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第一部

58.わかり合えないなんて思い込み

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 俺の言葉に森田は呆けてしまっていた。

「は、はあ? 何言ってんだよお前」

 相変わらずのお前呼びか。今はそんなことどうだっていいか。

「聞こえなかったのか? 俺は森田、お前をぶん殴りたいって言ったんだ。だからケンカしたいんだよ」
「それがわけわかんねーつってんだよ!」

 おお、怒鳴るねぇ。体だけじゃなく声も大きいもんだから迫力がすごい。知らなかったら下級生だなんて思わなかっただろうな。
 でも、下級生だからって許してやる気はないけどな。

「わけわかんねー、じゃねえんだよ! 俺は弱い者いじめしてたお前の方がわけわかんないね」

 森田は俺を憎々しげに睨みつける。その目はちょっと小学生らしくないんじゃないかな。
 心臓がバクバクと鳴っている。手のひらにじんわりと汗が出てくる。この緊張を悟られてはいけない。
 口の中が渇く前に唇を舐める。声に緊張が伝わらないように言葉を続ける。

「まさか大勢で一人の女の子をいじめることはできても、一対一のケンカはできないって言うんじゃないだろうな? それはさすがにかっこ悪いにもほどがあるだろ」
「……いいぜ、やってやらあっ!!」

 森田は自分のランドセルを放り投げると拳を握った。簡単に煽られてくれて助かる。
 これから俺がやることは余計なことなのだろう。もう品川ちゃんはいじめられないだろうし、森田達いじめっ子一同はきっちり制裁を受けている。これからの他の子達から向けられる目を考えれば充分過ぎる罰を受けているように思えた。
 それでも、こればっかりは心の問題である。大人になればそうそう手をだせるものではないが、今の俺は子供だ。子供のうちでしかできないことをやりたいのだ。
 森田が肩を怒らせながらずんずんと近づいてくる。俺は精一杯の余裕を見せるようにゆっくりとした足取りで前へと出た。
 近づくにつれて森田の体の大きさが圧迫感となって俺を襲う。奴の方が俺よりも年下なのに、見上げなければならないほどに身長差があった。
 手が届く距離になる。すかさず森田は右手を振り上げた。
 これはテレフォンパンチだ。冷静に見ていれば俺にだって避けられるほどに予備動作が大きかった。
 しかし、それをあえて真っ向から受ける。森田のパンチが俺の顔面を打った。

「ぐっ!?」

 呻いたのは俺ではなく森田だった。俺を殴った右手を押さえている。
 だけど俺だって超痛い! 小学生のパンチだなんてとバカにはできないくらいに痛い。モロに喰らったのだから痛いのは当たり前だろうが、少し涙が出そうになるくらい痛かった。歯を喰いしばってなかったら耐えられなかったかもしれない。
 それでも泣くのは論外だ。倒れてもやれない。避ける気すらない。

「うらあっ!」

 反撃で思いっきり森田の顔をぶん殴ってやった。硬い感触が拳に響く。たたらを踏んだものの、森田は耐えやがった。
 互いに一発ずつ相手を殴った。こうなってしまえばもう止まらない。本格的に殴り合いのケンカの始まりだ。
 今世だけでいうなら殴り合いのケンカをするのは初めてとなる。俺はケンカをするというよりも、その仲裁に入ることが多かった。葵ちゃんにちょっかいをかけようとする子が多かったので、そういう立ち回りにならざるを得なかったという事情もある。
 それに、さすがに小学生相手にケンカだなんて大人気ないと思っていた。子供が怒ってもどうやってあやしてやればいいのかと、そんな風に考えてしまっていたのだ。

「おらあっ!!」
「この野郎っ!!」

 森田に殴られ、負けじと俺も反撃する。殴り殴られのノーガードで拳を繰り出していく。
 森田は体格が良いだけじゃなかった。動きが機敏で力の伝え方をよくわかっている。テレフォンパンチは最初だけで、それからのパンチは淀みなく繰り出してくる。何か格闘技でもしているのかもしれなかった。
 俺だって格闘技をしているわけじゃないが、それでも朝の走り込みと水泳をしているので運動はできる方なのだ。人を殴るという行為は鍛えていないけど、小学生相手には負けるだなんて思っていない。
 思っていなかったのだが……。

