RIVERSIDE

小林 小鳩

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#02

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 初めて人間じゃなくなったのはいつだろうか。

 女の子の服を身に纏うのは、自分という存在を消し去りたいから。可愛い少女人形の姿で塗りつぶしてしまえば、安心出来る。カラーコンタクトを入れるのは、その方が人形っぽく見えるからだけではなくて、眼球にも蓋をして覆ってしまいたいから。
 何者でもない、ただの物体。本当の名前も意思も感情も声も、人間らしさも剥ぎ取られた。人間から人形になるための儀式のようなもの。
 更に身体全体をタイツで包まれると、本当に人間ではなくなったと思える。大きく開脚をした状態で電気アンマで与え続けられる刺激以上に、自分がマネキンと化していることに興奮を覚える。このままマネキンとしてショウウィンドウに飾られたい。もっと人間らしさを捨て去りたい。
 客の好みは様々で、お人形さん遊び以外にも所謂ポゼッションプレイを求められることもある。テーブルや足置きにされたり、道具や家具などの無機物として扱われる。プレイを心得て気遣いながらも無機物として扱ってくれる客もいれば、無抵抗なのだから何をしても構わないだろうと乱暴な扱いをする客もいる。悪い意味で人間扱いしない客だ。ただ前者の客の中でも野田は特に人形として扱ってくれる。大事なお気に入りの人形として。
 また呼んでくれると良いな。他の客の相手をしているのに、煩悩だらけで身体以外は人形になりきれていない。もっと完全な無機物になりたい。
 電気アンマを強く押し付けられ、ビクッと軽く脚のつけ根を浮かせて反応してみせる。この客は耐えきれなくて感じてしまう様子を見るのが好きだから。だけどやりすぎないように、最小限に留めておかないと。あくまで人形らしく、無機物らしく。
 漠然とした死への希求があるものの、自分で死にたいとは思わないし、誰かの手にかけられて殺されたいのとも違う。肉体が朽ち果てて意識や感情を棄て、人間という役割を葬りたい。ただの物体となり、何か大きな力で滅ぼされたい。

 郊外へ向かう始発電車はいつも余白が多すぎる。朝まで飲んで帰るのか、他に誰もいない長椅子に大胆に寝転んで眠る人を横目に、祥太郎は誰もいない隣の車両へ移る。
 この仕事で稼いだ現金はあまり手元に置いておきたくなくて、自宅に戻る際に駅前のコンビニのATMで入金するのが習慣だ。ついでにチキンとサンドイッチを買って、ラージサイズのアイスカフェオレを飲みながら帰る。客が帰った後そのままホテルの風呂とベッドを満喫してから、始発で帰る。勿論アメニティも頂戴するし宿泊ポイントも貯める。せっかく一泊の料金を払っているのだからすぐに帰ってしまうのは勿体ない。
 きちんと糊のきいた真っ白なシーツはテーブルクロスのようで、裸で横たわる度に自分が晩餐のメインディッシュの肉の塊のように感じて心地よい。行為の後の身体をゆっくり冷ましたいのだ。
 窓の外はまだ暗く、うっすらと見える団地や高層マンションも規則正しく眠っている。たまに明かりがついている窓が目に入り、そこにいる目が覚めている人の気配を感じる。こんなにたくさんの窓の奥で、誰もが言いようもない寂しさに目を瞑っている。いつもそんなことを勝手に思う。
 大きな川を渡る鉄橋を越えた頃、空の端が淡い桃色に染まり始めた。車内の中吊りや自宅のある駅前に大きく掲げられたマンションの広告には都心までたった何分と書いてあるけれど、そんな短時間で着くのは通勤快速だけだ。目に映る何もかもが、自分を良く見せたいという虚飾と欺瞞に溢れている。そんな風に思ってしまう自分の痛々しさにも当然呆れている。
 寮の中は共用部の大型テレビも廊下も何もかもが、これから良くないことが起きるみたいに静かで、足音を立てないようにさっさと自室へ逃げ込む。いつも何かから隠れているような気がする。
 各室ユニットバス付きとはいえバスタブと呼ぶのを戸惑うほど小さく、備え付けのベッドと机以外もう余計なものが何も置けない狭さの部屋。両手を広げると必ず何かにぶつかる。それでも湯を沸かせる程度の水回りもあるし、寝に帰るだけの家には十分だ。複数の大学から人が集まるこの寮の中で最も安い部屋。自分は他の学生よりも明らかに収入があるであろう。だけど何にも欲しくない。この部屋に何かを増やしたいとは思えない。
 男の娘に変態するための装い、ウィッグやワンピースを手入れし洗濯している内に、廊下の外が騒がしくなっている。今日は二限からだからまだ余裕がある。授業の準備をしながら野菜ジュースを飲み、冷水筒の麦茶を空のペットボトルに詰め替えて、大学へ向かう。たかが百何十円のペットボトルを買う金も惜しいのを、誰にも気付かれたくない。そんなつまらない見栄を張っても仕方がないとわかっているけど。
 学費のためだけではない。まとまった金があるということは、社会の普通からこぼれてしまうという漠然とした恐怖から、自分を救ってくれる。煩わしい関係を断ち切って逃げてしまうことが出来る。


