずに種を存続出来てきた訳だから、そう簡単には死なない筈だよ。

甲羅は欠けると再生はしないから、形は戻らないけど。

カエルもやっぱりダメなんだね?」


「…… 両生類は虫と同じくらいダメだ。

小学生の頃、夏休みに田舎の爺ちゃん家に行ったとき、……」


2つ年上の従兄弟が田んぼの溜池の縁から玉網で巨大なウシガエルを掬って遊んでいた。

ブモー、ブモー、って野太い声で鳴くウシガエル。

田舎の家の周りには、もそもそとそこらじゅうに這い回っていた。

昔食用として養殖されていたものが、食用とされなくなり、自然繁殖していたらしい。

地方都市とはいえ一応都会で育った俺は、カエルと遭遇することなど滅多になく、ましてやバカでかいウシガエルなんか見たことがなかったから、おっかなびっくりで従兄弟のすることを眺めていた。

牛舎の脇から自転車の空気入れを持ち出してきた従兄弟に嫌な予感が止まらない。

ニヤニヤしながら捕まえたカエルの尻にノズルの先を近付けるところが見えて、耐え切れずに目を閉じ耳を塞ぐ。

ブモォォォ……⁈ という苦しげな悲鳴?の後で、パン!という破裂音がして…… どうなったかは、想像の通りだ。

変わり果てたカエルの姿を見て俺が悲鳴を上げると、従兄弟は得意になって、今度は池の底からアカハライモリを掬い上げた。

真夏の太陽に晒されて焼けたアスファルトの上に叩き付けられた鮮やかな黒と赤の身体は、ジュッと嫌な音を立てて地面に張り付いた。

張り付いた腹を引き剥がそうと、必死で四つの脚を動かしてもがく、アカハライモリ。

ジリジリと照り付ける太陽の下、乾き切ったアスファルトに見る見る内に身体中の水分を奪われ、やがて動かなくなった。

見ていることしか出来なかった俺は、意味も無く奪われた生命に対して責任を感じて罪悪感に苛まれ、苦しみもがいて迎えた最期の姿を自分の身に置き換えて想像してしまい、従兄弟の甲高い笑い声が突き刺さるように響いて、その内頭が痛くなって吐き気もしてきて…… その後しばらくは具合が悪かった。


「両生類たちの呪いだ」


「多分熱中症だったんだよ、それ」


冷静に返されて、う、と詰まる。


「とにかく、あれ思い出すと俺、ロクな死に方しないだろうな、って気がするんだ」


「アキくんよりも、その従兄弟の方がロクな死に方しないと思うよ。

…… いっぺん同じ目に遭わせてやりたいものだな」


ハスミは表情も変えずに言ってるが、静かな本気が見え隠れしていて怖い。


「そんな従兄弟も、今は田舎の市役所の環境課で生物の生息環境の保全に携わっている。

いつぞや砂防ダムに落ちて上がれなくなったカモシカを保護したとかで、新聞の地域欄にシカとの笑顔のツーショット写真が載ってた。

…… 人は変わるもんだ」


従兄弟は、俺には無い行動力があって一緒に遊んでいて面白いヤツだったが、あの行動の理由だけはいまだに理解出来ないでいる。

あんなことをしておいて何故、屈託なく笑えるのか。

男児特有の残虐性だというが、同じ男児の俺には全く解せない…… したいとも思わないが。


「それはそうと、今時アカハライモリが棲息できるくらい水が綺麗な環境ってすごいよね。

大抵の農業用貯水池には農薬が流入してて、水棲生物は数を減らすか姿を消してるっていうのに」


言われてみればそうだ。


「雪の多い地域だから水が豊かなんだな。

近くに万年雪を戴く山があり、あちこちから雪解け水が渾々と湧き出していた。

田んぼにはどじょうが居たし、用水路にはザリガニやエビが居た。

もっと山際に行くと、川にはイワナとかヤマメが居たな」


「すごいすごい!どこなのアキくんの田舎って」


ハスミは何か盛り上がってるが、あそこは俺の棲息出来る環境ではない。

牛小屋とか鶏小屋には信じられないサイズのギラギラした蝿やアブやブユが飛び交い、雨の後には一歩踏み出せば踏ん付けてしまうほどミミズやカタツムリやアマガエルの小さいヤツが居て、明かりの下にはバカデカい蛾が…… あぁ、思い出しただけで無理。

田舎は生物の坩堝だ。


「釣りはしたことあるんでしょ?」


「釣っても触れないから田舎に行ったとき以来してない」


「なぁに?魚類もダメなの?」


「やっぱり鱗がダメだ」


「じゃあ、魚、食べれないんだ?」


「いや、鯖とかサンマなんかの鱗の無い魚は大丈夫」


「え、青魚系も鱗はあるんだよ?