「ぐふっ」

 上から叩きこまれるように殴られ思わず声が漏れる。けっこう利いたみたいで膝が震える。頭だってクラクラだ。
 顔ばかり殴られている。いや、顔だけ殴らせている。骨の硬さに、森田は殴る度に表情をしかめていた。

「おうおう、つらそうだな森田」
「その顔で言われたくねーよ!」

 どうやら俺もひどい顔をしているらしい。けっこう殴られて顔の形が変わってんじゃないかって心配になる。
 しかしそれは森田も同じだ。俺に殴られて顔にアザができている。自分でやっといてなんだが、見るだけで痛々しい。
 俺と森田は二人揃って肩で息をしていた。つらい、しんどい、痛い。そんなことばかりが頭というか、体中に響くように訴えられているようだ。
 それでも絶対に負けるわけにはいかないのだ。根性、根性、根性! 意地の張り合いで子供には負けてられないのだ。こんなんでも、前世では大人として生きてきたのだから。
 森田は一旦俺から距離を取る。すぐさまステップを踏むように接近したかと思えば、顔の位置に蹴りが飛んできた。小学生がハイキックかよっ!
 咄嗟に体が逃げようとして、それを意志を持って押し留める。風切り音を立てながら迫ってくる足を、一歩踏み込んで額で受け止めた。

「づっ!?」

 弁慶の泣きどころに頭突きをかましてやったのだ。痛みが強いのは森田の方だろう。
 蹴り足を下ろすと痛みからか膝が折れていく。すると自然に森田の顔の位置が近くなる。
 今だ! 瞬時にそう思って攻撃的に踏み込んだ。
 力いっぱい腕を突き出す。俺の左が森田の鼻を捉えた。すぐさま返しの右で奴の顎を撃ち抜いた。
 いい加減拳が痛くて仕方ない。そう思った時には森田は倒れていた。
 殴り殴られのケンカは、ようやく終わりを迎えたようだった。
 俺も膝がガクガクだ。それを必死で押さえ込み、森田へと近寄った。
 仰向けで倒れている森田から鼻をすする音が聞こえてくる。なんとなく気まずくなって頭をかいた。

「おい森田」
「……」

 反応はない。意識を失っているわけではなく、ただ単に泣いてしまうところを見られたくなくてふてくされているように見えた。
 そんな泣かしてしまった小学生を相手に、俺は声をかけるのだった。

「……立てよ。ジュースおごってやるからさ」


  ※ ※ ※


「とりあえず、顔冷やしとけよ」

 近くの自販機で森田にコーラを買って渡してやる。言われたとおりに冷たいコーラの缶を顔に当てている。素直だな。
 俺も同じように冷たい缶で顔を冷やす。腫れて熱を持っていたので気持ち良い。
 しばらくそうして顔を冷やしてから缶ジュースを口に含んだ。口の中を切っていたみたいで涙が出そうなくらい染みた。
 無言でちびちびとジュースを飲む。チラリと見れば、地面に座り込んでうつむいている森田が缶に口をつけるところだった。

「いだっ!」

 どうやら森田も口の中を切っていたようだった、その反応に噴き出してしまう。

「わ、笑わなくても……」

 言葉は途中で尻すぼみになって消えていく。一応ケンカに負けたという自覚はあるらしい。なんか大人しいし。

「痛いか?」
「まあ……、あれだけ殴られたんで」
「顔じゃなくて手だよ。俺を殴った時、痛かっただろ?」

 森田は小さく頷いた。彼の拳は赤くなっていた。

「普通誰かを殴るってのは痛いもんなんだよ。痛いのを知らないまま暴力を振るってたんなら、お前は立派ないじめっ子だ」
「……」
「上級生と一対一でケンカができるような奴が、なんでまたいじめなんかしてたんだよ?」

 単純に疑問だった。なぜ品川ちゃんをいじめたのか俺にはわからない。いじめっ子の理屈があるのなら聞いてやろうと思ったのだ。
 森田は地面に視線を落としたまま動かなかった。何かをしゃべろうとする気配はない。それでも忍耐力では負けまいと黙って待ち続けた。観念したのか森田が口を開く。