 グループの中に一人ぐらいどうしても名前を思い出せないメンバーがいるのは、よくあることだ。自分はそういう存在なのだと、祥太郎は子供の頃から感じている。
 鈴木祥太郎という、平凡すぎて逆に一度聞いたくらいでは覚えられない名前を持っている。容姿も良すぎず悪すぎず平凡で、よく誰かの友達に間違えられる。右から左へ何にも引っかからずに通り過ぎていくような平凡さ。空気みたいに、そこにいるはずなのに存在を意識出来ない。
「コイツ、マッチングアプリいくつも入れてて女の子とデートしまくってるんだってよ」
「もうちょっとでやれるとこだったんだよ。あれ絶対やれてたって」
 そんな簡単にはやらせねえよ。その言葉は当然飲み込んで、マジかよなどと言って軽く笑う。
「だって完全に向こうから誘ってきてたんだって」
「押してみたらいけんじゃねえの」
 キングオブ馬鹿だ。本当にこいつらどうしようもないな。小鉢の温泉卵をつけたカレーライスを食べながら、祥太郎は同級生の会話を受け流している。シェードが半分下りているのに、隙間から入ってくる日差しは強く肌が痛い。
 学食で陽の当たる窓際のテーブル席に座れるのは、一人じゃないから。一人で授業を受けたり昼食をとるのを、正確にはそれを他人に見られるのを回避したい。一人だけ情報を得られず損をしたり恥をかいたりするのを回避したい。ただそれだけのために繋ぎ止めている友人関係。多分卒業したら会うことはないだろう。人を利用している、と言ってしまえばそれまでだ。でもおそらく彼らも同じように祥太郎を利用している、そう感じている。こういうものを、孤独と呼ぶのだろうか。
 何もやましいことのない普通の大学生、を装うことにはとっくに無理がきている気がする。それでもそうせざるをえない。だって、人は自身が理解出来る人間以外には、いくらでも酷いことが出来るものだから。これは単なるごまかしではない。防衛本能で、生存戦略だ。
 名ばかりの友人たちの話に笑いすぎない笑顔で応えながら、何気なく髪をかき上がるとホテルのシャンプーの香りが残っていて、ふと昨日の夜が頭をかすめた。

