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第二部

165.前世で失った自分

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「「あ……」」

 葵さんの店の前で、木之下さんと偶然会った。
 今日は約束していたわけではない。俺が急に来ただけで、ここに来ることは誰にも伝えていなかった。

「こ、こんにちは……」
「え、ええ……。こんにちは」

 後ろめたい気持ちがあるせいか、木之下さんの顔をまともに見られない。どうしていいかわからず、視線を泳がせてしまう。

「……」

 俺がしゃべらないというのもあるだろうけれど、木之下さんが大人しすぎる。無言の時間が流れていることに気づき、彼女の方に目を向ける。

「っ」

 いつもの気の強い態度はそこにはなくて。木之下さんが泣きそうになっているように見えた。
「どうしたんですか? 何かあったんですか?」そう聞きたかった。だけど、社会的地位を失った俺じゃあなんの役にも立たないように思えて、心配することを躊躇してしまった。

「あの、とりあえず中に入りますか?」
「そうね……」

 互いにぎこちないとわかっていながら。それに触れないようにしていつも通りに振る舞おうとした。
 店のドアに手をかける。まだ早い時間だろうに、ギィと軋んだ音を立てて開いた。

「あははー。二人ともこんな時間からどうしたのー?」

 店に入ると、葵さんの陽気な声が出迎えてくれた。
 一見いつもの光景に見える。けれど葵さんが座るカウンターに大量の酒が並べられていて、彼女の顔も真っ赤になっていた。

「ちょっと葵? こんな時間からお酒を飲んでいるの?」
「飲んでまーす。う~ん、美味しい♪」

 葵さんはスナックのママをやっているくらいだから、酒が飲めないわけではない。むしろものすごく強い。
 そんな彼女が顔を赤くして、だらしなくカウンターに上半身を預けている。俺達と飲んでいる時は顔色一つ変えなかったのに……。こんな風に酔っぱらっている葵さんを見るのは初めてだった。
 とくに誰かと飲んでいる様子はない。一人で酒を飲む姿が葵さんらしくないように思えて、激しい違和感に襲われる。

「葵さん……何かあったのか?」

 先ほど木之下さんに言えなかった心配が口から零れた。
 店内に入った瞬間から異様な空気を感じ取っていた。だからこそ聞かずにはいられなかったのだろう。

「何かってなあに?」
「それがわからないから聞いているんじゃないか」
「ふ、ふふっ……。あははっ」

 いきなり心底おかしそうに笑う葵さんを見て、やはりいつもの彼女と違うと確信した。

「あ、葵……? 本当にどうしたのよ?」

 葵さんの様子に違和感を覚えているのは俺だけじゃない。必要以上に陽気に笑う彼女を前にして、木之下さんも明らかに戸惑っていた。
 笑い続ける彼女を見つめ続ける。明るい笑い声がようやく収まってみれば、葵さんはカウンターに突っ伏した。
 酔ったせいで気持ち悪くなったのだろうか? 心配して足を一歩前に出した時だった。

「ごめんね……」

 葵さんがかすれた声で謝ったのだ。
 何に対しての謝罪かはわからない。木之下さんも心当たりがないらしく、無言で首を横に振った。

「私、もう二人といっしょにいられなくなっちゃった……」
「ど、どういうことだ?」

 その理由は葵さん自身の口からすぐに教えてくれた。

「このお店、もうすぐなくなっちゃうの。私もここにいられなくなる……だから、もう二人とは会えなくなるの」

 涙を含んだ声で、葵さんは理由を説明してくれた。
 この店で俺達以外の客を見かけないことをおかしいとは思っていた。
 それでも、営業できているのだから俺達がいないところで客は集まっているのだろうと考えていた。そう都合よく思い込んで、追い詰められる彼女に気づかないフリをしていたことを、今更になって思い知らされる。

「で、でもっ……店がなくなったって会えなくなるわけじゃないだろ? これから大変かもしれないけど、俺達の関係が切れるわけじゃない」

 明るくて、いつも笑顔でいてくれて。そんな葵さんが弱々しく見える。そんな彼女を見ていられなくて、思わずそんなことを口にしていた。
 別れを言いに来たのは俺の方だったのに。もう三人いっしょにはいられないって……そんなことを伝えようとしていた奴の言葉が、響くわけがない。

「ごめんね俊成くん……。これで最後なの。またやり直してだとか、時間を作ってだとか、そういう問題じゃないの」

 葵さんが顔を上げる。そこには初めて見る彼女の泣き顔があって、俺の胸を締めつけた。

「それはどういう……?」
「俊成くんと瞳子ちゃんに出会うってわかっていたら、もっと前からがんばれていたのかな? こんなことにならないようにがんばって、自分を売るような選択をしなくて済んだのかな……」

 葵さんが酒をあおる。空になったグラスに酒を注ぎ、それをまた飲み干した。

「あ、葵……。飲みすぎじゃ……」
「瞳子ちゃんもそう思うでしょ?」
「え?」

 心配する木之下さんの言葉を止めるように、葵さんが尋ねる。

「瞳子ちゃんだって、もっと早く俊成くんと出会えていれば、今の自分とは違った未来があったんじゃないかって考えたことがあるでしょ?」
「そ、そんなこと……。今考えたって仕方のないことでしょう?」
「そうだね……。ふふっ、でも考えるくらいはいいじゃない。空想の世界で、私達は幼馴染なんかになっちゃって、楽しく日々を過ごすの。それくらい思い描いたって罰は当たらないよ」

 空想の世界を思い描いているのか、葵さんは笑顔になっていた。涙をポロポロ流しながら、満面の笑みを俺と木之下さんに見せていた。
 彼女の笑顔がかわいらしくて、悲しくて……。どんな言葉をかけても届かないと思ってしまった。