「……別に、理由なんかなくて」

 そう言いながらも、森田はぽつぽつと語り始めた。
 自分に当たり散らす親のこと。空手の道場で実力のある自分を気に食わないと嫌がらせをしてくる上級生のこと。うまくいかない学校の勉強のこと。そういうイライラするものが積りに積もって八つ当たりするみたいに品川ちゃんをいじめてしまったらしい。
 それにしても空手やってたんだな。道理でいいパンチしていると思ったよ。たぶんもうちょっと大きくなると俺じゃあ勝てなくなるんだろうなぁ。まだダメージが抜けていない頭でぼんやりそんなことを考えた。

「そっか」

 それが森田の話が終わっての俺が返した言葉だった。ただ頷いただけで、フォローなんて何もない。
 その代わりに拳骨を落とした。

「いって~~!!」

 大袈裟に頭を押さえる森田。コーラを落とさないようにしているところを見るに、それほど痛くはないのだろうなと判断する。次は本気で殴ってやろう。

「わかった。森田が品川ちゃんに甘えてるってのがよーくわかった」
「なっ!? 俺はあんなガイコツメガネに甘えてなんか――」

 無言で拳骨を落とした。今度は力を入れていたのでさすがに森田も悶絶する。それでもコーラは零さなかった。

「そういうあだ名は禁止な。守れないなら森田にも最低最悪のあだ名を広めてやるからな」
「うっ……ぐぅ……」
「でだ。話は戻るが、結局はストレスが溜まったから反撃されないような子をいじめてたってことだろ。これが甘えじゃなくてなんて言うんだよ。お前ほんとダサいな」

 俺の言葉に森田はキッと睨んでくる。まだプライドは残っているようだった。
 しかし何も言い返すことはなかった。これはそういう自覚が少なからずあるものだと思いたいものだ。
 ジュースを一口飲んで。俺は話の方向を少し変えてみることにした。

「……森田はさ、どういう大人になりたいんだ?」
「どういう大人って……、急に言われてもよくわかんねえし」
「将来の夢を言えとかそんなんじゃないんだよ。もっと漠然としたものでさ。たとえばかっこいい大人になりたいとかさ」
「かっこいい大人ってなんだよ」
「かっこいいはかっこいいだろ。少なくとも卑怯でもないし、ずるくもない。もちろんダサくもないぞ」
「……」
「か弱い女の子を大勢で攻撃するってのは漫画じゃあ悪役の鉄板だろ。それも三下な奴な。敵役のザコみたいなことするのはかっこ悪いと思わないか?」

 森田はうつむいてしまっていた。大きな体が小さく見えてくる。自分のやってきたことを振り返っているのだろうか。そうあってくれと願う。
 俺はランドセルから一冊のノートを取り出した。

「これ、読んでみろよ」
「これは?」
「いいからいいから。とりあえず読んでみろって」

 頭に疑問符を浮かべながらも森田はノートを受け取った。ページをめくるとぽつりと呟いた。

「……漫画?」

 その言葉を最後に森田はノートに釘づけとなった。ページをめくる度に口元が緩んでいる。時折「くくっ」と堪え切れない笑いが漏れていた。それをキモいと言ってやるのはやめてあげた。

「これ……高木さんが描いたんすか?」

 森田の口から「高木さん」と呼ばれるなんて思ってなかった。ちょっとだけ背中がぞわぞわと変な感覚に襲われる。

「俺はそんなに上手く描けないよ。それを描いたのは品川ちゃんだ」
「え」

 彼が固まる暇すら与えないように続けた。

「品川ちゃんは確かに誰とでもおしゃべりできるような子じゃないかもしれない。大人しくてか弱い女の子かもしれない。それでも、目立たないだけでこんなすごい特技があるんだよ。それが受け入れられないっていうのは、とっても器が小さいと思わないか?」

 俺は森田の胸を叩く。大きな体が揺れた。

「親が、上級生が、学校が。それが気に食わなかったらお前は全部ダメになっちゃうのか? せっかくこれだけ大きい体があって、この俺と殴り合いのケンカができるんだからよ、自分で勝手に心を小さくしようとするなよ。かっこいい奴はみんなでっかい心を持ってるぞ」
「俺、は……」