 祥太郎だって、最初から男娼を選んだわけではない。
 大学に入りたての頃は、自転車で通える範囲の場所で居酒屋でバイトをしていた。同級生のほとんどと同じような、普通のアルバイト。賄いが出るのは嬉しかったけれど、毎晩のように酔っ払った客にどやされ、最初に契約したはずの就業時間はどんどん増えていき、疲れ果てて泥のように眠るばかりの生活が続いた。ある時客の理不尽な暴言に、作り笑顔で「申し訳ありませんでした」を機械みたいに繰り返していると、ゴッと鈍い音がして身体が床に沈んだ。ジョッキで側頭部を殴られた。幸いこぶができた程度で済んだが、即座に辞めた。
 殴られた衝撃で頭のネジが外れたのだろうか。いや、馬鹿らしくなったのだ。今の仕事だって、金を払っているんだからと横暴な振る舞いをする奴を何人も相手にしてきた。でも居酒屋で一ヶ月で稼いでいたのと同じ金額が、二、三回身体を売れば手に入ってしまう。女の子の姿で無抵抗にひたすら犯されたり性具を突っ込まれる方を選んだ。自分が選んだことなのだから、何が起きたって自業自得だ。自分がいなくなったところで誰も気にしない。あの居酒屋は変わらず営業を続けているし、大学も蟻のように大量にいる生徒の一人くらい消えてもどうってことないだろう。
 それに、普通のアルバイトよりもこっちの方がなんだか性に合っているような気がするのだ。
 人形になりたい、無機物になりたい。その願望は他者がいないと叶えられない。自分以外の誰かによって「人形」だと認識されそう扱われて初めて、人形になれる。捨てた肉体を屠る虎が必要なのだ。「お人形」と遊びたい人から金が貰えるのなら、それで十分満足だ。やはり性に合っている。

 そろそろ行こうぜ、と学食の出るついでに友人が空のペットボトルをゴミ箱へ放る。ボトルは縁に当たって床を転がり、友人は拾おうとするが蹴飛ばしてしまった。学食の外へ転がっていくペットボトルに確かに気付いてはいるが、他の二人に合わせて祥太郎も見て見ぬ振りをした。互いに普通から外れていないか監視するのと同時に、普通を維持する為に互いの悪事を大したことないと庇い合う。大丈夫、親切な誰かが拾って捨ててくれる。友人を、客を、自分を。いつも誰かを騙して生きている。自分自身でいたくない。本来の自分ではない何かの殻を纏っている。この殻は重苦しいけど硬いから身を守ってくれていると信じて脱げない。
 存在感の無さは身を助けてくれる時もあると思っている。大勢に紛れてわからなくなれば、些細な悪事は見逃してもらえる。個として認識されたくない。


 だからこうなってしまうのだ。大学一年の春、祥太郎は誰もいなくなった居酒屋の大部屋を見て思った。
 大学では一人ぼっちになると情報が回ってこなくて学生生活に苦労するというから、繋がりや居場所を作らなきゃいけない。そう思って入学前からSNSでなんとか形ばかりの関係を作り、いくつかのサークルの新入生歓迎会に顔を出したものの。どのサークルもピンとこない。本当にここに決めていいのだろうか? という不安しかない。そこで何番目かに参加した新入生歓迎会。途中でトイレに行って戻ってきたら、誰もいなくなっていた。何十人と居たのだから、一人くらいいなくなってもわからないよな。でも両隣の席のやつは気にしてくれよ。大学が始まってまだ数週間しか経っていないのに、もう疲れ果ててしまった。
 駅近くの広い公園のベンチに座り、誰かにSNSで連絡を取ろうとして、やっぱりやめた。置いてけぼりにされたなんて知られたら、それをずっとネタにして笑われるに決まっている。その恥ずかしさに耐えられない。このまますぐに学生寮へ帰るのもなあ。電車の時間をアプリで調べようとして止めて、生温い空気の中ぼんやりとしていた。
 ふと公園の広場にある銅像が目に入った。全国の至る所に同じようなものがあるだろう。誰の指示で誰が作ったかよくわからない、裸体の像。ふと、自分が像になることを想像する。衣服という人間らしさを剥がされ、制作者の思い通りのポーズを取らされ、立像として設置される。無機物として衆目に晒される。全身の血が熱く一点に集まっていくのがわかった。
 人知れずそんな感情に囚われているうちに、一人の男性が近づいてきた。背広を着た、親よりは若いくらいのその男は、祥太郎の顔を覗き込むと「いくら?」と尋ねた。何が? と返すよりも先に、男性は指を二本立て「これでどう?」と。さすがに理解した。返す言葉が出てこなくてまごついていると、「今いくつ?」と畳み掛けるように訊いてくる。
「……十八」
「そっか。こういうの初めて?」
 首を振って、ベンチから立ち上がった。
「ねえ、君、名前なんていうの」
「……ハルキ」
 どうしてあの時背広の男についていこうと思ったのかわからない。でも空気みたいに扱われるよりずっとマシに思えたのは確かだ。
 近くのホテルで特徴のないセックスをして、金を渡された。セックスの最中男はずっと、若い子は肌が違うね締まりが良いね、なんて祥太郎の身体を褒め続けていたが、当の本人にはどれひとつとしてピンとこなかった。ただ、自分の身体はこうやって換金出来るものなのかと学んだ。
 自分なんてどこにでもいる普通の男子だと思っていた。取り立てて何か才能があるわけでもなく、全てが平均点辺りを彷徨っている。名前を何度伝えても覚えてもらえないような、凡庸な男。見たことあるけど思い出せない、そんな感じの。だけど、この肉体を他人に貸し与えるだけで、金銭的価値を与えてもらえる。ひゅうっと内臓が持ち上がるような、不思議な高揚感があった。フリーフォールに乗って、恐怖と快楽が同時に襲ってくるような。新しい正しさを得たような。
 あの感覚がずっと身体から離れなかった。居酒屋のバイトを辞めた後、すぐにマッチングアプリで相手を探した。
 最初の内は普通のアルバイトの傍ら、たまにやるつもりだった。宅配業者の荷物の仕分けは、体力を使うので兼業には向いていなくて二ヶ月で辞めた。時給がやたら高額のデータ入力のアルバイトは、迷惑メールってこういう風に作られているんだという社会見学をして、一週間で逃げた。気が付いたら男娼の仕事だけになっていた。
 始めたばかりの頃は普通の男娼だったが飽き足らず、客の話を聞いているうちに思い付いた。自分の扱って欲しいように扱いたいと思う客がいるはずだ。少しずつ形を変えながら、今の「お人形遊び」に落ち着いた。
 こんなことはよくあることだ、と思う。夜の仕事をしてる人なんて、珍しくないじゃないか。みんな心の何処かに誰にも言えない体験や願望を隠し持っていて、それを吐き出す場を求めている。その相手を務めてるだけ。


