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第一部

72.心の中の波紋

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 宿に入り、夕食をとった。それから入浴の時間がやってきた。
 入浴はクラスごとで順番に大浴場に入る段取りとなっている。六年四組の女子一同は支度を済ませると、固まって大浴場へと向かう。

「あっ、トシくんだ」

 女湯ののれんをくぐっている最中、夕食が終わって別れて以来になるクラスの男子達の姿が見えた。真っ先にそれを見つけた葵は小さく手を振る。
 目的の男子はすぐに葵に気づいたようで、同じく小さく手を振り返していた。しかし反応したのはその男子だけではなかった。
 クラスの、いや、学校で一、二を争う美少女がこちらに向かって手を振ってくれているのだ。少なからず異性を意識し始める年頃の男子連中は心が沸き立つのを感じていただろう。というか傍から見れば丸わかりであった。

「……」

 そんな男子達を冷ややかに見ていたわけではない。それでも美穂の視線は一人の男子に注がれていた。
 葵がのれんをくぐるのを見届けてからクラスの男子達も男湯ののれんをくぐって行った。それを見届けてから美穂も止まっていた足を動かそうとする。
 そこで彼女は気づいた。知らず自分の手が半ばまで上がっていたことに。それはまるで先ほどの葵のように手を振ろうとしていたのではないかと思わせる仕草だった。

「ふむ」

 無意識の行動に疑問があった。だけどそこまで考え込むことでもないだろうと自分を納得させる。
 友達に手を振るのは当然。おかしいことなんて何もなかった。そう問題ないと判断して、美穂ものれんをくぐった。
 脱衣所で服を脱ぎ、浴場へと入る。「もうブラジャーつけてる子がいるんだ……」という美穂の呟きは誰の耳にも届くことはなかった。
 みんなで大きなお風呂に入る。そんな状況が楽しいのか、はしゃいだ声が浴室に反響した。

「うはーっ! やっぱりあおっちのスタイルってすごー!」
「ちょっ!? ま、真奈美ちゃんっ。そんなに触らないで……」
「よいではないかよいではないかー」

 ただでさえ騒がしい中、葵と真奈美の声がひと際大きく響いた。
 美穂は体を洗いながらもチラと二人のやり取りをうかがう。背の高さを生かすように、真奈美が葵の体を後ろから抱きすくめている光景が広がっていた。
 腕に圧迫されて葵の立派なお山が形を歪ませる。肌と肌が重なる度にぐにゃりぐにゃりと……。美穂は顔を正面に戻した。

「……うん、完璧」

 体を洗い終えた。胸の辺りは入念に入念を重ねて洗ったから大丈夫だろう。何が大丈夫なのか自分でもわからないままだったが、美穂は満足げに体を洗い流していく。
 パコーンと小気味の良い音が響いたので美穂は振り返った。そこには頭を押さえる真奈美と、桶を持った瞳子がいた。真奈美の凶行を止めようと瞳子が天誅を下したのである。

「いったー! きのぴー何すんのよ!」
「バカなことやってるのはあなたでしょ! ほら、変なことしてないでさっさと体洗いなさいよ」
「……きのぴーも綺麗な体つきしてるよね。それに……、ここも育ってきた?」

 無造作に伸ばされた真奈美の手を、瞳子は容赦なく叩き落とした。

「小川さん? どうやら懲りてないようね」
「わーっ! 嘘です嘘! ごめんなさい! わ、私体洗わなきゃっ」

 真奈美はバタバタと逃げた。瞳子は鼻を鳴らしてそれを見送る。勝負(?)の行方は明らかであった。

「葵、こっちに来なさい。髪洗ってあげるから」
「うん。お願いね瞳子ちゃん」

 葵と瞳子の後ろ姿を眺めながら、美穂は湯船へと向かった。
 出会った頃からあの二人は仲が良かった。いや、二人じゃなくて三人か……。
 接していてもその三人の輪には入れない。その事実が美穂の奥底にくすぶっていた。けれど彼女はそれに気づけない。

「ふぁ……」

 とはいえ今はお風呂タイムである。足を伸ばせる広いお風呂というのもあり、気持ち良さも割増だ。何か思っていたような気がしたが、溶けるように忘れられた。

「赤城さん、横いいかな?」
「ん」

 美穂の体がぬくもっていく。それにつれてまどろみに意識を支配されつつあった時、横から葵の声が聞こえた。反射的に美穂は頷いていた。
 艶やかな黒髪をアップにまとめている葵には歳が同じとは思えないほどの色気があった。なぜか凝視するのははばかられたため、美穂は視線を逸らした。

