九月はまだこない

小林 小鳩

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 あの頃、世界と団地はイコールだった。
 遊び場も学校も買い物も全てがこの中だけで完結していて、世界の中心も世界の果てもこの団地の中にしかないように思えた。だから団地の外へ出てみたかった。この世界の外はきっと何もかもがまぶしくて、どこもかしこも錆びてくすんだこんな場所にはない、とにかく何か良いものが手に入るはずなのだと。岡井はそう信じていた。
 高校を出て隣の県の大学に入ったけれど、慣れない環境で些細なことが積もりに積もり、ストレスで眠れなくなった。何がどう悪くてこうなったのかうまく説明も出来ないまま、とりあえず中退したいと親に申し出たが、案の定許されなかった。なんとか卒業し、それから社員寮のある他県の会社に勤めたけれど。結局一年で辞め、岡井は実家のあるこの団地に戻ることになった。三年は我慢しろと言われる通りに努力も我慢もしたけれど。仕事が出来る出来ないの前に、会社員としても学生としても、集団の構成員の一員になる才能がまるでないように思えた。
 高校まではまだ友達がいて気を使ってもらえていたけれど、大学以降では人の輪に溶け込むのは無理だった。こういう時はこうした方がいい。人と人のやりとりで発生するそれを見て学んだはずなのに、適切に実践できない。空気みたいに存在していないだけなら、まだいい。相手にとって利益をもたらすような人間じゃないからといって、どんな風に扱われてもいいわけではない。
 生まれた時から一緒の友達が自分を甘やかしてくれていたのだと悟ったけれど。友達は皆うまくやれてる。なんで自分だけ。目の前の必死で壁を登ろうとするのだけど、手が滑って登れない。自分だけが壁の外に取り残されていく。ぶちぶちと何本もの糸が切れる音が頭の中でして、もう無理だと。
 しなくてはいけないことはたくさんあるはずなのに、何もしたくない。退職して数週間はまだ気力があって、失業保険の手続きも出来たしハローワークにも行き面接も受けた。ある日からふっつりと気持ちが切れて、明日にしようと思った。次の日もその次の日も、明日やろう。そのまま日にちが過ぎていき、もう失業保険も切れた。親に仕事探さなくていいのと言われる度に、ネットで探してるからと誤魔化している。働いてないとこの家に居れないのに、何も出来ない。
 ただぼんやりと夏休みの真ん中のような毎日を過ごしていた。目が覚めると親はもう仕事に行っていて、冷たい朝御飯を冷蔵庫から出して食べる。平日の真昼間に一人で団地の部屋にいると、ここだけ世界から隔離された場所のようで、途方も無い気持ちになる。似たような毎日の繰り返し。
 夏休みと違うのは、あらかじめ約束されたおわりがなく、宿題の提出先がない。やらなくてはいけない大きな宿題を抱えているはずなのだが、頭がなんにも働かなくて、その宿題に書いてある字が読めない。行きたい場所が何処も思いつかない。暇つぶしに漫画でも読もうと思って開いても、ストーリーが頭に入ってこない。自分はこんな人間じゃなかったはずなのに。
 せめて明日こそは、と日が変わる前に電気を消し布団に潜り目をつぶっても、眠れない。酒を飲むのも無職の今はなんとなく憚れる。眠くなれない夜をやり過ごす術を持たず、だらだらと布団の中でネットを見て過ごすだけ。いつの間にか眠ってしまう瞬間を待つだけ。
 SNSの中を渡り歩いていると、仕事をしている時とは比べ物にならない速度で時間が溶けていく。誰かの発言から、それに応える他の誰かへ。誰とも会わず誰とも言葉を交わさない日々の中、唯一聞こえる他人の声。スライドするはずがどこかに触れてまた見知らぬアカウントに飛ばされる。
 それはアダルト系動画や写真を共有するのに熱心なアカウントで、そういうものを目にするのも久しぶりだった。やたらと活気に溢れているサムネイルをスクロールし続ける。見たところで、かつてのような満足が得られるわけではないのだが。世の中色んな趣味の人々がいて、それぞれに楽しそうにしている。想像するよりはるかに様々なジャンルと性欲、日々投稿される動画。刺激的なはずなのに味がしない。店頭に並べられた手の届かない商品をただ眺めているような、グルメ番組や旅番組を流し見しているような。動画を観ても寝たら忘れてしまう。