 約束の時間の数時間前にホテルにチェックインをして、仕事の準備にかかる。ホテルの部屋はいつもツインを予約する。ダブルの部屋で客が男二人だと変な勘ぐり方をされるからだ。極力怪しまれないスタッフの記憶に残りにくい客になりたい。
 脱衣室の大きな鏡の前でメイクを施し、水色の花柄レースがあしらわれた白いベビードールの裾を捲り上げ、下半身を確認する。今日のショーツは淡いアイスグリーン。股上が浅めなので、勃起したらすぐに飛び出てしまいそう。どうせすぐ脱がされるんだろうけど。今日の客のリクエスト通りのエッチで可愛いラブドールに見えているだろうか。ドールの服に着替えていると、自分はこれから自由を捨てて無機物として扱われるんだという気持ちになる。普通を装っている時よりも、ずっと崇高な。つけまつげを撫でた薬指の先に、ダークブラウンのマスカラがついた。
 名前も背景も何もかもが全部嘘。客の方だってどこまで本当のことを話してくれているかわからない。全てがその場限りで、簡単に捨てられる。いずれ「ハルキ」も捨てるつもりだ。大学を出た後は大多数の学生と同じように就職して、学生時代のことなんて想い出話としてしか機能しない。就職活動が本格的になってきたら、仕事も減らさざるをえないだろう。入れた会社が潰れる可能性だってあるだろうし、今の内に出来るだけ貯金をしておかないと。
「このところ忙しかったからさ、ハルキ君に会えるのを待ちくたびれてたよ」
 そう言いながら急かすように服を脱がせる。前戯もほとんどなしに、祥太郎の臀部を鷲掴みにして左右に広げると、指を捻じ込んでくる。ほぐす、というよりもかき混ぜるように指を動かされ、快楽とは別の刺激しかない。こじ開けられた穴に肉の塊をきつく押し込まれる。甘いのは言葉だけで、プレイはただただ乱暴だ。
「君が一番可愛いよ。君がいてくれて本当に良かった」
 金を貰っているからって何でも受け入れられるわけじゃない。許し難い行為をしてくる客は何人もいる。蹴られたり踏まれたり、尻が真っ赤に腫れ上がるほど叩かれたり。彼らは人形が好きなわけではないのだと思う。ただ単に服従してくれる相手が欲しいだけだ。
 目の前にいるのは人格や人権を持った人間ではなく、金で買った商品。自らの意志で身体を売っているのだから、どれだけ好きに扱ってもいいと解釈されているのだろう。何も満足に与えないくせに、他人に構って欲しい。自分だけが満たされたい。
 ただ、そういう客ばかりでもない。セックスを目的とした人ばかりではなく、好みの衣装を着せられ愛でられながら一方的なお喋りの相手になることもある。感情を投影するには人の形をしている方が寂しさが紛れるのかもしれない。
 どこにも所属せずにこういう仕事をしている以上、いつでも相手に裏切られて酷い目に遭わされる可能性がある。だから荷物は仕事用のスマホと交通系ICカード、衣装とコンドームやローションなどの道具、それから護身用の防犯スプレーだけ。誰も信用するな。合言葉のように頭の中では何度も繰り返されている。
 だけど行為は危ういものを求めれば求めるほど、固い信用の上でないと成り立たない。だからこその合言葉が存在する。合意と暴力、現実とプレイをきちんと区別するために引かれた線としての、魔法の言葉。これさえあれば安全だと言えないけれど、行為に対しての共通認識を持てる。
 二人分の呼吸の音だけがしていたホテルの部屋に、突如アラームが鳴り響く。契約していた二時間が経った。
 約束の時間が終わってしまえば、あとはもうお互い緩やかに日常へ戻るだけ。テーマパークの帰り道、自宅が近付くにつれて醒めて、身に付けていたキャラクターグッズを外すような。そういう侘しさを繰り返している。
 次の予定を仕事用のスマホでチェックしながら、ハルキから祥太郎へチューニングを合わせる。

