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第二部
122.そわそわの結果発表
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週明けの月曜日。期末テストの結果が発表される日でもある。
ただの発表日ではない。俺と美穂ちゃんの勝負の結果が出る日でもあった。俺の努力がどこまで通用するのか楽しみだったのだ。楽しみったら楽しみだったねっ。
順位表が貼り出されるまで教室で大人しく過ごす。瞑想でもできたら心が穏やかになるのだろうか。今すぐ試してみたい気分だ。
「高木くん、なんだか落ち着いとるね」
「まあ、な」
嘘である。表面上は落ち着き払っているが、心中ではそわそわが止まらない。早く順位表を発表してくれぇっ! と叫びたい気分だ。
「しもやんも落ち着いとるし。なんか僕だけハラハラしとるみたいや」
「ふっ、一郎もまだまだだな」
なぜかキメ顔の下柳。こいつはなぜこんなにも余裕をかましてんのか。そんなに自信があるのか?
「赤点回避。それが達成できれば、俺は文句なんて何一つないぜ」
つまり赤点ではない自信だけはあるらしい。下柳に順位は関係ないだろうな。
「何言ってるの。下手な点数取ったら、あたしが下柳に教えた分の時間を返してもらう」
突然背後から現れた美穂ちゃんに下柳は飛び上がって驚いた。俺も声を聞くまで気づかなかったぞ。忍者かよ。
「ま、待ってくれよ。時間を返すなんてできないだろ? 冷静に考えるんだ赤城ちゃん。返せないものを返してもらうなんてできないって。な? 俺間違ったこと言ってないだろ」
途端に焦る下柳。あいつ勉強会で美穂ちゃんに散々お世話になってたからなぁ。彼女の瞳がキラリと光った。
「下柳の時間をもらってもいいんだけどね。そこまで言うなら時間以外のものでもいいよ。とりあえず貸しにしておいてあげる」
「か、貸しっすか?」
下柳は不穏な単語に後ずさりする。美穂ちゃんの口角がほんのちょっぴり上がっていた。どうやら追い詰めて楽しんでいるみたいだ。
「そうですよ。下柳くんのせいで美穂さんに教えてもらう時間が減ったんですからねっ。僕達も被害者ですよ。その分も貸しにしておきますからね」
「そーだそーだ! 責任取れシモヤナギー!」
美穂ちゃんに乗っかるように、望月さんとクリスも下柳いじりに参加する。とくにクリスは完全に面白がっているだけだ。勉強会ではほとんど俺に頼っていたでしょうに。
やいのやいのと騒ぐ。そんなのを眺めているだけなのに、少しだけ気分が穏やかになっていく。これも日常か。
そんな中で美穂ちゃんがこっそり近づいてくる。動きに無駄がなさすぎて耳元で話しかけられるまで気づかなかったほどだ。
「高木も。あたしに負けたら罰ゲームだから」
「ば、罰ゲーム? 聞いてないんだけど」
「勝負事なんだから罰ゲームは当たり前。今言ったから知らないなんて言い訳も許さない」
「えぇー……」と情けない声を上げたところで後の祭り。思い返せば美穂ちゃんは確かに最初から勝負と口にしていたのだから。敗者は勝者には逆らえないのである。
ええいっ! 今回はこれまでで一番と言っていいほどできた自信があるのだ。負けることなんて意識するな。どっちにしろ結果はもうすぐ出る。
※ ※ ※
ついに……、順位表が貼り出された!
