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本編
5:聖女の名前
しおりを挟むさらに三ヶ月が過ぎて、エリ家はにぎやかになった。
シュシュが無事に赤ん坊を産んだのだ。
獣人は種族によって妊娠期間が変わるそうだが、ヌコ族の獣人の妊娠期間は六ヶ月ほどらしい。
この三ヶ月は、これから生まれる赤ん坊のための品をそろえるのに、エリ家は翠も含めてばたばたしていた。
子ども達は元気な三つ子だ。灰色に縞が入ったサバトラの男の子が二人と、真っ白で長毛のかわいらしい女の子が一人。エドアとシュシュの遺伝子がきれいに分かれた感じで、翠はおかしくて笑ってしまった。
「無事に生まれてよかった」
「本当に、ありがとうだにゃん! スイ君は我が子の命の恩人にゃ」
エドアが泣きながら、もふっとした手で翠を抱きしめる。おんおんと男泣きをしている。
ヌコ族の産婆である灰毛の短毛であるリーリ=ルゥは、目を細めて頷いた。
「本当に。一人だけ逆子で、シュシュも赤ん坊も危なかった」
シュシュは出産中の出血多量で寝込んでいるものの、しっかり休めば治るそうだ。
「俺は特に何も。水の精霊が手助けてしてくれたからで」
「その精霊と意思疎通できているから、君のおかげなんだにゃん! こんなにすごい魔法士だったにゃんて知らなかった」
ありがとうと繰り返し叫びながら、エドアが号泣しているのは、シュシュに死が迫っていたからだ。
少し前の時間、女の子の赤ん坊だけ逆子でなかなか出てこず、そのせいで出血が増えてしまった。
翠がシュシュを助けたいと願ったら、突然、水の精霊が実体化したのだ。空気がキラキラと青く輝いたかと思えば、水が女性の姿をとっていた。彼女は言った。
『スイ、その獣人を助けたいなら、わたしに任せてほしいの』
翠はびっくりした。
精霊と親和性は高いが、それまで精霊と話したこともない。
「君は?」
『わたしは水の精霊よ。あなたは知らないでしょうけど、ずっと傍にいたのよ。それよりも、急ぐべきでは?』
「助けてくれるなら……」
『きちんとお願いして』
「水の精霊、シュシュを助けてください」
『ふふっ。いいわよ』
水の精霊が笑うと、彼女をかたちどる水にさざ波が立った。
「産婆のおばさん、精霊に任せて」
「え? わあっ、なんだい、これは」
リーリは驚いて、どてんと床に尻餅をついた。
水の精霊はシュシュのお腹に優しく触れる。しばらくの間、青の光がきらめいて、やがて赤ん坊が生まれた。
「ミャアアア」
赤ん坊の元気な泣き声が響く中、水の精霊はつぶやく。
『止血もしておくわね。よし、これでいいわ。血を流しすぎているみたい。一週間は絶対安静よ、いいわね』
水の精霊はエドアに注意をし、翠のほうへ戻ってくる。両腕を広げて、翠に抱き着いた。
『もっとわたしに願って。ずっとあなたを助けたいと思っていたの。どうか幸せになってちょうだい』
ザバンと水波が立ち、翠は濡れると身構えたが、水の精霊はそのまま空気に溶けるようにして消えてしまった。特に濡れていない。
「え……?」
翠はきょろきょろとする。白昼夢でも見たのかと思ったが、驚いた顔でこちらを見ているリーリとエドアがいるので、そうではなかった。
リーリは叫んだ。
「奇跡だよ! シュシュが助かった!」
「うわあああ、ありがどう、ズイぐん~っ」
大泣きし始めたエドアに、翠は冷静に言ったのだ。
「それよりもシュシュさんを医者に診せたほうがいいよ。ベッドに寝かせてあげて」
「あっ、そうだった」
リーリはへその緒を切って、赤ん坊を籠に寝かせる。出産のために絨毯の上にいたシュシュを、エドアは慎重に抱えて、きれいに整えたベッドに運んだ。シュシュは気絶してぐったりしている。
「医者と神官を呼んでくるから、少し待っていなさい」
リーリは手早く赤子達を産湯につからせて、丁寧に拭いてやってから、籠の中に寝かせなおす。そして、急ぎ足で家を出て行った。