 ふと一つの画像が目に止まった。白いショーツが大写しになった動画のサムネイル。さっきから似たような画像を山ほど見ているはずなのに。うさぎのぬいぐるみで顔を隠した水色のセーラー服姿のアイコンを、何気なくタップする。そのアカウントは会員制サイトで自作の動画や写真を販売しており、さっきのサムネイルはその無料サンプル動画だった。
 何もない部屋の床に座り込むツインテールの女の子。目隠しをされ、顔はよくわからない。ミニのワンピースの裾を口の中に詰め込まれ、小さなリボンの付いた白いショーツが露わになっている。手首と足首が左右それぞれ拘束具で繋がれており、身体をよじらせ小さくもがいている。次第に下腹部を激しく震わせ、床に倒れこみ身をよじり、ブリッジのように腰を浮かせる。そして大量に失禁した。見る間にショーツが濡れて肌に張り付くと、もしかしてがやっぱりそうかになった。女装した男の子だ。すっかり出し終えると果ててしまったようで、脚を大きく開いた状態で力なく身体を投げ出している。濡れたショーツと床にできた水たまりのアップで動画は終わる。微かな物音以外BGMもない、ただそれだけの映像。何だ、今の。思わず繰り返し再生ボタンを押した。
 繰り返し繰り返し見て、無料で観れる動画や写真を見尽くして、思わず月額見放題の有料会員に登録してしまった。あっという間に通信量が足らなくなって追加した。バッテリーが少なくなり、画面の明かりを頼りに充電コードを探す。真っ暗な部屋であの子だけが明るく輝いてる。その光に縋るように消えないように、「もう一度再生する」をタップする。
 そのうちに部屋のどこに何があるか見渡せるくらいには明るくなってきた。窓を開けると涼しい風が入り込んでくる。手のひらや額は少しすっかり汗ばんでいて、Tシャツで拭うも気になって洗う。洗面台の鏡に映った、何ヶ月ぶりか何年ぶりかわからない程久しぶりに見る自分の顔。変わったのか変わっていないのか、元の顔が思い出せない。自分の顔なのに。手や顔や、身体の筋肉の弾力は、こんな感じだっただろうか。毛先から滴る水がTシャツを濡らす。取り敢えず今日は風呂に入って散髪に行こう。
 次の日も起きてすぐ、他の動画に食らいついてしまった。あの子の姿がとにかく頭から離れない。アカウント名は「みなも」。仕事を探す。履歴書を書く。証明写真を撮る。応募する。面接に行く。一つずつ達成するごとに、ご褒美のつもりで動画を観た。
 これまで自分が何を欲して何を考えて生きてきたのか、何一つ思い出せない。ぼんやりと紗がかかったような景色しか覚えていない。でもみなもの動画を見るたび、脳を覆っていた半透明の何かがゆっくりと剥がれ落ちていく。僕を救ってくれる神様。
 岡井にとっては単なる自分のためのご褒美以上の、信仰にも似た存在になっていった。
 みなもの動画は大体、五分から長くて十分。たまに少し長めに再編集した完全版がある。SNS用には十数秒程度のサンプルと映像から切り出した写真がアップされる。
 シチュエーションや衣装を変えてただひたすら、拘束され放置され悶えた末に、失禁してるだけ。体育着のブルマ姿で、スクール水着姿で、セーラー服で、フリルのついたワンピースで。逃げられないよう身体を拘束され、恥辱的なポーズをとらされ、床やベランダに転がされている。目隠しをされた顔を歪ませ、猿轡からよだれを垂らす。動画によってはショーツの履き口からローターらしきコードとリモコンがはみ出ている。我慢出来ずに、或いは絶頂に達し、漏らす。
 岡井にはずっと繰り返し見ている、お気に入りの動画がある。ベランダの柵に手枷足枷によって磔刑のように四肢を拘束された、スクール水着姿のみなも。バックに挿入されたローターの刺激に抵抗出来ずに、大きく開脚させられた下半身をガクガクと震わせながら喘いでいるが。突然がくんと全身を弛緩させて大人しくなった後、大量に失禁した。拘束具によって辛うじて倒れずに柵に引っかかっているような状態の、意識のない様子の身体。ローアングルで映されるぽかんと開いた口からは、だらしなく舌とよだれが垂れ下がっている。まるで何かの罰を受けているような。暴力性のある動画なのに、何度も観て何度も抜いてしまう。自分は乱暴なことが嫌いな人間だと思っていたのに。
