RIVERSIDE

小林 小鳩

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#03

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 何を望むことならば、許されるのだろうか?

『人形プレイが好きな人には二種類いると思うんです。一つは、人形を演じている人間が好きな人。責められている時に反応しないように耐えている悶えてる表情が見たいって人。もう一つは、完璧な人形を求めている人。何をされても反応せず人形に徹している、人間味がない人形を求めている人。野田さんはどっちですか?』
 実際に会う前の打ち合わせで、ハルから送られてきた質問に野田は呆気にとられて、すぐには答えられなかった。
「どちらかと言えば、後者よりかな……?」
 そこまで完全完璧に人形でなくても構わないんだけど、と弱気になって慌てて付け足した。人形が好き、人形に擬態した人間が好き、という自分の感覚だけしか追ってこなかったので、同好の士にも色々こだわりがあるのだと考えてもいなかった。こんな趣味を持つことはいけないことだと思っていたから。プレイをするにあたって相当な覚悟を決めたはずなのに、なんだか自信がなくなっていく。
『全身タイツの上から服を着せて、完全に人間味を消したいってお客様もいますよ。完全に無機物無個性の人形になれて、凄く気持ち良いんです』
 ハルは矢継ぎ早に言葉を返してくれるのだが、野田にはあまり想像出来ない。そもそも自分が具体的にどんなプレイをしたいかをもっと事細かに考えておけば良かった。
「……肌や表情は見せて欲しいかな。顔を見たい」
 じゃあ普通の人形で、好みの服装は? と話が進む。

 自分がそうであると野田が知ったのは、子供の頃。クリスマスの夜に点けっぱなしのテレビで流れていたバレエの「くるみ割り人形」だった。人形に扮したダンサーが箱から取り出され機械仕掛けの動きで踊り、そして人形のようにパタリと動かなくなり人に抱えられて舞台から片付けられていく。その様に魅せられた。いや、言葉にならない衝動を感じた。感動とはまた違う、疼きのようなもの。人形を、人形として振る舞う人間を、美しいと思う気持ち。だが、これを決して言葉にしてはいけない。とにかくそう感じた。
 人形への執着を決定的にした運命の出会いは「コッペリア」。人形職人のコッペリウスが作った美しい少女人形コッペリア。毎日ベランダで読書をする彼女に村の青年フランツは、人形とは気付かず恋をする。それに嫉妬する婚約者のスワルニダ。フランツの命をコッペリアに移そうと企むコッペリウス。しかし企みがバレて、スワルニダにコッペリアを壊されてしまう。なのに第三幕ではフランツとスワルニダの結婚を祝う祝福ムードで幕を降ろす。喜劇だというが、どう考えても悲劇だろう。最愛の人形を壊されたというのに。人形に恋をすることはそんなに笑われて当然のことなのだろうか。そもそも何故人形に心を与えようとするんだろう。美しい人形がそこにある。自分だけのものになっている。ただそれだけで尊い。心を命を与えても、自分に恋をしてくれる保証なんてないだろう。コッペリウスは本物の少女のようにコッペリアを扱い、ベランダで外の空気に触れさせていたけれど。自分ならきっと誰の目にも触れさせずに、人形と二人だけでいたい。
 演出家によって違う結末がある。実はスワルニダも人形だった、コッペリアもコッペリウスを愛していた、コッペリアが本物の少女になった、と色んなパターンが存在する。人間になってしまうのはつまらない。人形だからこそ、コッペリアは愛おしいのに。