「お客様の笑顔と喜びがわたしたちのエネルギーです!」
 頭上の中吊り広告に呆れてまたスマホに目を落とす。もうちょっとキャッチコピーに予算を使えなかったのかと思う。あまりに安すぎる言葉。
 だけど結局、こういうことなのかもしれないなと思う。野田を喜ばせたいのだ。
 期待している反応を示さないと逆上する客もいる。どうしたってこっちが弱い立場だから、怒らせないように気を遣いながらプレイをしている。野田に対しての気遣いは、そういう怯えた部分がない。過剰な暴力を振るわれない、金品を奪われない、という性善説に基づいた信頼とは違う。身体を完全に預けてもいいという安心感。
 客の前では喜ばせるために恥ずかしいことに耐えているように見せているけれど、実際のところは世の中の恥ずかしいとされることに、かなり抵抗を失くしている。裸にされることも、局部を覗かれ舐められることも、今更動じない。でも金銭と引き換えに捨ててしまったわけでもない。そのように扱われることを望んでいるのだから。
 それなのに、大学で一人でいるのを見られるのは恥ずかしいと思う。友達のいない欠落した人間だと思われたくなくて、なんとなくの友達とつるむ。本当は一人でいることは苦ではないのに、必要以上に他人の目を意識している。どうしようもない、矛盾。
 非日常では肉体を売っても心までは売らない。日常では心を売って平穏を買っている。
 ホテルの部屋を後にする時、客は「おかげですっかり癒されたよ。いつもありがとう、またよろしくね」と笑顔で言い放った。癒しのサービスなのか、これは。ご奉仕っていうものな。いつものようにコンビニで金を振り込み、アイスカフェラテとサンドイッチとチキンを食べながら始発で帰る。
 どんな客と寝てもいつも、人として扱われている気がしない。君のことを愛していると言われても感謝されても、果たしてどうだか。当たり前だけど向こうが主でこっちが従。それは絶対に覆らない。普段の社会生活や家庭で自分をよく知る人には見せられない、寂しさや辛さをぶつけられているような気がする。それですっきりして、また何食わぬ顔で社会に帰っていくために。
 自分は自身の寂しさや不安を誰にぶつけたらいいのだろう。ビッグサイズのアイスカフェラテを飲み終わる頃にちょうど寮へ着き、誰にも見つからないように部屋へ逃げる。何もなかった顔をして。