 しかし目の前に本物のみなもがいたとして動画のようなことをさせたいかといえば、わからない。手荒なことをしたくない。抜いた後は、可哀想で助けてあげたくなる。画面の中のみなもは愛おしい。なのに悶え苦しむ姿をもっと見たい。自分の中でバランスが取れない。
 それから、これはいったい誰が撮っているのだろうか。
 動画に映っているのはみなもだけ。カメラアングルは固定で二、三 方向、アップの部分が多少挿入される程度。一人で撮影していると考えても不自然ではないが。誰か協力者がいたとしても、基本放置プレイなのだから、みなもを置き去りにするため固定カメラでも違和感はない。しかし同じサービスやSNSにアップされた、他の素人男の娘の失禁動画のほとんどは、明らかにスマホで自撮りしたか誰かがカメラを回しているとわかるような映像だ。みなもの動画にはそれとわかるような人影や身体のパーツは全く映らない。
 みなものSNSアカウントも本人と思われる書き込みしかなく、被虐を楽しんでいるような内容だ。プロフィール欄は簡潔に「男の娘/女装男子/M/監禁/拘束/失禁/放置/ドライ調教中/動画配信」とある。書き込みを遡ると、「おしりが弱くて」ローターを挿れるだけで身悶えていたのが、初めてスイッチを入れて「刺激強すぎて失神しちゃった……」というのがあの動画らしい。最近では「ちょっとずつ慣れてきたかも」とローターを手にした写真と共につぶやいている。誰かと撮っているならば、このプレイの数々が本当にみなもの同意の上であって欲しい。
 動画を繰り返し観ていると、あることに気付いた。ベランダの隔て板、手すり、配管。なんとなく見覚えがある。思わず自宅のベランダに出てみた。経年劣化の錆や退色具合。似てる。でも考えすぎだろう。こんな団地はどこにでもある。この団地にフローリングの部屋はないし、床材は新しいものに見える。壁の汚れもない。でも築何十年の団地だ。内装だけリフォームしていてもおかしくない。ベランダの柵には目隠しにシェードが貼られ、外の景色は確認出来ない。でも、もしみなもがこの団地の何処かにいるとしたら。妄想が過ぎるってわかってる。
 それでも。あの子が自分と同じような団地に暮らしているというだけで、とにかく心強い。


 一体何をこんなに頼んだんだ。岡井は妙な軽さのダンボールや紙袋が詰まったケースを抱え、微妙なバランスで積んだ荷物を落とさないように、慎重に階段を上る。エレベーターがあれば、台車を使って一気に運べるのに。この団地はエレベーターのない五階建てで、ミネラルウォーターや酒のケースなど、重たい荷物があると絶望的な気分になる。秋冬になると米やみかんやリンゴなどの重量がある荷物で溢れかえるという。一刻も早くこの団地が消えて無くなって欲しい。
 岡井は団地内にある宅配業者の営業所で働き始めた。最初は別の営業所の面接を受けたのだが、初心者だし地元で詳しいだろうからということで、この営業所へ回されたのだ。正直なところは、子供の頃から自分を知っている人に囲まれて、気恥ずかしい。出来るだけ誰にも気付かれたくない。
 この複数の荷物が全て同じ部屋だというのがまだ救いだ。北十八号棟、三〇二号室。チャイムを鳴らしても出ない。荷札ラベルの備考欄には「不在の場合はメーターボックスへ」と書かれているが、どう考えても入りきらない。仕方なく不在票を書こうと宛名を再度確認すると、懐かしい名前だった。荘野景太。小中学校の同級生で、別々の高校に進学したが、団地内でたまに会えば立ち話をした。高校を卒業してから会っていないので、荘野が今何をやっているのかわからない。品名は衣類と書かれているが、外装は水玉模様やレース柄で、男性向けにしてはかなり違和感がある。彼女と同棲中? こんな古い団地で?