しばらくして来てくれた神官が光魔法でシュシュの体力を整えてやり、医者が診察をして造血薬を置いていった。シュシュは絶対安静だが、赤ん坊は元気なので問題なしと太鼓判を押してくれた。
そういうわけで、事態が落ち着くと、エドアは妻を失う恐怖を思い出したのか泣き始めたのだった。
「あのさ、エドアさん。実は俺も、水の精霊なんて初めて会ったんだよ」
「それでも助けてくれたのは事実にゃ」
翠は困って苦笑を浮かべると、リーリに頭を下げる。
「あの、産婆のおばさん。水の魔法士だってこと、医者や神官にも黙っていてくれてありがとう」
「同胞の恩人は、私も守るよ。ヌコ族は恩義に報いるのにゃ。こんなお願いをするのは気が引けるのだけど、よかったら、また同胞が危なくなった時に助けてくれないかにゃ?」
リーリは三角の耳をぺたんと寝かせている。
「ヌコ族は双子や三つ子が多いから、出産時に亡くなる妊婦も多いのにゃ……。できる限りはやってきたけど、限界もある」
「秘密を守ってくれるなら」
「約束するにゃ」
いったい、この国の魔法士狩りがどんなものか知らないが、翠は平穏に生きていきたい。けれども、このもふもふのかわいらしいヌコ族がひどい目に遭うのは見たくないので、その気持ちを付け足した。
「でも、産婆のおばさんが危なくなったら言っていいよ」
「いいや、言わにゃい。この町のヌコ族に、お前さんのことを通達していいかにゃ? ヌコ族みんなで、お前さんを守ろう」
「構わないけど、危ないことはしなくていいから」
翠は困った顔をして、念を押した。
「よかったにゃあ、スイ君。リーリおばばは、この町のヌコ族コミュニティーでは一目置かれているのにゃ。スイ君には良いことにゃ」
エドアはようやく泣きやんで、布巾で涙をぐしぐしとぬぐう。
「スイ君、命を助けてくれた子の名づけ親になってくれないかにゃ」
「名づけ親? 俺がつけていいの?」
「君につけてほしいのにゃ」
エドアに熱をこめて頼まれて、なんだか翠は涙ぐんでしまった。
「ええと、それじゃあ……。ミオはどうかな」
「ミオ?」
「俺の双子の妹の名前なんだ。もう亡くなったんだけど、とても大事な家族だったから。あ、縁起が悪いかな……?」
気にして問う翠に、エドアは手をぶんぶんと振る。
「違うのにゃ。この国の聖女様と同じ名前だから、驚いただけにゃ。むしろ、最近での、女の子に付けたい名前ナンバーワンにゃ」
「えっ、そうなの?」
すでに四ヶ月はここで暮らしているのに、フーリー王国に聖女なんてものがいるのも知らなかった。
「光の聖女様で、癒しの魔法が得意なんだにゃ。明るくて優しいお方でね。最近即位した王と結婚されていて、すでに子どもが二人もおられるよ」
二人の子持ちで結婚しているとなると、結構年上みたいだと、翠は考えた。
「良い名前をつけてくれてありがとうにゃ!」
「うん。他の二人はどうするの?」
「それなら考えてあるのにゃ。ルドアとレシュだよ。ボクとシュシュの名前からとったんだ」
ヌコ族は名付け親につけてもらうか、家族から名前をもらうことが多いそうだ。
「ルドアとレシュかあ、かわいい。えっと……泣いてるけど、どうするの?」
お腹を空かせた赤ん坊が、ミーミーとか弱い声で鳴いている。翠ははらはらした。エドアがどうしようという顔をしたので、リーリが口を挟む。
「シュシュは絶対安静だけど、初乳はあげないと赤ん坊が元気に育たない。それにどうせ胸がはるから、少しくらいはお乳を飲ませたほうがいいね。分かったよ、数日は私が世話をしてあげる。エドアは、シュシュの安静が解けるまでの乳母を探しておいで」
「分かったにゃ! 長に相談してくる」
言うが早いか、エドアは家を飛び出していった。
リーリがため息をつく。
「あの子の落ち着きのなさはどうにかならんものかねえ。父親になるっていうのに」
「あはは……」
翠はなんとも言えず、笑いをこぼした。
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