九月はまだこない

小林 小鳩

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 獣のようだ。猟師に撃たれ、軽トラの荷台に積まれている鹿を思い起こさせられる。人間を人間たらしめる衣服を下着以外全て剥がされ、言葉を奪われている。手首と足首をロープで縛られ、さらにひとまとめに拘束されている。うずくまるような体勢で、完全に四肢を動かせないどころか、自力で何もすることが出来ない。呼吸以外、何も。ただやわらかな肉と骨の塊として、床に転がされ放置されている。
 人間やめたい、なんて口癖みたいに言う君らしい姿を晒してる。身動きも意思も尊厳も奪われた、みなもという獣。身体中のあらゆるパーツに近づきカメラのフレームに収めるたびに、その肉体をナイフで解体しているようで、背徳感が血の中をめぐる。荘野が、みなもが命令したんだ。そうして欲しい、そうしろって。
 画面の向こう側にいる子は、どんな目に遭わされてても「そういうキャラクターの子」だと思えた。でも目の前にいる生の、本物の人間に嗜虐するのは、同意があっても緊張感がある。
 みなもはいささか顔を歪めながら、晒し布の猿轡を噛まさせられた口から、よだれと息を漏らしている。動画で何度も見ているはずなのに。生きている人間は目を逸らしたくなるほど、生々しい。本当の姿を知らず、拘束具で顔の一部を隠した姿しか見たことない頃は、同じ人間であるとは考えもしなかった。
 拘束具の付け外しなど、指示された範囲でしか身体に触れられない。それでも他人の肉体を拘束するのは怖い。目の前に自由を奪われた人間がいるのは怖い。自分の暴力性と向き合わされる。指示されたこと以外何もしない、と信頼されてここにいるのに。
 その気になれば、いつだってやれる。あまりにも無防備に岡井の前に身を晒している。いつだって簡単に、荘野が資料として見ているAVみたいなことを。でもAVなんて作り物で、あんな都合よくいくわけがない。壊してはいけないものを自ら壊すだけだ。獣は岡井自身の中にもいる。獰猛な獣をなんとかして飼い慣らしている。
 逃げることはおろかもがくこともままならず、みなもは身体のあらゆる部位を小さく震わせる。皮膚の下に透ける血管。波のように強く弱くを繰り返す呼吸。まだとどめを刺されていないだけの肉塊。食べられるのを待っているような。
 みなもは放心状態にあるのか、さっきまで苦痛に反応していた指先も、くったりと動かなくなった。唇だけが微かに震え、床によだれを零している。
 視姦され、精液をかけられるだけの存在であることに耽っている。飢えた獣たちを挑発し、獲物として貪られる美しい獣。狩りのゲームを楽しんでいる。本当に?
 こうして視線を与えることで、みなもを辱めている。それはやはり、荘野と羞恥プレイをしているということではないのか。荘野自身はそういう性欲はないなんて言うけれど。でも僕は。
 この臀部の膨らみを踏みつけ、股の間に爪先をねじ込み弄ってやりたい。バイブを挿し込んだまま放置して、漏らす様子を観察したい。そういう扱いを受けたいってみなもが自分で何度も書いてたから。
 その欲望って、一体誰のものだろう。君に群がる人々が望む言葉を唱え、恥辱を受けた身体を晒し、夢を与える。皆の欲望が作り上げた神様。
 本当は神でもなく獣でもなくコンテンツでもない。息をして体温があり血の通う人間だ。頭ではわかっているのに、皮膚の下を流れる衝動は抑えがたい。だけど、決してルールを破らないと信頼されてここにいるのだ。みなもも荘野も裏切れない。
 使えるだけの映像素材をおさえた後、岡井はみなもの耳元に告げる。
「漏らしていいよ」
 みなもは小さく呻くように返事をした。