 この後、森田の表情がくしゃくしゃに歪んでしまったのが印象的だった。


  ※ ※ ※


「あー……、なんか説教くさくなっちまった……」

 あれから森田と別れて、俺は帰路に着いていた。
 奴の中の認識が変わってくれればいいのだが。変わってくれなきゃ俺って無駄に恥ずかしいことをしただけじゃないだろうか。なんか腫れとは違った熱を帯びてきた気がする。
 一人であーとかうーとか唸りながら歩く。もうすぐで家に辿り着く。帰ったらベッドに直行して悶絶する自信があった。
 そう考えていた時だった。急にぐいっと後ろに引っ張られる。あまりに突然なことだったのと、殴られたダメージが足にまできていたのもあって踏ん張ることができなかった。
 そんな俺の背中が誰かの手に支えられる。それから俺の視界にひょっこりと入ってくる少女がいた。

「トシくん。その顔どうしたの?」

 葵ちゃんだった。満面の笑顔のまま俺の顔を覗き込んでいる。彼女の笑顔が段々と近づいてきて、なぜだか圧迫感というか、緊張感みたいなものを感じてしまった。

「こ、転んだんだよ……」

 口からでまかせがぽろりと零れる。一応親への言い訳を考えていてよかった。おかげで口をつぐむことなく言葉が出てくれた。

「ふぅん? 転んだ、ねぇ……」

 今度の声は瞳子ちゃんのものだった。背中は彼女が支えてくれていたようで、手が離れると俺の顔をがっしりと掴んでくる。強引に横へと向かされて少し首が痛かったけれど、瞳子ちゃんの目が吊り上がっていたので痛みといっしょに声も飲み込んだ。

「葵」
「うん。トシくんこっちこっち」

 瞳子ちゃんに呼ばれると、葵ちゃんは俺の手を引いてどこかへとつれて行こうとする。なんだなんだ?
 抵抗できないまま、すぐ近くまで来ていた葵ちゃんの家へとつれ込まれてしまった。女の子二人に連行されて、葵ちゃんの部屋に入れられベッドへと座らせられる。
 何が何だかわからなくて、俺は二人のやることをただ黙ってみているしかなかった。
 葵ちゃんが部屋を出て行ってしまい、残った瞳子ちゃんが俺と向き合う。怒っているような、悲しんでいるような、なんとも形容し難い表情だ。

「あたし達はさっきまで俊成が何をしてたかなんて聞かないから。俊成、教えてくれなかったんだもの。だからあたし達は何も知らないの」
「え、う、うん……?」
「だから、これからあたし達のすることだって気にしないでよね。嫌って言われても勝手にやるから。俊成と同じね」
「は、はあ……」

 言ってる意味がわからなくて曖昧な返事しかできない。顔を殴られ過ぎて思考力が低下しているのだろうか。
 戻ってきた葵ちゃんの手には救急箱があった。どうやら手当てをしてくれるらしい。

「転んだ、のは顔だけなの?」
「う、うん。そうだよ……、痛っ」
「ほーらトシくーん。我慢してくださいねー」

 子供に優しくするような声色で葵ちゃんが俺の顔を消毒する。思いのほか痛くて声が漏れてしまう。
 でもこれくらい甘んじて受けよう。葵ちゃんと瞳子ちゃんはあくまで俺のやったことを追求しないでいてくれるようなのだから。
 俺が森田にやったことはわがままで自分勝手なことなのだ。そんな俺の都合を、二人に関わらせるわけにはいかない。

「はい。できたよー」

 葵ちゃんに手当てをされてけっこうひどいケガをしているんじゃないかって思えてきた。なんか顔がガーゼまみれになってるし。

「あたし飲み物取ってくるわね」

 今度は瞳子ちゃんが部屋を出て行ってしまう。彼女にとっては俺と葵ちゃんの家は自分の家とそう変わらないのだろう。
 ふっと、体が傾いた。
 ぽすんと頭が柔らかいものに包まれる。それをなかなか認識できない。やはり殴られ過ぎて思考力が落ちているらしい。

「トシくん」

 葵ちゃんの胸に抱かれていた。同年代の中では目を見張るほどの発育の良い部位に、俺の頭は包まれていたのだ。

「えっと……、服に血がついちゃうよ?」
「トシくんのなら気にしないよ」
「そ、そうか……」
「ねえトシくん」
「うん?」
「無理はしていいけど、無茶だけはしないでね」