剥がれ易いから、捕るときに殆ど無くなっちゃうみたいだけど。

お店に並んでるヤツに鱗が無いのは、綺麗に下処理してあるんだよ」


「そうなのか? 最初から鱗が無い種類なんだと思ってた。

鱗がある魚でも食べ物の形になってれば…… 鮭とか鱈の切り身は食べれるんだけどな。

でも鯉の旨煮とか鯛の松笠揚げとかは…… 絶対無理だな……」


「そんなの食べる機会の方が少ないと思うけど」


「…………。」


「とにかく鱗がダメなんだね」


「……うん…… 」


これも小学生の…… 低学年の頃のことだ。

父が知り合いから、ガラス瓶に入った色鮮やかな熱帯魚を譲り受けたことがあった。

ヒラヒラとドレスのようなヒレで水中を舞うその魚の名は、ベタ。

タイでは闘魚として賭けに使われているようだが、日本では多彩な色と形から観賞魚としての人気が高い。

小さな瓶でも飼育出来るとあって、インテリア感覚で飼う人も居るようだ。


美しい姿はもちろんだが、金魚よりも小さいくらいなのに、知性を感じさせる行動に惹かれた。

水換えは父がしてくれていたと思うが、毎日餌をやる俺の顔を覚えたらしく、近付くと首を上げて小さな小さな瞳で見つめてくる。

魚に首ってあるのか?と思うだろ?

