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#09

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「忘れたくないって思って写真を撮るじゃん? でもさ、写真に撮ると記憶が薄れるんだって。写真で記録してあるから覚えなくっていいよって、脳が油断しちゃうのかな。フレームの外にあったものは記憶に残りにくいらしいよ。撮ったものを何度も観返せば、また違うらしいんだけど」
「なんとなく納得がいかない話ですね」
 ふと足元に目をやると、靴紐がほどけている。身を屈めて結び直しながら、なんでスニーカーしか持ってないんだろう、と崇史は後悔している。
 真夏の日差しと熱気から遮断されたこの空間は、非日常にお金を払っているのだと思う。天井から下がるシャンデリアのきらめきは上品で、足元のカーペットは一歩踏みしめるごとに雲の上を歩いているよう。そして身体が沈み過ぎない、適度な柔らかさの椅子。あまりにも丁寧すぎる空間に、場違いで申し訳なさが募る。何かの間違いかと思った値段のジュースも、一口飲んで、この味ならこの値段だと納得がいった。
「こういうところの部屋って、お高いんでしょう」
「そこまでじゃないから安心して。このエリアならもっと高級でラグジュアリーな外資系ホテルが、いくらでもあるから」
 そうは言っても、崇史はこんなにきちんとしたホテルのラウンジなど来るのは初めてだった。そもそもホテルなんて修学旅行くらいでしか泊まったことはない。下ろしたてだからって、Tシャツで来ていい場所じゃなかったな。ラウンジ内を見回すと商談や打ち合わせ中のビジネスマンが多く、襟のない服を着ているのが崇史たちだけのように思われる。進路調査で将来はサラリーマンと適当に答えてしまったが、撤回すべきだな。己のだらしない性格では務まらなさそうだ。崇史はとりあえず椅子に座り直し、よれたTシャツの裾を正した。
「緊張してる?」
 そりゃあしますよ、と崇史が不貞腐れたように答えると、向かいに座った鴫沢が声を殺して笑う。
「まあ、どっちにしろもう部屋取っちゃってるからねえ。崇史くんにはまた会ってみたかったし。この機会に有り難く撮らせていただきますよ」
 鴫沢は、傍に置かれた機材が入ったトランクをぽんと叩く。
「大人になるまで待ちなさいって、大人は簡単に言うけど、大人になるまで待てないっていう今の気持ちを撮って欲しいんですよね。だって大人になったらそういう焦りとか切実さとか、全部消えちゃうじゃないですか。大人になってもこの感情を忘れたくないし、十七歳っていう時間は人生の中でも特別な時間だと思ったわけですよ」
 崇史は何かに急かされるように早口で一気に吐いた。確かにね、と鴫沢は頷く。
「十代の時と同じ気持ちで恋愛なんて出来ないし。自分の表現にはあの頃の繊細さとかひたむきな感じを込めたいと思って、一生懸命召喚してるつもりなんだけど。似てるだけで同じものじゃないって思うわ。昔撮ってた写真見返すと、今の方が断然上手いんだけど、真似出来ない凄みを感じる時あるもん」
「でも鴫沢さんは、ちゃんと撮ってもらえたじゃないですか」
 少し拗ねて苛立ちまぎれに、崇史は椅子の肘掛の上で鍵盤を弾くみたいに指をカタカタと動かす。愛されている姿を愛した人に写真に収めてもらう。ただそれだけのことなのに。先生はこの壁は高くて壊せないと思って乗り越える勇気がないんだろうけど、僕は今度こそ乗り越えてみせる。
「……葦原さんとのこと、伺っていいですか?」
