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第一部

78.彼女達のわだかまり

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 夏休みも残り一週間である。
 俺はもちろん、葵ちゃんと瞳子ちゃんもすでに夏休みの宿題を終えている。俺達三人は優等生なのだ。
 今日は葵ちゃんの家で三人で遊んでいた。いつも通り、普通通りに過ごしていた。……そのつもりだった。

「ちょっとトイレ借りるね」

 そう断りを入れてから葵ちゃんの部屋を出る。トイレのある一階に下りてから背後の気配に気づいた。

「瞳子ちゃん?」
「あ、あたしもトイレ……」

 振り向けばもじもじしている瞳子ちゃんがいた。もしかしてトイレを我慢していたのだろうか。

「じゃあお先にどうぞ」
「え、俊成が先でいいわよ」
「でも瞳子ちゃん――」

 トイレに行きたいの我慢しているんじゃないの? なんて聞くのはデリカシーに欠けている気がして口を閉じた。
 さっさと俺が済ませてしまえばいいか。どうせ男は早いからね。そう考えて先にトイレに行かせてもらうことにした。
 トイレから出ると瞳子ちゃんが待っていた。なんだか順番待ちされるのって恥ずかしいな。

「じゃあ先に部屋に戻ってるね」
「待って」

 瞳子ちゃんの横を通り抜けようとすると手を掴まれた。まだ手を洗ってないんですけど……。

「その……あたしが出るまで待ってて……」
「待ってるって……、トイレの前で?」

 こっくりと頷く瞳子ちゃん。その顔は真っ赤になっていた。
 女の子のトイレをすぐ近くで待っていていいものなのだろうか? こういうのはお花を摘みに行くが如くこっそりとするものではなかろうか。
 なんて考えたものの、本人の要望である。なんだか恥ずかしいけど、本人が言うのだから仕方がない。うん。
 トイレの中に入る直前、瞳子ちゃんが振り返る。

「耳……塞いでてよね。音、聞いたりしたら許さないから」

 瞳子ちゃんは耳まで赤くしながらもそう注意する。だったらトイレの前なんかで待たせなければいいのでは? バタンとドアを閉められてしまったので口を開いたところで止まってしまった。

「トシくん? 聞いちゃダメだよ」
「あ、葵ちゃん!?」

 突然現れた葵ちゃんに耳を塞がれてしまう。目の前にくるまで気配に気づけなかった。いつの間に足音を消せるようになったのだろうか。
 そんなことを考えていたからだろうか。葵ちゃんが両手を伸ばしてくると、そのまま優しく俺の耳に触れてきた。なんの抵抗もできないまま聴覚情報を奪われる。

「……」
「……」

 正面から両手で耳を塞がれている。俺は葵ちゃんと見つめ合う形となっていた。
 最近、葵ちゃんの柔和な表情をあまり見ていない気がする。今だって俺をじっと見つめる目は少しだけきつさを帯びているように感じる。
 いつから? ……あの林間学校からだ。
 あからさまに態度が変わったわけじゃない。それでも、俺を見る瞳の色が変わってしまったのは確かだった。
 そのせいかずっと責められているようで、葵ちゃんに対してどう反省の意を示せばいいのか思いつかないでいた。
 言葉では謝罪をした。葵ちゃんも受け入れる言葉を返してくれた。だけどまだ、彼女の中では消化し切れてはいないのかもしれなかった。

「瞳子ちゃん。次は私が入るから待ってて」
「わかったわ」

 ぱっと葵ちゃんの手が離れて音が戻ってくる。見ればトイレから出た瞳子ちゃんが洗面所で手を洗っていた。
 それから入れ替わるようにして、今度は瞳子ちゃんが俺の耳を塞ぐ。葵ちゃんはトイレに入って行き、俺は瞳子ちゃんと見つめ合うこととなった。

「……」
「……」

 葵ちゃんとはまた違った沈黙が訪れる。しっかりと見つめてくる葵ちゃんと違って、瞳子ちゃんの瞳は揺れているように見える。
 葵ちゃんに心配をかけてしまったように、瞳子ちゃんにもまた心配をかけてしまった。
 あの時はいろんなことが見えなくなっていた。どれだけ彼女達を不安にさせてしまったのか。ほんの少し変わってしまった態度が物語っているようだった。
 目の端で葵ちゃんがトイレから出てきたのが見えた。手を洗ってから戻ってくる。

「お待たせ。部屋に戻ろっか」
「行くわよ俊成」

 部屋に戻るだけなのに、葵ちゃんと瞳子ちゃんに挟まれて腕を抱え込まれる。別々の柔らかさを俺に伝えてくれる。
 あの……、俺まだ手を洗っていないんですけど。お願いだから解放してーーっ。


  ※ ※ ※


 二学期になった。
 大半のクラスメートとは林間学校以来である。学校に到着すると、俺と瞳子ちゃんは心配の言葉に囲まれた。
 林間学校に不参加だった生徒にも伝わっているようだ。あまり騒がれたくはないけれど、事が事だけに鎮めるのは難しそうだ。

「おい木之下! 林間学校で溺れたって本当か!?」

 本郷が教室に来たことによってその騒ぎはさらに大きくなる。
 俺達四組の教室に入ってくると、本郷は真っすぐ瞳子ちゃんの元へと向かった。これには瞳子ちゃんも「げっ」と言わんばかりの顔になってしまっていた。