あるんだよな、ベタには。

ん?って、小首を傾げたりして、可愛い。

古代魚の類だからか、普通の魚には無い動きが出来るんだ。


いつまでもこんな狭い場所に閉じ込められているのは可哀想だと思い、金魚の入っている大型の水槽に移してやることにした。

椅子に乗って瓶を持ち上げ、そぉっと水槽の上に持って行く。

少し傾けたところで、怖いのか瓶の底の方に引っ込んでいたが、もう少し傾けると、水と一緒にスルッと瓶の口から泳ぎ出し、水槽の中にとぷんと落ちた。

さあ、これでおまえも広いとこで自由に遊べるぞ。

良いことをした気になり、期待して見守っていると、どういう訳かビリビリと感電したように震え始めた。

ビクビクと震え続けていたかと思ったら、細かい鱗が全て逆立ち、やがて腹を浮かべて動かなくなってしまった。


「phショックだね。

魚類は急に水が変わると身体が適応出来ずにショックを起こしてしまうんだよ。

少しずつ慣らしてあげないと…… というかまず、ベタは金魚と同じ水では飼えないと思う。

元々の生息環境が違い過ぎるもの」


「そうなのか」


「ベタはタンニンの多いブラックウォーター…… ジャングルの中の枯葉の積もった水溜まりみたいなとこに棲む魚だから。

水流のある環境だと泳ぎ疲れて死んじゃうこともあるみたいだし」


知らなかった。

とは言え、本当に取り返しのつかないことをしてしまったものだ。

唯一、心が通じ合ったように感じた生き物だったのに。


ベタが死んでしまった原因は分からなかったが、自分が何らかの過ちを犯してしまったことに気付いた当時の俺は、罪悪感に苛まれた。

そしてまた、細かい鱗が全て逆立って松ぼっくりみたいになった姿を見て、生まれて初めて生理的な嫌悪感というものを感じた。

死骸には、どうしても触ることが出来なかった。

“死”が指先から浸み込んでくるようで、恐ろしかったんだ。

結局、お手伝いさんを呼んで、庭の花壇の隅に埋めてもらった。


「お手伝いさんが居たの」


「あぁ…… 居たよ、夏までは。

もう大分お婆さんになって、あちこち痛くて動けないから、って辞めたけど。

小さい頃主に俺の世話をしてくれてたのは、その人だ」


「お坊っちゃまなんだなぁ」


「…………。」



仕事から帰った親父は俺を責めることはしなかったが、全ての生き物には命があり、それが尽きてしまうと、二度と戻らないという話をしてくれた。

俺は親父の話を聞きながら、二度と戻らない母のことを思っていた。

母さんが死んだのは、俺が知らない内に何か間違ったことをしたからなんじゃないか、って。


それにしても、あんなに可愛いがっていた筈なのに、形状が変わってしまったというだけで触れないなんて。

自分の薄情さに驚き呆れ、嫌気がさした。


「俺には、生き物を飼う資格が無い」


「資格も何も…… そんな反省があるだけ、生命を軽々しく扱う人間よりは全然マシだと思うけどなぁ」


マシ、か……。

少しはマシってだけで、やっぱり俺は、他の生き物とは関わらずに生きて行った方が良い人間なんじゃないだろうか。

というか、こんな話、こいつにしてどうするんだ。

同情を引くつもりも無いが、俺がハスミの立場なら、どう反応していいか分からないような話だよな……。


「うーん…… 集合体恐怖症ってやつなのかな。鱗がダメって人、結構居るよね」


余計な自分語りをしてしまった気恥ずかしさが襲うが、ハスミが敢えてスルーして話を本筋に戻したのが分かるから、俺も合わせる。


「ん…… それっぽい」


「恒温動物は?」


「ダメだ……」


体温と拍動を感じると、えも言われず怖くなる。

友達の家に遊びに行ったとき、飼っていたハムスターを手のひらに乗せてくれたことがあったが、こんなサイズで心臓があって肺があって消化器官があって…… 生きていると思うと、ゾワゾワした。

俺がもしこの指の力加減を間違えてしまったら、この小さなネズミは…… と、想像するだけで恐ろしい。


「ネズミの類で言うと、尻尾の長いヤツは特にダメだな。

あの関節みたいなシマシマが気色悪い。

もし…… 折れたらって思うと……」


「だからなんでそういう発想になる。

ちなみにあの尻尾のとこ、よーく見ると皮膚が鱗状になってるけどね」


「やっぱりか⁉︎ そんな気はしてたんだよな……」


あの尻尾への嫌悪感はそれだ、間違いない。


ネズミで思い出した。


小学校高学年の頃、グラウンド脇の桜並木の落ち葉集めを手伝っていたとき。

木の根元に積み上げられていた落ち葉の山を、大人達がやっていたように金属製のチリトリを足でガツガツやって集積場に持って行ったら、落ち葉の中に小さな野鼠の死骸が紛れていた。

