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第二部

145.互いの差

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 体育祭に向けて着々と準備が進められていく。
 競技の練習はもちろん、入場門のアーチや各組が応援で使用する旗の作成。応援団員は振付を覚えたりと大忙しだ。
 本日は出場する競技ごとに分かれて練習する。普段は授業が重ならない別のクラスの人といっしょというのは新鮮だった。

「私アーチ作りのお手伝いをしなくっちゃ」
「待て葵。そんな予定はないって知っているんだからな」

 体操服に着替えて佐藤とともに集合場所に行った。そこで先に来ていた葵が、なぜか俺と目を合わせた瞬間に逃げ出そうとした。
 咄嗟に葵の首根っこを掴んだ。大して力を入れなくても、非力な彼女はこれでもう逃げられない。

「いきなり逃げようとしたりして、どうした?」
「う~。だって……」

 涙目で見上げられる。無防備だった俺は、とてつもないかわいさの破壊力にたじろぐ。

「よく考えたら、私なんかがトシくんの相手が務まるわけないよ……」
「それは今さらだろ」
「トシくんひどいっ!?」

 自他ともに認める運動が苦手な女の子。それが葵である。
 それくらい覚悟の上だ。むしろフォローするのが当たり前だとも思っている。でなきゃずっと彼女の傍にはいられない。
 もし前世の俺であれば、幼少の頃に葵と遊んだりはしなかっただろう。
 鬼ごっこをしても、ドッジボールをしても、はっきり言って葵は足手まといだった。そういう子への男子の対応は残酷なほどにひどいものだ。

「いきなり上手くはいかないよ。葵に合わせてゆっくりやるから、少しずつがんばろう。な?」
「……うん、がんばってみるね」

 普通の子がどうだろうが、俺は葵の苦手なことに対して文句を口にしたりはしない。それどころか彼女の要望に応えておままごとに付き合ってた実績がある。むしろおままごとが楽しくなってノリノリでやってたまであるからな。
 まあ俺のことはいいとして。苦手なことだとしても、葵なら、と期待している。
 だって、彼女は苦手なことでもがんばれる女の子だから。
 小学生の頃の運動会。ただでさえ運動が不得意なのに、大変な組体操の練習をがんばっていた。
 苦手なことをできるようになるために努力するってのがどれほど大変なことか。文句ばかりで、苦手なことから逃げる人は大人だとしても案外多い。
 だからこそ、できないことをできるようにとがんばる葵を、呆れたりなんかしないし、いっしょにがんばりたいって思えるのだ。

「佐藤くん佐藤くん。初っ端から二人の世界に入っちゃってるよ」
「せやな小川さん。僕らも見つめ合ってみるか?」
「なっ!? なななな、なんでそういうことになるのよっ!」
「せえへんの?」
「いや、ちょっ、何か違くない? なんか佐藤くんらしからない雰囲気なんですけど!?」

 気づけば佐藤にガン見されて慌てる小川さんという図が出来上がっていた。
 どういう状況だ? なんか慌てるのがいつもと逆だな。

「む?」

 葵に両手で顔を挟まれる。それからぐいっと横を向かされた。

「あまり真奈美ちゃん達を見つめちゃ悪いよ」
「そうなのか?」

 そんなに悪い状況にも見えなかったけどな。でも葵がそう言うなら、そうなんだろうな。
 優しく微笑んでいる彼女からは、なぜだか聖母に見守られているかのような印象を抱かせた。葵が見ているんだから、佐藤と小川さんは大丈夫なんだろう。


  ※ ※ ※


 ともかく、俺達は二人三脚の練習をするために集まったのだ。練習をしなければ何も始まらない。
 艶のある黒髪をポニーテールにしている葵のやる気は充分だ。もう二人三脚しか見えないってほどの目をしている。体からはオーラらしきものを発しているような気がするほどだ。
 感嘆するほどのやる気に満ちている。これなら本当に期待できるぞ!