 バレエダンサーの美しい脚や、多くの制約に縛られながらも心身を解き放とうとするような大胆さと色気にも魅せられていたが、ずっと隠し通していた。自室のテレビでバレエを見ていた時、部屋に入ってきた親に言われたからだ。男のくせに。
 自分だけがみんなと違う岸辺にいる。あちら側の世界とこちら側の世界の間には川が流れている。バレエを観ているだけで侮蔑的に見られる。ましてや人形が、人形と化した人間が好きだとバレたら、きっと生きることを許されない。そんな恐怖を感じた。みんなと同じ男らしい普通の男にならなきゃいけない。あの川の向こう側の世界に行かなくては。
 人形への思慕を抱えながらも、男の社会で目立つことがない程度に男らしく生きることには成功してきた。清潔感を保つよう心がけ、スポーツをして飲み会などの誘いも断らず、なるべく嫌われないように明るく振舞ってきた。みんなと同じ普通を生きれば大丈夫。本当のことなんて誰も気付かない。それだけが野田の心の支えだった。
 上手くやってきたはずだった。歳を重ねるにつれ「普通」をやりこなす為に必要なコストは高まっていくのに対して、自身の余力が少なくなっていた。周りは家庭を持ち、郊外のマンションを買い田舎に家を建て始めている。また違う川の向こう岸から、早くお前もこっちに来いよと呼びかけてくる。自分もそうしなければ。みんなと同じ人生を選ばないと。
 異性と結婚すれば、普通の男に変われるんじゃないかと思っていた。それは、人間の命を入れて人形を人間に変えようとするコッペリウスよりも馬鹿げていたのかもしれない。彼女に情はあった。ちゃんと確かにあったけれど、何かがなんとなく違っていた。それでも世間体さえ整えられればそれで良かった。
 生き抜く戦略として正しい選択をしているはずなのに、ずっと悪い嘘を吐き続けている気分。周囲にそう見えて欲しい自分からも自分の一番純粋な部分からも遠ざかっていく。
 渡れると思った川は海溝よりも深く、向こう岸に向かって渡っているつもりが流されていて、近付くことも出来ていなかった。結局数年で離婚して、「普通の人生」を送る為の指針を見失った。もがけばもがくほど溺れて川底へ沈んでいく。もう正解がわからない。誰でも良いから自分以外の人が決めてくれれば良いのに。それに従うから、正解を教えて欲しい。
 野田は自分が、世間というものに操られている人形のように思えた。どうせ人形なら、人形を抱いてみたい。

 そうして始まった人形遊びが、いつの間にかこんなところまで辿り着いてしまった。
 ふとバレエの「ペトルーシュカ」を思い出す。ペトルーシュカは人間のような感情を与えられるが、人形の身体のままでは恋を知っても相手にされず苦しみもがくしかなかった。
 目の前にあるのは、身体はこそは骨と肉で出来た人間だが、心はすっかり人形だ。恋を知ることなどないだろう。
 これはただのお遊びのはずだ。

 川を臨むマンションにはまだ数十年ローンが残っているが、今そこにはよく知らない家族が住んでいる。無理せず賃貸にしておけばもっと身軽に生きられたのかもしれない。そのまま持ってきた家具たちは、野田が一人で暮らすアパートでは窮屈そうにしている。売るものや処分するものはまとめておいてあるのだけど、それを実行する気力がない。
 新婚時代に郊外の立派なマンションのモデルルームをいくつも観に行ったが、彼女はあまり乗り気じゃなかった。しかし男たるもの一国一城の主でなければ、そうしないと幸せになれないと焦っていた。離婚した今では何故あんなに焦っていたのかわからない。
 彼女を選んだきっかけも、ずっと本人には隠し通していた。彼女は勤務先にアルバイトに来ていた女の子の一人で、他のアルバイトの子達と比べて目立つわけでもなく、むしろ埋没している方だった。あの時までは。
 カタログに訂正シールを貼りサンプルと同梱物をまとめて封筒に入れ発送作業をする、と作業の説明をして、出来上がり見本とマニュアルを渡した。簡単な作業に思われたが、彼女は取り乱した。見本と配布したマニュアルの訂正シールの貼る位置に微妙なズレがある。周りに訂正箇所が隠れてれば良いんだよ、と促されても、どちらが正しいのか教えて下さいと矢も盾もたまらないといった表情で迫ってきた。誰かが決めた絶対的な正解を提示してもらえないと不安で一歩も動けない。誰かに操ってもらわないと何も出来ない。
 他の仕事をお願いしても万事がこの調子で、常に細かく誰かの指示を仰ぐ。そんな彼女を同僚たちは面倒な子だと見ていたが、野田は彼女に惹かれた。意思や意見を持たず、操られることを望んでいる人形のような子。彼女とならやっていけるんじゃないかと思ったのだ。でも違った。彼女は自分から離婚を選んで決められたのだ。
「あなたは悪くないし嫌いじゃない。この生活に不満はないんだけど。何かが違う。そういう違和感って一度気付いてしまったら二度と消えないの」
 そう言われて、話し合いを持つことは諦めた。いや、自分には結婚生活を継続する気力なんて最初からなかったのだ。
 いつだって誰かの指示がないと呼吸も上手く出来ないような彼女が、自ら選んで決められるようになったのだ。快く受け入れよう。そう思っていたのに。結局は、第三者に促されて離婚を決めたのだと後からわかった。自身を操る主人を取り替えただけだった。
 人形しか、人形のような人間しか愛せないのだ。自分自身もそうだ。決められた形を守れば幸せになると信じて努力していた。主体性があるわけではなく。風に吹かれて舞い上がる木の葉のように、大きな力に翻弄される脆い存在。