 休みの日に荘野の家に行くと、相変わらずタブレットでAVを流しながらノートパソコンを見つつ、どんぶりを抱えている。解凍したうどんにコンビニのたまごと蒸し鶏のサラダを投入し、胡麻ドレッシングをかけてどんぶりの中でぐりぐりと混ぜ込んでいる。
「また見た目が地獄の食べ物を作ってる……」
「こういうのって実際あんの? オーガズムで検索したら、絶頂に達した際に失禁や失神をするケースがあるって書いてあったんだけどさあ。実際やってる相手が目の前でこんなんなって気絶したら怖すぎない?」
 荘野が指差すタブレットの中では、いつものみなもの動画と同じように、女優が白目を剥き痙攣しながら激しく漏らしたのち気絶した。
「AVはファンタジーなので……」
「岡井はちゃんと救急車呼ぶような善良な市民だと思ってたのにねえ。まさかみなもちゃんにあんな酷いことを」
「みなもちゃんもファンタジーだろ。呼ぶし、救急車は。大体あれは、ちょっと盛ってるから。なんかあるだろ、そういうの。より乱暴に振る舞える方が上みたいな見栄の張り方」
「まあね、あるよねそういうの」
 岡井は自分の分のグラスを出して、テーブルに出されたままの麦茶を飲む。少しぬるくて、気恥ずかしさを冷ましてはくれない。動画は終了し、もう一度再生されることもなくタブレットも閉じられる。
「AVっていうか、セックスって見れば見るほど馬鹿みたいだな」
 そうつぶやきながら、荘野は残った麦茶を自分のグラスに継ぎ足す。
「なんだろう。恥ずかしくてみっともないところをお互い見せても相手が受け入れてくれるのが良いのかね」
「他人事みたいに言うね」
「だって他人事だからな」
 岡井もコンビニで買ってきた大盛りナポリタンを食べながら、荘野の横に座りノートパソコンを覗き込む。
 デジタル写真集用の写真のレタッチ加工をしている最中だった。白タイツで手首を縛られ、ショーツを口に詰め込まれたみなも。股間を隠すように、あるいは見る者の代役のようにうさぎのぬいぐるみが顔を埋めている。その他の写真もうさぎにバックから突かれているようなものであったり、ハメ撮りのような煽情的なカットまで。ファンシーなオブラートに包みながら、危険水域に足を踏み出しているようにも見える。
「みなもちゃんは、露出は下着までだったんじゃなかったんですか……?」
 荘野はうーん、と首をひねりながら、
「やっぱさあ、露出高いアカウントの方が登録者数稼いでるんだよね。かといってモザイクかけてオナニー見せるのとかやりたくないし」
 自分は波打ち際で足を濡らすのがやっとだけれど、荘野は波をかぶっても笑っていられる。岡井はそれを改めて思わされる。
 食べ終わった食器を片付けて、荘野は食後の一服をしながらレタッチ作業を続ける。
「あのさ、荘野はこういう趣味とか性欲とかないっていつも言ってるけどさ。どういう気持ちでこういうの撮ってんの」
「え? 自傷行為じゃない?」
 荘野は自分の言葉を鼻で笑って煙草を咥え直し、深く濃い煙を吐いた。
「正直ずっとそう思ってやってるけど、全部。他人に刃物渡して代わりに自分の身体切らせてるようなもんだなって」
 灰皿代わりのいわしの味噌煮の空き缶に、ぽろりと灰の塊が落とされる。
「まあ、金の稼げる自傷行為だね」
 ははっ、と荘野は軽やかに笑うけれど。言葉の湿度は高く、肺に重く落ちる。正直腑に落ちる。が、そうやって簡単に納得出来てしまうのが嫌だ。動画かセクキャバか、あるいはもっと以前から。どの時点から荘野はこれらを自傷行為だと自覚し始めたのだろう。
 押し黙ったままの岡井を横目で見て、荘野はまた濃い煙を吐く。
「あのさ、俺が自殺するとか思ってる? そういうのはねえ、もうとっくに一通りやり終わったから。死ぬのなんかさ、いつでも出来んだよ。いつでも出来ることを今すぐやる必要ないじゃん」
 何か大きなものに踏み潰されて、頭がひしゃげたような気分。半分だけ開かれたガラス戸から風が入り込むたびに、古い網戸が音を立てる。
「そっか」
 岡井にはそれ以上のことは何も言えず、もう一度だけつぶやいた「そっか」は口から吐き出されたのかも怪しい。
 岡井の欲望で創った映像に、見知らぬ誰かから絶賛のコメントが送られる。みなものファンが拡散し、また閲覧回数を稼ぐ。
 みなもが「死にたい」とつぶやけば、数時間のうちに何件も「俺が助けになるよ」「なんでも俺に相談して」とリプライが届く。多くの好意と性欲が向けられる。それにまたみなもはハートを返す。でもそれだけじゃない。悪意のある、本当に実行させようとするリプライだっていくつも届く。
 どんな日だって手のひらの中でまばゆく輝いていた神様。信者の望む通りに自らを切り刻み配り続けていたら、いつか尽きてしまうんじゃないだろうか。このまま荘野の思い通りにさせて良いのか、いくら頼まれたからって。刃物を渡されたからって、切り刻んで良いわけがない。岡井は、突然濁った煙が肺いっぱいに広がっていくような気がした。

 夜になり、荘野はバイトに出かけ、仕方がなく岡井も自宅へ帰る。ベッドの中で、荘野が撮った映画を観た。動画サイトで無料公開されているものの、再生回数はみなもの動画とは桁違いに少ない。
 引きこもりの青年がネットで知り合った女性に会いにいくために、幼なじみに車で送ってもらう。幼なじみには内緒だが心中するつもりだ。しかし実は彼女はその幼なじみのなりすましで、結局二人は死を選ぶ。
 単調な会話劇だというコメントもあり、高評価のボタンも全然押されていないけれど。岡井は少し泣いた。
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