こうして順位表が発表されるのは二度目だ。前回と違うのは、前情報によってある程度上位を予想できることだろう。自分でなくとも知っている名前があると探してしまうものだ。
「あっ、美穂さんの名前ありましたよ! 一位ですよ一位! わあっ、すごいすごい!」
「マジかスゲー! 赤城ちゃん前よりも順位上げんのかよっ! トップなんてすごすぎるぜ!!」
「……うん」
望月さんと下柳がはしゃいでいる。美穂ちゃんはといえば控え気味なはにかみ顔で照れていた。この瞬間、勝負は決した。
……なんて早い決着なんだ。しかしこれは美穂ちゃんのがんばりの結果だ。本当にすごいとしか言えない彼女に、俺は賛辞を贈るだけだ。
一位となった美穂ちゃんに勝つことができない以上、彼女の勝利は揺るがない。それで俺の順位はといえば……。
「あっ! トシナリの名前があるわ。ほら、あれ、あれだってば!」
「ほんまや! 学年五位やなんてすごいやないか!」
「そ、そうかな? ……へへっ」
順位表の中に俺の名前を見つけたクリスと佐藤が盛り上がる。胴上げでもされそうな勢いに、ちょっと謙遜交じりに返してしまう。
五位……、五位かぁ……。中学以来の一桁順位に意識しないようにしても顔がほころんでしまう。
前回二十位なのを考えれば大躍進ではなかろうか。がんばれば高校でだって通用する。この結果に、俺の中でそんな自信が芽生えたのであった。
「トシくん何位だったのー?」
「もちろん順位を上げているんでしょうね?」
遅れて葵と瞳子がやってきた。まだ知らない二人に俺は自分が学年五位になったことを教えてあげたのだ。どんなもんだいと胸を張るのを耐えるのが大変だった。
「えっ!? ご、五位!? そんなにあがっちゃったの……?」
「あら、本当みたいね。あたしは六位で俊成が五位……。ふふっ、並んじゃったわね」
「わ、私は……じゅ、十四位? 上がったけど~……!」
葵も瞳子も気合入れたとの言葉通り、きっちり順位を上げてきた。さすがである。……でも嬉しがるところと悔しがるところがズレてるのは気のせいかな?
それに、瞳子に勝てるとはな。美穂ちゃんには負けてしまったものの、これは嬉しい結果だ。
「高木くんもやけど、木之下さんと宮坂さんもさすがやね。当たり前みたいに上位におるんやもん。僕なんかは全然やわ」
「わたしだって自信あったのにーーっ! わたしの名前は入ってなかったわ! トシナリも、ミホも、アオイも、トウコも。みんなおめでとう!」
佐藤からはほんわかと褒められ、クリスは自分が三十位以内に入っていなかったことに悔しがりながらも、俺達にお祝いの言葉をかけてくれた。
「高木」
「うん。俺の負けだね」
美穂ちゃんが話しかけてきたので、すかさず自分の負けを認める。まあ認めるも何も目の前の結果がすべてなんだけどね。
「ほら、やればできるじゃん」
「え?」
てっきり勝ち誇っているのかと思いきや、美穂ちゃんは優しく称えるような声色でそんなことを言う。俺はといえば予想外の反応に呆けにとられてしまっていた。
「むしろここまで伸びたことにびっくり。まだまだ高木は自分のことをわかっていなかったってことだね。成長の余地あり、ってね」
俺に勝負を仕掛けておきながら、その実、勝ち負けは重要ではなかったらしい。
彼女は俺の尻を叩いてくれたのだ。もうやるべきことはやったのだと、そんな諦めみたいな満足に浸っている俺に、それは錯覚なのだと伝えたかったのだろう。
そのことに気づくと、胸の奥から感謝が湧き上がってきた。
「ありがとう美穂ちゃん。俺と勝負してくれてさ」
「うん?」
なぜだかよくわかってないような「うん」だったので、俺はさらに言葉を重ねる。
「美穂ちゃんは俺に物事をもっと本気で取り組めって、勝負を通して伝えてくれたんだよな。俺が葵と瞳子に負けないくらい立派な男になれるようにってさ」
そう口にした瞬間だった。
無表情ながらも感情を表していた美穂ちゃんの顔から、表情が消えた。
「……あたしが、いつ、そんなことを言った?」
いきなりの剣呑な空気に、俺は思わず凍りついたかのように息を止めてしまった。
いつもの彼女じゃない。それはちょっとへそを曲げてしまっただとか、そんな軽いものではなかった。
「み、美穂ちゃん?」
絞り出すように名前を呼ぶ。空気はもとに戻るどころか余計に冷え込んでしまった気さえした。
「……」
無言の時が流れる。雰囲気も相まってか、本当に時でも止めてしまったのではないかという錯覚に囚われそうになる。
「……あたしは関係ない。だから、あたしが高木達にしてあげられることなんて何一つないし、できることなんてただの一つもない。そのつもりもない」
