元おっさんの幼馴染育成計画

みずがめ

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第一部

77.危険な林間学校(後編)

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「瞳子ちゃん!!」
「トシくん待って!」

 瞳子ちゃんが流されたのを目にした俺は川へと飛び込んでいた。
 助けなきゃ! 頭の中でそのことだけしか考えられなかった。周りの声を置き去りにして今は水の中にいる。
 必死に泳いで一刻も早く瞳子ちゃんの元へと向かう。伊達にスイミングスクールに通っていないのだ。スムーズな動きでどんどん瞳子ちゃんへと追いついていく。

「ぷあっ!?」

 穏やかだった川の流れが急になる。少し水を飲んでしまった。
 川や海はプールとはまったく違う。とくに川は場合によってはライフジャケットを着ていたとしても沈んでしまうことだってある。
 それを思い出したところで今さら引き下がれない。何より瞳子ちゃんの安否が最優先だ。
 狭くなってくる視界で瞳子ちゃんを捉える。流されてしまっているが、こっちは追いつこうと泳いでいるのもあってなんとか彼女のもとへと辿り着けた。

「瞳子ちゃん! 俺に捕まって!」
「あぶ……っ」

 ダメだ聞こえてない。俺の存在に気づく余裕がないらしい。
 強引に彼女を捕まえる。俺の背中に乗せるようにするときつく抱きしめられた。

「い、息がっ!」

 泳ぎが得意だったのが却って溺れるという事実に動揺してしまったのだろう。瞳子ちゃんらしからない取り乱し方だった。
 しがみつくように抱きしめられては泳ぎに支障が出る。俺は余裕なく叫んだ。

「落ち着け瞳子!!」

 息継ぎが難しい中での大声で体力を消耗してしまう。それでも瞳子ちゃんがパニックから立ち直ってくれるのならそれでいい。
 瞳子ちゃんから反応が返ってくる。ようやく俺に気づいてくれたようだ。

「と、俊成?」

 声色に理性が戻っている。まずは一安心だ。
 平常時なら瞳子ちゃんが溺れてしまうなんてなかなか考えられない。足がつったのだろうか? それならこのまま俺が泳いで岸に向かうしかないか。
 とはいえ川の流れは厄介だ。真っすぐ流されているのではなく、右へ左へと流れが一定じゃない。そんな中では体を動かすのもかなりの負担だ。

「瞳子ちゃん、俺から離れないようにしてて」
「う、うんっ」

 背負うようにしているから瞳子ちゃんも呼吸がしやすいだろう。逆に俺は沈み気味になってしまったため水を飲まないように息をするのが大変だった。
 岸に向かって泳ぐがまったく思い通りにならない。川の流れに抵抗できていない。
 ……おい、これどうするんだよ俺! 冷汗は簡単に流されていく。
 川の流れはどんどん勢いを増していく。自分達がどこにいるのかわからなくなっていた。

「俊成! あれ!」

 瞳子ちゃんが指を差す。泳ぎに集中して気づかなかったが、木の枝が垂れ下がっているのが見えた。
 藁にでもすがる思いで木の枝へと手を伸ばす。掴んだ瞬間ちぎれてしまう、なんてことはなく、川の流れに負けず俺達を支えてくれた。
 良かった。おかげでこれ以上流されずに済みそうだ。
 とはいえ、こうも流れが強いと体が上手く動いてくれない。瞳子ちゃんほどではないにしても俺だって泳ぎには自信があるにも拘らずだ。
 この木の枝をつたっていけば岸に上がれるのではと思ったが、そちらは俺達のいた岸とは反対方向であり、そこまで高くはないのだけれどちょっとした崖になっていた。この川の流れの中で登るのは無理だ。

「俊成……、ごめんなさい……」
「いいから。大丈夫だよ瞳子ちゃん。助けがくるまでこのままでいよう」

 背中から弱気な声が聞こえる。こっちも余裕がないせいでそれだけの言葉しかかけられなかった。
 それにしても水が冷たいな。夏だってのに体が冷えてくる。瞳子ちゃんは大丈夫だろうか。
 助けを待つとは言ったものの、それがどのくらいの時間でくるかがわからない。こんな状況にいると数分ですら長く感じてしまう。
 一時間……。なんて言われたら持ちこたえられるか不安だ。さすがにそこまで長時間とは思いたくないな。
 大雨が降って川が氾濫したわけじゃない。傍から見たら大したことがないなんて甘く見ていた。
 枝を掴む手に力が入る。これを手放してしまえばどうなるかわかったもんじゃない。今はこの枝が俺達の命綱だった。