「おっとっと」

 葵と足を結んで立ち上がっただけで、彼女はバランスを崩していた。咄嗟に肩を抱き留める。

「あ、ありがとうトシくん」

 笑顔でお礼を口にする葵。その表情が普段よりもぎこちなく感じた。
 いきなり最初からつまずいてしまったな。いや、一歩も足を動かしてはないんだけども。

「もしかして緊張してる?」
「き、緊張なんてしないよ」

 表情が硬いなぁ。
 葵が緊張するだなんて珍しい。ピアノコンクールでも緊張とは無縁だっただけに、彼女が硬くなっているのを見たのはいつ以来なのか、すぐには思い出せなかった。

「とにかく練習だ。いっぱい失敗して感覚を掴んでいこう」

 こういうのは慣れだ。
 タイムにこだわりさえしなければ、それなりに走ることくらいはできるはずだ。葵は運動が苦手と言いつつも、バランスとリズム感はいいのだ。コツさえ掴めばなんとかなるだろう。
 まずは互いに肩を抱いて密着する。深い意味はない。二人三脚には必要な行為だ。
 肩小っちゃいなぁ……。

「ちょっと窮屈な感じがするね」
「ああ。身長差があるもんな」

 俺はともかく葵はやりにくそうだ。手を伸ばしているせいで、より密着して胸が当たっている……。
 普通は当たったりしないんだろうけど、身長差で体勢がおかしくなったのと、葵の一部分のサイズが超高校級のおかげで実現してしまった。
 体操服は生地が薄いからなぁ……って、何を男子高校生みたいな反応をしているんだ!
 まずはこの体勢をなんとかしなければ。これじゃあ走りにくいだろうしな、うん。

「手の位置、肩じゃなくて腰にしてみるか?」
「うん」

 葵はなんの抵抗もなく頷いた。
 そして俺の腰へと手を回す。俺も彼女の腰に手を添えた。

「……」

 真っ直ぐ正面を向ける体勢になった。胸の感触も俺から遠ざかる。
 でも、腰と腰がより密着した。互いの太ももが触れ合う。ブルマってもうすぐ終わってしまうんだっけ? と、しなくてもいい思考が頭に流れる。
 ええいっ! 今さら恥ずかしがるもんでもないだろ俺! 今よりも恥ずかしい行為をした仲じゃないか! これくらいで意識しているって思われたらそれこそ恥ずかしいぞっ。
 視線を前方に固定する。足元を見るよりも前を向いている方が安定して走れる。
 葵の腰に添えている手に力を込める。二人三脚では密着した方が安定して走れるのだ。

「んっ」

 色っぽい吐息だった。
 いやいや、葵はそんな声を出したつもりはなかったのだ。俺が手に力を入れるもんだから思わず漏れてしまった吐息でしかない。だから頼むから緊張すんなよ俺!
 咳払い一つで平常心を取り戻す。練習に集中してしまえば変なことは考えなくなる。

「まずは一歩目、内側から足を出してみようか」
「うん」

 真剣な返事が返ってくる。彼女がやる気だってのに、こっちがぼーっとしていられない。

「イッチ」

 結ばれている俺と葵の足が、同時に前へと出る。

「ニー」

 次は互いの結ばれていない外側の足を出す。まずは歩くことに成功した。
 葵といっしょに「イッチ、ニー」と声を出しながら数十メートルほどを歩いた。思っていたよりもいけそうじゃないか。

「よし、今度は小走りでいってみようか」
「う、うん」

 このまま徐々にスピードを上げていけばいい。
 ……そう順調にいけると思っていました。

「ごめんね。本当にごめんね……」
「大丈夫……。葵にケガさえなければ大丈夫だ」

 歩くところまでは順調だった。けれど、いざ走ってみれば葵は何度も脚をもつれさせていた。
 多少のフラつきくらいなら支えられるが、体ごと地面にダイブされてしまうと難しい。
 なぜにコケる勢いは豪快なのか。その勢いにはさすがに助け切れなかった。いっしょに転倒したが、なんとか葵に擦り傷一つつけないようにとかばうことには成功した。