雑踏に紛れてしまいそうな小さな声だった。なのに俺にはしっかりと届いていた。
「高木、勘違いだけはしないで。あたしは高木達の味方になるつもりはないから」
重ねられた言葉は、きっと彼女の本心なのだろう。本心だからこそ、美穂ちゃんが言いたかったことの一端を掴めそうな気がした。
俺はきっと勘違いをし続けていたのだと。ようやく思い至った。
「……ごめん」
「いい。罰ゲームを受けてもらえればね」
「え、罰ゲームって本気だったの?」
「もちろん」
美穂ちゃんがにやりとしながら口にした「罰ゲーム」という単語に、張り詰めていた空気が一気に霧散した。
「どうしようかなぁ?」なんて煽りながら視線を走らせていた美穂ちゃんの目が止まる。その視線の先を追いかける前に、罰ゲームの内容を知らされた。
「宮坂と木之下。それでどう?」
「どうって何が?」
「あたしにあの二人をちょうだい」
俺は絶句した。
まさかのライバル登場。まさかの百合展開。まさかの……って冗談だよね?
「冗談じゃないって言ったらどうする? 高木は何か代わりを差し出せるっていうの?」
「二人の代わりだなんて……」
そんなものがあるはずもなく、俺は口をつぐんでしまう。
真面目に悩んでいると、左の頬を美穂ちゃんに掴まれていた。ぎゅっ、というような生易しいものではなく、むぎゅって感じにがっつり掴まれていた。
「その顔、イライラするからやめて」
「えーと……、イライラしますか?」
「うん。相当」
マジか。情けない表情でもしていただろうか。もっと引き締めていかねば。
「二人で何をしているのかな?」
能面を想像させる声に、美穂ちゃんは俺からすっと離れた。
声の主は葵だった。想像とは違うニコニコ顔で黒いオーラを放っている。花が咲くような笑顔でこんなオーラを出せるなんてかわいいなぁ。
「宮坂」
「なあに?」
無表情の美穂ちゃんと笑顔の葵が向かい合う。再び張り詰めていく空気。体にかかる重力すら重く感じる。
「あたしとデートして」
「ん? ……デ、デート!?」
何を言われたのか。最初はきょとんとした葵だったが、意味が頭に浸透した瞬間、驚きに目を瞬かせた。ちなみに俺も似たような反応である。
「あたしは高木と今回のテストで勝負した。勝者として宮坂のデート権を一回もらうことにした。宮坂が受けるなら木之下は勘弁してあげる」
「え? え? ど、どういうことなのトシくん?」
「いやあ、俺も聞きたい……。み、美穂ちゃん? これどういうこと?」
葵といっしょに戸惑うことしかできない。美穂ちゃんはといえば「何か間違ってる?」と、むしろ不思議そうである。
「宮坂は高木のために自分を差し出せないとでも?」
「……ト、トシくんのためならできるよ! なんだって差し出せるよ!!」
葵は顔を真っ赤にしながら言い切った。けっこう大変なことを言われた気がする……。
「じゃあ決まり。夏休み初日でもいい? 早い方がいいでしょ」
「いいよ! デートでもなんでも行くよ! それでトシくんが助かるのなら!」
ヤケっぱちな葵に、さすがに口を挟まずにはいられない。
「美穂ちゃ――」
「ちょっとだけ宮坂の時間をちょうだい。……勝負に勝ったんだから、それくらいいいでしょ?」
俺よりも、美穂ちゃんの小声が早かった。
面白がっているとか、ふざけているような目ではなかった。付き合いの長さから考えなしに言っていることではないと伝わってくる。
葵に何か話があるのだろう。それは俺が入っていける内容でもないということだ。俺がいては邪魔ってことか。
そう思われてしまうことがもどかしい。悩んでいる間に女子二人のデートはあっけなく決まってしまったのであった。
余談ではあるが、小川さんと下柳は見事赤点を回避した。夏の大会で二人が活躍するのは、また別の話である。
ただの発表日ではない。俺と美穂ちゃんの勝負の結果が出る日でもあった。俺の努力がどこまで通用するのか楽しみだったのだ。楽しみったら楽しみだったねっ。
順位表が貼り出されるまで教室で大人しく過ごす。瞑想でもできたら心が穏やかになるのだろうか。今すぐ試してみたい気分だ。
「高木くん、なんだか落ち着いとるね」
「まあ、な」
嘘である。表面上は落ち着き払っているが、心中ではそわそわが止まらない。早く順位表を発表してくれぇっ! と叫びたい気分だ。
「しもやんも落ち着いとるし。なんか僕だけハラハラしとるみたいや」
「ふっ、一郎もまだまだだな」
なぜかキメ顔の下柳。こいつはなぜこんなにも余裕をかましてんのか。そんなに自信があるのか?