「~~……」

 救助がくるのを待ち続ける。
 ずっと立ち泳ぎの状態なので疲労が溜まっていく。少なくとも足がつく場所ではないようだ。
 力を抜いて体を浮かせようとしてみたが、むしろ沈んでしまうだけだった。何か浮く物でもないとどうにもならなさそうだ。

「ごめんなさい……」

 どれほどの時間が経ったのだろうか。また瞳子ちゃんが謝る。返事すらしてあげられなかった。自分の体力がこんなにもないなんて思うと悔しい。
 助けはまだか? あの場には先生がいたはずだ。きっとなんとかしてくれるはず。頼むから早くきてくれ!
 極度の緊張状態。当然だ。命がかかっているのだ。もう必死で打開策を考えられるほどの思考力なんて残っていない。
 自分が息継ぎをして漏れる声。川が流れる音。虫の鳴き声。聴覚情報はもう一つ、ミシリという音を捉えた。
 妙に気になった。顔を上げて音の出所を探る。

「……っ!?」

 気づいた。気づいてしまった。それは俺達の命を左右する音だった。
 俺が掴んでいる木の枝。その半ばからミシリミシリと音を立てていたのだ。
 今すぐにでもちぎれてしまいそうというわけではない。しかし確実にその前兆ではあった。
 垂れ下がってしまうほどの細い枝。子供とはいえ二人分の体重に水の流れが加わっている。こうなるのは必然だったのかもしれない。
 もし枝がちぎれたとして、また流されてしまうのは確実だ。流されたとして助かる保証はない。いや、間違いなく事態の悪化だ。
 ――溺死。そんな単語が脳裏を過ぎる。
 い、嫌だ……死にたくない! ここまでがんばってきて前世よりも良い人生を送っているんだ! こんなに自分の命が惜しいなんて思ったことはない。
 ぐるぐるぐるぐる。生存本能が働いたのか頭が回転し、とある案を導き出した。
 ……一人なら助かるんじゃないだろうか?
 重さが減れば枝への負担も減るはずだ。折れさえしなければ助かる可能性は充分にあった。

「……」
「俊成?」

 もうこれしかない。思いついたその案を実行に移すため、俺の首に回されている瞳子ちゃんの腕を取った。
 片手で木の枝を掴む形になってつらい。でも、そのつらさからはもうすぐ解放されるだろう。
 瞳子ちゃんの腕を引っ張って俺から引き剥がす。軽く抵抗されたが構わなかった。

「と、俊成!? 何を……っ」
「ごめんね瞳子ちゃん」

 俺は瞳子ちゃんの腕をさらに引っ張った。

「……掴んで」
「え?」
「いいから早く!」

 反射的に瞳子ちゃんは俺が掴んでいた木の枝を握った。
 もう片方の手も同じように掴ませる。川の流れもあるけど、体が冷えたのもあってこれだけのことでも時間がかかってしまったように感じた。

「こ、ここからどうするの?」

 瞳子ちゃんが尋ねてくる。その声色には期待があって、俺が上手く助かる方法でも思いついたとでも考えたのだろう。
 ……残念だけどそんな上手い案はない。

「瞳子ちゃんはこのまま救助を待つんだ。いつになるかはわからないけど諦めちゃダメだよ」
「え? え?」

 俺の言っている意味をわかっていないようで、顔を見なくても困惑が伝わってくる。
 彼女をパニックにさせてはいけない。俺はできるだけ落ち着いた声を意識する。

「聞いて瞳子ちゃん。この枝は二人分の重さには耐えられそうにないんだ。でも、一人なら持ちこたえてくれるかもしれない」
「ど、どういう?」
「俺は手を離す。瞳子ちゃんは誰かが助けにきてくれるまでこのまま流されないようにがんばっていてほしいんだ」