パッカリと割れた頭部から頭蓋骨なのか脳なのか白いものが飛び出していて、枯葉の上に滴る鮮血がたった今絶命したばかりなことをありありと示していた。


俺が殺してしまった。

何の罪も無い小さな生き物を、俺が、この手で殺してしまったんだ……。


意図してやったことではないにしても、落ち葉の山の中には俺の知らない世界があって、小さな生き物達の生活があった。

この野鼠にも親やきょうだいがいて、もしかしたら子どもなんかも居て、懸命に生命を全うしようとしていた。

落ち葉で暖を取り、同じく冬越しをしようと潜んでいる虫やミミズなんかの餌を得ることが出来る環境に、安泰して冬に備えていたのだろう。

それが…… 俺が何も考えずに突っ込んだチリトリで、突然明日を奪われてしまったんだ。


「…… 何もそこまで自分を責めずとも」


「いや、何だろうと俺が悪いだろ」


「良いとか悪いとかじゃないでしょ。

不幸な事故だよ。悔やんでも仕方ない」


「仕方なくはない。罪は罪だ。

俺には多分、生き物を不幸にする何かがあるんだ。

だから、なるべく近付かないようにしてる。

のに、……」


動物の側では俺が接触を避けたいと思っていることなど知る由もなく、何故かよく散歩中の見ず知らずの犬に絡まれる。

脚にしがみ付いて腰振られたりとか…… あれ、ほんとに恥ずかしいからやめて欲しい。

俺、メスじゃない上に、犬でもない。


ブホッ、とハスミが噴き出す。


「何が可笑しい?」


「いや、失礼。

そんなに懐かれたら、可愛いなーとか、撫でてみたいなーって思わないの?」


「子どもの頃、仔犬触ろうとしたら親犬に噛まれたことがあって……それ以来、自分から犬には触ったことがない」


「そりゃ噛まれても仕方ない。

どんな動物だって、母親には命をかけても子どもを護ろうとする本能があるからね。

例え信頼している人間にでも、あまり触らせたくはないと思うよ」


「…… それは分かる。

訳の分からない子どもには、ましてや触って欲しくなかったんだろうな。

今考えると、噛まれた痛みより、自分は信頼されてないんだな、ってショックが大きかったんだと思う。

飼い主のおばさんには触らせてたのに…… 普段穏やかな犬だったし、撫でさせてくれてたから、尚更だった」


「……猫は?」


猫には足元に擦り寄られる率が異常に高い。

あいつら、にゃーんとか媚びるみたいに擦り寄りながら目は笑ってないから怖い。


いつかも近所の一人暮らしの爺さんの家に回覧板を頼まれて持って行ったら、その家の猫らしいのが寄って来た。

爺さん同様歳老いて、毛並みもボサボサの不細工な顔をした老猫だ。

耳の後ろを怪我しているらしく、治りかけて痒いのか、にゃーんにゃーんと鳴きながらやたらと俺の脛に擦り付けてくる。

何か違和感を感じて、屈んでそいつの耳の後ろをよく見たら……、


「毛が無くなって、なんかカサカサしてぶつぶつがいっぱいあって…… 引っ掻いた傷が瘡蓋になってて……気持ち悪くなって逃げた」


思い出したくもないが、細かいところまでまざまざと思い出すことが出来てしまい、怖気が立つ。


「疥癬かな。ダニが表皮で繁殖すると炎症で脱毛が起こるよ。

うん、それは逃げて正解だね。ヒトにもうつるし家に持ち込んだら大変なことになる」


「逃げたのにあいつ、追いかけて来て…… 目の前で轢かれて、飛び出した内臓が…… 靴に……」


「もう!何でそんな不運な経験しかしてないんだ!」


バン!と実験台に両手を突き、憤然とハスミが立ち上がる。


「分かった。協力しよう。

アキくんが、生き物と向き合えるように。

生き物と触れ合うことを、恐れずに生きて行けるように」



ハスミの考える、生き物との付き合い方。


全ての生物は、自然と共にそこに在る。

それぞれに、命を繋ぎ合って自然の中での役割を担っている。

彼らの生態については、我々人間の尺度で考えてはいけない。

不用意に触れれば思いもよらない害を被ることもある。

彼らは身を守る為に、実に様々な特性を持っているのだ。

でも、だからといって無闇に恐れることは無い。

生き物との触れ合いには、まずは正しい知識が必要なのだ……。



「その生き物が何故そのような生態であるかという知識があれば、自ずとその行動にも理解が生まれる筈。

アキくんの方から理解しよう、近付こうと努力すれば、生き物達だって相応に応えてくれるさ」


「そんなもんか」


「そんなもんだ」


そう言うと、ハスミはまたストンとスツールに腰掛け、ジュゴゴゴゴ…… と野菜ジュースを飲み切りながらパックを畳んでいる。


「ん。行ってよし。

とりま試験後半、頑張ろう」


「お、おう……」


なんかあしらわれた気がしないでもないが、一時でも真剣に取り合ってもらえたのがなんとなく嬉しく、古びた木造校舎を後にする足取りが軽くなるのを感じる。



ハスミとは、定期試験の最終日の放課後に例の橋の下で待ち合わせる約束をした。


女と話すのは苦手と思っていたが、やはり苦手を克服しようとする姿勢は大事だ。

実際あいつと話してみて、色んな知識と気付きを得ることが出来たじゃないか。

大収穫だ…… 結局自分の弁当は食べそびれてしまったが。


『試験後半、頑張ろう』


あいつの声を思い出すと、今までにも増して集中力とやる気が漲り、試験勉強が捗る。


また部室へ行けば会えるかな。

寝る前からもう明日が楽しみ、なんて、いつ振りだろう。

週末には学校の外で会えることを思うと、ワクワクする。

何か、今までとは違う、新しい俺に成れるような気がして。

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