「赤点回避。それが達成できれば、俺は文句なんて何一つないぜ」
つまり赤点ではない自信だけはあるらしい。下柳に順位は関係ないだろうな。
「何言ってるの。下手な点数取ったら、あたしが下柳に教えた分の時間を返してもらう」
突然背後から現れた美穂ちゃんに下柳は飛び上がって驚いた。俺も声を聞くまで気づかなかったぞ。忍者かよ。
「ま、待ってくれよ。時間を返すなんてできないだろ? 冷静に考えるんだ赤城ちゃん。返せないものを返してもらうなんてできないって。な? 俺間違ったこと言ってないだろ」
途端に焦る下柳。あいつ勉強会で美穂ちゃんに散々お世話になってたからなぁ。彼女の瞳がキラリと光った。
「下柳の時間をもらってもいいんだけどね。そこまで言うなら時間以外のものでもいいよ。とりあえず貸しにしておいてあげる」
「か、貸しっすか?」
下柳は不穏な単語に後ずさりする。美穂ちゃんの口角がほんのちょっぴり上がっていた。どうやら追い詰めて楽しんでいるみたいだ。
「そうですよ。下柳くんのせいで美穂さんに教えてもらう時間が減ったんですからねっ。僕達も被害者ですよ。その分も貸しにしておきますからね」
「そーだそーだ! 責任取れシモヤナギー!」
美穂ちゃんに乗っかるように、望月さんとクリスも下柳いじりに参加する。とくにクリスは完全に面白がっているだけだ。勉強会ではほとんど俺に頼っていたでしょうに。
やいのやいのと騒ぐ。そんなのを眺めているだけなのに、少しだけ気分が穏やかになっていく。これも日常か。
そんな中で美穂ちゃんがこっそり近づいてくる。動きに無駄がなさすぎて耳元で話しかけられるまで気づかなかったほどだ。
「高木も。あたしに負けたら罰ゲームだから」
「ば、罰ゲーム? 聞いてないんだけど」
「勝負事なんだから罰ゲームは当たり前。今言ったから知らないなんて言い訳も許さない」
「えぇー……」と情けない声を上げたところで後の祭り。思い返せば美穂ちゃんは確かに最初から勝負と口にしていたのだから。敗者は勝者には逆らえないのである。
ええいっ! 今回はこれまでで一番と言っていいほどできた自信があるのだ。負けることなんて意識するな。どっちにしろ結果はもうすぐ出る。
※ ※ ※
ついに……、順位表が貼り出された!