 平凡な大学生活、時々男娼。薄い紙を重ねて昨日を写しとるような日々が続く。
 大学へ向かう途中、電車が事故で緊急停止した。車内は文句を言う人々の小さな声がざわざわと耳を突き、互いの身体から発する熱と湿気で窒息しそうだ。
 目の前の座席に並ぶ男子学生たちが着ているTシャツに描かれたロゴには、なんとなく見覚えがある。大学の友人が所属しているサークルのものだ。都内の幾つかの大学に支部があるそこそこ規模の大きなインカレサークルらしく、友人以外にも校内で着ている学生を見かけたことがある。彼らは電車内の会話にしては強めのボリュームで、
「あの子どう?」
「えー、胸ないじゃん。いまいち。俺あっちが良い」
 などど車内の女の子をわざわざ指をさして品定めをしている。あまりの下品さに呆れるし周囲の客も顔をしかめているが、誰も注意出来ない。彼らは若く逞しい男子で、この車内の人間の中では強者だ。下手なことを言って大事に、最悪暴力沙汰になることを恐れている。
 彼らはいつも選ぶ立場で、それを当たり前に享受しているから本当に悪気がないのかもしれない。だけど祥太郎は選ばれる立場を知っている。いつでも彼らのような男性たちに選ばれてきたから、そうやって選ばれることに特別な価値や名誉など何もないことを知っている。選んでもらいたい人に選んでもらわないと、好きな人に好かれないと意味がない。
 好きだと思う人は祥太郎を選んでくれているけれど。彼が愛しているのは人形としてのハルであって、祥太郎自身ではない。人間として、過去も感情もある一個人としての祥太郎を好きになってくれるのだろうか。
 野田にはいつか祥太郎が吐いている嘘や欺瞞を、こんな人形の姿なんてただのハリボテで、中身のないつまらない人間だと見破られてしまうのではないか。他の客相手なら気にもしないことが、野田に対しては怖い。なのに会いたい。ついこの間会ったばかりなのに、もう次の依頼を待ちわびている。


 あの日々はもう何処にもない。大学に通っていた日々は遠く、それにどことなく安心している自分がいる。普通を取り繕わなくてもことに開放感を覚えてしまう。
 手の中で光るディスプレイには流行中の疫病の話ばかりが、降り注ぐ雨を集めた川のような速さで流れていく。
 祥太郎のように極力部屋から出ないで過ごす者もいれば、構わず共有部で集まる人々もいる。春になっても大学が始まらないので、帰省したまま寮に帰って来ない者もいる。目に見えないものにこんなに簡単に翻弄されるものなのだな、と既に振り込み済みの前期の学費のことを思い出しつつ、祥太郎は布団に潜り目を閉じる。疫病の存在が確認される前の世界が嘘のようだ。
 似たような毎日の繰り返しが思っていたほど強固ではなく、手でちぎれるほどの脆さであったと感じながらも、崩壊した日常というものがまた毎日繰り返されていく。
 男娼の仕事はほぼ途絶えた。常連客とたまにメッセージのやり取りはあるが、確約されない「早く会いたいね」ばかり。良い機会だから、いっそこのまま辞めてしまおうか。それでも野田との繋がりだけは残したい。彼の方も会いたいとは言い難いのか、それとも飽きてしまったのか、わからないけれど。ただ他愛もないメッセージのやり取りを途切れさせないようにしている。いつ切れてもおかしくないか細い糸のような繋がりを、恐る恐る掴んでいる。
 肉体を繋げることを目的として始まった関係が、どこまで感情の重さに耐えられるのか。まだ大丈夫と思いながら気付いたら首まで水に浸かっていたように、ある日突然自分にもわからないまま壊れてしまうのではないか。自身の肉体が何か大きなものに滅ぼされることを望んでいたけれど、その容れ物の中の感情というものがこんなにも見えない何かに振り回されるものだとは。もっと簡単に乗りこなせるものだったはずなのに。
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