 彼女からは今年になってから時々連絡がある。周りの気分にすぐ影響されて不安定になりやすい性質だからだろう。今のパートナーはこのやりとりを知っているのだろうか。
 どうして自分と結婚してくれたのか訪ねた時、彼女は「だってもうみんな結婚してるし、普通は結婚しなきゃいけない年齢だし」と答えた。ここで彼女の感情を揺さぶったら、彼女は普通じゃない方の人生を選ぶのだろうか?
 かつては夫婦だったはずなのに、今はもう川を挟んだ向こう岸にいる感覚だ。自分は既に彼女の知っている男ではない。
 もしかしたら、望み通りの生活をしている人間なんて一人もいないのかもしれない。みんな他の誰かの方が自分より幸福に見えているだけ。自分が本当に欲しかった幸福は、人形の形をしている。


 オフィーリアのようだ。自身に降りかかった災難もわからないまま、壊れた心と花々とともに川底へ沈んでいく、ハムレットの恋人。ハルもまた作り物のような瞳に絶望を滲ませ、長い髪を泳がせ真っ白なワンピースが真っ白なシーツの川に溶け込むように沈んでいく。表情がないのに、哀しそう嬉しそうと感情があるように見えてくる。こっちの妄想を勝手に投影しているだけだ。わかってはいるけれど。
 野田は横たわるハルにテーブルランナー代わりの深緑ストールを被せ、腹の上に木製のトレイと白い皿を乗せる。その上には苺のショートケーキ。食器は量販店で買った安物だし、ケーキも上等な店のものではないけれど。自分たちの不完全さには丁度良い。ストールの上から顔の位置に手を置くと、体温を感じた。端から脚だけはみ出ているのが、かえってこの下には人間がいることを意識させられる。人間らしく扱われることを放棄した身体は、胸の辺りが微かに上下している。無機物になろうとしながらも完全に無機物にはなりえない、そのもどかしさが愛おしい。その欲望に応えないと。こちらもただの物体として扱ってあげないと。
 フォークでケーキを切り分ける度、トレイが傾かないようハルが腹に力を入れているのが伝わる。温もりがある不安定なテーブル。不完全で自分の力だけで立つのが頼りないから、二人寄り添ってこの部屋の中に潜んでいる。世界に見つからないように。
 だんだん境界が曖昧になって、何だかハル自身を切り分けて食べているような気分になる。肉の塊となって貪られたい、というハルの欲求を思い起こす。まったりとしたクリームの中に紛れる苺の甘酸っぱさで、ハッと醒める。
 ストールを捲るとハルはいつもと変わらず人格のない抜け殻として、焦点の定まらない光のない瞳が開いたまま無機物であることに耽っている。
 最後まで取っておいた苺。美しいものにはあるべき美しさを与えなくては。白い肌に傷口のように赤い唇をこじ開けて、苺を詰めて塞ぐ。

 穏やかな雨が降るように、吹き出しに囲まれた文字列が一行ずつ落ちていく。世界中で疫病が流行し思うように人同士の接触が叶わない中、ハルとの繋がりが途切れないようにメッセージのやり取りを続けていた。他愛もなく細々とした言葉を、触れようと手を伸ばすようになんとか紡ぐ。
「今は他のバイトしてるの?」
『ピザ配ってます』
『まかない出るし』
『学費はもう納めちゃったけど、この状況が続くなら生活費がままならないかも』
 野田が悩んで送った一行に、何倍もの速度と量で返ってくる。密室で二人きりで逢う時は物言わぬ人形だが、今この瞬間の端末を介して触れる彼は明らかに人間だ。言葉は人間を人間たらしめるもの、というのを実感する。
「学校はどう?」
『オンラインで授業受けてます』
『レポートの課題の本がなかなか手に入らなくて苦戦してます』
『ネットで品切れだったり電子書籍になってないのもあるし、在庫あっても高いし図書館も使えないし』
「なんて本?」
 返信された書名を見て、部屋の隅に積んである本の背を確認する。
「それなら持ってる」