 別の棟を配達していると、仕事用の携帯電話が鳴る。再配達の依頼だ。依頼者は荘野。
 玄関を開けて岡井の顔を見るなり、久しぶり、と荘野は顔を綻ばせた。
「居るじゃん。出ろよ」
「夜中働いてるから寝てたんだよ。今度から来る前に連絡くれたらさ、ドア開けとくから玄関に入れといて」
「ダメだよ。ドアが開いてても勝手に玄関上がるのは規則違反だし。手渡しで受取人様に宛名を確認して頂いてからご署名をお願いすることになってるんだけど」
「えー? 俺だけ見逃してくれない? 代わりに書いていいよ」
「そんなんやったらクビだよ。配達員による自署は禁止。置き配は事前に指定するか、インターホンで確認してから」
「えー、面倒い……」
 玄関にある靴を見ると、荘野のものと思われるスニーカーが二足とサンダルしかない。
「……荘野って、今一人暮らし?」
「そうだよ。親はもう出てったから。岡井のとこはどっか引っ越すの?」
「うちは残るよ。そのうち新しい棟に引っ越す」
「あー、岡井のとこは分譲か。無条件で移れるもんな」
 ちょっと待ってて、と荘野は一旦部屋に戻り「お疲れ様です」と菓子を差し出した。コンビニのベルギーワッフル。配達先でこうやって何かを頂くことはごくたまにあるが、なんだかいつもと気分が違った。顔見知りの家に配達することはあっても、同年代の友達に接するのは本当に久しぶりだ。この団地を出て行く前の自分の欠片が、少しだけ戻ってきたような気がした。


 寝る前の日課、岡井はみなもの動画をアーカイブから選ぼうとするが、なかなか決められない。仕方なくだらだらとみなものSNSのタイムラインを遡り、スマホを傍に置いて一息つこうと目を閉じる。
 そういえば荘野ってなんかあったな。たしか高学年の頃だ。団地内は四つの街区に別れており、街区ごとにブランコや滑り台が置かれているだけの小さな公園がある。その公園で遅くまで遊んでいると、「手伝って欲しいことがある」と声をかけてくる中年男性がいて、ついていくと「千円あげるからおしっこしてるとこ見せて」と言われるのだと、学校で噂になった。みんな変態だって笑って、あまり間に受けていなかったけれど。しばらくして同級生の誰かが、荘野が公園で見知らぬ中年男性と一緒にいるのを見たと言いだし、クラス中がわいた。妖怪よりも現実的で刺激的な事件が目の前に降ってきたような騒ぎ。調子に乗った奴が本人に直接訊いたが。「馬鹿じゃねえの」と鼻で笑い、その話題はいつの間にか萎んで消えた。
 久々に変な話思い出しちゃったな、と思うと同時に嫌な予感がする。まさか、まさかだ。それとあれを繋げたくない。それはさすがに妄想が過ぎる。嫌な動悸をかき消そうと再びみなものSNSを見ると、新しい写真がアップされていた。
『あたらしいパンツ買ったー!』
 と猫のしっぽがついたパンツを履いた背面からの写真。みなもちゃんは相変わらず平和だな。岡井は気を取り直して、いいね、とハートマークを押す。そして自身のSNSの裏アカウントで画像をシェアし、感想を書く。
 他にアップされた写真の背景も拡大して見たが、この団地であるという確証を得られない。もし住んでいたら、すれ違ったり配達に伺ったりしているだろうか。しかしどの写真や動画も必ず目隠しで顔が隠されている。スマホの小さな画面の中で、地面にひっくり返った虫のようにもがく、いつも通り可哀想な目に遭わされているみなもの動画を覗き込みながら。ゆっくりと皮膚の下の温度が上がっていくのを感じる。
 触れてみたい。でも犯したいわけじゃないんだ。散々動画を観て抜いてるけど、やりたいわけじゃなくて。ただ屈したい。平伏したい。「おもちゃとして扱われていたずらされたい」と言いながら、自身が虐げられている写真や動画を投稿する神様に、祈るような気持ちで評価を与える。その魅力の前では、何も出来なくなる。