「やっぱり私足手まといだよ……。せっかくトシくん足速いのに……。今からでも他の人に代わってもらおうよ」

 しかし、すっかり自信を失ってしまった。
 まさか一回転んだだけでここまで落ち込んでしまうとは。二人三脚限定でガラスのハートなのか? いや限定的すぎるだろ。

「それは嫌だ。俺は葵といっしょに走る」
「でも」
「でも、じゃありません」

 気合いを入れるべく葵にデコピンをした。葵は額を押さえて沈んだ。……そ、そんなに強かったか?
 大きな目を潤ませる彼女を、強く見つめ返す。

「葵が運動苦手だってのは言われなくても知ってたことだ」
「だ、だから他の人に代わってもらった方が……」

 またいらない弱音を吐こうとしたのでエアデコピンを見せて黙らせる。ブォンと風切り音。……ごめんこれは音だけでも痛そうだ。
 でも、黙って聞いてもらいたいことがある。

「俺が何か失敗した時、困った時とかさ。葵は助けようとしてくれたり、黙って見守ってくれていたりしただろ? 絶対に放っておいたりなんかしなかった。俺はそれが嬉しかったし、葵が見ているから、がんばろうって気合いを入れてこられたんだよ」
「……」
「どれだけ失敗したとしても、呆れないし、失望もしない。ずっと付き合うからさ、いっしょにがんばろう」
「……うん。私も、トシくんといっしょにがんばりたい。面倒かけちゃうけど、付き合ってくれる?」
「おうよ」

 立ち上がって練習に戻る。いつもの葵の華やかな笑顔に俺は目を細めた。


  ※ ※ ※


 放課後。葵と二人きりでの帰り道。

「それにしても葵が弱音を吐くだなんて珍しかったな」

 そうからかい交じりに言ってみたら、思いのほか真剣な声色が返ってきた。

「夏休みが明けてから瞳子ちゃんがどんどん変わっていく気がして。私は成果を出せていないのに、これ以上引き離されたくなかったの。ここでトシくんにまで迷惑かけたらって思ったら……。ダメだね私……」

 成果を出せていないってのはピアノコンクールのことだろうか。今は触れるべきじゃないと判断して、黙って話を聞く。
 上手くいかないことが重なる自分。対する瞳子は生徒会の副会長になったことで能力を認められたし、人望を獲得した。確かに目に見えて良い方向へと変わっている。
 だからこその焦り。それで絶対的な自信を持っていると思っていた葵の心が揺れてしまったのか。

「瞳子ちゃんと正々堂々勝負をしているの。私だってがんばっているつもり……。でも、段々差を広げられていくのを見ていると落ち込みたくなる時だってあるんだよ」

 この気持ちが、俺のためのものだと思うと複雑だ。

「でも落ち込んでなんていられないし、このままの自分でいたくない。私は、この体育祭で瞳子ちゃんに勝ちたい」
「え、いやそれは無理だろ」
「バッサリ言わないでよ!」

 いやだってさ。チームとしてならともかく、個人戦では勝ち目がないぞ。ずっと葵と瞳子を見てきた俺が言うんだから間違いないって。
 どうやってわからせればいいのかと頭を悩ませる俺に、葵は不敵な笑いをみせた。

「トシくん。私は今の瞳子ちゃんに運動で勝とうとは言っていないよ」
「え? じゃあなんの勝負のことを言っているんだ?」
「私達は二人三脚に出場するんだよ」

 そうだけども。ちなみに瞳子は二人三脚には出場しないとの言質を取っている。直接対決はないのだ。
 葵はぐっと力こぶを見せるポーズをした。もちろん力こぶらしきものは出なかった。

「小学生の頃、トシくんと瞳子ちゃんは二人三脚で活躍したよね。今度は私とトシくんで、あの時の二人よりも速く走ってみせるの!」

 彼女の目標は、小学生の頃の瞳子を超えたいというものだった。

「そ、そっか……いっしょにが、がんばろうな」
「うん!」

 過去とはいえ、小学生相手に本気で勝ちたいと宣言する女子高校生の姿があった。というか葵だった。
 ……でもな葵。高校生になって体が成長したとはいえ、小学生の時の瞳子に勝つのはまだ難しいと思うぞ。
 運動に限って言えば、葵と瞳子の差は大人と子供である。悲しいことだけれど、こればかりは差が縮まりそうになかった。

「よーし! 打倒小さい瞳子ちゃん!」

 張り切っている葵を見ていると、そんなことはとても口にはできなかった。
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