 助けにきたはずなのに結局人任せになるなんてな。かっこ悪いな俺……。

「待ってよ! 俊成はどうなるのよ!」

 ちょっと苦しくなってきたけどそんなのは表情に出さない。むしろ穏やかな顔になってやる。

「俺が水泳やってたの知ってるだろ? 一人だけなら簡単に戻れるよ」
「嘘よ! 俊成嘘ついてる!」
「頼むから!! 大人しく俺の言うことを聞いてくれよ!」

 感情のままに大声を出した。押し止める余裕なんてない。
 俺がいなくても瞳子ちゃんには助かるまでがんばってもらわないといけないのだ。どんなことがあっても助けがくるまでは手を離してはいけないんだ。
 彼女には生きてほしい。たとえ天秤にかけるものが俺自身だとしても、そう思ってしまったのだ。
 だから、これでいいのだ。
 今世は良い人生だ。前世に比べれば将来だって期待が持てる。
 でも、それは瞳子ちゃんがいるからこそなんだ。彼女がいなくなったらそんな風には考えられないかもしれない。いや、かもじゃなくて絶対にそうだ。

「……じゃあね瞳子ちゃん」
「や、やだぁ……」

 やっぱり、女の子の泣き顔なんて見たくないなぁ……。
 それでも、好きな女の子の前なら見栄だって張るさ。俺ってば男の子なんだから。

「高木くん! 木之下さん!」

 俺が木の枝から手を離そうとした時、なぜだか佐藤の声が聞こえた気がした。

「二人とも! あとちょっとの辛抱や!」

 いや、気のせいじゃない。佐藤の声だ。近くにいるのか?
 希望にすがるように佐藤を捜した。そして見つける。佐藤はこっちに向かって流されていた。
 ただ流されているだけじゃない。佐藤は浮輪をしていた。泳ぎながら俺達の元へと辿り着く。

「良かった。二人とも浮輪に掴まれる?」
「あ、ああ。助けにきてくれたのか?」
「当たり前やん。ええから早く!」

 俺と瞳子ちゃんは佐藤の浮輪に捕まった。それを確認してから佐藤が大きく手を振る。

「みんな引っ張ってーーっ!!」

 葵ちゃんの大声が響く。それからすぐに岸に向かって引っ張られていく。よく見てみれば浮輪にはロープがくくりつけられており、大勢の男子が綱引きのように引っ張ってくれていた。
 ぐんぐんと引っ張られていき、ついに俺達は岸へと戻ることができた。歓声に出迎えられながらへたり込む。

「瞳子ちゃん……大丈夫?」
「え、ええ……」

 疲労を感じるが瞳子ちゃんも大丈夫そうだった。ほっとして脱力する。

「二人とも……ほんまに良かったぁ……」

 佐藤が顔をくしゃくしゃにした泣き笑いになる。体を張って助けてくれた佐藤には感謝しかない。
 息を整えている俺に影が差す。なんだろうと思って顔を上げると、葵ちゃんが目の前に立っていた。
 バシィンッ! と乾いた音が響いたと思ったら俺は倒れていた。葵ちゃんに頬を引っ叩かれたのだと理解するのに数秒かかってしまった。

「私、待ってって言ったのに……。無茶しないでって言ったのに……っ」

 見上げれば大きな目に涙をいっぱいに溜めている葵ちゃん。そんな彼女を目にした瞬間、俺は間違えてしまったのだと悟った。

「葵っ。全部あたしが悪いのっ。俊成を怒らないで!」

 葵ちゃんが瞳子ちゃんに近づいていく。次は自分が引っ叩かれるとでも思ったのだろう。瞳子ちゃんはぎゅっと目を閉じた。

「瞳子ちゃん……無事で良かった……」

 葵ちゃんは優しく瞳子ちゃんを抱きしめた。静かに涙を流している彼女に気づいて、瞳子ちゃんの目から涙が溢れる。
 そんな二人の姿を見て、葵ちゃんは心配と不安でいっぱいになっていたんだってわかってしまった。瞳子ちゃんのことはもちろん、考えなしに飛び込んでいった俺のことだってそう思ってくれていたんだ。