 いいよ、と鴫沢が答えてから、実際に話し始めるまでかなりの間があった。その間は、二人の関係の深さを表しているようだった。
「芸術家肌っていうか……感情の起伏が激しくて少し鬱気味。彼のそういう脆いところに、撮られるモデルたちみんながとりこになった。私がいないと何もできない、私こそが彼のミューズだって。みんながそう思っていた。でもどの子もただのカメラマンとモデルの関係だったわけじゃないよ。撮っている間は『特別な恋人』。だけど作品が完成してしまったら、もう必要なくなってしまう。それでもいいからみんな彼のミューズになりたがった。……俺もだよ。俺だけはみんなと違う。そういう自信があった」
 穏やかな口調ながらも、言葉の一つ一つが重さを持って胸に落ちてくる。鴫沢が残り少なくなったアイスティーをストローで掻き回す度に、氷がカラカラと鳴る。
「幼い頃から叔父のことが好きだった。いつも洗練されたファッションで、部屋にも見たことのない外国の本や雑貨がたくさんあって……叔父の家を訪ねるのは、一種の冒険のようだった。よくくっついてたから、撮影現場にも連れて行ってもらったよ。写真を教えてくれたのも叔父で、中学の入学祝いにカメラを買ってくれたのが始めたきっかけ。充分に愛されていると思ってだけど、それとは別の愛情をモデルたちに注いでいるようで、嫉妬してた。あの女たちと同じように俺を撮って欲しくてたまらなくて……。だから『光』になろうと思ったし、全くためらわなかった」
 手持ち無沙汰なのか、緊張を隠すためなのか。くっついた氷同士をストローで突いてばらばらにしては、グラスの中で掻き回している。
「彼のためなら何でも出来るって思ってた。思い上がりだったのかもしれないけど」
「思い上がりなんかじゃなかったって、あの写真を見た人たちはみんな思ってますよ。『光』には敵わない」
「……そうだね。『光』には誰も敵わなかった。俺自身でさえも」
 鴫沢はグラスに残っていたアイスティーを飲み終え、大きく息をついた。
「最初は、どうしてもと俺から頼み込んだ。でも次の日からは叔父の方から撮りたいと言ってきた。本当に嬉しかったよ。被写体として俺を撮りたい欲望に駆られている。叔父を自分のものにできたと思ってた。写真集として表に出すのを反対した人もいたけれど、俺は二人の繋がりの証明だと思っていたから、最高に誇らしかった」
 その感情は知っている。崇史はテーブルの下でTシャツの裾をぎゅっと握りしめる。
「結局叔父が愛してたのは『光』だけで、『光』じゃなければ俺はただの甥。同じような愛情は注いでもらえない。撮るべき被写体でいなければ意味がない。叔父は撮影が終われば簡単にモデルとの関係を解消してたけど……俺の方が叔父を見捨てた。『光』がいなければ撮れないって縋りつく叔父に幻滅した。二度と『光』は姿を現さないと決めた」
 鴫沢の目は向かいに座る崇史ではなく、もっと遠くにある何かを見ているようだ。
「他人の人生を変えてしまったっていう後悔は、一生消えないだろうね。それに、きっと俺には一生『光について』みたいな写真は撮れない。……でも、写真があって良かったなって思うよ。あの写真集さえなければ、とは思わない。むしろ残してもらったからこそ、叔父を亡くしてもちゃんと生きて来れた」
 いつも屈託なく笑うこの人の笑顔が、暗い水の底から何とか這い上がってきた人間のものだと思うと、しっかりと受け止めなくてはと思う。
 あの写真集は、きっと運命そのもの。誰もが誰かの運命の人になり得るのなら、葦原哲朗の運命の人は間違いなく鴫沢なのだろう。だが、鴫沢にとっての運命の人は?