 無理と無茶。葵ちゃんの中でどういう違いがあるのだろうか。
 ただ、彼女の俺に対する心遣いが伝わってくる。それが心地良くて目をつむってしまう。
 そんな俺は、人のことを言えないくらいに甘えた野郎でしかなかったのだ。


  ※ ※ ※


「今まで本当にごめん!」

 後日、森田は品川ちゃんに改めて謝った。
 先生を挟んでの一回目、保護者同伴での二回目、そして今回の三回目。これが三度目の正直といってほしいものである。
 品川ちゃんと森田の要望で、俺がお目付け役に選ばれた。ここには俺達三人しかいない。

 森田はたくさん悪いことをした。俺が見たものと聞いたもの。それ以外にも知らないところでいじめをしていたかもしれない。
 一人の女の子の体と心を傷つけてきたのだ。謝って済むものじゃない。罪なんて消えてはくれないのだろう。
 だけど、少なくともそれを決めるのは俺じゃない。それを決められるのは品川ちゃんしかいないのだ。
 頭を深々と下げる森田に、品川ちゃんがおずおずとした調子で声をかける。

「本当に……謝ってくれてる、の?」
「本当だ! 今度の今度は本当の本当に悪かったって思ってる。だからごめん!」

 森田は九十度からさらに深く頭を下げる。案外体が柔らかいらしいこいつは自分の足につきそうなくらいまで頭を下げていく。かえって失礼じゃないだろうかと思った。

「う、うん……もう、いいよ……」

 品川ちゃんの言葉に、森田はおずおずとうかがうように彼女を見上げる。頭はまだ下げたままだった。

「ゆ、許して、くれるのか?」
「うん……。たくさん友達もできたから。もういいの」
「そっか。じゃあケジメとして俺をぶん殴ってくれ!」
「え?」

 言うが早いか、森田はがばっと頭を上げると足を肩幅に開いて、両手を後ろへと持って行く。そして目を閉じて「さあこい!」なんてのたまった。
 バカ野郎かこいつはっ。品川ちゃんにそんなことができるわけないだろうに。それを強要するとはまだわかっていないらしい。
 俺が拳骨を繰り出してやろうとする前に、品川ちゃんが口を開いた。

「わかった……。もうちょっと、屈んで?」
「お、おう」

 森田は屈むどころか膝をついてしまう。身長差があるのでそれくらいでちょうどいい高さとなった。
 ていうか、え? 品川ちゃん殴るの? マジで?
 なんだか俺の方がハラハラしてきた。そんなのは知らないとばかりに品川ちゃんは手を振り上げて、そのまま振り抜いた。
 パチィンッ! と乾いた音が響く。彼女の平手打ちは意外と威力があったようで、膝立ちになっていた森田は地面に倒れた。

「これで……いい?」
「お、おう……。品川の気が済んだんならいいぜ」

 いいらしい。なんか間に入れないな。当人同士が納得したなら俺から言うことは何もないんだけども。

「それで、さ……」

 汚れを払いながら森田は立ち上がり、言いにくそうに口をもごもごと動かす。
 なかなか続かないので小突いてやろうかと思ったが、品川ちゃんは静かに待つ構えだったので彼女に倣うことにする。
 そして、意を決したように森田が言った。

「し、品川のっ。……ま、漫画の続きが読みたいんだけど……」

 とても恥ずかしそうに、森田は顔を真っ赤にして大きな体を縮こまらせながら言ったのだ。
 品川ちゃんは眼鏡の奥の目を見開いて、ついで顔をほころばせた。
 前もって品川ちゃんには漫画を描いたノートを借りる時に森田に見せる旨を伝えてあった。相手が相手なだけにきっと彼女の中では葛藤があったのだろう。それでも「いいです」の言葉とともに頷いてくれたのだ。

「……私のマンガ、面白かった?」
「おう! すげー面白かった! 品川ってすげー奴だったんだな!」

 森田は「すげー」を連呼して品川ちゃんをありったけ褒めていた。品川ちゃんの照れている表情を見ていると、語彙力のなさなんて気にするもんでもないのかもと思った。
 さらにこの後、俺はあっちへこっちへと動いて品川ちゃんと森田の関係が好転したのだと言い含めて回った。少しは疲れたが、二人が仲良さそうに笑い合っているのを見かけると、そんな疲れもどこかへと飛んで行ってしまったのであった。
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