こうして順位表が発表されるのは二度目だ。前回と違うのは、前情報によってある程度上位を予想できることだろう。自分でなくとも知っている名前があると探してしまうものだ。
「あっ、美穂さんの名前ありましたよ! 一位ですよ一位! わあっ、すごいすごい!」
「マジかスゲー! 赤城ちゃん前よりも順位上げんのかよっ! トップなんてすごすぎるぜ!!」
「……うん」
望月さんと下柳がはしゃいでいる。美穂ちゃんはといえば控え気味なはにかみ顔で照れていた。この瞬間、勝負は決した。
……なんて早い決着なんだ。しかしこれは美穂ちゃんのがんばりの結果だ。本当にすごいとしか言えない彼女に、俺は賛辞を贈るだけだ。
一位となった美穂ちゃんに勝つことができない以上、彼女の勝利は揺るがない。それで俺の順位はといえば……。
「あっ! トシナリの名前があるわ。ほら、あれ、あれだってば!」
「ほんまや! 学年五位やなんてすごいやないか!」
「そ、そうかな? ……へへっ」
順位表の中に俺の名前を見つけたクリスと佐藤が盛り上がる。胴上げでもされそうな勢いに、ちょっと謙遜交じりに返してしまう。
五位……、五位かぁ……。中学以来の一桁順位に意識しないようにしても顔がほころんでしまう。
前回二十位なのを考えれば大躍進ではなかろうか。がんばれば高校でだって通用する。この結果に、俺の中でそんな自信が芽生えたのであった。
「トシくん何位だったのー?」
「もちろん順位を上げているんでしょうね?」
遅れて葵と瞳子がやってきた。まだ知らない二人に俺は自分が学年五位になったことを教えてあげたのだ。どんなもんだいと胸を張るのを耐えるのが大変だった。
「えっ!? ご、五位!? そんなにあがっちゃったの……?」
「あら、本当みたいね。あたしは六位で俊成が五位……。ふふっ、並んじゃったわね」
「わ、私は……じゅ、十四位? 上がったけど~……!」
葵も瞳子も気合入れたとの言葉通り、きっちり順位を上げてきた。さすがである。……でも嬉しがるところと悔しがるところがズレてるのは気のせいかな?
それに、瞳子に勝てるとはな。美穂ちゃんには負けてしまったものの、これは嬉しい結果だ。
「高木くんもやけど、木之下さんと宮坂さんもさすがやね。当たり前みたいに上位におるんやもん。僕なんかは全然やわ」
「わたしだって自信あったのにーーっ! わたしの名前は入ってなかったわ! トシナリも、ミホも、アオイも、トウコも。みんなおめでとう!」
佐藤からはほんわかと褒められ、クリスは自分が三十位以内に入っていなかったことに悔しがりながらも、俺達にお祝いの言葉をかけてくれた。
「高木」
「うん。俺の負けだね」
美穂ちゃんが話しかけてきたので、すかさず自分の負けを認める。まあ認めるも何も目の前の結果がすべてなんだけどね。
「ほら、やればできるじゃん」
「え?」
てっきり勝ち誇っているのかと思いきや、美穂ちゃんは優しく称えるような声色でそんなことを言う。俺はといえば予想外の反応に呆けにとられてしまっていた。
「むしろここまで伸びたことにびっくり。まだまだ高木は自分のことをわかっていなかったってことだね。成長の余地あり、ってね」
俺に勝負を仕掛けておきながら、その実、勝ち負けは重要ではなかったらしい。
彼女は俺の尻を叩いてくれたのだ。もうやるべきことはやったのだと、そんな諦めみたいな満足に浸っている俺に、それは錯覚なのだと伝えたかったのだろう。
そのことに気づくと、胸の奥から感謝が湧き上がってきた。
「ありがとう美穂ちゃん。俺と勝負してくれてさ」
「うん?」
なぜだかよくわかってないような「うん」だったので、俺はさらに言葉を重ねる。
「美穂ちゃんは俺に物事をもっと本気で取り組めって、勝負を通して伝えてくれたんだよな。俺が葵と瞳子に負けないくらい立派な男になれるようにってさ」
そう口にした瞬間だった。
無表情ながらも感情を表していた美穂ちゃんの顔から、表情が消えた。
「……あたしが、いつ、そんなことを言った?」
いきなりの剣呑な空気に、俺は思わず凍りついたかのように息を止めてしまった。
いつもの彼女じゃない。それはちょっとへそを曲げてしまっただとか、そんな軽いものではなかった。
「み、美穂ちゃん?」
絞り出すように名前を呼ぶ。空気はもとに戻るどころか余計に冷え込んでしまった気さえした。
「……」
無言の時が流れる。雰囲気も相まってか、本当に時でも止めてしまったのではないかという錯覚に囚われそうになる。
「……あたしは関係ない。だから、あたしが高木達にしてあげられることなんて何一つないし、できることなんてただの一つもない。そのつもりもない」
雑踏に紛れてしまいそうな小さな声だった。なのに俺にはしっかりと届いていた。
「高木、勘違いだけはしないで。あたしは高木達の味方になるつもりはないから」
重ねられた言葉は、きっと彼女の本心なのだろう。本心だからこそ、美穂ちゃんが言いたかったことの一端を掴めそうな気がした。
俺はきっと勘違いをし続けていたのだと。ようやく思い至った。
「……ごめん」
「いい。罰ゲームを受けてもらえればね」
「え、罰ゲームって本気だったの?」
「もちろん」
美穂ちゃんがにやりとしながら口にした「罰ゲーム」という単語に、張り詰めていた空気が一気に霧散した。
「どうしようかなぁ?」なんて煽りながら視線を走らせていた美穂ちゃんの目が止まる。その視線の先を追いかける前に、罰ゲームの内容を知らされた。
「宮坂と木之下。それでどう?」
「どうって何が?」
「あたしにあの二人をちょうだい」
俺は絶句した。
まさかのライバル登場。まさかの百合展開。まさかの……って冗談だよね?