  ※ ※ ※


 念のためということで、俺と瞳子ちゃんは体に異常がないか確認するために病院へと訪れていた。

「……」

 ついでに葵ちゃんもいる。病院へ送ろうとする先生の車に、彼女にしては強引な形でついて来たのである。
 葵ちゃんは俺の腕をしがみつくように抱え込んでいる。なのに俺へと向ける目は睨みつけるようなものだった。葵ちゃんにそんな目を向けられたことがなくてどうしていいかわからなくなってしまう。
 あの後、俺が瞳子ちゃんを助けるために川へと飛び込んでからの話を聞かせてもらった。
 流された瞳子ちゃんに気づいた先生が助けを呼びに行くと言って真っ先に現場を離れてしまったのだ。置いていかれてしまい半ばパニックとなった同級生達をまとめたのが葵ちゃんである。
 葵ちゃんは女子達に他の先生を呼びに行かせ、男子達を引きつれて救助へと向かってくれたのだ。
 俺と瞳子ちゃんの体感ではけっこう流されたと思ったのだが、実はそうでもなかったらしく、すぐに見つけ出された。そこで葵ちゃんは自分が持っていた浮輪と数人の男子に探してもらっていたロープを組み合わせたのだ。
 ロープを木に結びつけて反対側を浮輪にくくりつける。川に入って助けに行くと真っ先に立候補してくれたのは佐藤だったらしい。
 あとは俺と瞳子ちゃんに合流し、男子達にロープを引っ張ってもらったというわけだ。全部終わってから先生が来たのだが、勝手なことをするなとみんな怒られてしまった。協力してくれたみんなには本当に申し訳ない……。
 受診の結果、俺と瞳子ちゃんの体に異常はなかった。今は親が迎えに来てくれるということで病院で待っている状態だ。

「……」

 葵ちゃんは未だに俺の腕を解放してはくれない。瞳子ちゃんも黙ったままで俺の肩に頭を預けている。

「ごめんなさい……。それから、ありがとう……」

 消えてしまいそうな瞳子ちゃんの声。反省の色が多分に含まれていて、彼女がとても小さく見えた。
 同級生の中では一番しっかりしている子だと思っていた。それが絶対に危険な目に遭わないという保証ではないことを思い知らされた。

「私も、ごめんなさい……。すぐに瞳子ちゃんのこと気づけなかったし、トシくんを叩いちゃったりして……」

 葵ちゃんの声も瞳子ちゃんと同じくらい小さかった。
 彼女には助けられたし、悪いことをした。もし葵ちゃんがみんなをまとめてくれなかったらどうなっていたかわからない。俺を叩いたのだってそれほどに本気で想ってくれたからなのだろう。

「俺もごめん……。後先考えないで突っ走ってたかも、余計に心配掛ける事態にしてた」

 突発的な事態だったとはいえ、もっと上手いやり方があったはずだ。それを気づいて実行するのは俺であるべきだった。
 俺達は謝り合って、また無言の時間が訪れる。三人でくっついたまま、ずっとじっとしていた。

「瞳子!!」

 どれくらい時間が経っただろうか。ぼんやりした頭が突然の大声で引き戻される。
 声の方向を見れば瞳子ちゃんの両親が来ていた。肩で息をしており、ここまでどれほど急いできたのか簡単に想像できた。

「こ、この度はご心配をおかけしまして――」
「瞳子ぉ!!」

 付き添っていた先生を無視しておじさんが瞳子ちゃんを勢いのままに抱きしめた。

「心配したんだぞ! ぐぅ……、本当に心配した……」
「パパ……」

 おじさんから押し殺したような嗚咽が聞こえてくる。言葉の通りよほど心配したのだろう。

「瞳子……。良かったデス……」

 おばさんもいっしょになって娘を抱きしめる。そんな親子の姿を見せられてしまえば、誰もその中へは入っていけなかった。

「俊成!!」

 遅れて俺の両親も到着した。父さんは仕事中だったはずなのに、抜けだしてまで来てくれたんだ。
 俺は立ち上がる。葵ちゃんはようやく俺の腕を離してくれた。

「無事なのよね? どこもケガはしていないのね?」

 母さんの声に涙が混じっている。父さんがほっとした表情を浮かべる。
 俺のことを心配してくれていたのだ。両親は何よりもその想いが強い。それがわかった時、俺の目から熱いものが溢れていた。
 母親に抱きしめられる。この感覚は知っているはずなのに、知らない感情が流れてきた気がした。
 親孝行をしたいと思っていた。なのにこれじゃあ親不孝じゃないか。こうやって抱きしめられるまで、俺はそのことをちゃんとはわかっていなかったんだ。
 俺は父さんと母さんといっしょになって泣いた。それは今世で初めての心の底から湧き出た涙だった。
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