 誰かが来た気配に、鴫沢は振り返ってラウンジの入り口を見遣る。入ってきたのは、腕を組んだ男女。平日の昼間なのに、不倫かな。リゾートファッションだからどっかの金持ちかな。などと、他愛もない話をする。
 ポケットの中のスマホが振動して、画面を確認したが、崇史が待ち望んでいたメッセージとは違った。
「俺はさ、ずっと俺とか崇史くんみたいなのが、ファム・ファタール? まあ、相手を破滅させる『運命の人』なんだと思ってたんだけどさ。もしかしたら全く逆で、俺らは浩介に運命を振り回されてるのかもね」
 そうかもしれません、と崇史も笑う。
 家族の前での自分。学校の友達の前での自分。どちらが本当の自分なのかと問われれば、答えられない。どちらも嘘のように思えていた。先生が写す、写真の中の自分だけが本当。螺旋階段で撮られた写真を見た日から、そう思っている。あの日感じた衝動の正体を確かめに行ったら、運命がそこにあった。何もかもが嫌で退屈だった日々が一変した。一度味わってしまったら、もうこれなしでは生きていけない。そういうものになっているのだ。
 勿体なくて一口だけ残してあったジュースは、氷が溶けて薄くなってしまった。崇史がラウンジの入り口を見ていると、早足で入ってくる男と目が合った。小谷野だ。さらに早足で崇史がいるテーブルに近づいてくるが、鴫沢の姿をとらえ、一瞬言葉に詰まった様子を見せた。
「おい、帰るぞ」
 いつもより数段低い声。小谷野は崇史の腕を掴んで、連れて行こうとする。崇史は自ら立ち上がり、小谷野に掴まれた腕を振り払った。
「一人で帰れる。コウくんはここに残って」
 今度は崇史が小谷野の肩を掴み、押し込むように椅子に座らせた。すぐさま立ち上がろうとする小谷野を、ぐっと力を込めて押し返す。
 もう逃げないで。崇史が思わず溢した言葉は吐息に混ざった小さな声だったが。届いたのであろう。小谷野はもう抵抗するのを止めた。それから崇史の手首を弱く掴むと、また離した。
 鴫沢に一礼してから、崇史は逃げるようにホテルのラウンジを足早に後にした。
 事の発端は今朝のことだ。崇史は小谷野にメッセージを送信した。
「コウくんが撮らなくっても、他の人が撮ってくれるならそうしてもらおうかなと思いました。人生で十八歳は一度きりだから、撮るなら今しかないし。一応話は通しておいた方がいいと言われたので、ご報告します」
 鴫沢と待ち合わせをしたホテルに向かう途中、電話がかかってきた。崇史は十数えてから電話に出る。
「今、どこにいんの」
「新宿のホテルのラウンジ。コウくんに止める権利はないと思いますけど」
「あるよ! だっておまえ、俺は保護監督する義務があるって言ってるだろ」
 呆れているのか怒っているのかわからない。吐き捨てるような口調。
「だって今夏休みだから、学校とか先生とか関係ないでしょう」
「ちゃんと卒業するまで関係あるに決まってるだろ。俺の仕事は光村を無事に卒業させて大学へ送り出すことだからな」
「僕は先生じゃなくて、コウくんと話したいんですけど」
 小谷野は電話口で大きく溜息をついた。あのな、と話しかけたところで崇史がそれを遮った。
「だって、あの部屋で写真を撮ってたのは、先生じゃなくてコウくんだから」
 そこで電話は切れた。崇史が切ろうとした瞬間には、小谷野に切られていた。
 先生の前ではなんでこんなに強気でいられるんだろう。運命に襟首を掴まれて、動かされているような気がしている。
 駅まで歩く道すがら、今頃二人はどうしているのかなと考える。鴫沢がいると知れば、来ない可能性は充分にあった。それでも崇史は賭けに出て、勝った。小谷野はまだ鴫沢のことを好きなのかもしれない。あの写真集を今でも大切にし続けてるくらいなのだから。彼こそが運命の人なのではないか。逢わせたら、また気持ちが戻ってしまうかもしれない。だがその不安よりも、二人を逢わせなきゃという気持ちの方が強かった。