 本を貰うお礼に、といつものホテルで落ち合った。いつも通りにそこには人形が置かれ、「お人形遊び」に興じる。お人形とのお茶会。身体の自由を主人に委ねた人形には、ルール内でなら何をしてもどこまでも許される。甘やかされているようだが、その反面試されている気がする。自分だけが楽しんでいて、彼はそうではなかったら?
 金銭の取引がある関係なのだから、と割り切れない。人形のようになれと命令して屈服させるのと、自ら人形になることを望んだものをそのように扱ってやるのとでは、全く違う。だってこの部屋の中においては共犯者だ。無機物を全うさせて彼の欲を満たしてあげたい。金で買ってる立場のくせに、そういう願望はおかしいだろうか。
 普通のセックスと違って、人形プレイは相手に何も協力して貰えない。当たり前だが。服を脱がせるのも姿勢を変えるのも、何の意思も持たない肉体を相手にするのがこんなにも大変だとは、実際にプレイをしてみて野田は初めて気付かされた。何十キロもある、しかも手荒に扱えば実際に壊れてしまう身体を相手にしている。苦痛を与えてしまっても人形は反応出来ないから、主人の自分が気遣うしかない。人形を操っているようで、操られているような。
 今までしてきた生きた人間の恋愛や性愛の真似事よりもずっと、相手をよく見て気遣えている気がすると、野田は思う。側から見ればままごとのようなコミュニケーションかもしれないが。
 世間が決めた「正しい生き方」「正しい性欲」以外は存在しないこと、存在してはいけないことにされている。でもちゃんとここにいる。いても良いと、ハルは伝えてくれている。そこに言葉はないけれど。

 初めて人形と、ハルと身体を繋いだ後のことをよく覚えている。
「越えてはいけない川に片足突っ込んだ気分っていうか……」
 照れと罪悪感が散らばる感情をまだ整理しきれない野田に、
「片足突っ込んだら、もう簡単に流されて溺れますよ」
 とハルは微笑んだ。
「野田さん、川遊びしたことないですか? 膝より下の深さでも川の流れに足を取られるんですよ。足首までの深さなら大丈夫だろうって思ってても、気が付いたら水嵩が増していることってよくあります」
 危ないでしょう? と少し意地悪そうに笑った。
 広く深い川の淵で、対岸を眺めている。ハルはこの川底に一緒に沈んでくれるだろうか。



 野田から借りた本はシャーペンで傍線がいくつも引いてある。真っ直ぐではなく少しよれた線。人の温度がある。大事だと思う部分が外れたり重なったり。ホテルのように明るくなりきらない下宿のベッドで、祥太郎はその一節一節を指でなぞりながら、彼を思い浮かべる。
 途中のページに二つ折りのレシートが挟まっていた。紙の隅は薄茶に変色し、文字も薄れているけれどなんとか読める。二人分の食事のレシート。誰と?
 本の向こうに彼を感じる。生々しいほどの、呼吸と体温を持った人間の彼を。二人でいる時とは違う、真の部分に近いものに触れている気がする。
 身体の中に相手の身体の一部を受け入れても、心までは受け入れない。そのはずなのに。自分で決めたルールの中に収まらない感情が皮膚の外へ染み出していく。
 こんなの、慣れ親しんだ関係性に甘えているだけだ。彼に見せているものも発する言葉も全部が嘘で、本当のものなんてどこにもないはずなのに。自分は意思のない人形で、だからこそ優しくしてもらえるだけなのに。彼に会う時はいつもと少し違う期待と緊張感と、まだ上手く固まりきらない感情が濃い霧のように肺に詰まっている。これは全部嘘のはず。祥太郎はそう頭の中で何度も自分に言い聞かせる。この感情もきっと嘘で、夢の中だけで有効なんだと。
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