「……」
「……」

 しばし二人は無言となった。しかし、それ自体はそれほど珍しいことでもない。
 美穂は元々口数が少ない。それをわかってなのか、葵も美穂に対してはそれほど口数は多くなかった。
 そもそも葵には静謐な雰囲気がある。意中の男子が関わらなければ、その雰囲気通りの穏やかな性格なのだ。彼女から発せられるそんな空気が、美穂にとっては居心地が良かったりする。
 なのだが、今回は少しばかし雰囲気が違っていると、美穂はそう感じていた。
 横目でこっそりと葵を観察する。湯のぬくもりでなのかその頬が赤らめられている。気持ち良さからかほっと熱い吐息が漏れている。
 そして何より葵の立派なお山が浮いていた。浮いていたのだ。美穂は信じられないものを見たような目になってしまい、そこから視線を動かせなくなってしまう。

「赤城さん」
「何?」

 葵の声で硬直が解けてくれた。美穂は何事もなかったかのように顔を正面へと戻していた。
 葵も正面を向いたままだ。美穂の顔を見ようとしない。ただ、言いにくそうに唇だけを数度動かす。

「……赤城さんって、トシくんのことどう思ってるのかな?」

 ようやく放った言葉は、葵の中でくすぶっていたものを吐き出すものだった。
 だがしかし、美穂は要領を得ないとばかりに首をかしげた。

「どうって?」

 葵が美穂に顔を向けた。その表情は困ったような、怒っているような、悲しんでいるような。何より戸惑っていた。
 葵は自分を落ち着けるようにゆっくりと息を吐いた。空気が変わっていることを感じ取り、美穂は表情を変えないまま身構える。

「あなた達ー。次のクラスも入るんだから騒いでばかりいないで早く出なさい」

 先生の声でみんなが「はーい」と返事する。
 話の腰を折られたような気分になって、葵はなんとも言えない顔になった。それと同時に少しだけ張り詰めていた空気が霧散する。

「……出よっか」
「……うん」

 なんだか却ってもやもやした気持ちを抱えてしまった二人は湯船から上がった。


  ※ ※ ※


 入浴が終われば就寝まで自由時間だ。それぞれ思い思いの時間を過ごす。

「みんな本郷くんのいる一組の男子の部屋に突撃するんだってさー。いやー、最近の女の子は積極的だよね」
「小川さんも最近の女の子でしょ。で、行かなくてもいいの?」
「私? いやいや、私ってば良い子だから先生に怒られるようなことはしたくないのよね」
「それもそうね」

 瞳子と真奈美はくすくすと笑う。そもそも二人は学年で一番のイケメンと評される本郷永人という男子に興味を示してすらいない。
 各クラスの男女に大部屋を一部屋ずつあてがわれている。ほとんどの女子が他のクラスの部屋に遊びに行ってしまったので、この四組女子の部屋に残っている人は少ない。

「これからどうする?」

 葵は瞳子に髪をとかしてもらいながら部屋にいる面々に尋ねる。部屋に残っているのは葵と瞳子、それに真奈美と美穂の四人だけだった。

「トランプがある」

 美穂はトランプを掲げながら言った。ちなみにそのトランプは彼女の私物ではなかったりする。

「トランプねぇ……。罰ゲームはどうするの?」

 今度は葵に自らの髪をとかしてもらいながら瞳子が言った。いつもはツインテールにしている銀髪が真っすぐに流れている。

「罰ゲームかぁ……。負けたらジュースおごりとか?」
「えー、本当に罰ゲームなんてするの? その前にトランプで何をするかも決まってないし」

 瞳子と真奈美は罰ゲームをどうするかについて話し合っている。反対に葵は消極的だ。どうにか罰ゲームをなしにしてもらおうかと考えているようだった。
 葵の視線が美穂の方へと向けられる。味方になってほしい。そんな意志の込められた瞳だった。
 そんな気持ちがわかったのかわからなかったのか、美穂は口を開いた。

「じゃああたしはコーヒー牛乳で」
「もう勝った気でいるし!」

 そんなわけで女子四人でババ抜きをすることとなっちゃったのだ。
 いざババ抜きというゲームをやってみると、結果はわかり切っていたのかもしれないと思わされた。
 葵と美穂は笑顔と無表情を武器にまったく心を読ませないし、瞳子の観察眼はとある人物の所作一つでジョーカーの居場所を看破していた。

「うわー! また負けたー!」

 オーバーリアクションで倒れる少女。つまり、真奈美の一人負けだった。

「ね、ねえっ。トランプはやめてさ、恋バナでもしようよ。せっかく女子が集まってるんだからさー」

 話題を別の方向へと持って行こうと必死である。泣きを入れる真奈美に、彼女達は無情だった。

「何罰ゲームから逃げようとしてるのよ。あたしミルクティーね」
「それに真奈美ちゃん別に好きな人いないよね? 私はオレンジジュース」
「コーヒー牛乳」

 三対一で勝てるはずもなく、真奈美はがっくりと肩を落としながら罰ゲームを執行するのであった。

「……三人だけになっちゃったわね」

 真奈美の姿が消えるのを確認して、瞳子はぽつりと言った。
 そして、彼女の澄み切った青の瞳が美穂へと向けられる。

「小川さんが最後に恋バナがしたいって言ってたし、せっかくだからお話しましょうか」
「最後って……、まるで死んじゃう前の最後の言葉みたいだけど、真奈美ちゃんは生きてるからね」