 ホテルの部屋で、鴫沢は小谷野の写真を撮るのだろうか。ポートレイトだけではなく、ヌードを撮ることもあり得る。それでも何故だか、まあいいかと思えてしまうのだ。他の人が小谷野の写真を撮ったら許せないのだが、鴫沢になら安心して任せられる。もし撮ったら、見せてくれるだろうか。以前こっそり見てしまった二人の蜜月の写真でさえも、今はもう一度見てみたいと感じている。鴫沢がどんな風に撮られ撮ってきた人物かを知った今では、作品として客観視できると思うのだ。
 高層ビル街を早足で抜ける。まぶしさに思わず目を細める。薄暗い照明の場所から外へ出たからでも、夏の日差しが強いからでもなく。胸の中で惑星が爆発したような強い光が身体中から溢れていて、まぶしい。面倒や退屈が靄になって膨らんで頭の中に詰まっていた日々なんて、もう忘れてしまった。今はただただ、見るもの全てがまぶしい。
 少し寄り道して、人気の撮影スポットだという場所へ寄る。高層ビルに囲まれた広場にある、現代美術家が作った真っ赤な「LOVE」の文字の巨大なオブジェ。先客がいて、オブジェに寄りかかる女性をカメラを持った男性が撮っている。崇史もカメラを持って、どの角度から撮ろうかとぐるぐる周りながら探る。カメラを持っているから、わざわざここへ来ようと思ったのだ。スマホにだってカメラは付いているけれど、以前の崇史ならまっすぐ家に帰っていたはずだ。そもそも誰かのために何かを取り計らうなんてこと、しただろうか。裏側から逆文字になったオブジェを数枚撮影し、出来を確認する。夏休みが明けてから写真部のみんなに見せるのが楽しみだ。
 たとえ小谷野が写すフレームから外れて、ただの生徒の一人になったとしても。崇史は自身の視界のフレームに小谷野を収め続ける覚悟は出来ている。
 先生のためなら何だって出来るよ。雑踏に簡単に掻き消されるほどの小さな声で崇史はつぶやいた。



 玄関を開けると、甘い匂いと揚げ物の匂いが拮抗している。狭い三和土に自分の靴を収める場所を探して、他の靴を踏みながら家の中に上がる。何も悪いことなどしていないのに、何故だか親の顔を見るのが後ろめたい。真っ直ぐ部屋に向かうつもりだったが、たかちゃんおかえり、と姪が走ってきて捕まってしまった。
「おかえり、今ケーキ焼いてるからね」
 姪を連れて台所に顔を出すと、母と次姉が所狭しと材料や調理器具を並べて、今夜の食事の準備をしている。オーブンの中では、庫内ギリギリの大きさの角型で黄色いスポンジが膨らんでいる。丸より四角の方が量が多く作れるから。そういう理由で、光村家では誕生日とクリスマスのケーキはいつも真四角の大きなスポンジが焼かれる。苺とバナナと缶詰の黄桃とパイナップルがトッピングされるのが定番。そしてメニューは決まってちらし寿司と大皿に山盛りの唐揚げ。それからゆで卵とコーンの入ったポテトサラダ。どれもこれも、大人数の家族だから仕方ないのだ。毎日毎日、大きな鍋で大量に作られ、大きな座卓いっぱいに広げられる食事。家族が減ったり増えたりする内に、少しずつ量やメニューも様変わりしている。この四角いケーキを食べるのは、あと何回もないかもしれない。そう思うと、疎ましかった四角いケーキも有難く感じる。
「先にお風呂入ってきちゃって」
 ああ、と崇史はいつも通りの生返事をする。台所の中は忙しそうで、今日何してたの、などとは聞かれずに済みそうで安心した。
 風呂から上がって居間へ行くと、扇風機の前で三きょうだい達が、寿司桶に入った酢飯をうちわで扇いでいる。その様子を写真に撮ると、何で撮るの、変なの、と小さな身体をいっぱいに使って笑う。