 配達先の住所を確認しながら、机の上に広げた住宅地図に赤いペンでチェックを入れていく。岡井が台車に荷物を積んで外へ出ると、休憩中の先輩が煙草を吸っていた。
「荷物に匂いがつくから禁煙とか、やってられねえよなあ」
 岡井は喫煙したことがないので理解が出来ないけれど、ああそうですね、と言葉だけ合わせておく。営業所の中では岡井は一番新入りで一番年下なので、何かと窮屈だ。他の従業員はみな親くらいの年齢なので、なかなかどうにも噛み合わない。もっと一人で出来る仕事かと思ってたけれど。配達は一人で黙々と出来るので、少しほっとする。それでも「お客様」と「笑顔とさわやかな態度」で接しなくてはならない。出入り口の目につく場所に、そう大きく書かれたポスターが貼ってある。自分はそれにふさわしい人間だろうか。
 玄関チャイムを鳴らしても出なかったため、十秒待ってからもう一度鳴らすと。ようやく奥から、ちょっと待っててと荘野の声がする。
「荘野は引っ越しどうすんの?」
 元の住人は新しく建て替えた棟に移住出来る。岡井家は移住の予定だが、長いこと住んでいれば家族の人数や生活事情が変わるもので、出て行く人も少なくない。
「それな、一応移住予定になってるけど、ここ出て行くかどうか迷ってるんだよな。うちは賃貸だから家賃上がるし、駅遠いし。でも駅に近いとやっぱり家賃がなあ。他にも色々もう……」
「とりあえずここでいいじゃん」
「まあね、とりあえずはね。北と西は近くの大学の寮と老人ホームが建つんだっけ? 公園とかも全部潰すのかな」
 ふと例のことがまた思い出される。まさか、まさかだよな。
「……なんかさ、小学校の時に北街区の公園で変な噂あったの、覚えてる?」
「あー、おしっこするとこ見せてくれたら千円っておじさん?」
 そんなこともあったねえと二人して半笑いした後。
「あれな、貰ったの二千円だから」
「ハア?!」
 思わず大きな声が出た。
「上履き買いたいから二千円って言ったら、二千円くれた。小さくなって履けなくなっても買う金がなくてさあ。うちの親って家に居ないこと多いし、そんなすぐに背が伸びるわけないとか言われて、新しいの買う金貰えなくて。仕方ないからずっと踵踏んで履いてたら、先生に凄い怒られてさ。親が買い与えないわけがない、明日までに買ってこいって言うから」
 全く予想だにしていなかった話をされて、何の言葉も出ない。興味本位で話題にしながらも、おそらく同級生のほとんどはありえないと思っていたはずだ。両手の先に痺れを感じる。
「あんまよくわかってなかったんだよ。俺馬鹿だからさ。その後も教材買う金とかない時、何度かやったんだけど。あのおじさんスーパーで万引きして捕まっちゃったんだよね。時々パンとかお菓子とかくれたんだけど、あれ万引きしたやつだったんだなって思って。……随分懐かしい話が出て来たな」
「……ごめん」
「何で謝ってんの」
 あまりにあっけらかんと重い話をするので、めまいがする。手の中の荷物が急に重たくなった。何言ってんだ荘野。それはだって、そんなのもう。
「だって……それは普通に犯罪だろ。犯罪の被害者だろ」
「言われなくても知ってる」
 荘野は配達票にボールペンで強めにサインをして突き返す。
「この話、俺と岡井だけの秘密な」
 重い扉は小動物の鳴き声みたいな音を立てながら閉められた。岡井は壁に手をつきながら階段をゆっくり降りる。なんでありえない話だと思ってたんだろう。
 大学にも会社にもちゃんと行けなくなって引きこもっていた話は、誰にもしていない。親も親戚や近所には黙っている。どんな反応をされるのか怖くて、この先も言えないままだと思う。荘野に話したら、なんて言うだろうか。馬鹿じゃねえのって、軽く笑ってくれるだろうか。
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