「冗談じゃないって言ったらどうする? 高木は何か代わりを差し出せるっていうの?」
「二人の代わりだなんて……」
そんなものがあるはずもなく、俺は口をつぐんでしまう。
真面目に悩んでいると、左の頬を美穂ちゃんに掴まれていた。ぎゅっ、というような生易しいものではなく、むぎゅって感じにがっつり掴まれていた。
「その顔、イライラするからやめて」
「えーと……、イライラしますか?」
「うん。相当」
マジか。情けない表情でもしていただろうか。もっと引き締めていかねば。
「二人で何をしているのかな?」
能面を想像させる声に、美穂ちゃんは俺からすっと離れた。
声の主は葵だった。想像とは違うニコニコ顔で黒いオーラを放っている。花が咲くような笑顔でこんなオーラを出せるなんてかわいいなぁ。
「宮坂」
「なあに?」
無表情の美穂ちゃんと笑顔の葵が向かい合う。再び張り詰めていく空気。体にかかる重力すら重く感じる。
「あたしとデートして」
「ん? ……デ、デート!?」
何を言われたのか。最初はきょとんとした葵だったが、意味が頭に浸透した瞬間、驚きに目を瞬かせた。ちなみに俺も似たような反応である。
「あたしは高木と今回のテストで勝負した。勝者として宮坂のデート権を一回もらうことにした。宮坂が受けるなら木之下は勘弁してあげる」
「え? え? ど、どういうことなのトシくん?」
「いやあ、俺も聞きたい……。み、美穂ちゃん? これどういうこと?」
葵といっしょに戸惑うことしかできない。美穂ちゃんはといえば「何か間違ってる?」と、むしろ不思議そうである。
「宮坂は高木のために自分を差し出せないとでも?」
「……ト、トシくんのためならできるよ! なんだって差し出せるよ!!」
葵は顔を真っ赤にしながら言い切った。けっこう大変なことを言われた気がする……。
「じゃあ決まり。夏休み初日でもいい? 早い方がいいでしょ」
「いいよ! デートでもなんでも行くよ! それでトシくんが助かるのなら!」
ヤケっぱちな葵に、さすがに口を挟まずにはいられない。
「美穂ちゃ――」
「ちょっとだけ宮坂の時間をちょうだい。……勝負に勝ったんだから、それくらいいいでしょ?」
俺よりも、美穂ちゃんの小声が早かった。
面白がっているとか、ふざけているような目ではなかった。付き合いの長さから考えなしに言っていることではないと伝わってくる。
葵に何か話があるのだろう。それは俺が入っていける内容でもないということだ。俺がいては邪魔ってことか。
そう思われてしまうことがもどかしい。悩んでいる間に女子二人のデートはあっけなく決まってしまったのであった。
余談ではあるが、小川さんと下柳は見事赤点を回避した。夏の大会で二人が活躍するのは、また別の話である。
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