「私と瞳子ちゃんが俊成くんを取り合ったりしてね。ありがちだけど『どっちをお嫁さんにしてくれるの?』なんて言って俊成くんを困らせちゃったりしてね。……そんな、孤独や不安のない世界が良かったよ」
「あ、葵さん……」

 何も言えやしない。きっと俺が想像すらできないほど大変な事態になっていて、今の彼女を救う術はないのだろう。もう手遅れなのだろう。わけもわからないのに、それだけは確信できた。
 俺が不甲斐ないから、踏み込むことすら許してもらえない……。今ほど怠惰に年を食ってきた自分が許せなかった。

「ねえ俊成くん」
「な、なんだ?」
「私と瞳子ちゃん。どっちをお嫁さんにしたい?」

 葵さんの目は真剣で、瞳の奥に妖しい光があった。
 その光に子供のような無邪気さはまったくなくて。本当の答え以外は口にしてはならない真剣さを感じた。

「そ、それは……」

 答えていいものなのだろうか? この異様な雰囲気が口を開くのを躊躇わせる。
 だからって黙っているわけにもいかない。ここで自分の気持ちをうやむやにしてしまえば、俺の言葉は一生彼女に届かない気がするから。
 唾を飲み込み、意を決して口を開いた。

「なーんてね♪」

 俺が言葉を発するよりも早く、葵さんが冗談めかした口調で笑ったのだ。

「ごめんごめん。変なこと言って困らせちゃったねー。今のは酔っぱらいの戯言。そういうお客さんが多いから、ちょっと真似しちゃった」

 葵さんはカラカラと笑う。彼女が笑うだけで明るい雰囲気になっていく。
 空気が弛緩する。さっきまでの彼女は全部嘘だったのだ。すべて冗談で、まったく本気ではなかった。

 ──そんなわけがないと、ちゃんとわかっていたはずなのに。俺はそんな葵さんをなかったことにしてしまった。

「……葵?」

 だからだろう。気づくのが遅れた。
 突然葵さんの体がぐらりと傾く。バランスを保とうとすることもせず、彼女は派手な音を立てて床に倒れた。

「葵さん!?」
「葵っ!?」

 俺と木之下さんが慌てて彼女に駆け寄る。
 抱き起こした葵さんの体は柔らかくて、温かくて……。表情も笑顔だったから、この異常になかなか気づけなかった。
 葵さんは動かなかった。その大きな目を開けることも、二度となかった。

 この後のことは、まともに覚えていない。あまりにショックが大きすぎて、理解するのを拒絶したから。
 頭の悪い俺にわかったのは、俺達は出会うべきではなかったということ。
 俺と木之下さんの存在がなければ、きっと葵さんはここまで追いつめられることはなかった。おそらく彼女だけなら、悩み苦しむことはなかっただろう。
 俺も、二人と会えないと考えただけで心臓を掴まれるほどの痛みを覚えた。もしこの痛みの数十倍、数百倍の苦しみに襲われたなら……。葵さんの判断に文句が言えるわけがなかった。

「でも、こんなのは嫌だ……」

 こんな未来なら知りたくなかった。未来なんてなくなればいいとさえ、本気で思った。
 葵さんが言ったように、俺達がもっと前から出会っていれば……。そう、子供の頃から出会っていれば、絶対にこんな未来にさせなかったのにっ。
 後悔ばかりの人生だった。それでも、この歳になってまで後悔する事態になるとは考えてもいなかった。
 いくら後悔しても、その経験を生かせないのであれば意味がない。本当に大事なところで役に立たなければ、なんのための後悔だったのか……。

「もう一度……もう一度だけチャンスがあれば!」

 そんな都合の良い夢物語があるわけがない。それでも願わずにはいられなかった。
 大切な人だからこそ笑顔でいてほしい。そう願って何が悪い。
 激しい感情に胸が張り裂けんとばかりに暴れ狂う。
 どこからが夢だったのか、境目がわからなくなった世界で俺は叫んだ。

「泣かないで俊成っ」

 俺に届いたのは自分自身の叫びではなく、木之下さんの涙に濡れた声だった。


  ※ ※ ※


「なんか、変な夢を見た気がする……」

 目が覚めて体を起こしてみれば、汗びっしょりになっていた。
 時刻は深夜二時。良い子はまだ眠っている時間だ。

「これはさすがに着替えた方がいいよな」

 びしょびしょになった下着が気持ち悪い。洗濯物を増やして申し訳ないけど、シャワーを浴びてから着替えることにした。

「葵から前世の話を聞いてから緊張してばっかだな」

 文化祭のあの日。葵から前世があるのだと告白された。
 互いに前世でどんな最期だったのか。その記憶はない。
 だけど大人になった自分達を共有できたからこそ、答えを長引かせるものではないと考えた。

「クリスマス、か」

 クリスマスの夜。俺は答えを出すと約束した。
 葵か。瞳子か。二人のうちどちらかを選ぶ。
 どちらか一方と未来を共に歩む。ずっと誠実ではなかったけれど、揺らいでいた気持ちが一本の筋になろうとしている気がした。

「……寝るか」

 シャワーを浴びてもさっぱりしない心。それでも、後悔しないために考え続けなければならない。
 クリスマスまではまだ時間がある。けれど、今まで俺達三人がいっしょにいた時間と比べれば、些細な猶予でしかなかった。
 人生で最大の選択になるだろう。二人を後悔させないためにも、最後まで悩み続けると決めていた。

 ──そして、もうすぐその日が訪れる。
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