「だって、大人になったら忘れちゃうかもしれないじゃん。だから写真に撮っておくんだよ」
 しゃもじを小さな手から奪って酢飯を混ぜる崇史の顔を、不思議そうな表情で三きょうだいは覗いていた。
 さっきまで崇史が味わっていた緊迫感や浮世離れしたホテルのラウンジのことなど、きっと家族は想像も出来ないだろう。親にも友達にも、誰にも秘密で大人になっていく。
 夜になり、家族が集まり誕生会が行われた。いつものメニュー、いつもの味。山盛りの料理はあっという間になくなって、ケーキが登場した。四本のロウソクの火を、姪がテーブルから身を乗り出して一気に吹き消す。崇史は記録係のつもりで写真を撮る。何のお願い事をしたの、と長兄が尋ねると、もじもじとして答えたがらない。
「たかちゃんも、お願い事した?」
「したよ。でも内緒」
 崇史が内緒、と人差し指を唇に当てると、姪も笑顔でそれを真似る。
 口にしたら叶わなくなるかもしれない願いを、口にするのが憚れるような望みを、崇史はいつも胸に秘めている。それらを閉じ込めている檻を、小谷野の前では簡単に解放してしまう。いやむしろ、彼だけが開ける鍵を持っているのだ。
 ポケットの中でスマホが震える度に慌てて確認するが、どれもが友達や同級生からのメッセージ。それも嬉しいんだけどさ。このまま欲しいものは手に入らないのかもしれない。そもそも、手に入ったことなんてあっただろうか。
「ご飯食べてる時はスマホいじらないって約束でしょ」
 と母が怒るのを、長兄がもう年頃だから、と取りなす。
「崇史も彼女かなんかいるんだろ。休みの度に珍しくどっか行ってるって言ってたじゃん」
 彼女じゃないけど、と小声で否定しながら口を尖らせる。
「そうなの、今日もどっか行っててねえ。親に何処に行くとも言わずに」
 母の言葉に「もう子供じゃないんだから」と兄姉が言えば、「まだ子供よ」と覆される。どっちなんだよ、と当事者である崇史にもわからない。親の目には昨日の息子も今日の息子も変わりがないように見えるのだろうが、本当は大きく入れ替わっている。
 もう子供じゃないけど、まだ大人でもない。その不自由さから解放されるのが、少しだけ寂しいようにも思える。昼でも夜でもない夕方の空のように、美しい光を放つ時間はすぐに消えてしまう。



 夏休みだからって夜更かしするなというけれど。家族がすっかり寝静まった夜更け、特にすることもないけれど眠りたくなくて、崇史はベッドの上でぼんやり天井を眺めたりスマホをいじったりしてやり過ごす。夏休みの宿題やらなきゃ。読書感想文の本なんて、何読んだらいいのかわからない。ベッドに寝転がって考えている内に、いつの間にか眠ってしまっていた。
 目覚まし鳴ってる、と寝ぼけながら震えるスマホを見ると、画面には待ち望んでいた名が表記されていた。すぐに飛び起きたが、あまりにも慌てすぎて一回電話を切ってしまった。夢じゃないよね、と履歴で確かめてから急いでコールして、小谷野が出てからまだ肝心の心の準備が出来てなかったと再び慌てた。
「ごめん、寝てた?」
 と小谷野は笑いまじりに言う。
「大丈夫。今起きたから。一回切っちゃってごめんなさい」
「……今日は本当に有り難う」
「別にいいですよ、お礼なんて」
 ベッドの上で座り直すと、スプリングがギイと鳴る。電話の向こうは静かで、互いが黙ってしまうと聞こえるのは息の音ばかり。
「コウくん今どこにいるの? ホテル?」
「自分の家だけど」
「鴫沢さんと一緒にホテルに泊まってんのかと思ってた」
「普通に帰ってきたよ。光村は俺にどうなって欲しいんだ」
 写真は撮ったのか訊くのは野暮かな、と口をつぐむ。もしかしたら、それはあとで鴫沢さんがこっそり見せてくれるかもしれないし。