「さっきみんなから聞いたんだ。俺林間学校欠席したから知らなくってさ……。体はもう大丈夫なのか?」

 本郷の心底心配した声が教室に広がる。まったく悪気がないっていうのはわかるんだが、当人である瞳子ちゃんは居たたまれないだろう。

「まあ……うん」

 案の定、彼女はばつが悪そうに顔を伏せる。
 瞳子ちゃん自身、川に入るのに準備不足だったり足が届かないところまで行ってしまったりと反省しているのだ。それをまた掘り返されるようなことは彼女にとってとても心が苦しくなることだろう。
 心配するのは本郷の優しさだろうが、みんなが集まっているこんな場所では遠慮してほしかった。これじゃあ話題の中心が瞳子ちゃんに向いてしまう。

「本郷、お前サッカーの大会で全国ベスト4だったんだってな。すごいじゃないか」

 俺は全力で話題を変えることにした。本郷がサッカー大会で活躍していたという情報を入手していて良かった。

「は? 今はそんなことどうでもいいだろ」
「そうだよ。全国で活躍しただなんて本郷くんってすごかったんだね」

 今は自分のことよりも瞳子ちゃんの心配が勝っているらしい本郷は眉を寄せる。しかしすかさず葵ちゃんが俺の策に乗ってきてくれた。

「聞いたで。得点王になったんやて? すごいやんか。同じ学校の同級生ががんばってくれると僕らも鼻が高いわ」
「もしかして本郷くん将来はプロのサッカー選手になっちゃうの? 私今のうちにサインもらっちゃおうかな」
「本郷すごいすごい」

 さらに佐藤、小川さん、美穂ちゃんが続いてくれた。美穂ちゃんは若干棒読みだった気がするけれど、周囲の注目を移すのには充分だったようだ。
 本郷を中心に輪ができる。学校の人気者が全国で活躍したというのはみんなの興味をかり立てるのに充分過ぎたようだった。何もなければ俺も話を聞いてみたかったところだ。
 ほ・ん・ご・う! と本郷コールが教室を湧き立てた。その間に俺は瞳子ちゃんをつれ出す。
 人気のない廊下までつれてくると、瞳子ちゃんは落ち着きを取り戻したようだった。

「ありがとう俊成」
「本郷には後で俺が言っとくよ。あいつだって言ってわからない奴じゃないからさ」

 瞳子ちゃんを心配するのは悪いことじゃない。それでもすでに終わったことではあるし、変に学校中で広まるのは避けたかった。
 そもそも瞳子ちゃんが溺れたというのなら、それを助けようとしていっしょになって溺れそうになってしまった俺なんかもっとかっこ悪い。葵ちゃんの指示でみんなが動いてくれなかったら本当に危なかった。

「……ごめんね」

 瞳子ちゃんが謝る。別に謝らなくてもいいのに。それでも彼女は申し訳なさそうに肩を落としていた。
 普段ミスをしない瞳子ちゃんだからこそ、今回のことは相当堪えたらしかった。ずっと負い目を感じているようで、なんというか今の彼女は自信なさげに見えてしまう。
 そんな彼女の姿を見ると胸が苦しくなる。瞳子ちゃんはもっと堂々と胸を張って自信満々でいてほしかった。それが似合っていると思うから。
 なんて、それは俺の押しつけだろうか。ただ、彼女が弱々しく顔を伏せてしまうなんてのはやっぱり似合わないって思ったんだ。

「瞳子ちゃん」
「きゃっ!? と、俊成?」

 俺は瞳子ちゃんの腕を引っ張って、前のめりになった彼女を抱きしめた。
 どんなに励ましの言葉をかけたってダメなのだ。それは今日までやってきたことだから。今の彼女を見ていると効果があったとは思えない。
 それでも、そうわかった上で何かを伝えようと思ったらこうするしかないって想ってしまった。気にするなと声をかけたところで彼女にわだかまりが残るのなら、せめてその心を共有したかった。

「……」

 抱きしめる。ただ抱きしめた。
 瞳子ちゃんの中でわだかまってしまったもの。それを伝えてほしいと思った。瞳子ちゃんを大切にしたいという心。それが伝わればいいと思った。
 瞳子ちゃんが俺の背中に腕を回す。体がより密着して彼女の体温が体全体で感じられた。

「俊成……もういなくなるなんてこと言わないで……」
「……ごめん。もう言わないよ」

 それは絶対だ。俺のために泣いてくれる人がいる。俺のために怒ってくれる人がいる。そのことを忘れちゃいけないんだって、この鈍感な頭にも刻み込まれたから。
 まだ時間がかかることかもしれない。それでも、以前のようなかっこ良い彼女に戻れたなら、過去を振り払ってしまうどころかさらにパワーアップするんだろうなって思う。それが俺の瞳子ちゃんに対する信頼だ。
 それまで支えるくらいなんでもない。むしろいきなり抱きしめちゃったりなんかして大胆過ぎたかなって今さら恥ずかしくなってきた。
 自分の体温が高くなったのを自覚しながら、それに合わせるように彼女の体温が高くなったのがわかって、なんだか嬉しくなっている自分がいた。
 誰もいない廊下で、チャイムが鳴るまでそのまま互いを抱きしめ合っていた。

 ――そして、そんな俺達を見つめていた視線に、俺と瞳子ちゃんはついに気づかなかったのだった。
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