 葵のツッコミは無視して瞳子は姿勢を正した。空気が真剣みを帯びる。
 急な雰囲気の変化に不思議に思いながらも、美穂は瞳子へと体を向ける。

「ねえ赤城さん」
「何?」

 瞳子の目からは強い意志が感じられた。なぜだか美穂はうっと呻きそうになってしまう。
 そして、瞳子は迷いなく口を開いた。

「あたしと葵は俊成のことが大好きなの。それは小さい頃からずっとで、今はもっとずっと好き。大好きなの」

 真剣で純粋な想い。真っすぐではっきりとした気持ちに、美穂の胸がじくりと音を立てた。

「だからね、俊成を、あたし達をからかうのはやめてくれないかしら?」
「からかう……って?」
「からかってるじゃないっ。俊成にベタベタして、あたし達の反応を楽しんでるのかしら? あたし達の気持がわかってないわけがないわよね」

 反論は咄嗟には出なかった。
 けれど美穂にからかうなんてことをしている自覚はなかった。友達だから、親友だから仲良くしている。そうやって彼とくっついているのがたまらなく心が満たされる。ただそれだけなのだ。
 そんな満たされたいという気持ちが先行してしまい、美穂は周囲の気持ちに鈍感だった。

「それとも、赤城さんも俊成のことが好きなの?」

 思いっきり踏み込んでくる言葉に、美穂の息が詰まる。
 この歳になって好きという意味を勘違いなんてしなかった。
 聞かれているのは友達としての好きではなく、異性に対する好きだった。それが理解できても、まさかそんな本気の質問が飛んでくるだなんて考えてもみなかった。
 前に佐藤に聞かれたことがあった。高木くんのことが好きなのかと。その時ははぐらかして、それで美穂自身でも終わりだと思っていたのかもしれない。
 相手が代わり、その本気度が変わればこんなにも違うものなのかと、美穂は思い知らされた。

「あたし……は」

 一度呼吸を止めてしまったために声が上手く出てこない。深呼吸をしたが、余計に言葉にならなくなっていた。

「瞳子ちゃん」
「葵は黙ってて。こういうのはあたしがやるから」

 葵を手で制して、瞳子がずいっと前に出た。

「赤城さん、もう一度言うわね。俊成のことが好きじゃないならちょっかいかけないでちょうだい。とても迷惑だから」
「……」

 ぐっ、と。美穂は拳を握った。
 それは瞳子に対する怒りではない。ただ困惑していた。はっきりしていなかった自分の心の正体を突きつけられているようで、頭が熱くなる。

「赤城さん、トシくんのこと好きなんだよね?」

 葵の言葉は疑問でありながら断定だった。穏やかでありながら厳しかった。

「……」

 やはり言葉なんて出てこない。美穂は二人の顔が見られない。
 だが、その態度こそが雄弁に物語っているように葵と瞳子には感じられた。
 はぁ、と瞳子はため息を吐いた。
 瞳子の手が伸びて、美穂の顎に触れるとその顔を上げさせる。

「……そういう顔しちゃうんじゃない」
「え?」
「あたしね、あなたのこと嫌いじゃないのよ。でもね、今のあなたは嫌いだわ。気に食わないって言えばいいのかしら」

 ストレートな物言いに美穂の心が揺さぶられていく。頭はもうクラクラだ。

「教えてほしいの。赤城さんは俊成のことどう思ってるのか」

 フラフラになりながらも美穂は考える。考えようとする。でも、考えようとすればするほどに思考回路が焼け焦げていくような感覚に襲われる。

「……」

 そしてやはり、答えは出なかった。
 これ以上待ち続けても答えは出ない。そう判断したのか瞳子は美穂から離れた。

「自分の気持ちも口にできないのに余計なことを続けるようなら、あたしだって怒るわよ」

 声を荒げたわけではない。それでも厳しい口調で瞳子は言う。

「……」

 返事は、できなかった。

「売店に行ったらお土産たくさんあってさー。見ちゃったら目移りしちゃうよね」

 ちょうど良いと言うべきか、明るい声を上げながら真奈美が部屋に帰ってきた。その手には自分の分を含めた人数分の飲み物があった。

「……」
「……」
「……」
「え、何この空気?」

 部屋を出る前とあまりに違う空気感に、さすがに真奈美も困惑してしまう。けれど、誰も答えてはくれなかった。
 このなんとも言えない空気は、クラスメートの女子が戻ってくるまで続いたのだった。
 少女達にそれぞれの波紋を残したまま、夜は更けていく……。
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