「だってさ、二人がまた仲良くなったらいいんじゃないかと思って」
 妙な間が空いて、同時に何か言いかけて譲り合う。
「なんていうかさ。とっくに終わった恋だってわかってた。それをちゃんと受け入れられなくて……ずっと怖くて逢えなかった。けじめをつけさせてくれて、ありがとう」
「……もういいの?」
「だって今は光村が一番だから。耀とはもうただの友達」
 電話の向こうで、少し笑ったような気がした。何かを隠すようなそぶりはなく、はっきりと答えたその言葉なら、全てを信じられる。嬉しい、その気持ちを表すのには「嬉しい」という言葉じゃ足らず、崇史は次の言葉が出てこない。
「教師だとか教え子だとか……そういう立場全部抜きにして、俺が一番撮りたいと思うのは光村なんだ。他の誰よりもいい写真が撮れる。もし生徒じゃなくても、きっとどこかで光村のことを見つけて撮らせてくれって追ったと思う。こんなに写真に対して純粋に向き合わせてくれる相手は、他に見つけられない」
 真摯なその言葉を、一字一句忘れたくないから。部屋の空気や今の感情も含めて、真空パックしておければいいと思った。忘れたくない瞬間ほどカメラのフレームには収まりきれない。でも、形に残したい。そんな風に思えるのは、この電話の向こうにいる彼が与えてくれた瞬間のおかげ。
「僕はさ、先生と生徒の時の自分より、コウくんに写真を撮られてる時の自分の方が、ずっと好きになれる奴だと思うんだ」
 うん、ありがとう。短い言葉でも、崇史が言いたいことを全て受け止めてもらえたと実感した。
「明日、家に来れる? 出来れば朝早く。午前中の光で撮りたいから」
 別にいいけど、と答えながら、小谷野が何を言おうとしているのかわかって、全身に鳥肌が立った。
「約束の写真を撮るよ」
 一瞬にして喉が乾いていくのがわかった。崇史はもう頭の中と目の前が真っ白で、自分がそれになんて返事をしたのかもわからない。声が出ているのか出ていないのかすらも曖昧だ。
 わかった? と確認する小谷野の声は落ち着いていて、電話越しでは見えないのに頷いてしまう。
「そうだ、誕生日おめでとう。八月一日だろ? もう十二時過ぎちゃったから、一日遅れで申し訳ないけど」
 ありがとう、という声がにやけて、何を言っているのかわからない単語になってしまう。
「何か欲しいものとか……食べたいものとかある?」
「じゃあ、丸いケーキ。ホールケーキを丸ごと切らずに食べてみたい」
 電話の向こうで小谷野が穏やかに笑っているのがわかる。少し子供っぽい頼みだっただろうか。
「いいよ。用意するね」
 それじゃあ、また明日、おやすみなさいと電話を切った。
 力が抜けたせいなのか、手が汗でびっしょりなせいなのか、スマホが滑り落ちた。崇史はTシャツで手汗を拭いながら、先ほどの会話を反芻する。約束の写真を撮るって、聞き間違いじゃないよね。早鐘のように打たれる鼓動を抑えようと、胸を抱えてうずくまった。
 明日だ。夜が明けるのが待ちきれなくて今にも走り出しそうになるのに、朝が来るのが怖い。心の底で密やかに望んでいたことが、とうとう現実になってしまう。強気で挑発していた自分が怖い。崇史は思わず枕に顔を埋める。でも後悔なんて絶対にしない。自分で言い出したことだろ。顔を上げて、部屋の電気を消したのだが。案の定、自分の鼓動がうるさくて寝付けない。彼への想いが眠りを妨げる。
 螺旋階段で目が合った、あの瞬間は運命的だったと思う。でもそこから先は違う。きっかけをくれただけで、あとは崇史自身が選んで考えて行動した結果。自分で起こした革命だ。運命なんて、そんな不確かなものに頼らない。
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